マンション麻雀
第一章 マンション麻雀の誘い
二十三歳になる誕生日の前。水山さんから電話があった。
——マンション麻雀で代打ちやってみない?
季節は秋から冬へ移り変わる最中。僕が昔からお世話になっている雀荘「iPop」で、メンバーをしている時だった。条件を聞き、100%の好奇心で引き受ける事にした。人の金で高レートを味わえる。怖いものなんて何も無かった時のお話。
水山さんからの電話
僕の勤務時間は十七時から、日が昇り、卓割れまで。大体帰るのは朝の通勤ラッシュの時間。仕事が終わり、カーテンを閉め切った空間から、外に出た時の眩しさ。太陽が苦手な吸血鬼の気持ちも理解できる。松屋で朝飯(?)を食べてから帰るのが日課。
今月は麻雀の調子が良い。月も後半だが純黒(ゲーム代込みで勝っている事)を保ち、その日も貯金を増やした。勝ちに酔いしれながら、いつものキムカル丼を食べていると、水山さんから電話が入る。
——もしもし。どんな感じですか?
非常に低いトーンだが、これはいつもの挨拶。
——そんな感じです。
と、返すと。
——わかりました。
ここまでで一セットだ。
久しぶりの水山さんからの電話。今何をしているのかを聞かれ、「iPop」でメンバーをやっていると答える。何やっているのかを聞くと、今は裏カジノでディーラーをやっていると言われる。
——お久しぶりですね、どうしました?
電話の主題を聞くと、冒頭の質問をされた。
——マンション麻雀で代打ちやってみない?
事情はこうだ。
そこのマンション麻雀は、いわゆるケツ持ちと呼ばれる極道の三次団体が運営している。今水山さんが働いている裏カジノの店長が、営業として人数が埋まらない時、そこに行かなければいけない。麻雀に関してはフリーも打った事ない素人なので、負けが込んでいるらしい。ただ席を一つ埋めればいいだけなので、誰が打ってもいい。そこで代打ちとして僕に声がかかった。
代打ちの条件は、負けたら全額持ってもらい、勝ちの20%が報酬。負けても交通費は二千円出る。依頼人で裏カジノ店長「川嶋さん」の負け額は百万円を超えそうな所。勝たなくても負けが少なくなればいい。藁にもすがる思いだったのだろう。
レートは三百円の3-6の東風戦。赤五が二枚ずつ、計六枚で面前祝儀千円。マンション麻雀の割にあまり高くないと思うかもしれないが、ここに3-6のビンタが加わる。25000点を基準として、もらいと払いの金額が決まる。上回っていた場合、自分より着順が上の人に三千円払い、下回っていた場合は六千円払う。逆もまた然り。三人が25000点を下回るマルエーのトップをとると、六千円オール、一万八千円入ってくる。これが意外とでかい。しかしこの時はやった事の無い、ビンタの重要性には気付いていなかった。
——行きます
返事は早かった。次の場は週末の日曜日、十九時開帳らしい。電話を受けてからは、その日に向けて自分を高めていた。
雀荘「iPop」
僕の事を少し話しておこう。
雀荘「iPop」に初めて来たのは十七歳の時。震えながらフリーに挑戦するも惨敗。当時通信制の高校生で暇を持て余していた僕は、その後すぐに「強くなりたい」の一心で働き始めた。大学に入ってからはうまく両立出来ず、大学を辞め、麻雀一本で働いてきた。一度辞めた事もあったが、この店と出会って五年経った今は、店長を勤めている。
水山さんとの出会いはもちろん雀荘。出会った当時で三十代後半だと言っていたが、いったい何歳なのかは知らない。ただ、麻雀はメチャクチャ強い。何年か前に数人で連んでいた時は、色々な痺れる麻雀を教えてもらった。これは話すと長くなるので割愛するが、それも解散。その後は低レートの雀荘で麻雀をしてからラーメンを食べに行く。そんな感じでたまに遊ぶ程度だった。
水山さんと会うのも二年ぶりくらいか。
待ち合わせ
あっさりと当日を迎えた。ちょっと早めの十八時に水山さんと待ち合わせ。場所は日本有数の繁華街だ。待ち合わせ場所の喫煙所で一服していると、スーツ姿の水山さんが現れた。知らない人だとしてもカジノの黒服だと分かるような、サラリーマンにはとても見えない風貌。
「お久しぶりです」
マンション麻雀は初めてではなかったから、その時はあまり緊張していなかった。相変わらず早足な水山さんに着いて行くこと十分。歩いている間、特に会話は無い。人混みを掻き分け、人が少なくなってきた場所にオートロックの高級マンションがあった。見上げると、一室だけベランダに監視カメラがあり、路上を向いていたので、その部屋が何階にあるのかはすぐに分かった。
水山さんが部屋番号を押すと、無言のまま応答中になる。
「水山です」
自動ドアが開いた。エレベーターに乗り、目的の階に着くと部屋の前に風体の悪い男が立っていた。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
マンション麻雀は初めてではないとはいえ、こんなゴリゴリの極道がいる場は経験が無い。玄関は普通の住居だったが、ドアを開けて部屋に入ると雰囲気が一変した。奥からでっかいテレビ。真ん中に黒のアルティマ。それを囲むように、L字のでかいソファがある。キッチンは対面式になっていて、本来であれば家族と顔を合わせながら料理が出来るであろう充実したスペースがあり、そこに強面のスキンヘッドが一人。壁には「任侠」と書いてある額縁が飾ってあって、まるで漫画みたいだ。少し離れたところにソファがまた一つ。雀荘で言えば待ち席みたいな所だろうか。一カートン分の吸い殻が入りそうな大きいガラスの灰皿が置いてある。
どうやらお店(?)の人間は三人。入り口で迎えてくれた男、キッチンで立っている男、そして仮眠所みたいな部屋から、眠そうな顔で出てきた男。
入り口で迎えてくれた男が、その三人の中で一番偉いらしい。
「ルール説明をさせて頂きます、松田です。よろしくお願いします」
松田さんがルール説明をしてくれた。
事前にある程度聞いてはいたが、聞いてなかったルールといえば、リーチ後オールマイティの※白ポッチが一枚、オープンリーチ有り、四回戦ごとの場変えだった。
初めてなのでしっかり聞いた。普段であれば雀荘のメンバーがするルール説明を、暖房が効いているのに長袖長ズボンの強面な男にされた事が面白かった。
ルール説明が終わったのが十八時半頃。まだ開帳まで三十分程あるが、水山さんは仕事があるからと言って立ち去った。
「頑張れよ」と、一言残して。
強面の男三人に囲まれたが、こちらの事情は分かっているので、みんな対応は優しかった。
「あいつすげー負けてんだ、取り返してやってよ」
スキンヘッドが試すような顔をして、僕にこう言う。水山さんは僕の事をどう紹介したのか気になってきた。
「精一杯頑張ります」作った笑顔で応える。
程なくして面子が集まり始めた。会話の中から聞こえた対局者の名前は、社長、江口さん、ぴょん。あだ名か本名かもわからない。何故なら自分も偽名だから。本名を名乗らない事は、水山さんに一つだけ約束してもらった。身分証や、本名の分かる物は全て家に置いてきたし、現金は一万円だけ入れておいた。iPhoneの指紋認証もオフにした。ここでは「桂木」として自己紹介をして、麻雀を打つ。
揃ったところで場決めをし、いざ開帳。
※白ポッチ
白の中で一枚、ガラスなどを埋め込んである特殊牌。リーチ後にツモるとオールマイティ扱いになる特殊ルール。
開帳
このマンションで、初めての対局。人の金で打つ麻雀はやはり緊張感が違う。フリーで打つ時もそうだが、師の教えで「負ける気でやる奴は負ける」という言葉があり、常に勝つ為に打つ事を心掛けていた。相手は三人もいるのだから、負ける気でやって勝てるはずがないという当たり前の理論だ。もちろん今日も負ける気は無い。
打ってみると、ここは先ヅモが有りだった。経験の無い先ヅモ有りは全然慣れない。下家からポンをすると、二人がツモ牌を戻す感じだ。でも、先ヅモをすれば鳴きが無いと思うと少しやりやすかった。
先ヅモに対応しつつ、まずは三人の特徴から探っていた。朝まで打つのだし、もしあるならば次回も同じ面子かもしれない。元々はみんなバカラのお客。その中でも麻雀好きな人を集めて卓は組まれていた。
社長はほとんど素人。フリーを打った事もないだろう。社長の容姿は「蛭子能収」に似ている。よく左のポケットからハンカチを出して汗を拭いている。
ぴょんはフリーの経験が有りそうだけど、あまり慣れていなさそう。四十代前半だろうか。茶髪に黒い髪の毛が伸びてきている。自分が言うのもアレだけど、この場にそぐわない気の弱そうな人だった。
江口さんだけは少し格が上だった。
東風戦も打ち慣れている。仕掛けの早さやアガった時の点数やチップの申告などを見ると、おそらく新宿あたりのピン東風などで暇を潰しているのだろう。
「みんな美味しいメンツだよ」
最初の電話で水山さんに言われていたが、みんなではないじゃないかと心の中で思っていた。やり辛いなと思いながらも観察していると、あっという間に二ラスを喰った。
ここの麻雀はチップ清算。僕は代走なので、始めに十万円分のチップが入ったカゴを渡されてスタート。お客さんの場合、十万円以上の換金からスタートする。百円単位は四捨五入なので、10$チップ、50$チップ、100$チップの三種類を使う。一時間もしないうちに、カゴのチップは半分以上減っていた。4432の着順で最初の一周は終わった。カゴには一万円残っている程度。この時点で雰囲気にのまれていたのかもしれない。
続いて二周目。場替えになり、東南西北を最終回のラスから順に引いていく。一周目は社長がバカヅキだった。
社長がリーチ宣言の時に、「はい、オープン!」と江口さんが煽ると、「え〜」と言いながら社長はオープンリーチに切り替える。オープンさせておいて一発でツモられたのが二回あった。
社長が座っていた南の席に座りたい。東南西北がどこにあるかを覚えて、目で追っていると、幸運にも南が残った。この瞬間すごく安心した。二周目の着順は2121。初トップも取り、おかわりをせずにプラマイゼロくらいまでは戻った。少し気持ちも落ち着いたが、そこから苦しい時間が始まった。
手作りハンバーグ
二周目が終わり、三周目の場決めをして席を移動する。社長はトイレに行った。あのおっさん、この短時間でもう三回目だぞ。
二十一時を少し過ぎた頃、カウンターキッチンの中からスキンヘッドの男が、部屋にいる全員が聞こえる声でこう言った。
「本日はハンバーグです、いかがでしょうか」
何回か前の半荘からすごく良い匂いがしていた。起きてから何も食べていない。腹はペコペコ。しかもあんな強面のスキンヘッドでガッシリした体。それでいて腹がポッコリ出ている人が作ったハンバーグは美味しいに決まっている。
「大盛りで下さい!」
ご飯休憩になった。iPhoneを確認すると、水山さんからLINEが入っていた。
——どんな感じですか?
