「個人の時代」という名の幻想。
情報過多すぎて、今にも「正解」に吸い込まれてしまいそうです。
こんにちは、一般女性Aです。
人間は、「正解」の行動を取るべきなのでしょうか。
「正しさ」とは、生きていく中で追求し続けるべきものなのでしょうか。
今の時代は、スマートフォンが普及し、分からないことや知りたいことはなんでも調べて「学ぶ」ことが出来ます。
いわば、インターネットから得られる情報は辞書的な役割を果たしています。
役割がそこまでに留まれば、私は情報と「上手く付き合えていた」のですが、
SNSの普及によって、情報は更に多岐にわたるようになり、そして複雑化してきました。
その影響により、私たちは辞書では今まで調べることの出来なかった、物事の価値や考え方までも調べることができるようになったのです。(情報の正確性については今は端に置いておきます)
このように、他人の考え方を手軽に知れる時代になると、なんとなく多くの人が持っている共通認識というものが見えてきます。
ではここから、
その共通認識を持っていないひとは「間違っている」のでしょうか。
仮に間違っていたとして、それは「犯してはいけないもの」なのでしょうか。
情報過多の時代となり、私たちの行動や考え方まで、「正解」と呼ばれるようなものが出てきました。
例えば高校生は運動会でみんなとお揃いのおめかしをして写真を撮って楽しむのが「充実の象徴だ」とか。
その「正解」の選択肢を取れないと、落ちぶれているとか、そんな印象を持たれることもしばしばあります。
そんな「正解」が個人の主観に留まっていれば、「正解」と呼ばれる何かがあっても別に良かったのです。
でも、SNSの普及はそんなスイートなものではなく、
考え方や価値観にも「正解」という概念が導入され、私たちは何者かによる「正解」に縛られ、「間違い」を犯したら、いくら自分の人生であっても訂正される
そんな不自由な社会で、順応していかなくてはいけなくなってしまいました。
高校生は運動会でお揃いの振る舞いをして写真を撮るという楽しみ方を「しなくてはいけない」
SNSの普及は多様性の受容という意味を兼ね備えていてくれれば嬉しかったのですが、
人間とSNSの関係性は、そこまでよくは無さそうです。
一般女性A