見出し画像

##2 母が繋いだ【命のバトン】 Episode 1

サラリーマン起業家のi-proです。
いつも記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

私は現在、建築不動産の営業マンとして活動する『サラリーマン』と、不動産×教育を軸とした副業法人を立ち上げた『起業家』の2面性を持った『サラリーマン起業家』として活動しております。

私のキャリアを支える人生の軸は、【野球】と【家族】の2本柱で形成されて参りました。別のマガジンにも記事を書いておりますように、私は野球に人生を救われ、野球に恩返しするための夢と目標が明確にあります。


また、より深く私の人生を振り返ってみますと、【家族】によって私の【野球】の土台は形成されました。家族に野球をさせてもらえなければ、応援してもらえなければ、間違いなく今の私の【サラリーマン起業家】として、家を2棟新築し、賃貸マンションを購入でき、年収を10年で10倍になることは達成できなかったと言い切れます。

特に、私の人格と能力の根源は【母】にあり、常に母を目標に、母に感謝し、人生を歩んでまいりました。正に、【人生の師】でしょう。
今回は、そんな亡き母の生き様と人となりを踏まえ、母が命をもって伝えたかった事を書きたいと思います。

   目次

  1. 母は【超】苦労人

  2. 母の教え

  3. 母の生き様

  4. 母の存在

1.母は【超】苦労人


母は、1955年の生まれで、鹿児島県の最南部である指宿市の貧しい農家に3人姉妹の次女として生まれました。ゆったり、仕事もあまりしない、大きい割には体も強くない祖父に対して、厳しくあたたかく働く意欲旺盛の祖母の下で育ちました。母は、そんな祖母の【生き写し】でした。周囲の評判は、一言でいうと『勤勉で優秀』。誰に聞いても、今でも、母のことを悪くいう人間はいません。

そんな母は、学生時代は貧しい家庭のために高校に進学することは許されず、中学校を卒業してすぐに鹿児島市内に上鹿し、専門学校に通いながら働き、自ら生計を立てながら看護師としてのキャリアを築きました。
母はいつも、『高校に行きたかった』としきりに言っていました。親戚の方が言うには、母は中学生の時は学業は常にトップクラスで、高校には進学できないことを聞いた先生がいつも母を職員室に呼び出し、どうにか高校に進学できないかと進言していたとのことでした。
また、母は中学校の時にソフトボール部に所属しており、5番バッターとして活躍、スポーツも万能だったようです。

このことを周囲から聞くだけでも、私は母のことを尊敬することができました。母からは自慢することはほとんどなかったにもかかわらず、周囲からの声でそれを知ったからです。

母は、21歳になると、【看護教諭】としてのキャリアを築くために、岐阜に移住したようです。母は、人に伝えることが大好きで、天職であったと話しておりました。

そんな母は25歳の時、急な体調不良に襲われたそうです。

『口が動かせない・・・』

顔面神経麻痺でした。顔が歪み、どこかアシンメトリーな自分の顔に、愕然としたようです。その病状から、とても当時の仕事を続けることはできなくなり、夢半ばで鹿児島に帰りました。同じく看護師をしていた姉を頼り、居候しながら治療に専念したようです。

治療をして、日常生活に支障がない程に回復した母でしたが、後遺症で少し歪んだままの顔にコンプレックスを持っており、恋愛はもちろん、人間関係にも億劫になっていたと語っていました。

そんな母も、無理矢理組まされたお見合いで、32歳の時に父と結婚しました。父を選んだ理由として、『お父さんは、私の病気の気持ちに寄り添ってくれた、数少ない人だったから』と語っていました。母が、もし病を患っていなかったら、母は父と出逢うこともなく、私は産まれてなかったのかも知れません。

私は、何度も母の病と運命を恨みました。


母は、この25歳のときに患った病気を皮切りに、58歳で亡くなるまでの33年間、様々な病と闘い続けた33年間でした。

なぜ、母が、こんなにも病と闘わなければならなかったのか。不摂生をしていたわけでも、運動不足だったわけでもない。運命だったのか。
私は、なぜこのような一生懸命で真面目な、人から必要とされる人間が、辛く苦しい想いをしなければならないのか、何度も母の病と運命を恨みました。

しかし、母は、苦労したことをそのまま子ども達に伝えていました。『若い時の苦労は買ってでもしろ』と。苦労したことが、そのまま人としての奥行きとなり、きっと懐の深い、器のでかい人間への第一歩なんだと。
母は、命を懸けて我々に大きなメッセージを残してくれました。



私は、今でも、母のような人間になりたいと思っています。
なぜなら、誰もが苦しみ、逃げたくなる『病』という経験から得たものを、子どもたちへのメッセージに変えて、【命のバトン】として伝えてくれた母への感謝は計り知れないからです。

次回は、母のメッセージをより詳しく記した、
2、母の教え
でお会いしましょう。

いなくなってからでないとわからない大切な人の存在。皆様、後悔なき【親孝行】を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?