自分でメモを付けていた着順と、今のチップの枚数を送信する。
——了解です
その場にいなくてもプレッシャーを与えてくる厳しい仕打ちは、久しぶりだけど慣れっこだ。しかしこのハンバーグ、すごく美味しい。料理人でもやっていたのだろうか。
「ニイちゃん、美味いか?」
カウンターキッチンの中からスキンヘッドが言う。
「めちゃくちゃ美味いです!」
すると怖い顔のスキンヘッドがにっこり笑った。あの人も同じ人間なんだと当たり前の事を思った。
「ごちそうさまでした」
一番に食べ終わり、待ち席のソファでコーヒーを飲みながら一服する。するとマンションのチャイムが鳴り、一人来客があった。
その人は水山さんが働くカジノの店長、川嶋さんだった。三十代前半と思っていたよりも若く、麻雀の場にはそぐわない清潔感のある洒落た格好、そして優しそうな顔立ちにびっくりした。
「桂木です」と名乗り、挨拶をする。この時点で一緒に打っていた三人は、僕が川嶋さんの代打ちである事を理解していた。とりあえず麻雀を打っていたが、誰の金かも分からず打っていた。本人を見ていきなり実感が沸いた。
「調子はどうですか?」
今までの着順とチップの枚数を伝えると、チラッと僕のカゴのチップを見てから「負けても構わないのでリラックスして打ってください」と笑顔で言った。
いくら本人に言われようと、恥ずかしい麻雀を打つ事は出来ないし、こちらも報酬がかかっているのだから勝てるだけ勝ちたい。でも後で振り返ると、ここで川嶋さんが来た事はマイナスに働く。優しそうには見えるが、さっきカゴのチップを見た時の鋭い眼光は裏社会のそれだった。
三周目が始まった。僕の席はさっき調子が良かった南ではなく、ちょうどL字のソファから後ろ見出来る西の場所になり、川嶋さんが僕の後ろに座った。一体どんな目をして見ているのだろうか。
苦しい時間
ここから僕の苦しい時間が続く。三、四周目とトップがとれず、3232・4224という着順。二着も原点を割れていると払いになるので、この八回で十万円は溶けておかわりをした。
押す局面も、川嶋さんが後ろで見ていると思うと押せない。みんな先ヅモをするので、ポン、チーの声が出ない事もあった。本来であれば絶対にかけるリーチをかけず、一発目に白ポッチをツモった時は背筋が凍った。
手牌を短くしたくない故に仕掛けは減り、これみよがしに仕掛けてくる江口さんについていけなくなっていた。放銃を避けるあまり、アガリは減り、ツモられてチップと点棒は減る。結果的に原点を割りビンタで負ける。
そんな悪循環にハマっていた時、川嶋さんが電話で席を立った。すぐに戻ってくると、水山さんが来ると告げられる。どうやらお店は暇らしく、少し様子を見に来るらしい。iPhoneを見ると、水山さんからLINEが三件入っていた。どれも麻雀の様子を伺う内容だったが、僕はそれどころではなかった。
痺れを切らして川嶋さんに電話をし、様子を見に来る事にしたのだろう。
——ヤバい、水山さんが来る
麻雀に関して今まで何度怒られたか。今の麻雀は水山さんに見せられる麻雀ではない。来るまでに少しでもチップを増やしておきたいと思ったが、それは更に裏目が出る事になった。代打ちをしている川嶋さんよりも、水山さんが来る方が怖かった。というより、この空間にいる誰よりも怖かった。
チャイムが鳴り、少し経ってから水山さんが入って来た。川嶋さんが電話を終えてから二半荘目。裏カジノの客は顔見知りなので挨拶をし、僕のカゴをチェックする。そして僕の手牌が見える位置のソファに座った。
黙っていても憤慨しているのが分かった。初めての場所、ルールや先ヅモなどの言い訳にならない。ここでは、結果が出ていないと言葉には何の意味も無い。そういう世界で生きてきた人だ。
ここから先は今まで以上に麻雀がひどかった。何を言われるか分からない。今までに何度もあったが、何度も心を折られてきた。
——相変わらず字牌の切り順が雑
——何でそこでリーチをかけた
——それをアガっちゃうからお前はダメなんだ
もしかしてこの人は敵なのだろうか。一枚切るたびにダメ出しをして、周りの人間などお構い無しに僕を責め立てる。ヤクザにかこまれ、客に煽られ、負けているところを依頼人が後ろで見てて、それでも必死に打ってきたメンタルが、ここで砕けた。ギリギリを保っていたところに、トドメを刺したのは水山さんだった。
二半荘終わり、場変えのタイミング、五周(二十回)打ったところで水山さんに交代を告げられた。最後は2344。負けは二十万を超えた。
「若者に厳しいなぁ〜」
江口さんが煽る。この時に初めて雰囲気に飲まれていた事を実感する。
反省
「力不足でした、すいません」
席を立ち、まずは川嶋さんに謝る。
「まだ終わってないよ」
にっこりそう言った。
場変えになったが、座る場所は僕と同じ席。さっきまで水山さんが座っていた、後ろから手牌が見える場所にぐったり腰掛けた。
「ボケッと座ってんじゃねーよ!!」
水山さんが麻雀をしながら僕に怒鳴る。ヤクザ顔負けである。
そこで僕もハッとした。川嶋さんの言う通りまだ終わってない。今日は出番がないかもしれないが、やれる事はやっておこう。まずはトイレに行って顔を洗った。それから麻雀卓から離れた待ち席に座り、今日の事を思い返してみる。何がいけなかったのか。おしぼりで顔は拭いた。飲み物も替えた。代走も頼んだし、椅子も回した。
——使っていたライターがいけないんだ
ふとそう思った。男ばかりいるこの空間にも息が詰まりそうだった。
「外に出てもいいですか?」
松田さんに声をかけた。
「どうした、帰るのか?」
この意気地無しがと続けたそうな顔をしている松田さんに、ポケットからライターを取り出してこう言った。
「このライター、流れ悪いので新しいライターを買って戻ってきます」
松田さんは一瞬ポカーンとしてからニヤリと笑い、帰ってくる時はまたチャイムを鳴らせと言った。
数時間ぶりに外に出る。二日くらい経っているような感覚だ。外は冷え込んでいた。深く深呼吸をしてからコンビニを探す。あえてコンビニの場所は聞かないで出た。少し離れた場所まで行こうと思った。駅の方に五分程歩いてコンビニに入り、ライターを探す。黒字にあやかり、真っ黒のライターを買った。あとレッドブル。
「これ、捨てて下さい」
今まで持っていたライターを店員さんに渡す。ただゴミ箱に入れるだけではダメだと思った。しっかり捨ててもらおう。
外に出てレッドブルを開け、新しく買ったライターで煙草に火をつける。だいぶ落ち着いた。改めてさっきまでの麻雀を振り返る。
例えば26000点の三着の場合。
ラスからは六千円入り、一・二着へは三千円ずつ払う。ということは原点さえ保てば三着でもビンタはチャラ。ウマの分、三千円の払いになるが、チップみたいなものだ。原点さえ守っていれば三着でもいい。
これが24900点の三着の場合。
ラスからは三千円しか入らず、一・二着へは六千円ずつ、計一万二千円払う。その差は九千円。
卓上で気付いた時には手遅れの状態だったけど、やはりこの麻雀は、順位よりもチップよりもビンタが大事だ。そこに焦点を合わせると、すぐにいくつか反省点が思い付いた。
着順を上げるためのリーチ、原点割れている人のケア、赤を四枚持っているからリーチに対して押すという基準。全部間違っていた。ここの麻雀は25000点を切らないようにするゲーム。まずは25000点を超え、それからは周りの首を切りにいく。闘う相手は原点だ。
さて、反省はこれまで。レッドブルを飲み干し、タバコの火を消して歩き出す。来た道を戻り、マンションのエントランスで、さっきまでいた部屋のチャイムを鳴らす。
「桂木です」
無言のまま、自動ドアが開いた。
水山さんの麻雀
戻ると川嶋さんはいなくなっていた。裏カジノに戻ったらしい。
「逃げちゃったのかと思ったよ」
江口さんに煽られるがシカトする。
「もう大丈夫です」
水山さんの横に行き、それだけ告げた。水山さんは何も喋らなかった。
麻雀は次に場変えのタイミングだった。カゴのチップを見ると、減ってはいないが増えてもいない様だった。さっきまで自分が座っていた席。僕がそのまま打っていたら、もう一回おかわりしていてもおかしくない。
松田さんにコーヒーを貰い、ソファに腰掛ける。じっくり麻雀を観察する事にした。
水山さんは見るからに原点を意識した打牌をしていた。僕が思うよりももっと深く考えているのだろう。
場変え前の最後は、原点を保った二着で終わった。
場変えになり、僕が座っていた場所から見える席には、江口さんとぴょんが座った。
良い席順だと思った。そのまま二人の麻雀を観察する。
「師匠の麻雀見なくてもいいのか?」
江口さんはちょこちょこ絡んでくる。
「もう見飽きましたから」
そもそも僕の師匠は水山さんじゃない。
七周目。みんな疲れが見え始める。二十四回というと、慣れていても結構疲れる。時間は深夜二時。打ちたがりなので、基本的に仕事中の本走は三十回を超える。そんな僕はまだまだ打てる。
江口さんのカゴを覗くと、明らかに浮いていた。パッと見て三十万円分くらいのチップが入っている。後ろで見ていて思ったが、想像以上に打ち慣れている。口の悪さと強打からは結びつかないような繊細な麻雀。結果的に勝ち越すのは納得出来た。そしてぴょんは想像以上にヘタクソだった。
ここから水山さんが噴きあがった。
まずは八万点のマルエートップを取り、流れに乗ると、それから二着を二回取った。両方とも首は切れていない。
「バカラも麻雀もポンコツかよ」
ポンコツとは、イカサマ等の不正行為の事。つまりイカサマでもやってるんじゃねーか?と言いたくなるくらい強いという事だ。勝ちを減らしてきた江口さんが吠える。
そして場変え前の最終戦、水山さんは47000点トップ目の親で東ラスを迎える。二着は30500点持ちの江口さん。八巡目、綺麗で高い打牌の音が響き、水山さんがリーチをかける。江口さんに満貫直でトップの条件が出来たが、ヘタに突っ張ると原点を割る可能性がある。しかしかなり形のいいイーシャンテン。赤も三枚持っている。どうするのか見ていると、一発目で無筋をツモ切り。ヤル気まんまんだ。
