童子教から学ぶ脱グローバリズム
凶暴な流行り病の影響で、世界の表情が変わりつつあるこの頃。経済やビジネス、社会の構造も変化しつつあるのではないだろうか。この凶暴な流行り病は見事にグローバリズムの弱点を突いてきたとも言われています。グローバリズムの特徴は、国家や地域間の隔たりを取り除き、人、モノ、金、情報が自由に移動できるという点だ。人が無制限に移動した結果、流行り病は瞬く間に世界を手中に収め、人やモノの移動が減少したために一部のモノやサービスは市場から姿を消した。そして、お金の移動がなくなることで経済は深刻なダメージを受け、情報は錯綜しデマや誹謗中傷が溢れ返り、理性を無くした情報はインフォデミック(情報パンデミック)を起こした。こうして世界はパンデミックに陥っていった。
グローバリズムと聞くととても良いことに聞こえるが、本当に良いことだけだったのだろうかと、再考するときが来たのではないだろうか。今回は、データという事実から見える課題に対して、先人の教えから学び、解決の糸口を探るというテーマで書きたいと思う。また、童子教の内容に感銘を受けたので取り上げたいと思い立ったので記事にした。
童子教から学ぶこと
童子教とは、鎌倉時代から明治の中頃まで使われた日本の初等教育用の教訓書。成立は鎌倉中期以前とされるが、現存する最古のものは1377年の書写である。著者は不明であるが、平安前期の天台宗の僧侶安然(あんねん)の作とする説がある。7歳から15歳向けに書かれたもので、子供が身に付けるべき基本的な素養や、仏教的、儒教的な教えが盛り込まれている。江戸時代には寺子屋の教科書としてよく使われた。
[引用:wikipedia]
筆者は江戸に形成された養育文化だと思っていたが、とても古くからある教えでとても驚いた。もともと文の目的は、仏教のお布施を得るための文だったらしい。なぜ今回童子教を取り上げたかと言うと、この童子教の中にある教えに、今のグローバリズムの流れに対して考えさせられる記述があったからだ。原文を載せても漢文は残念ながら読めないので、読み下し文を引用する。
悪しき弟子を畜(やしな)えば
師弟地獄に堕(お)ち
善き弟子を養えば
師弟仏果に到る
教えに順(したが)はざる弟子は
早く父母に返すべし
不和なる者を冤(なだ)めんと擬(ぎ)すれば
怨敵(おんでき)と成って害を加う
悪人に順(したが)いて避(さ)けざれば
緤(つな)げる犬の柱を廻(めぐ)るが如し
[ 引用:童子教を読む ]
簡単に言えば、悪い弟子を畜(やしな)えば、師弟ともに地獄に堕ちるのだから、従わない弟子は早く追い出して、親に返すべき。いつまでも、ろくでもないやつとつるんでいると、怨敵となって自分に害が帰ってくる。と書かれている。超現代語訳すると、悪い奴を追い出さないで一緒居ると、恩を仇で返されるぞ、ということ。どこかで聞いたことあるお話である。そうそう、お隣の半島とか大陸と一緒にいたら、仇がたくさん帰ってきた歴史があった。
つまりは、共同体を構成する中で、排除の論理は大切であるということ。古から社会構造の本質は変わってないように思える。それでは、世界という単位を共同体とするグローバリズムはどうだろうか。第2次世界大戦が終わり、多くの国家の都市が荒廃した。その復興のさなかに、世界での協調路線が構築されていった。また、ベルリンの壁崩壊から冷戦構造の終結とともに加速しだしたグローバリズム。人、モノ、金、情報が国家の垣根を越えて無制限に自由に交わることで、世界は凄まじい速さで復興、成長を遂げることに成功した。このときに処方された薬がグローバリズムだったのだ。
しかし、薬というものは過剰摂取し過ぎると毒にもなるということを知らなければならない。
毒にもなる、グローバリズムという薬
薬を服用し続けた日本がどうなったか、結論を簡潔に述べるなら「国民が貧乏になった」と言える。
まずは、実質賃金の推移を見てみよう。実質賃金というのは、労働者が実際に受け取った給与に物価の影響を加えた指標である。労働者が給与で購入できるモノやサービスの量を計る指標にもなる。
日本の実質賃金の推移(2015年=100)
※ここで使られる図表は基本的に三橋貴明さんのブログからお借りしてます。[情報ソース:日本銀行、厚生労働省、統計局、財務省]
