さすらいの麻雀マシーン
年間で一万回近く東風戦を打つけど、何年経っても印象に残っている局面など少ない。
出勤する時、自転車で店へ向かう途中を右に曲がると、桜並木がある。店とは違う方向なので通らないけど、毎年綺麗に咲き誇り、夕方になると早くもお酒を飲んでいる集団を見かける。自転車を止め、桜を見上げると、花びらを縫うようにオンボロアパートが見える。そこは昔「iPop」の寮だった場所だ。桜を眺めていると、あの時も綺麗に咲いていたなと切ない気持ちになり、とある一局を思い出す。
「このリーチはツモる」
東発の親番、特に根拠も無いが、そう確信して牌を曲げた。
時間は一九時を過ぎたところ。セットは入っておらず、今「iPop」ではお客さんが二人、メンバーが二人の面子で、一卓しか立っていない。立ち番が一人いて、僕の後ろの丸椅子に座って卓を見ている一番麻雀に集中出来る状況だ。一発は無かったものの、三巡後にあっさり6000オールをツモった。前回トップだった良い流れをしっかりと引き継いだ、手応えのあるリーチだった。それから一本場に12000は13500を対面から出アガり、56500点持ちで迎えた二本場。下家が早々に白を仕掛けた。僕は可もなく不可もなくといった配牌で、向かうか受けるか決めかねていたけど、下家が続けて發を鳴いた時に、中を抱えて受ける事に決めた。それから一枚も鳴かせず、ツモ切りが続く下家が捨てた赤五ピンを対面がポン。この場は二人の戦いになった。
しかし牌は言う事を聞かない。安全牌が欲しいにも関わらず、僕の意思とは反対にどんどん有効牌が寄って来る。未だ顔を見せない中を抱えたまま、僕の手牌はイーシャンテンまで育った。三-六萬と五-八索が入ればテンパイ、面前で入れば頭を落として回ろうかと考えていた時、下家が手の内から白を加カンした。新ドラは七萬で、僕の手牌に右から三枚並んでいる。リンシャンからツモ切りした三萬を対面がポン、左手で中を叩き切った。5500点持ちのラス目のため、展開を遠目から見ていればばラスの可能性が高く、取り戻すなら二本場の今しかない。役満も恐れず前に出る、打牌から勝負の意思が伝わってきた。それに声はかからず二人の殴り合いが始まる。
次の僕のツモはポンカスの三萬。タイミング良く、合わせたように中を切って満貫のテンパイ。五-八索は二人が一枚ずつ切っていていい待ちになっている。
ーーもらった
そう思ったのも束の間、次に下家がツモ切ったのは四枚目の七萬。対面の間七萬待ちに満貫の放銃だった。
「次順ツモって六万点終了だったのに!しかも七萬は暗刻だよ!」
「最後の一枚を掴んじゃったか、ついてないなぁ〜。僕も大きい手だったんだけどな」
目の前の山をめくりながら、どんな手だったのかと下家の手牌を覗くと字一色のテンパイだった。恐らく誰も止まらない、ゾッとするような地獄待ちの北。これは先に七萬がいた事を悔やむしかない。
山をめくるのも、人の打牌にケチを付けるのも、手牌を覗くのも、フリー雀荘では有り得ない行為だけど、これはまだ十九歳の時の話なのでどうか許して欲しい。生意気な学生で、当時のアダ名は「クソガキ」だった。
何事も無かったように点棒を払い、ついてないなぁと笑顔で山を崩し、この字一色のテンパイをみんなに喋るんじゃないと、僕に笑顔の奥の目で釘を刺すのは、同僚の「わくちゃん」。ほどよい緊張感で卓が回る、いつもと変わらない日常だ。
役満のテンパイなんて、雀荘では日常茶飯事。この半荘にはまだ熱い展開が待っているが、まずはその時下家に座っていた「わくちゃん」を紹介したい。
まだ「iPop」がオープンして一年目、雑誌「麻雀現代」でメンバー募集をしていた頃、僕は働き始めて二ヶ月目の時だ。ボストンバッグを抱えて入ってきたのがわくちゃんだった。まだフリーが営業開始する前、たまたまセットの予約が入っていたため、僕が一人でセット番をしていた時。最初は参ったなと思った。この時間に一人で入ってくる人は、フリーの営業時間を知らない新規客の事が多く、僕はまだルール説明さえおぼつかない。
「いらっしゃいませ、フリーですか?」
「いえ、スタッフ募集の求人を見てきました」