するとリーチ宣言の時より高い音が。水山さんの一発ツモ。6000オールで江口さんの首を切り、マルエーのトップをとった。疲れが出始めているのか、江口さんの口からそれまでの汚い言葉は出なかった。
七周目が終わり、場変えになる。水山さんが二周でほとんどの負け分を取り返してくれた。おかわりした十万円をアウト(チップを現金に換える事)し、ディーラーの手つきでチップを数える。一万円負けまで戻していた。
場変えの風牌をラスから引いていく。水山さんはトップだったので、引くのは最後。西に座っていた。三人が引いて、南、東、北と順番に席が決まった。流れの良かった席にそのまま座る事になった。
「もうお前でも大丈夫だから座れ」
最後に残った西はめくらないまま僕に言った。水山さんから挽回のチャンスをもらえた事が嬉しかった。この時はもう負ける気はしてなかった。
念のため、残っていた西を勢いよく引きヅモしておいた。
爪痕
八周目、時間は午前四時過ぎ。
「よろしくお願いします」
みんな無視。ルーレットで起家スタートになった。水山さんは僕の後ろに丸椅子を持ってきて座る。もうさっきまでの俺じゃない。
配牌を開けてみると、軽い。赤三、タンピン形のリャンシャンテン。この時思っていたのは、何故か水山さんすげーって事。
五順目で頭の無いテンパイ。萬子が23456678の形。赤五萬を一枚も持っていないので、六萬を切って二—五—八萬の延べタンでリーチ。もう何を言われるかとビクビクしながら打つのは止めた。
力を込めた一発目、ツモ牌は八萬。裏も乗り、8000オール五枚からスタートした。水山さんを気にせず打っていると、気持ちもツモも軽くなった。カゴのチップの枚数を気にするのもやめた。
続く一本番で、6000オールをツモり、六万点のマルエーで終了。
「人のお金なんだから本気出さないでよ〜」
社長がぼやく。
「人のお金だから本気なんです」
と、真面目に返してしまった。そんなやりとりをしながら、八周目は水山さんからもらった流れで圧勝した。着順は1221、二着は全部首はついていたので、プラス街道へ走っていた。
朝五時頃、江口さんの電話が鳴る。どうやら仕事の連絡。行かなくてはいけないらしい。
ということで、九周目が最後になった。場替えをすると、ズブズブだった社長の席に座る事になる。嫌な予感もしたが、最後の一周。チップの枚数は把握してないけど、よほどの事がない限りはプラスで終われると思っていた。
始まってみると、案の定さっきのような良い流れはなかった。僕が座っていた席には江口さんが座り、その席を使いこなし、お座り二連勝。この時間でもしっかり打っているのがよく分かる。二勝目は字牌の絞り方や、リーチのタイミングなど、すれすれの糸の穴を抜けた見事なトップだった。やっぱりこの人は強い。
三回目は社長が久しぶりにトップをとった。僕はと言えば、三着四着三着と悪い流れ。情けないけど、早く終わって欲しいと思っていた。
遂に迎えた最後の半荘。北家スタート。気付けば水山さんはいなくなっていた。東発に満貫をツモり、後はこの首を守り切るだけ。
江口さんがそこに立ちはだかる。三局の親番で6000オールをツモり、次局に2000は2500オールをツモり、ダントツのトップ目に。僕の首も切れた。社長とぴょんの横移動で東ラスを迎えた。
僕は24000点持ち二着。江口さんが48500点のトップ。配牌で赤々ドラドラ。跳満ツモでトップまで行くが、聴牌料で原点を超えて二着終了出来る。
ツモは一向に進まず、じりじりしたまま十巡目、社長からリーチが入る。
「オープン!」
僕が煽ると、オープンリーチになった。一枚切れ、僕が対子のペン七ソウ。リーチ棒が出たので、6000オールでトップ。
「最後だからね〜」
とニヤニヤしている顔が気持ち悪い。
その二巡後、僕の手が追いつく。タンピン赤々ドラドラまで仕上がった。当初の予定通り、このままダマでやり過ごせば聴牌料で原点を超え、二着やめで終われる。待ちは得意の四—七萬。社長の捨て牌に、一枚ずつ眩しく光っている。ただ、ここでダマにしたくはなかった。
この局の収支で言えば、ダマの一手だが、これは最終戦。ここでもし勝ったとしても、次また同じメンツで闘うことになったら、確実にナメられるだろう。
何か爪痕を残したかった。
「リーチ」
静かに牌を曲げる。ここで負けるようなら次は無い。自分の力量を試したかった。二巡後、力を込めてツモった牌は白ポッチだった。今日一日の緊張や悔しさをすべて取っ払ってくれた。8000オールのトップで終了。リーチをかけていなければ取れなかった、僥倖のトップだった。
——それをアガっちゃうからお前はダメなんだ
さっき言われた水山さんの言葉が頭によぎったけど、僕はこれをアガって勝ってきたんだ。
早足
最終戦が終わり、江口さんと社長はそそくさと換金をして帰った。
自分のカゴを確認すると、四万四千円の勝ちだ。
松田さんが水山さんに終わった事と収支の連絡を入れると、今こちらに向かっているらしい。ソファに腰掛け、水山さんを待つ。時間はもうすぐ朝の七時。
慣れないルールと場所で集中して打っていたので、すごく疲れた。疲労感と達成感を、全部ソファが包み込んでくれた。今もうここで眠ってしまいたい。そう思っているとチャイムが鳴る。
「お疲れ様」
水山さんが来た。
川嶋さんは来なかったけど、結果を聞いてえらく喜んでいたと聞いた。今まで何人かに代打ちを頼んだけど、勝った人はいなかったらしい。もちろん自分で打って勝った事も無い。チップを換金し、報酬として20%の八千八百円受け取った。
このお金は僕がもらってもいいんだろうか。水山さんに聞いてみると、当たり前だと言われた。ラーメンご馳走させて下さいとお願いすると、快諾してくれた。
「兄ちゃんまたな」
松田さんが旧友のように、僕に声をかけた。でも今日出会った人間は、誰も信用していない。
「もしまたの機会があればお願いします」
この手の人間との約束は危険なので、模範解答で応える。
玄関の前で松田さんが深く頭を下げ、
「ありがとうございました」
と大きな声で言った。やっぱりこの人怖い。
外は寒かったけど、朝日は眩しかった。太陽が苦手な吸血鬼の気持ちも理解できる。
僕の好きなラーメン屋に入り、大盛りとチャーハンを注文。説教会が始まりそうな雰囲気だったけど、やっぱり麻雀の話は出なかった。
——お前には俺が教えても無駄だ
このセリフは過去に何度も言われてきた。僕の師は水山さんではないので、余計な口出しはしないという事だ。なので今回も麻雀のアドバイスは無し。ラーメンを食いながら、今日打っていたメンツについて話をしてくれた。何の仕事をしていて、カジノではこういう賭け方をして、麻雀はこう打つ。なぜ先に教えてくれないのか。
「よかったな」
ラーメン屋を出てから、一言だけ僕に言った。麻雀を打っている時の罵声も、一度頭を冷やさせるためだったのだろう。前に水山さんと連んでいた時から三年経つ。その間に麻雀も強くなったつもりだった。でも今日の僕は水山さんの手のひらで踊らされていただけだった。
「また呼ばれると思うからしっかり調整しとけよ」
そう言って早足で繁華街へ消えて行った。
初めて行った今回のマンション麻雀は勝つ事が出来た。勝たされたと言ってもいい。でも、まだまだ強くなれると思うと楽しくなってきた。壁を乗り越えると、また新しい壁が見える。はたまたその壁は、はるか昔に乗り越えた壁だったりする。ほんとに麻雀は面白い。
さて、寝て起きたらまた麻雀だ。白ポッチの余韻に浸りながら、「桂木」という名前を一度そこの街に置き、少し早足で電車に乗った。
第二章 手応え
外は寒い。年末に差し掛かる冬。僕はもうすぐ誕生日。二十三歳になる。
「チャーハンちょーだい!」
今勤務している「iPop」でチャーハンが注文された時は、僕の仕事。ラーメン屋で働いていた経験を活かし、炊いたお米にチャーハンの素を入れて炒める。出来上がったらお茶碗で丸い形を作り、インスタントのスープにレンゲを添えればそれっぽくなる。
あまり出るメニューではないけど、評判はいい。美味しいなんて言われると嬉しいけど、美味しいと言えば、この前食べた手作りハンバーグの味が忘れられなかった。
つい三日前のマンション麻雀の経験は、普段の仕事にも活きていた。東風戦の面前祝儀と、マンション麻雀にルールが似ている事もあり、仮想マンション麻雀として日々の本走に打ち込んでいた。
特に意識していたのはやはり原点。押し引きの基準を原点に集中していた。それを意識していると普段よりも成績が良くなり、三十六半荘ラス無しの記録も出来た。
二回目
僕は本走時の着順を全部着けていた。もちろんマンション麻雀でも。仕事が終わってからゲームシートを確認。日々、その月の給料、トップ率やラス率、平均着順を計算し、ノートに書き込む。それをモチベーションにしていた。普段の生活は店と家の往復。帰ってからは死んだように眠り、日が沈み始める頃に起きて店に向かう。負けた次の日は少し早めに店に行き、掃除をしていた。掃除をしっかりしないと、負けると思っている。どこの世界でも、仕事が出来る人間が金を稼ぐ。雀荘の仕事は、麻雀と接客と掃除。ならば掃除もしっかりしないと結果が出る訳がない。
その日は、早く出勤する日だった。昨日は我ながら酷い麻雀を打ったので、開店より一時間早く店に入り、反省の掃除機をかける。サイドテーブルや椅子をどけ、隅から隅まで掃除機をかける。お店の掃除機は、ティッシュがフィルター代わりに入っていて、毎回交換する仕様だった。ティッシュを交換する時に、てんこ盛りのゴミやホコリを見ると、負けた後の良い気分転換になる。
掃除機をかけ終わり、開店まであと二十分。朝ごはんで買ってきたパンを食べながらのんびり一服していると、水山さんから電話が入った。
——どんな感じですか?