平成の間下がり続けていたことが一目瞭然である。ではなぜここまで下がったのか、その一つの要因は労働構造にあると思う。平成の間にどれだけの労働者が非正規雇用になったのだろうか。
平成30年間の労働市場を振り返る。非正規雇用はどう変化したのか
[ 出典:ナレビ]
答えは平成の間に非正規雇用の割合が約2倍になり、労働市場の約4割を占めるようになったである。女性の労働参入があるとか理由を付ける人がいるかもしれないが、的違いである。女性の非正規雇用が2.47倍と大きいが、男性の非正規雇用も2.92倍と、女性を上回っている。15歳以上64歳以下の平成30年就業者は平成元年比で約1.0倍の等倍であり、就業者数はあまり変わってない。グラフ外になるが、65歳以上は2.57倍、就業者内の割合では7.4%増加し非正規雇用増加の後押しをしているが、それでも非正規雇用の割合が4割を占める状況は異常である。本来なら正規雇用のところを非正規雇用で埋めてきたためこのような構造になった、そうでなければ就業者数の増加に比例して正規雇用数も増加したはずだ。就業者数の増加且つ実質賃金の減少は労働単価が低下したと言える。
グローバリズムの中で競争するということは、海外の安い賃金の労働者によって生み出される、安いモノやサービスが入ってくるということ。こうした市場の中で競争力を高めるという大義名分で、まずは人件費をコストカットするのだ。そして経営層や評論家はこう言う、「内需が減少している、人口減少もある、国外で勝負するべきだ」と。しかし、よく考えると、いや考えなくても明白なことがある、内需減らしている一端はグローバリズムを唱える張本人だということを。人件費を削るということは、所得を減らすということ。所得を減らすということは、消費を減らすこと。消費が減るということは内需が減るということである。とても簡単なロジックである。付け加えるのなら、所得が減ったのなら子供を育てる余裕もなくなるのだから、少子化に拍車を掛ける要因にもなりうることだ。
日本の実質消費(季節調整値)の推移(2015年=100)
御覧の通り、実質消費は右肩下がりである。一瞬飛び出ている個所があるが、それは増税前の駆け込み需要で伸びた消費でしかない。ただ消費に関していえば、他にも消費税などの影響をとても受けるので、賃金低下による単一要因ではない。まぁ消費税増税が追い打ちをかけているとも、消費税増税に追い打ちをかけていると、どちらでも捉えることができるかと。
では彼らはなぜ、グローバリズムを続けるのか。答えは簡単だ。自分たちが儲かるからだ。
日本の民間非金融法人企業の現預金(億円)
資本金10億円以上の法人企業の配当金(兆円)の推移
ここ十数年で企業の預金は増加し、配当も増加している。人件費は削るが配当は上げる。配当は上がるので株を所持しているグローバリズムを主張する株主や経営者は儲かる。そして企業は人件費を削った分を預金にも回し、富を蓄える。これが現在のグローバリズムにおける資本主義という仕組みである。
グローバリズムというのは、国民を貧困化させ、株主の利益の最大化を目的としたサービスなのである。
余談、あの福沢諭吉も
童子教の引用の続きには
善き友に随えば、麻の中に蓬(よもぎ)が生えるようなものです。
悪しき友に親近すれば、藪(やぶ)の中で荊(いばら)に近づくようなものです。
[ 引用:童子教を読む ]
こちらは現代語訳の方になる。「麻の中に蓬が生えるようなもの」は麻の中の蓬という、人は善良な人と交われば自然に感化を受け、だれでも善人になるという意味だ。要するに、良き友の後についていけば、感化を受けるため善人になれるということである。反対に、藪の中の荊というのは、藪の中で育つ荊はまっ直ぐには育たないように、悪友と共にいると、善人にはなれないことをいう。さっきとは反対に、悪人と一緒にいては、善人になる道は遠くなるばかりといことだ。これらを超現代語訳するなら、「人間関係は選べ」というものになるだろう。これはビジネスモデルでも同じことが言えると思っている。顧客や従業員、キーパートナーとの関係を誤れば、良いサービスを提供することは難しいだろう。
他にも、こんなことを
