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川島田ユミヲと申します。

さて、パイロット版の投稿を済ませたところで「イッパイアッテ奈」というプロジェクト発起人の自己紹介を。

川島田ユミヲ(かわしまだ・ゆみを)、というへんちくりんな名前はもちろん偽名で、本名は「川嶋裕美子」と言います。

出生は埼玉県所沢市、1歳になる前から現在の住居である東京の端っこ、東村山市に住んでいます。
現在の職業は、埼玉県所沢市にある音楽喫茶MOJOで飲み物やらお料理やらを作ってわいわいとさせて頂いております。新型コロナウィルスの感染拡大以前は、週末LIVEイベントも行っておりました(コロナはよ終われー!)。

家族構成は両親と姉・私・弟がふたり・父が育てている観賞用金魚がいっぱい。
ふたりの弟のうちのひとり、私と6つ歳が離れた弟の “きよはる (以下キヨもしくは弟と表記します)” には、知的障害というハンディキャップがあり、言葉は「あー」とか「うー」とか「わー」ぐらいしか発することができませんが、こちらが話すことはある程度理解してくれます。 

外出が好きで車や電車などの乗り物が大好き。かまってくれる大人がたくさんいるところが大好きです。言葉が喋れないため、挨拶は握手を主としております。
キヨの話はいったん置いておいて、私の自己紹介を。


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小さい頃から勉強が嫌いで、ずっとTVを観たり音楽を聴いたりしていました。高校を卒業して就職せずにアルバイトをしながら、22歳まではバンドでドラムを叩いていました。パンクとかハードコアとかミクスチャー系のちょっと激しいやつをやっておりまして、一時期髪型が坊主頭だったこともありました。


「お前は男みたいだから“裕美子”じゃなくて“ユミヲ”だ!」

という理由でついた“あだ名”が、ユミヲでした。 音楽を仕事にしたい!と思っていましたが、指のじん帯を負傷してしまったのと、技術的にもこれ以上ドラムは上達しないだろう、と思ってやめました。


バンドやめても何か夢を持ちたい、と思って始めたのが、 ずっと前からほんのり憧れであった、役者でした。 

ライブではお客さんを前にすると高ぶり過ぎてリズムが走りまくる人だったので、 舞台じゃなくて映画俳優になろうと思いました。本名は地味だし、なんかインパクトのある芸名がいいなー。そうだ、あだ名をそのまま芸名にしちゃえー!と思い、「川島田ユミヲ」としての役者活動を始めました。

 役者の世界も音楽と同じように「インディーズ(自主制作)」の世界がある事を知って、 経験もないうちから自主映画製作団体や監督さんに片っ端からメールを送りまくり、 見よう見まねで演技をやり始めました。 シネマ健康会の松本卓也監督を始め、色んな映画の現場で勉強させて頂きました。
そのうちワークショップにも通って舞台にも出てみようと思い、 数年間は映画と舞台をやっていました。これが25歳ぐらいの頃。

 時を同じくして、渋谷区の端っこで一人暮らしを始めました。お金にだらしない母親に嫌気がさしたというのがきっかけでしたが、役者としてもっとステップアップして職業にするために、環境を変えたくなったからです。

 
29歳、色々あって一人暮らしに限界を感じ始めていた頃に、 母親が2度目のうつ病になり引きこもりました(バンドやってた頃にもうつになってる)。

 はじめにも書きましたが、上弟さんは生活をしていく上で様々なサポートが必要です。母がうつになったことによってそのサポートが出来なくなってしまい、弟も一緒に引きこもり状態になってしまいました。

 
私はその時、埼玉県川口市に住んでいました。 通いで母の看病をしたり、上弟さんのお世話をするよりも、このまま部屋を引き払って実家に戻る方が良いだろう。 そう思って実家に戻ったのが30歳ちょい手前ぐらいでした。

 
これまで私も含めて、他の家族も上弟さんの事は全て母にまかせっきりだったし、母は家族に内緒で消費者金融に小さめの(とはいえ3桁近かった)借金もしていた事も発覚したため、 これはもう全部一手に引き受けるしか!と一念発起し、主婦交代と言ったら大げさかもしれませんが、それまで一切やらなかった料理やら実家の生活におけるすべての管理をやることにしました。 