——そんな感じです
この時点で次のお誘いだと思った。
——今週の日曜日行ける?
働いているお店が、日曜日はお休みなのでちょうどいい。
——行けます
——前と同じ十九時スタートだからよろしく
——もう二回目なんだから、直接一人で現地に行けよ
今日は水曜日。週六で働いている僕にとっては、まだ今週の仕事も折り返し地点。先月の本走は七百回を超えた。ここまで麻雀を打っていて、一日しか無い休みにまた麻雀の予定が入るのに喜んでる自分がいた。
電話を切ってからレジ金の確認をして開店の準備は完了。あとはお客さんを待つのみ。最初のお客さんは誰だろう。暇なので歯ブラシで牌を磨きながら、遠足前の子供みたいに麻雀が打ちたくてしょうがなくなっていた。週末までの麻雀は退屈しなさそうだ。
次のメンツはどんな人達なのだろう、江口さんとは当たりたくないな。次のご飯はなんだろう、ハンバーグ美味しかったな。何色のライターを持っていこうかな。そんな事を考えながら当日を迎えた。
余裕
余裕を持って、一時間前にはマンションの最寄り駅に到着。今日は水山さんがいないので、のんびり歩きながら向かった。開帳の四十分前、マンションに到着。入り組んだ場所にあるので、少し迷った。部屋番号を押し、呼出を押すと、無言で応答中に。
「桂木です」
自動ドアが開く。目的の階に着くと、松田さんがエレベーターの前で待っていた。見た感じは安くはなさそうなマンションだが、他の住人はどう思っているんだろうか。早いねーなんて言われながら中に入る。一番乗りだった。卓を見ると、サイドテーブルにおしぼりが置いてあり、牌はぐちゃぐちゃ。洗牌の途中だったみたいだ。
「洗牌してもいいですか?」
開帳の前にやれる事はやっておきたい。
いいよ、いいよと言われたけど、やらせて下さいとお願いする。約十二時間ぶりの洗牌だ。どこまで終わっているのかも分からないので、両面やった。洗牌は好きだし、得意な僕。
「はえーな!教えてくれよ!」
松田さんが後ろからえらく感心していた。
その会話の中で、雀荘で働いていたのかと聞かれたが、否定した。フリーターでぷらぷらしていますと濁しておいた。働いていると答えれば、場所がどこなのか聞かれるだろう。少しでも自分の素性は話したくない。
洗牌が終わり、牌を揃えて点棒を磨き、ふっかふかのソファでくつろいでいると、いい匂いがしてきた。今日はカレーのようだ。
「兄ちゃん味見してくれよ!」
スキンヘッドが対面キッチンから言う。小さな丸皿に少しだけ挽肉が入ったカレーを味見する。美味しい。ヤクザが運営しているマンション麻雀に、少しだけ垣間見えるアットホームな雰囲気はなんだか不思議で面白い。美味しいカレーを楽しめるよう、ご飯の時間には勝ち越しておきたいと思った。
煙草に火を点け、部屋を見渡していると、ホワイトボードが目に入った。月曜日から日曜日まで、一週間分のスケジュールだ。マグネットに名前のテプラが張ってあるものが並んでいる。この前は誰の名前も分からなかったので、あまり気に留めなかった。ホワイトボードをぼんやり眺める。知らない名前ばかりだが、ふと江口さんの名前を見つけた。日付を見ると今日の欄だ。そこには、桂木・佐藤・有川と並ぶ。桂木のマグネットを見て、この場の頭数に入っている事に、なんだかやらかした気分になった。仕事が早いヤクザだ。
「来週の木曜日とか来れないか?」
そんな僕の考えを見透かすように、松田さんに聞かれた。平日は仕事があるので無理だと断る。木曜日は二人空白になっていた。週に二回も来たくない。それ以上は絶対に断ると決めていた。
そんなこんなで開帳を待っていると、チャイムが鳴り、次に来たのは江口さんだった。ジャージにスウェットとラフな格好。入って来て早々に僕を煽る。
「おお、この前のお兄ちゃんじゃん。今日は師匠が見当たらないけど大丈夫か?」
「大丈夫です、どーせ人の金ですから」
だから僕の師匠は水山さんじゃない。噂をすれば。水山さんからLINEが入る。
——今日の面子がわかったら教えて下さい
——江口さん、佐藤さん、有川さんです
——了解です
それからすぐに、佐藤さんと有川さんが来た。二人とも初対面だった。
さてさて。
順調な出だし
今日気を付けるのは二点。「原点」と「席」
始めに座ったのは、南の席。出だしは好調だった。1311と四回を終え、七〜八万円くらい貯金を作った。
最初から軽い手ばかり入ったのが良かった。二回戦目には白ポッチもツモり、しっかりと配牌とツモをモノに出来た。場変えの時は、誰かが東南西北の牌を集め、ラスから引いていく。今日は毎回集める係をやろうと思っていた。まずは牌を集め、四つの牌が何処にあるか把握する。自分が一番最初に引かなければ運任せになるけど、これには少しコツがあった。みんな一番近くにある牌は自然と掴まない。一人引くたびに混ぜるフリをして、僕が座りたい南の牌をその人の近くに持っていく。二分の一の抽選も引き当てて、二回目もまんまと南の席に座れた。
同じ席には座れたものの、二週目は4224。二着は二回とも原点以上持っていたので、怪我は大きくはないけど少し勝ち分を減らした。この二回のラスは両方、江口さんとのリーチ合戦に負けたものだった。
今日初めて会った、佐藤さんと有川さんは静かな人だった。江口さんも煽る訳でもなく静かにやっている。このメンツ、前回と違って先ヅモが無いので非常にやりやすかった。三回目も東南西北を集め、ラスだったので真っ先に南を引いた。感触は悪くない。今日はこの席に根っ子を生やそうと思っていた。でも、ここでご飯タイム。
「本日はカレーです、いかがでしょうか」
勝っているし、楽しみにしていたカレーの時間だ。
「大盛りで下さい!!」
わかっていると、スキンヘッドが静かに頷く。味見の時よりも煮込んであって美味しい。具は茄子と牛挽肉。箸休めのらっきょうも絶品だ。
みんなで卓を止めて、カレーを食べているとチャイムが鳴り、来客があった。ぴょんだ。知っている顔でなんとなく安心しながら会釈をした。ぴょんはソファに座ってくつろいでいる。とりあえず麻雀は打たないらしい。食べ終わり、ご馳走様でしたとお皿を返しに行く。
「足りたか?」
「あと二杯食べられます!」
「よし、米炊いたる」
お世辞でもなんでもなく、もう一杯食べれるのが嬉しかった。
そして始まる三週目。ここで玄関の開く音。チャイムの音はしなかった。
若頭
ドアを開けて入ってきたのは、坊主で細い銀縁のメガネに金のネックレス。ガタイはこの中のヤクザでも一番良いし、でかい。
「お疲れ様です!!」
ヤクザ達が声を揃えて挨拶する。ここを開いているのは、某暴力団の三次団体。その若頭がやってきた。室内の雰囲気が一瞬でひりつく。あの江口さんも真面目に挨拶をしていた。
「おはようございます、いらっしゃいませ」
若頭は二瓶さんと言うらしい。ドスの効いた声で挨拶をする。やはりというか、ここらへんは律儀だ。
「兄ちゃんが川嶋の代打か、ちょっと稼いでやってくれよ」
なるべく優しい声、顔で言ってくれているのだろうが、怖い。愛想笑いでやり過ごす。ヤクザ三人が緊張しているのが顔を見なくても分かる。
挨拶をしてから二瓶さんはホワイトボードの前に立った。一番上の日曜日から順にメンツを確認していく。そして二人空白の木曜日まで目線が落ちたところで、松田さんが呼ばれた。威勢のいい返事をして、小走りで二瓶さんの元へ。隣に行った瞬間に、二瓶さんが松田さんを思いっきり蹴り飛ばした。松田さんも小柄な訳ではなく、この中では二番目に体が大きいけど、軽々吹っ飛んで壁に叩きつけられて大きい音がした。よく穴が空かないなとそちらが気になった。この時、ひらりとはだけたシャツの下には、冬なのに桜が舞っていた。
僕の席からはそれが全て見えた。麻雀どころじゃないなと思ったけど、そうも言ってられない。ふとソファのぴょんを見ると、顔が青ざめていた。
「木曜日はどうなってんだ?」
「今、三人に声をかけて返事待ちです」
松田さんがこう返すと、もう一度蹴り飛ばす。この時に二瓶さんと目が合った。
「兄ちゃん木曜日は忙しいのか?」
蛇に睨まれた蛙のように、小手返しをしていた手が止まる。
「すいません、仕事があります」
すると残念そうな顔をして、そうかぁと呟き、もう一度松田さんを蹴った。そしてカレーを食べ始める。ここで食事が出るのは、二瓶さんのこだわりなのではないかと、ふと思ったけど、根拠は無い。この人いつまでいるんだろう。
麻雀は三周目、成績は3231。このトップはマルエーだったので、少し浮いたがまだトータルで十万円には届かない程度。この辺りから佐藤さんと有川さんもよく喋るようになった。この光景を見ても平然としているのは麻雀に夢中だからか。
有川さんは平静を装ってはいるが、熱くなっているのがわかった。リーチの空振りが目立ち、仕掛けは少ない。面前派なのだろうか、他家が鳴くと少し嫌そうな顔をする。東風戦は打ち慣れていなさそうだった。今日は有川さんに仕上がってもらおう。そう思った三周目だった。
レートアップ
