igoku本 いごく編集部著
2011年から2年後の2013年から全くボクの人生に関わりを持たなかった東北地方に行くようになった。津波の被害って凄えんだなとか、こっからどんくらいで世界は立て直すんだろうという興味の中、とりあえず行ってみようという気持ちで行ったのが最初。
被災者対被災してないヒト。
ボクの住んでる神戸も被災者対被災してないヒトの図式はあったものの、「その時いなかったヒト」っていうのがボク。当時東京で営業に出ていたので、神戸の震災遭わなかったというより、オウムの無差別テロに遭わなかったのがボク。
そして igoku
イゴイタ結果、小松理虔さんと福島で出会い、クラファンでigoku本を5冊買い、今一生懸命に読んでいるという図式。
震災に遭うという自然災害が起こした偶然、無差別テロに遭う偶然、もしかして全部をコンプリートするという奇跡も場所が変わってるだけにゼロとは言えん。
が、ヒトは何故に助け合うのか?関わりを持とうとするのか?興味の先に何があるのか?まだはっきりとした答えは無いものの、必ずいえるコトがだんだん見えるようになってきた。
それは確実に場所場所のニンゲンが主体性を持って、その地域を支えるという大前提が必要になっている。ヨソ者として地域を忘れないでいる大切はわかっているつもり。
彼らのスゴいところは老害を老害として扱わず、全てとは言わないまでも大体の人をインクルードする良さ、しかも自然と死に対して向き合おうとする積極性。地域を包括するという命題に真正面から向き合い、やっちき踊りなどの文化の継承まで行ってるという。多動症と言わざるを得ないくらい、多く動き回り、話を聞きまくる姿は福島県のいわきの発信としても素晴らしい結果を生み出すのでは無いかとベタ褒めしてみる。
ボクも街づくりにはここ数年一定の興味を示していたものの、50を過ぎ、もっと若者の力が必要なんじゃないかって、スタンスを変えようとしてるところ。どんな上目線やねんっていうわけではなく、あと迫りに迫った人生のターニングポイントを過ぎた終活に向けてランディングする目標を立てている。
そう自分がまだまだ現役だというまだまだ若者には負けない精神っていうのは奥の奥に仕舞い込んで学校の校長先生のような目線でシーンを演出しないといけない使命感を持っている。
ゼロイチで考え続けるというスタイルを一旦やめ、今の社会に何の助けが必要で有用であるかというものに注力して、ウェルビーングとは何かを考え、実施するのが本当のこれからの15年で無いかと本気で思っている。
この黄色の本を読む前からも覚悟は決まっていたものの、自分の名誉とか社会的地位とかではなく、持てるもの全てをシェアして、社会善のために何らかのアクションを取るというのはこれからの終わりの始まりの気持ちとして正しい人性のランディングじゃないかって。
実はここ数年のコロナ禍の中、こんな乱世でSNS発信を意識的にストップしてきた。しかしながらアウトプットしないということはアタマの整理のためにはどんどん退化するだけなんだなって最近感じるようになった。その代わりにリアルに直接会いたい人に会って、濃い時間を過ごすというスタイルに変えていた。自分の想いをちゃんと整理しながら話すという作業は変わらずやってきたつもりだ。しかもみんなと会えない代わりにYouTubeやNewspicksの動画を見ながら何をフォーカスすべきかトレーニングしてきた。
さあ、そろそろボクもイゴきだす、いや動きます笑。
せっかく500ページも作ってくれたんだから80ページしか読んでないで書評を書くなってハナシだが、残り420ページも読み切って良いところをいっぱい吸収して、「場所づくり」に活かしたい。今年中に作りたいなあ。また報告します。
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