この時点で、役者を職業にする事は諦めました。

じゃー役者やめて次はどうするー?と、今の生活を優先して出来そうなことを模索。模索、というほど深く考えずに「そうだ、小説書こう。」と方向転換しました。

25~26歳あたりで、ラジオドラマをやってみたいと思い脚本の執筆にチャレンジしたこともありましたが、脚本以前のプロットを書いている段階で、「小説のような、読み物として物語を完成させてみたい」という気持ちになり、漠然と色々書いてはみましたが、まだまだ発表までには至っておりません。

でもこうして「イッパイアッテ奈」という屋号までつけてnoteを立ち上げたという事は、はい、いい加減やります、という事です。

↑所信表明したしね。


小説の他に、もうひとつ。

2016年、相模原の障害者施設の事件があり、障害者家族として色々と考えることが多くありました。
どうも「障害」「障害者」という存在が、世の中では腫れもの扱いされている。もちろん今に始まったことではありませんが、この事件があってそれを非常に強く感じました。


もちろん障害というのは様々あります。

私は「知的障害者の家族」というだけであって、障害というものの全てはわかりません。また、障害者のことをもっと理解してほしい、とも思っていません。好きになってほしい、なんてのは論外で、嫌いだとか苦手だとかでも全然いいんです。


私は、世の中に様々あるであろう「障害」が、どうも「ひとくくり」にされてしまっている気がして、それがなんとも歯がゆいのです。
所謂「健常者」の皆様の中でも気が合う人と合わない人がいるように、もし「障害者」というだけで敬遠しているのであれば、私は自分が過ごしてきた環境や実体験を踏まえて、あくまでも私と私の弟のケースはこんな感じでーす、と、そんなに重苦しくなく、もっとフラットに捉えて頂けたら、少なくとも「知的障害者」という言葉の重さはほんのりまろやかになるかな、と言う考えのもと、TwitterやFacebook、Instagramにおいて弟の日常や弟と出かけた場所や出来事など、ガンガン晒しています。

↑去年の秋に、浅草に行った時の様子

しかしフラットに捉えられない背景には、一概にそうとは言えませんが、我々障害者家族の構え方にも問題があるのではないかと思います。これに関してはまだ考えがまとまっていないので、またいずれ。

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と、長々とワタクシ川島田ユミヲの自己紹介と所信表明をして参りましたが、実家に戻って家事の一切をやるようになり、弟きよはるとの二人三脚生活も10年目に突入いたしました。

私がいくつになってもずっとキヨや家族と一緒に過ごせるのは理想的ですが、いつかは離れる日が来ます。

 三十代前半なんかは「その日はいつか来るんだろう」くらいにぼんやり考えていましたが、四十代に突入していよいよ「その日はすぐに来てしまうかもしれない」と言う気持ちになってきました。ならば今のうちに、とにかく自分のやりたいことに関しては後悔しないようにやっておきたい。それが、文章で自己表現をすることなのです。

ネタには事欠かない人生を送っている自信がありますので、あとは時間の作り方とやる気次第です(永遠の課題)。


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もし今後どこかで我々姉弟とお会いすることがあるならば、気軽に声をかけて下さい。先述した通りキヨは言葉が喋れませんが、人見知りは全くしません。基本的に挨拶やコミュニケーション手段は「握手」です。人が多い場所が好きなので、周りにたくさん人がいると片っ端から握手し始めて、 さながら握手会のような状態になります。笑

早くこの新型コロナウィルスの混乱が収束して、またたくさん遠出もしたいと思っております。

そして弟との生活を優先させつつも、このnoteに彼是書いていけたらいいなと思っておりますので、どうぞ「イッパイアッテ奈」を御贔屓に宜しくお願い申し上げます。

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川島田ユミヲ
ハードルがあるのは障害者だけじゃない。「私たちは健常者だから」と言うそこのあなただって、職場や家族間での対人関係だったり病気したり大変な事(ハードル)が沢山あるでしょ?という意味で、エッセイのタイトルは「世の中全員、障害者。」と言います。おススメ&サポートして頂けたら嬉しいです。