四周目に入る場変え、流石に南の席には座れなかった。そこには江口さんが。気に食わない反面、江口さんならそこの席を冷やすような打ち方はしないだろうと思い、少し安心(?)した。場変えから少し経つと、二瓶さんはぴょんと一緒に出て行った。待ち合わせだったのだろうか。ここの連中は裏カジノの客に廻銭を回したりもすると、水山さんに聞いたな。深くは考えないでおこう。
新しく座った席での成績は1244。また少し貯金を崩す。四回目にラスを食ったという事は、次に座る席は僕が選べる。迷わず南を引く。
四周目、有川さんが原点を保って終わった事は無かった。東発に、親の江口さんの地獄単騎の赤三ドラドラ裏裏の七対子に一発で振り込み、地獄に落ちた。見ている限りチップのおかわりを二回しているので、約三十万程負けているのだろうか。
「レートアップしませんか?」
このタイミングで有川さんが提案した。
江口さんは即答でオッケー。佐藤さんもオッケーらしく、僕にどうする?と聞いてきた。ここは四人の同意があれば、レートはいくらでも上がる。
「いいですよ、人の金だし」
経験上、レートアップを言い出した人間が勝っている所は見た事が無い。願ったり叶ったりだ。いくらにするかの話し合いには参加しなかった。僕はいくらでもいい。
「五百円くらいにする?」
江口さんが余裕の発言。リスクの無い僕は高ければ高いほど嬉しい。でも有川さんはこれに応じる事が出来ず。結果、レートは二百円のまま、ウマとビンタが五千円、一万円に上がった。マルエーを取れば約五万円ぐらいのトップになる。
レートが上がり有川さんも何か吹っ切れたのか、仕掛けは多くなり、降りる事が少なくなった。積極的な追っかけオープンなど、全く打ち方が変わったが、うまく噛み合い吹き上がった。なんと四回中三回トップ。非常に面倒くさいなこの人。これは言葉を交わさなくても、江口さんも同じ事を考えていたと思う。僕の成績はといえば、2423。今日は最初に作った勝ち分を守り抜く戦い。この時点で勝ち分は五万に満たない程。ラスを食えば、一度で吹き飛ぶ。
五周目が終わった。仕上がりかかっていた有川さんがレートアップで少し戻し始めた。
場変え。三着ならまた同じ席に座れると思ったが、最後にラスだった佐藤さんが最初に南を引いた。四分の一だけど、まさかここで南を引かれるとは思ってなかった。深夜二時過ぎ、集中力も切れてきた。
ここで、ぴょんが一人で帰ってきた。
休憩
僕には救世主に見えた。
「ちょうど始まり、打ちますか?」
まるで仕事中、本走続きで飯が食えず、腹が減っている時のように急いで案内する。ここで一息入れたかった。場変えは終わっているものの、ぴょんはそこに入った。さっきよりも顔は凛としていた。この短時間、カジノで勝ったのだろうか。先ほど少し見えた、詰まってる感は無くなっているように見受けられた。さっき二瓶さんが座っていたソファの位置に陣取り、ひとまず休憩。テレビも麻雀も見える良い位置。
今日は日本シリーズの最終戦があり、楽天が初優勝。深夜になってもその特集番組が続いていた。
「カレー食うか?」
そう言われるまですっかり忘れていた。
カレーを食べながら、繰り返されるマー君の勇姿。興味も無いのに詳しくなってしまいそう。
そういえば今日は水山さんからの連絡があれから無い。一応抜け番になった事、着順、収支を送っておいた。すると一分と経たずに、分かりましたと返信が来た。今日は水山さん抜きで勝ちたい。変に良い流れが揺れるのも嫌だから、来ないで欲しいと思っていた。川嶋さんもだ。
ラストの集金をし、ゲームシートを書き終えた松田さんが、スナック菓子と缶コーヒーを持って僕の隣に座った。いるか?と言われ、片手で一掴みもらった。
ここからは小さい声で僕に言う。
「二瓶さん怖かったか?」
「ええ、でも麻雀中なら水山さんの方が怖いです。」
大したもんだと笑った。先ほどの出来事のフォローのつもりか。実際は超怖い。
座っている場所は江口さんの手牌が見える位置だった。
「勉強させて下さい」
一応断ってから麻雀を見ていた。
「こっちが勉強してーよ!」
なんて言いながらも見やすく打ってくれているのが分かった。この人も悪い人じゃない。ただ、強いから麻雀はあまり打ちたくない。
隣の松田さんも一緒になって見ていた。ところどころ小声で、なんであれ切るんだ?なんて聞かれたりして、自分の思いつく限りで答えておいた。
「色々考えてんだなー」
この人達、麻雀は全然やった事が無いらしい。普段はフリーで打っていると言うと驚かれ、知らない人と打つって怖くないのかと聞かれた。本人は真顔だけど、こんな面白い冗談があるだろうか。
そんな感じだから、代走も頼みづらくこの休憩はとても嬉しかった。ここで佐藤さんに電話が入り、ラスト一周で帰る事になった。ちょうど二周分休憩も出来たし、万全の体制。この佐藤さん、今まで黙々と打っていたのに、終盤は口が軽かった。喋っていたのは自分の話。歯医者をやっていて、知り合いの医者がいるから紹介しますなどとペラペラ喋っていた。
聞いていてヒヤヒヤしたのは僕だけか。こういう場で自分の情報を話すのは利口とは言えない。今はニコニコしているが、手のひらを返せば何でもアリの連中だ。こういう警戒心の無い客がいるから裏カジノ、マンション麻雀が潤うのだろう。特に口出しする筋合いは無いけど、この人とは仲良くなりたくないと思った。
そして佐藤さんが打つ最後の一周は、ぴょんが吹き上がって終わった。凛とした顔をしていただけはある。ヘタクソな引きヅモで8000オールをツモっていたけど、この人には憎めない何かがある。
ラスト一周
満を持して出番が来た。時間は四時を過ぎた。
「ラスト二周でどう?」
江口さんが言う。
始発も出てちょうどいい時間。すぐに同意し、ぴょんを見るといいですよと言った。
案の定、有川さんは不服そうな顔をしていたけど、三人が帰ると言えば仕方がない。
レートアップ後に吹き上がった貯金はとっくに崩し、さっき打っていた時よりも仕上がっていた。見ていておかわりをまた二回していたので、五十万は財布から出ている。カゴは空に近い。
終わりが決まった所で場変え、運良く南の席に座れた。僕の浮き分は五万円程度。レートはアップしたままだけど、負ける気はしない。
最初の一周は3122。勝ちは十万に増えた。
ここで有川さんがギブアップ。財布には五十万しか入っていなかったようだ。悔しそうにしながらも、ここで借りを作らない所は偉い。ラスト一周、有川さんのパンクで終了かと思いきや、松田さんが入る事になった。それまで話をしている感じや、代走での素振りを見ていた感じでは、とてもこのレートで麻雀を打つ腕は無い。
座る前に、スキンヘッドが松田さんの背中を思いっ切り叩き、とても高い音がした。
——これが大事なんだよ
笑いながら松田さんが言った。こいつは厄介だ。こういう考え方の人間は、腕に関係無く強い。この時点で今日は守りに入っていた。今ある勝ち分は一周で簡単に吹き飛ぶ。僕も背中を叩いて欲しかった。松田さんは自分の金で打っているのか、本走用の廻銭があるのか。どうでもいいけど把握しておきたかった。
最後の一周。結果は勝ち越した。着順は2222。守りに入ったのが功を奏したか、もう少し攻めても良かったのか。首が切れたのは一回だけ。少し気を使っていた松田さんは二万円程勝ち越していた。慣れない手つきで点数計算も一切出来ないのによく勝った。この人を負けさせるのは、立場上など、色々と怖いので安心した。
今日の勝ち分は十六万八千円。報酬は三万二千円。川嶋さんの駒を増やし、しっかり報酬をもらう。仕事をした達成感があった。今回は水山さんは来ずに、終始一人で勝てたのも嬉しかった。
終わると江口さんは足早で帰り、ぴょんはまたソファに腰掛けていた。またカウンターでチップを換金し、報酬をもらう。今回は川嶋さんへの連絡はしていなかったけど、事前に取り決めがあったのだろう。
「この調子で負けをチャラにしてやってよ」
「今日はたまたまです」
勝って気分がいいのか、今までで一番陽気な声と顔だった。何を隠そう、僕も気分は良かった。
良い気分
外は眩しいけど、心地良かった。結果の報告をしたくて水山さんに電話したけど、出ない。まだ仕事中なのだろう。今日は一人でラーメンだ。カレーを食べた事なんてすっかり忘れていた。
ラーメン屋に入り、今日の反省。あの場のルール、雰囲気には大分慣れた。原点という基準が明確だから、変な放銃がなければ、熱くなる事もなかった。自分の金ではない事も要因かもしれない。守り過ぎかとも思ったけど、それくらいが丁度いいのだろう。結果も出た。初めての二人はいいお客さんだった。裏カジノとマンション麻雀できちんと囲っている。ぴょんに至っては飼い慣らされている。
代打ちならば金が減る心配は無い。今日の雰囲気ならレートはすぐに上がる。いい小遣い稼ぎの場を見つけたと思いながら、通勤で混み合う電車の逆に乗る。水山さんから、千点千円の場も立つと聞いていた。今は実績を残し、千円やそれ以上の場に代打ちで座れるようにするのが目標だった。これだけ神経をすり減らして三万円程度じゃ割に合わない。次はいつだろう。僕の都合次第でいつでも歓迎されそうだ。前回もそうだったけど、マンションを出た瞬間に疲れがどっと押し寄せて来る。
だけど、僕がそこに行くのは次で最後になる。
第三章 週末の終幕
「倍返しだ!!」