愚かな者は先々のことを考えません。
必ずいまこの瞬間の憂いしか持ちません。
それはまるで細い管(くだ)で天を観るようなものです。
あるいは針で地面を刺すのと同じです。
[ 引用:童子教を読む ]
愚者は先のことを考えない、つまりは目先の売上や利益にしか目がいかないPL脳だ。そのような人間は、この瞬間も嘆くことしかできない。そして細い管で天を観るは「管を用いて天を窺う」、細い管の穴から天をのぞいて見えたものが天だと思い込むように、自分の狭い見識で広大な物事に勝手な判断を下すことである。また、針で地面を刺すは「針を以て地を刺す」、貧しい見識で大きな物事に勝手な判断を下すといことである。超現代語訳するのなら、愚者というものは、「PL脳で、口を開けば不平不満ばかりの自己中」である。こんな奴が近くにいるのなら、上の教えに倣い、一寸の迷いもなく、彼方に蹴り飛ばすことが賢明な判断だと言える。
少しは話は戻ることになるが、グローバリズムの中では自由貿易が主流の考えになるが、福沢諭吉の学問のすすめでは全く違った貿易観を説いている。
わが日本はアジア州の東の離れたる1個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国貿易のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろ議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺に言う「井の中の蛙」にて、その議論とるに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、お互いに相教え互いに相学び、恥じることもなく誇ることもなく、お互いに便利を達しお互いにその幸いを祈り、天理人道に従いてお互いの交わりを結び、...(略)
[ 引用:福沢諭吉, 「学問のすすめ」初編, 青空文庫, 79 ]
今で言うなら、グローバリズムだ、ナショナリズムだ、とやかましい人たちはとても狭い知見でしか語ることしかできないため、議論に値しない。同じ天の下に住んでいる人間同士なのだから、ここに余っていたら譲り、向こうに余っていたら譲ってもらえばよい。お互いを尊重し合い、学び合いながら交流していく必要があると説いている。
最後に
今、世界の工場である中国に尻尾振りまいて、安い人件費に依存し、安いモノやサービスを生産してきた企業は手も足も出なくなり、収益は大幅悪化。チャイナリスクと言われても依存症のようにドラック吸い続けてきたのだから自業自得だとも言える。これでも「これからはグローバリズムだ」と言える奴は大したものだ。巷ではwithコロナと言われ、これからもコロナと一緒に歩んでいく中で社会構造、事業構造、ライフスタイル、ワークスタイルなどの変化が求められる転換期にいる。
私たちが歩んできたグローバリズムとは何だったのか、豊かになるためにグローバリズムに突き進んだが、結局のところそれを達成できた者は一部にしか過ぎない。多くの人は富を失ったにしか過ぎなかった。だからといて対極的なナショナリズムに走るべきと極論を述べるつもりはない。小さい地域、大きい地域、ひいては国家の産業や文化、人や雇用を守りつつ、良いモノやサービス、人、金、情報は取り入れて、悪いモノやサービス、人、金、情報は追い出す。排他の原理は差別ではなくて区別であり、それは秩序となり、その地域に住む人々の豊かな生活を生み出すことに繋がる。自分たちの生きる世界、その地域を守りつつ、お互いの地域間で尊重していく、それが「ローカリズム」であり、今後の目指すべき道だと筆者は考えている。グローバリズムという薬を服用し過ぎたのなら、服用する量を減らし調整することで、正常な機能を取り戻すことができるのではないだろうか。1日3錠飲んでいた薬を、1日1錠に、次は3日に1錠にと段階的にシフトしていき、落としどころを見つけていくことが重要になってくる。
一人一人が豊かな生活を手に入れるためには、グローバリズムからローカリズムという新たな道を歩んでいくことが大切である。
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