あちらにかけて少々お待ちくださいと声をかけてからオーナーに電話すると、十分で着くからお茶をお出しして待っててもらうようにとの事だった。雑誌での募集内容には日当一万二千円の他に、ゲーム代バック有り、入寮可能と、見る人が見れば魅力的な条件だった。その十分間、ボストンバッグを持っていた男を観察していた。年季の入った眼鏡、ヨレヨレのシャツ、擦れたズボン、ボロボロの靴、まだ春で肌寒いのに薄着だった。オーナーが到着して少し話すと、すぐに採用が決まった。
「和久井君を寮まで案内してこい」
そう言って、僕にポケットから取り出した鍵を放り投げた。
「お前も今日から先輩だぞ、店の事を色々教えてやれ」
オーナーのその言葉を背中で受けながら店を出る。分かりましたと返事はしたけど、一回り上の後輩と何を話していいのか分からない。普段お客さんとは喋れるのに、妙な人見知りをしながら話しかけてみた。
「何て呼べばいいですか?」
「わくちゃんって呼ばれてるよ。さん付けだと堅苦しいからそれでいいかな」
僕のどぎまぎした雰囲気を察してか、わくちゃんはそう言った。それからは変な緊張は解けて、ここに来るまでの経緯を聞いた。緊張が解けると次は興味が沸いてくる。入寮希望という事は家が無いという事だ。漫画喫茶を転々としながら西へ向かっているらしい。話しに夢中になって桜並木を抜ける。桜なんて目に入らなかった。空っぽの寮にボストンバッグを置いて店に戻る。戻ってから飲み物の場所やゲームシートなどの説明をしていると、お客さんと十七時出勤のメンバーが一緒に入ってきた。気付けばもうそんな時間だ。色々話しているとあっという間に時間が過ぎていた。二人に挨拶をして、わくちゃんを紹介する。
「さっき飛び入りで入店した和久井さん。通称わくちゃんです」
二人にわくちゃんを紹介する。
「じゃあ詳しい自己紹介は卓上でしてもらおうか」
スーツのジャケットを脱ぎながら梨元さんが言った。この人は昔メンバーの経験もある、サラリーマンの皮を被ったサウスポーの雀ゴロ、通称「ナッシー」だ。そんな事はわくちゃんには説明せず、梨元さんとだけ紹介し、急いで準備を済ませて初めて卓を囲む事になった。
自己紹介をしてもらうとは言ったが、卓上に会話は無い。常連とメンバーは試すかのように早いテンポで打ち、それにわくちゃんはすんなりとついて行った。僕はといえば、リズムを乱さないように、一人であたふたしている。わくちゃんの麻雀は綺麗で丁寧だった。ツモる切るの所作、点棒の申告や払い方、全ての動作に無駄がなく、スムーズな流れは見ていて面白い。二半荘が終わったところで来店があり、わくちゃんの席に案内となった。
「まるで機械みたいだな」
ありがとうございましたと席を立つわくちゃんに、ナッシーが笑いながら言った。僕には合格だと言っているように聞こえた。
少し時間が経ち、卓は二卓になったところでオーナーが店に帰ってきた。
「どうだ?和久井君の様子は」
「本走中です。今のところ全く問題ありません」
そうかと頷き、本走中のわくちゃんの後ろの丸椅子に座った。少しすると立ち上がり、僕に言ったのか独り言なのか分からない声でこう言った。
「あいつはダメだな」
その時は意味が分からなかったが、徐々に理解する事になる。
わくちゃんが店に馴染むのには時間がかからなかった。機械のように一定のスピードで黙々と麻雀を打つ姿から、「麻雀マシーン」というあだ名が付いた。でもそれは麻雀だけの話。雀荘を転々としているため、コミュニケーション能力は高く、空気を読んだ発言や、サイドテーブルへの気配りなど、機械では出来ない事もやってのけた。負けていても、楽しそうにニコニコ麻雀をする。僕が先輩として教えた事など初日の説明だけで、それからは雀荘での仕事を色々と教えてもらっていた。寮はお店の近くだった事もあり、仕事が終わってからよく遊びに行ったりしていた。寮にはボストンバッグと布団があるだけで、その他に置いてあるものといえば、コンビニで揃うような物ばかりだった。
オーナーの言っていた「あいつはダメだな」というセリフの意味が分かりはじめたのは、セミが鳴き始めた頃の事。働き始めてからの四ヶ月、わくちゃんは給料が残らなかった。麻雀が弱いのだ。