リーチに振り込んだお客さんが、当時大流行していたドラマのセリフを叫ぶ。いつもと変わらない日常の中、ひたすら麻雀を打つ生活が続いている。この雀荘で働きながら、また年末を迎えた。クリスマスになると、サンタのネクタイを締めてくるお客さんがいて、それを見るのも今年で四回目だ。
「iPop」のオーナーは麻雀が強い。
この店では、アウトの管理は全員が一冊のノートに記入していく。何年もノートを見ているが、年間の成績が負けていた事は無く、月間でも赤い文字は稀にしか見ない。
僕の麻雀には、この店の血が100%流れている。牌効率など、数学的な勉強はしたことがない。ここで教わったのは仕事として麻雀をし、記録を着ける事。そのおかげで、マンション麻雀にお呼ばれするくらいの腕はついていた。
目標が無いと日常にメリハリが無くなる。数字を徹底的に追いかけ、暇さえあれば麻雀の後ろ見。週に一回の休みにも繁華街へ出向いて雀荘で牌を触り調整する。そのすべての行動は、マンション麻雀へ照準を合わせていた。
千円の麻雀
水山さんからお誘いの電話はあれから鳴っていない。これまで二回マンション麻雀に行って、川嶋さんの代打ちで約二十万円の貯金を作った。次回は更に余裕を持って打てるだろう。最後にそこに行ってから三週間経った。
一週間前にあった水山さんからの電話は、お誘いではなくマンション麻雀の近況報告。1000点千円の場が最近よく立つらしく、この前は水山さんが代打ちし、三十万円程勝ったとの事。勤務時間中の代打ちだったので、報酬はいらないと断ったというところは水山さんらしい。
だが、川嶋さんは僕に打たせてもいいと思っているらしい。麻雀は素人だが、博打に関してはベテラン中のベテランに信頼されるのは嬉しかった。負け分は全額負担してもらい、勝ち分の二割が報酬という約束。レートが上がれば報酬の額も上がる。負けても自分は負担しないので、レートは高ければ高い方が良かった。
たった二回で勝ち取った信頼。水山さんの推薦というのも大きかったとは思うが、それは自信に変わり、結果に繋がっていた。あとはいざその時が来るまでこの良い状態を維持する事。1000点千円の麻雀は一晩で数十万以上動く。東風、赤三チップ五千円の麻雀なら三回程打った経験があるが、全て三人で組んでお客さんをハメる殺しセットだった。
マルエーのルールを取り入れれば、二着でも浮く事は少ない。通しも使うし、女を用意して色仕掛けも使う。後は程よく熱くさせるトークがあればまず負ける事は無い。そんな事をしていたのも三年前。舞台は色々あったが、麻雀の中で生活していた時期だった。
その時を思い出しながら、夢の中でも麻雀を打っていた。
鉢合わせ
次のレートはいくらだろう。あの場所で打ちたい気持ちが先走りそうになるが、自分からは連絡せずに水山さんからの連絡を待った。
とある休みの日。生活のサイクルが真逆のため、終電近くに家を出て繁華街まで麻雀を打ちに行く。打ちたい店は二店あったが、調子を見てレートとルールを調整するつもりだった。一店目に行く途中、信号待ちをしていると、ガラの悪い集団が道路の向こうに見えた。信号が変わり歩き出すと、見た事のある顔が見える。待っている時は分からなかったが、若い連中が一人を守るように囲んでいる。
「おお、兄ちゃん!どこ行くんだ!」
最悪だ。マンション麻雀を開帳している若頭の二瓶さんだった。
「今もやってるぞ、打って行くか?」
「最近はでかいのも立ってるぞ、小遣い稼いでいけよ」
横断歩道の上で二瓶さんに畳み掛けられる。でも自分の金で打つつもりは無いし、自分の連絡先を教えて水山さんを通さずに行くつもりも無かった。
「今日は待ち合わせがあるのですいません」
「そうかぁ、また遊びに来いよ」
少し寂しそうな顔をしてからガラの悪い集団はまた歩き出した。横断歩道の上で良かった。初めて見る人もいたが、軽く会釈をしてから僕も歩き出した。その場所はマンションから近からず遠からず。そんな場所を呑気に歩いていた事を少し後悔すると同時に、彼らとの距離感について考えさせられた。今のところ僕に害は無いが、もし今一人では無かったらどうなっていただろう。
その日は麻雀を打つ気にはなれないなと思いながら歩いていると、ふとバーの看板が目に入り、気付けばそこへの階段を降りていた。
お誘いの電話
その日の「iPop」は暇だった。卓が立ったのはオープンしてから二時間後。牌磨きを二卓終えた頃、パチンコ帰りの常連が景品のお菓子を抱えて入って来た。
「軍資金はたっぷりだね」
なんて、称賛と煽りを込めて卓はスタート。一日の始まりとなる本走は気合が入る。すれすれのトップを取り、一回戦が終わったところで水山さんから電話が鳴った。三入り中だったので、次のお客さんが来たタイミングで卓を抜け、オーナーに「買い物に行って来ます」と外に出て折り返す。
「どんな感じですか?」
「そんな感じです」
この前の休みに二瓶さん達に会った事を伝えると、もう知っていた。恐らく僕を呼ぶように通達が入ったのだろう。次の休みに行く事になったが、レートは以前と同じ二百円のまま。慣れとは怖い。安いレートではないが、千円の麻雀の話を聞いた後だとあまり気持ちも上がらなかった。
「年明けにデカい麻雀が開催される」
その面子は今まで会った事の無い人達。いわゆる雀ゴロ達が集うらしい。枠がまだ空いているのかは確認中らしいが、水山さんは僕を推薦したらしい。今回の麻雀も僕がその卓に座れるかの基準となりそうだ。
「負けるなよ」
文字にすれば呆気ないが、色々な意味がその言葉には含まれているように思えた。余計な事は考えずに、目の前の麻雀に向き合う覚悟は出来た。時計を見ればまだまだ二十時。さて仕事はこれからだと意気込み、買い物も忘れて店に戻った。
お店でのこと
恐らく今年は最後の参加になる。仕事での成績も良かったし、水山さんの力もあるが、マンション麻雀でも負けなし。開帳が決まってからは仮想マンション麻雀として日々の本走に挑む。シミュレーションは完璧。
少し引っかかっていたのが、お店にマンション麻雀で代打ちに行っている事を言ってなかった事。十七歳からお世話になっているオーナーに話していなかったのは、やはりどこか後ろめたい気持ちがあったからだ。違法な場所だからとか、副業が禁止だとか、そういう話ではないが、リスクを考えると、やはりオーナーには話しておくべきだと思った。二十四時を過ぎると、シャッターを下ろしカーテンを閉め、深夜営業に切り替わる。お客さんの出入りも少なくなり、客足も落ち着いてくる。
朝までいるお客さん三人が固まり、新人メンバーの一入りで朝まで続く雰囲気がなんとなく出てきたところでオーナーに打ち明けた。
「実は最近マンション麻雀に行っています」
「ほう、どこのだ?」
特に驚いた様子は無い。実は水山さんとの出会いは「iPop」。オーナーも、もちろん面識はある。カジノの事、マンション麻雀の事、川嶋さんの事、前回と前々回の結果や感想など、なるべく細かく報告した。
「俺も行ってやろうか、代走じゃなくてもいいぞ」
「オーナーには少し物足りない麻雀かと」
「渋谷のカジノも知っておきたいな」
オーナーはバカラが大好き。どちらかと言えばそっちに食い付いてしまった。カジノの話が終わった後、ルールやレート、どんなお客さんがいるかなど、色々と質問は出てきた。昔からだけど、オーナーは僕が勝った報告を、自分の事のように喜んでくれる。マンション麻雀での話も楽しそうに聞いてくれた。でもその場所を紹介するつもりは無い。得体の知れない場所に、僕がクソガキの頃からお世話になっているオーナーを紹介したくは無かった。
「いらっしゃいませ〜」
新人の声。こんな時間に二人での来店。ちょうど麻雀が打ちたいと思っていたところだった。
夜の匂い
その日が来た。街はクリスマスムードから、年末ムードへ。どちらにせよ歩く人々は浮かれた顔をしている。十九時開帳だけど、一時間前にはその街に着いていた。寄り道をするつもりは無く、真っすぐマンションへ向かう。この前、若頭の二瓶さんとすれ違った横断歩道も通った。今日は出くわさなかったものの、これから先にあの道を通る事はないだろう。
目的地は坂を上り、ラブホテル街を抜けた場所にある。繁華街から一本奥に入ってしまえばガラっと雰囲気は変わる。風俗案内所の看板は眩しく、そこに立っているスーツを着たキャッチは、裏の付く場所ならどこでも連れて行ってくれる。明らかにデリヘルの送りのような車もチラホラ止まっていて、また少し奥に入れば早くも酔いつぶれたオヤジが路上で寝ている。
三度目だけど、この高揚感はたまらない。どんな人と打つのだろうか。分からない事を考えても仕方がないので、僕に出来る事と言えば早くマンションに入り、洗牌をして場に馴染み、万全の状態で待ち構える事。
早めに雰囲気に慣れてしまえば、お店側の人間としてメンバーのようにある程度自分の裁量で卓を回せるかもしれない。洗牌の際には傷付いている牌があるかどうか、リーチ後オールマイティーの白ポッチに何か目印はあるかどうかも確かめる。やれる事は全部やる。iPhoneの充電は80%、タバコは予備も二箱持った。身分証やキャッシュカードなど、本名が載っている類の物は家に置いてきた。
