##1 父が示した【男の背中】
サラリーマン起業家のi-proです。
いつも記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。
私は現在、建築不動産の営業マンとして活動する『サラリーマン』と、不動産×教育を軸とした副業法人を立ち上げた『起業家』の2面性を持った『サラリーマン起業家』として活動しております。
もうひとつのマガジンで、『私は、野球に人生を救われた』と言う記事を書いております通り、野球の経験をビジネスの現場に投影し、現在のキャリアを築いて参りました。
その【野球】以外のキャリアの礎においては、【家族】というもうひとつの柱があり、人があまり経験することのない逆境を経験してきたと自覚しております。
その逆境から導き出したことを、家族について悩みを抱えてる方はもちろん、家族を持つ全ての方に自分にとっての家族とは何なのかを考える機会にしていただければこれ幸いです。
それでは、今回の目次です。
1、父は自由人
私の父は、1948年の戦後のベビーブームに、4人兄弟の末っ子の長男として農家に生まれました。私が周囲から聞く父の印象は、『自由人』がはまりました。
お酒とタバコを愛し、ある日は帰って来ていきなり、『外を見てみろ!』と言い放ち、外を見れば父しか乗らないような業務用のハイエース車を家族車として無断で購入してきたり、新築の分譲マンションを1人で見に行き、いきなり購入の契約をして来て、『引っ越すぞ!』と言ってきたり、お金の管理をしているのは母なのにデカい買い物を勝手に自分の采配で買ってくるようなところから、自由人さが想像できると思います。
倹約家の母はいつも目を丸くし、喧嘩になっていたのを覚えています。
一言で言うと、
【仕事以外はだらしない自由人】でした。笑
2、父のキャリア
父は、【鍼灸指圧師】の免許を持っており、自営業を営んでおりました。
9時〜18時は賃貸の店舗で、18時以降は出張でお客様のご自宅へ出向き、予約さえあれば365日休みなしで働いていました。
社員や弟子も雇わず、経理は母。亡くなるまでの30年間、腕一本で生計を立てた【職人】でした。
父がスゴイのは、『お客様の痛みを取り、治癒させてあげたい!』という一本気です。当たり前かもしれませんが、愚直にひたすらお客様の痛みと向き合い、治し、リピーターを作る。
お客様への真心は、一級品でした。
噂を聞いた、高校野球の名門校の選手達も足を運び、現在プロ野球で活躍している選手も診ていました。
ただし、営業やマーケティングなどは全くの未経験なので、完全に運任せのカウンター営業がベースでした。かなり売上には波があったと記憶しております。年収で行けば、その辺の50代のサラリーマンより、少し低いぐらいでしょうか。
もし、父の技術に設備投資やマーケティングなどのモノとカネを加えていたら、父の鍼灸院は、今も残っていたかもしれません。
私の野球の練習や試合の時も、チームメイトが足を攣ったり、肩が痛かったりするとすぐに飛んでいき、即効的に痛みを取って、【ゴッドハンド】と呼ばれていました。ひょうきんな性格もあり、チームメイトや保護者の方からも愛されていました。
ただ、1番の稼ぎどきである土日に皆勤賞で野球に行き、無償で治療をしていたので、我が家の家計は大ピンチに。
私からも、野球は良いから仕事をしてくれ!と頼んでも、絶対に野球に来る。思い立ったら絶対に人の話は聞かない、そんなところからも自由奔放さがうかがえるB型の父でした。
3、父の生き様
父は、2007年に肺ガンを患いました。私が大学2年生の時でした。父は、3度の飯よりタバコを愛しており、自営業で自由に時間が取れる分、暇さえあれば喫煙所へ。1日に3箱吸う時もありました。医師からは、『肺が真っ黒ですね。この種のガンは、完全にタバコが原因のもので、手術はできません。抗がん剤で叩いて治療しましょう』と言われた父は、医師に対して『タバコのせいにするな!』と何故か逆ギレしたのを覚えています。
独身の時に看護師だった母は、『このガンは、1年と持たないかもしれない。覚悟しておきなさい。』と長男の私に伝えてきたのを覚えています。
父は、2009年に亡くなるまでの約2年間、抗がん剤による闘病生活を続けました。一旦は抗がん剤がかなり効くのですが、治療休憩期間に再び抗体を持ってガンは大きくなる、次の投与では違う種類の抗がん剤を使用する、そんなことの繰り返しを2年続けました。
私は、抗がん剤治療と言うのは、痛みや吐き気などの副作用を伴う印象があったので、父がどのように変わって行くのだろうかと心配していましたが、あろうことか、髪の毛が抜けただけで抗がん剤を打った1時間後には仕事に戻り、いつも通り仕事をやり続けていたのです。
『痛い』とか『苦しい』と言った弱音は、死ぬまで一度も聞くことはありませんでした。治るのではないか、そんな淡い期待を持ってしまうような父の様子でした。
しかし、ついに抗がん剤の種類の方が尽きてしまったところで、治療は強制終了となりました。途方に暮れている私達に対して、父は、『抗がん剤の種類がなくなるほどまでにオレは生き続けた!つまり、オレはガンに勝ったわ!』と全くわけのわからない理屈を飛ばしていました。
『余命3ヶ月』、そう言い渡されながら、父は仕事を続けました。ガンが大きくなり、肺が圧迫され、咳をすると呼吸困難に陥り、顔を真っ赤にして意識を失う。お客様の治療中も何度か意識を失い、お客様に起こされていたようです。しかし、そんな中でも、母に働かせることは絶対に許しませんでした。『母親は、子ども達の側にいてくれ』という、時代逆行の考え方を貫き通しました。
私はそんな父を見て、『最後まで、働き続ける生き様』を、私たち男3人兄弟の子ども達に背中で示してくれているのだと思いました。
父のゴールは、【働く男の背中を子ども達に示すこと】だったのです。
多くを語らない、不器用で自由な職人気質の父でしたが、今の私のキャリアの原点として、確かに伝わっているよと言いたいです。
4、父になった今
私は、2015年に結婚し、妻と長女・次女(一卵性双生児)の4人家族の父となりました。
子ども達が産まれてからは、父親として、この子達に何が伝えられるのか、そんなことを毎日考えています。
そんな時に、いつも父を思い出すのです。
父が命をかけて伝えてくれたこと、
【働く男の背中を子ども達に示すこと】
父が伝えてくれたことを次の世代に繋いで行くことが、生前に出来なかった親孝行だと感じております。
父の子として産まれたことを、今も誇りに思います。