メガネの奥の鋭い目で場を見渡し、牌効率や、手牌読みなど、正確に当ててのける腕はあるものの、麻雀に勝てない。理由として、客の収支に気を使いながら打つ古いメンバーの考えを持っていた。卓に入ればみな平等、命の次に大事な金をばら撒く必要は無いと、オーナーからもそう指導されていたにも関わらずだ。そして慣れない東風戦という事もあるだろうが、極端にツイてなかった。それに関しては一時的なものだろうと思っていたが、一向に勝つ気配は無かった。東風戦で、放銃無しで飛んだのを見たのはわくちゃんが最初で最後だ。
貯金も無く、給料が残らない。寮があるから寝床はあるけど、その日の飯を食わなければならない。 わくちゃんはアウトを抜き始めた。フリー雀荘では、お客さんとお金を賭けて麻雀を打つが、その種銭はまずお店のレジから出る。それをアウトと呼ぶ。一日が終わると、残っているお金は増えていようが減っていようが店に入金する。そして月末に収支を計算し、それが給料に反映される。給料以上に麻雀で負けてしまうと、アウトオーバーとなり、給料は残らず借金が出来る。一度こうなってしまったら、よほどの気合いを入れない限りは負のループに陥る。「iPop」では、アウトを抜く行為は厳禁だとオーナーからキツく言われていたが、わくちゃんはアウトを店に入金する前に、少しずつポッケにお金を入れていた。現場を見てしまった時に、僕は言った。
「わくちゃん、お金の事ならオーナーに相談した方がいいんじゃない?」
「どうせ自分に返ってくるお金さ、いつもらうかの話だよ」
結果的には自分の給料が減るだけという理由から、本人に罪の意識はあまり無いが、隠れてやるのはやましい気持ちがあるから。無論、その時点ではアウトはお店のお金だ。わくちゃんには色々教えてもらったし、一緒にご飯を食べたり麻雀の話をしていて楽しかった。それだけに、この時は複雑な気持ちになった。
さらに時は経ち、二度目の春に差し掛かる頃には、わくちゃんのアウトはさらに増えていった。経験の少ない僕でも分かったが、見ていて勝つ気が無い。どうせ膨らんだ借金は返せない。日々の飯代を抜くために麻雀を打っていた。
オーナーがわくちゃんの行動を不審に思い始めたのもこの頃。成績を着けているため、出金額と入金額が、着順と噛み合わなくなってくる。
とある仕事終わり、二人とも連勤だったので、寮に泊まりに行く事になった。いつもの松屋で飯を食ってから質素な部屋へ。もともと物は少なかったけど、さらに何も無くなっていた。わくちゃんが初めて店に来て、寮を案内したその日の風景だった。
「俺、明日で辞めるよ」
ついにその日が来たと思った。理由を聞く気にも、引き止める気にもなれず、ただ頭に浮かんだ事をそのまま聞いた。
「次はどこに行くの?」
「都内とだけ言っておくよ。あれこれ詮索されても困るだろうからね」
わくちゃんのアウトは、普通に働いていても返すのが大変な額まで膨らんだ。こうなるのも時間の問題だと思っていたけど、僕に話してくれたのは嬉しかった。
そして翌日、いつも通りに二人で出勤した。オープンの準備が終わり、雑談をしたり軽食を取ったりと、まったりとした時間が過ぎる。いつもと変わらない日常だ。
いつものようにお客さんが来店し、いつものように卓が立ち、わくちゃんもいつも通り振舞っている。もう会う事は無いかもしれない。一緒に麻雀を打つ事は無いかもしれない。そう思うと、複雑な心境でツモる切るを繰り返す。他のメンバーやお客さんには、そんな事を悟られてはいけないので、僕もいつものように振る舞う。18時を過ぎ、お客さんが二人になり、僕とわくちゃんの2入りの状況になった。その日の僕は流れが良く、何をやってもアガれるような流れだった。
「今日のわくちゃんの給料をもらうのは桂木か」
わくちゃんは弱いという事が、お店の中で周知の事実になっている今、わくちゃんと同卓した三人のうち、誰が勝つかという雰囲気になっている。僕からしたら少し気分は悪いけど、わくちゃんは機械のような営業スマイルでニコニコしている。悔しくないのかと、それに対しても気分が悪くなる。とはいえ、どんな事があろうかと僕だって自分のお金を賭けているのだから、情けを掛ける事は無い。それは相手に対して失礼だとも思う。