自分の中での確認作業が終わった頃、マンションに到着した。
準備
——ピンポーン
「桂木です」
無言でオートロックの自動ドアが開く。エレベーターに乗り、目的のフロアーに着くと、松田さんが玄関の前で待っていた。
「いらっしゃいませ」
相変わらず威圧感のある風体。今日もラフな格好だが、長袖長ズボン。前回少し見えてしまった桜の和彫りの印象が、僕の頭から離れない。
「早いな、また洗牌やってくれるのか?」
「そのつもりで来ました」
料理をしているスキンヘッドがおはようと、対面キッチンから顔を出す。匂いから察すると、今日もカレーだ。
「久しぶりだな、忙しかったのか」
ソファに腰掛けた松田さんが言う。水山さんがどういう話をしているか分からない以上、話に合わせるしかない。
「ええ、年末は何かと」
「最近の川嶋さんの成績はどうですか?」
「昨日、兄ちゃんみたいな代打ちが来て二十万負けて行ったよ。兄ちゃん、取り戻したれ!」
「今日の目標は三十ですね」
今日の目標金額も決まったところで、洗牌を始める。元々ここでは新しい牌を使っているので、ピカピカになるのが気持ち良かった。
開帳の三十分前となり、洗牌が終わる頃にチャイムが鳴る。入ってきたのはぴょんだった。ぴょんと会うのも三回目、少し親近感が湧いていた。開帳前に二人でソファに座り、少し話をする時間があった。
「僕が来るときはいつも会いますね、よく来るんですか?」
「打たない事もあるけど、よくいるよ」
つまり、暇なんだろう。気の弱そうな顔に、根っこが黒い茶髪。普段何しているかは分からないが、何もしてなくてもおかしくない。なのに、このマンションやカジノによくいるという事は、ろくな事では無い。それとなくぴょんの素性を探ろうとする。
「どうですか、麻雀とバカラの調子は」
「うーん、やっぱり勝てないね、昨日も負けたよ」
どこから金が出てきているのだろう。そういえば前回打っていた時、現金を出さずにチップが出てきていた。僕は代打ちなので手出しのお金は無い。それと同じなのか、アウト(店の廻銭)で打っているのか。
「僕、川嶋さんの代打ちなのはご存知だと思うんですけど、もしかして同じような境遇ですか?」
後ろにいるヤクザ達には聞こえない声で聞いた。すると周りを確認し、僕よりも小さい声で話し始めた。
「実は、二瓶さんのお金で打ってるんだよね。別に隠してる訳じゃないんだけど。。」
やはり、僕の頭の中でしっくり来た。これ以上の余計な事は聞かないでおくが、恐らく借金が有り、暇な時に若頭の金で席を埋める事くらいしか使い道が無いのであろう。
申し訳ないが、これからぴょんには徹底的に仕上がってもらう。元々弱いメンタルに、二瓶さんの代打ちなら感じているプレッシャーは凄いはずだ。その点僕は貯金も有り、のびのびと麻雀が打てる。卓に座る前から勝敗は決まっているようなもの。しかも同じ代打ちならパンクの心配が無い。
「お互い人の金だから気楽ですね!」
にっこり話かけたものの、苦笑いが返ってきた。そう、それでいい。
またチャイムが鳴り、次に来たのは江口さん。開帳まであと十分。
「お、久しぶりに見たな坊主」
「ご無沙汰しています」
「この前、お前のポンコツ師匠にカードで散々やられたよ。あいつは俺のカードの数字に一つ足すのが得意だな。腹が立ってしょうがねぇ」
水山さんはディーラーの仕事もしっかりこなしているようだ。博打場での良いお客さんの条件は、「金を持っている」「盆面がいい」「腕が無い」の三つ。麻雀に関して、江口さんは腕があるので面倒だ。
「坊主、バカラはやらないのか?」
「僕は勝てない博打はやらないので」
江口さんは自分の腕に自信を持っている。少し逆撫でしてやろうと思った。
「ほう、人の金だと強気だな」
「人の金だからですよ」
そう言って、ぴょんの方を見る。目が合ったので、同意を求める顔をしてみたが、すぐに目を逸らされた。同卓者は全員敵だ。初めにでかい口を叩くのは僕のスタイル。もし負けたら、ごめんなさいで話は終わる。勝てば次も勝ちのイメージを作りやすくなる。こうして勝ちやすいキャラクターを作っていくのが得意な戦略だった。対局中、「僕だから」という理由で相手の打牌が変われば思う壺だ。
対局前から忙しいのは僕だけか。気付けば開帳の時間は五分過ぎた。
客引き
あと一人が来ない。松田さんが電話をかけると、四人目のお客さんは一時間程遅れるらしい。松田さんがすぐにもう一本電話をかける。
「どーも、すぐ来れる?」
返事は分からないが、近くにいる誰かが来そうな感じだった。
松田さんは、前回途中から卓に入り打っていたけど、雀荘でいうメンバーの立場では無いみたいだ。入るのは本当にどうしようもない時、朝方に誰かがパンクしたりすると入るのだろう。こちらも出来ればヤクザとは打ちたくない。
電話を切ってからすぐにチャイムが鳴った。一~二分くらいか、本当にすぐ来た。入ってきたのはスーツ姿で金髪の男。なんだか見覚えがある顔。
「いやー、日曜日は暇ですわー!」
この甲高い声、思い出した。駅からここに来るまでの途中、案内所に立っていたキャッチだ。「女」「薬」「博打」の裏には極道が必ずいると聞いた事があるが、どこかで何かが繋がっている。繁華街の夜の裏側を垣間見るようで面白い。
「今日はどんな子いるの」
江口さんが聞くと、金髪スーツはポケットから女の子の写真を取り出した。一枚一枚ラミネートされていて、裏面にはメモが書いてある。それを広げて女の子の説明が始まった。「体験入店」「十九歳」「腕自慢」等々、言えば何でも出てくる。それもそのはず、今この街で呼べる女の子は全て把握していた。その中から一枚を選び、この麻雀が終わるくらいの時間にとオーダーが入った。
「いつもありがとうございます」
なんてアホな会話だ。僕も会話に混ざりたい気持ちを抑えてこう言った。
「麻雀、打たないんですか?」
「・・ガキにはまだ早い話だったな」
そう言って、江口さんは緩んだ顔で場決めの牌を引いた。
開帳
席順は、反時計回りに僕、金髪のキャッチ、江口さん、ぴょん。江口さんとは対面同士で良かった。金髪のキャッチを入れて、卓はスタートした。僕は初めてだが、あまり麻雀は慣れていなさそうだ。山を前に出さなかったり、取り出しを間違えたりする度に、江口さんが吠える。
「そこじゃねーよ!!」
いつもこんなやり取りをしているのだろう。テンポを大事にしたい江口さんの気持ちは分かるし、こいつの下家はイライラしそうだ。でも、僕は余計な事を考えず、ぴょんを仕上げにかかる。卓に二人早い人がいれば、卓の回りは早くなる。早い人間が対面同士に座っていれば文句は無い。つられてあとの二人も早くなる。
昔はこれを意図的にやっていた事もあるが、無意識にやってくれる江口さんみたいな人がいると非常に助かる。そして上家に煽りたい相手がいると、やりやすい。効果のある上家の煽り方は、長年のメンバー経験で培っている。少しでも上家が止まれば先ヅモのモーションに入る。手を伸ばす前に、音が出る程度に、指で卓を叩く。いつもはやられる側だからよく分かるが、非常にうざい。
軽いジャブをぴょんに食らわせつつ、最初の一周の成績は2312と、いいスタートを切った。四回戦が終わり、場替え。僕は変わらず、ぴょんもまた上家に。江口さんとキャッチの席が入れ替わった。
五回戦目の東発、僕の親番中、六巡目にぴょんからツモ切りのリーチが入った。今までの感覚的に、これは愚形の安いリーチだと確信した。ドラの北は既に二枚切れており、僕は赤を四枚持っている。勝負手の時の強打も無ければ、発声も元気が無い。リーチ後オールマイティの白ポッチが入っているため、それが見えていなければ愚形でも曲げてくる事が多い。タンピンに三色まで見えるイーシャンテンなので、降りるつもりは無かった。一発目に抱えていた白ポッチを強打する。
セットのようなここの麻雀では、リーチ後に人の手牌を覗く事も許されていた。その強打を見て、ぴょんが僕の手牌を覗いてくる。親でデカい手のイーシャンテン、綺麗なその手牌を見てから目が合う。ニヤリとすると、リーチをかけた後悔が伝わってきた。二巡後に追いつき、追っかけリーチ。僕は手牌を覗かないし、覗く間でも無い。力なくツモ切ったぴょんの打牌は僕の当たり牌だった
「メンタンピン一発三色赤赤赤赤」
「・・・裏はサービス!たったの倍満五枚!」
ここの麻雀は0点丁度で飛びなので、東発終了。他の二人は原点を持っているので、南家の江口さんは同点の二着。払いになった金髪のキャッチが文句を垂らす。
さて、この放銃一回でぴょんのカゴからいくら出ていくのか計算してみよう。まずはチップが五枚と、飛び賞が五枚で一万円。ビンタが六千円×3で一万八千円。素点とウマで一万二千円。全部足すと、たった三分で四万円の支払い。後悔してもしきれない一局だろう。予定より早く仕上がった。ここでトドメを刺す一言。
「まあいいじゃないですか、人の金だし」
川嶋さん
随分と場にも慣れてきた。ここの麻雀は得意な発声優先。ここまで二回ぴょんと発声が被ったけど、どちらも卓内の判断を待つ間でもなく、僕は晒して打牌した。
チャイムが鳴った。遅刻している人かと思ったら、川嶋さんだった。この時点で十万円近く勝っていたので、良いタイミングで来てくれたと思った。ほんとにこの人が裏カジノの店長なのか、優しい面持ちでこの場にいるみんなに挨拶をし、最後に僕のところへ。