二連勝した後の半チャン、起家スタートで迎えた親番、テンパイを入れた時に根拠も無くこう確信した。
「このリーチはツモる」
そして話は冒頭に戻る。
対面が満貫をアガった後の東二局、僕が対面に満貫を放銃して、わくちゃんの親はすぐに落ちた。東三局、上家がタンヤオ風の仕掛けを二つ入れる。ドラは字牌で三枚切れている状況。金五萬は僕が持っているため、対面の親を流せるのであれば放銃は怖くない。金を上がりたいのもあったけど、打ってもいいと思いながら切った牌で3900を放銃した。二回連続の放銃になったけど、二着とはまだ二万点離れているダントツのトップ。あとは東ラスを消化すれば三連勝だ。
迎えた東ラス、ドラと赤は一枚も無く、配牌は悪い。良い流れはここで終わりだと思ったと同時に、まくられるような嫌な予感がした。連続放銃ですっかり弱気になっていた僕は、早く脇の二人にアガってほしいと思っていた。対面が早々に役牌を鳴いて二着を取りに走り、下家のわくちゃんは萬子一直線に走っていた。金の所在が分からないのが気になるけど、わくちゃんになら跳満を打ってもトップ、倍満でも南入の状況。早く終わらせたい一心で、何枚か萬子を切るけど、仕掛ける気配もない。ジリジリと進行していき、残りツモが五回になったところで親からリーチが入った。これはまずいと僕の第六感が叫ぶ。対面は現物の対子落としで回っているようだが、この順目じゃアガリには期待できない。そんな中、わくちゃんはいつもの機械のようなモーションとは違い、珍しく強打で無筋を切った。いつもなら自分が飛んで他家の着順に優越を付けないよう、気を使って降りている場面だが、誰にでも分かるテンパイのサイン。わくちゃんが打てば飛ぶので、その展開も悪くないと思っていた。流局が見えてきた親の最後のツモは六萬。萬子を一枚も切っていないわくちゃんに対して強打をするが、声はかからない。あとは僕とわくちゃんのツモ番でこの局は終わる。安全牌を切り、この局は凌いだと思ったが、胸騒ぎは収まっていなかった。
わくちゃんの最後のツモ。他にお客さんのいない店内に、ツモの声が響いた。ツモった牌は一枚切れの九萬、開いた手牌は金入りで萬子の清一。よく見れば七萬が二枚ある九連宝灯だった。6−8−9萬待ちで、親の六萬は見逃しだった。
「人生で初めてアガった!!!」
周りの目も気にせず喜ぶ表情は、今まで見てきた機械のような笑顔ではなく、人間味に溢れていた。お客さん二人は話が違うと不満気に役満祝儀と点棒を支払う。トップは捲られたものの、わくちゃんの喜ぶ顔を見て、僕も自分の事のように嬉しくも切ない気持ちになった。九連宝灯を目に焼き付けて清算を済ます。
役満を上がったけど、その後はしっかりと負けてわくちゃんの最終日は終わった。そしてその日のレジ金十二万円と一緒にわくちゃんは消えた。次の日、わくちゃんが来ない事、レジ金が無くなっている事をオーナーに報告すると、すぐに寮を確認してこいと言われた。もう一人のメンバーに店を任せ、誰もいないと分かっている寮を見に行く。桜並木を抜け、ドアを開けると、玄関に桜の花びらが数枚落ちているだけで、案の定もぬけの殻だった。その後、何か聞いていなかったかと詰められたけど、知らぬ存ぜぬで突き通した。最初こそ怒っていたが、すぐに諦めたのが分かった。オーナーもこうなる事は分かっていたのだろう。僕は雀荘メンバーの闇の部分を知った。
ーーあれから約十年が経ち、立場も変わって店長となった今。あの行動をする者がいたらどう対応するのだろう。毎年考えさせられるが、未だ答えも同じ行動をする者も出てこない。桜の下の人は増え、楽しそうな声が聞こえる。気付けば遅刻ギリギリの時間だ。散る花びらに打たれる度、あの九連宝灯を思い出す。死の役満をアガって、わくちゃんは去っていった。しかし、すでに死んでいたという方が正しいのかもしれない。何度思い返してみても、給料も残っておらず、麻雀で勝たなければならない立場で、あの見逃しが正しいとは絶対に思えない。途中、鳴ける牌も何枚かあったはずだ。
僕もいつか九連宝灯をアガる時は、メンバーとして死ぬ時なのかもしれない。その日が来ないように願う反面、待ち遠しくもある。