「こんばんは、調子はどうですか?」
「なんとか少し浮いています」
「そうですか、気楽にやってください」
あの目で僕のカゴを確認してからニッコリ言った。昨日の代打ちが負けたのを気にしているのか、お店が暇なのか。どちらにせよ現時点では安心してもらえた。
「なんだ、今日は暇なのか」
「ええ、日曜日は暇ですね」
「どっかの立ちんぼも同じ事言ってたな。ポンコツディーラーがいなければ絞りに行ってやってもいいんだけどな」
「今日は暇なので水山がキツいテーブルを作っています。麻雀にしておいた方が賢明かと。来週は負けサビを用意してお待ちしていますよ」
「おお、頼むよ来週の火曜日は暇だ」
「お待ちしております」
お客さんとお得意さんの関係だが、江口さんと川嶋さんは仲が良さそうだ。ポンコツディーラーの水山さんは無愛想なのでこういう関係にはならないだろう。
川嶋さんのコミュニケーションを見ていると、なぜ裏の世界にいるのかを疑いたくなるような営業力。水山さん曰く、奥さんも子供もいるらしい。もう世の中何を信用していいのか分からなくなりそうだ。
それから二人の会話は僕の話へ。
「坊主は勝てない勝負はしないんだとよ!昨日の奴とは違って心強いな!」
「昨日の子は考えものですね。やはり立候補は当てになりません」
「桂木君は、まだ会って日は浅いですが、水山が見込んでいるので信用してます。」
「江口さん相手に遠慮しないでいいからね」
「なんだ、遠慮はいらないですね。気使ってましたよ。」
「気使ってる打ち方じゃねーだろこのクソガキが!!」
口は悪いが、どこか憎めないし強いのが江口さん。もちろん遠慮なんてしていない。
「本日はカレーです、いかがでしょうか」
八回戦、二周が終わったところで食事の時間。
「大盛りで下さい!!」
川嶋さんも頼んでいたけど、ぴょんは食べないみたいだ。
遅刻した人来る
このマンションのチャイムは二種類ある。オートロックの前のエントランスと、玄関の前のどちらで押したかによって、チャイムの鳴る数が一回か二回か変わる。普段は二回鳴り、松田さんがエレベーターホールまで出て行くので、一回のチャイムは鳴らない。
カレーを食べていると、一回だけチャイムが鳴った。色々な可能性があるので、松田さんが監視カメラで外の様子を確認し、警戒しながら出て行く。出て行った松田さんが戻ってきて、後ろからついて来たのは、パーカーにニット帽を被った二十代後半の男だった。上の階の人がオートロックを開け、一緒に入ってきたらしい。
その人間と目が合った瞬間凍りついた。見た事のある顔、最悪だ。思い出せ、誰だコイツは。ホワイトボードには「土屋」と書いてあった。喋った記憶は無いが、どこかで同卓した事がある。そうだ、あれは渋谷のピン東風。定職に就いているようには見えず、打ち廻りや腕など、どれをとっても麻雀で凌いでいるといった印象だった。
正直、僕の素性を話さなければ誰でもいいと思っていたが、少し相手が悪い。ただでさえ江口さんという厄介な人が座っているというのに。フリーならば喜んで打ちたい痺れるメンツだが、今日はそれを望んでいない。
「すいません、パチンコが噴きました」
「おお、軍資金たっぷりだな」
こんな軽いノリもいつもの事なのだろう、江口さんとくだらないやり取りをしてからソファに座り、ポケットからスポーツ新聞を取り出した。博打の何でも屋さんだろう。卓はちょうど次回が場変えのタイミング。
「そろそろ仕事なので次代わりますよ」
トップ目の金髪キャッチが言った。体よく装ってはいるが、カゴを見る限り数万円浮いているのでとっとと逃げたかったのだろう。そのままトップを守り、キャッチは足早に去って行った。「楽しんで下さいね」と笑顔でそう残して、そのタイミングで川嶋さんもマンションを出た。
これから僕にとって地獄の時間が始まる。
地獄
川嶋さんはカレーを食べて、少し雑談してから帰った。僕のカゴの中はプラス八万円程。さっきまで僕が座っていた手応えのある席には土屋さんが座った。毎日麻雀をしていると、半端じゃなくバカづきする事がある。打っていてとても気持ちが良く、流れが良いの一言じゃ説明がつかないほど、強い時。前回、土屋さんと前にピン東風のフリー雀荘で同卓した時は、そんな時だった。
数ヶ月前の深夜三時、十二回連続で連帯を外さなかった僕の対面に座ったのが土屋さんだった。だけど、彼が麻雀を打ったのは二回戦のみ。僕が噴いているところを見るや否や、すぐに卓を抜けてソファで漫画を読み始めた。
そこの雀荘はガラが悪い。フリーの営業をしているが、経営者はヤクザ者。経営者がパクられて閉めていた時期もあった。それからは深夜に行く場合、店に電話をしないとシャッターが開かなくなった。なので朝までメンツが入れ替わる事は少ない。始発が出て、僕がラス半を入れると、ソファに座っていた彼がその席に座った。立ち回りを心得ていると思ったのと同時に、もう打ちたくないと思った。
そんな勝手な先入観を持ったまま、土屋さんが卓に入る。卓の回るスピードがグッと上がり、雰囲気が変わった。さっきまでふざけながら打っていた江口さんも表情が変わり、部屋の中には打牌の音だけが響く。
かけっこでは早い人と一緒に走ると、無意識に自分も早くなると言うが、麻雀も一緒だった。土屋さんは仕掛けが早く、応じるように僕と江口さんの仕掛けも早くなる。最初の半荘はぴょん以外の全員が面前で局を終える事はなく、トップは土屋さん、僕はラスだった。清算をしていると、間が悪くiPhoneが鳴る。
「どんな感じですか?」
とてもLINEをしながら麻雀を打っている場合じゃないので、既読を付けなかった。これが地獄の入り口、そこから四連ラスを引き、貯金をあっという間に溶かした。カゴを確認すると、五万円程のマイナスだった。
土屋さんはやはり強かった。原点に焦点を置いているため、ピン東風で打った祝儀麻雀とは明らかに打ち方が違っていた。目標が明確で手牌が短くなるため、赤六でも手牌や打点が透ける事は多かったけれど、僕の手牌が着いていかなかった。
場替えのタイミングでぴょんがトイレに行ったので、ソファに座りLINEを開く。今のメンツと収支を報告する。すぐに「了解」とだけ返ってきた。
レッドブルを頼み、リフレッシュを試みる。気を取り直さないといけない。ぴょんが戻り、再び打牌の音が響き始める。ぴょんの調子が上がり、デカいトップを二回とられた。翼が生えたのは僕の点棒だった。
「相変わらず崖っぷちに強いな!」
江口さんは同じような光景を、バカラでも見ているのだろう。一思いに死ねばいいものの、だらだら延命してしまうばかりに今の状況になっていると推測するのは容易い。いわばいいカモだ。
東ラスの親番、18000点ラス目の僕に手が入った。トップ目が30200点、僕の手はツモれば6000オールで全員の首を切れる。まずはダマで原点を超えるべきだが、これをツモれば大分楽になると、役有り三面張のリーチをかける。こういう時のリーチは嫌な予感しかしない。
二巡後、二着目で下家のぴょんが調子に乗って追っかけリーチをかけて来た。手牌を覗くとノミ手の間5ソウ待ち、僕に暗刻だ。しかし嫌な予感は的中する。トップ目の江口さんが一発消しのチーを入れると、白ポッチがぴょんに流れた。今回の清算で負け額は二十万まで増えた。
二瓶さんくる
またもチャイムが一回鳴った。玄関の前に誰かがいる。するとマンションの極道達が玄関に走った。
「おはようございます!!」
松田さん達の威勢の良い挨拶が玄関で聞こえたので、二瓶さんが来たとすぐに分かる。入るとまずは卓に来て挨拶をした。
「皆様いらっしゃいませ」
強面から発せられる丁寧な言葉には威圧感がすごい。
「兄ちゃん、また来てくれてありがとな」
次に僕の方に挨拶に来た。にっこり笑いかけるが、とても怖い。そして江口さんのところへ。
「江口さんいらっしゃい。例の件どうなってる?」
「これがお願いされていた見積もりです」
カバンからクリアファイルを取り出す。
「おお、悪いな。いつ頃工事に入れる?」
「来週だったらいつでも来れますよ、若い者は怖がっちゃうから私が来ます」
「よろしく頼むわ」
何の工事かは分からないが、江口さんは工務店の社長らしい。神棚や、任侠と書いてある額縁などを取り付けたのも江口さんだろうか。裏社会にお得意先がいるのもどうなのか。それがウリなのか、色々な商売があるものだと変な感心をした。
「おう、今日も稼いでるか?」
次に土屋さんのところへ。やはりこのマンションで一番の勝ち頭はこの人だ。
「スロットで勝ったので今日は遊んでますよ」
ざっと見て早くも十万円以上勝っているだろう。絶妙な煽りも上手いなこいつ。ぴょんには声をかけず、カゴを覗いてからソファに腰掛けた。ちょうどぴょんが昇り調子なのもあり、前回ほど萎縮してなかった。
さて、ぴょんの事を気にしている場合ではない。時間は深夜一時、今日は三十万勝たなくてはいけないのだ。現在二十二万負け。いつも始発が出る頃に帰るので、あと数時間しか無い。
「兄ちゃん、この前何してたんだぁ?」
僕の後ろに腰掛けた二瓶さんが話しかけてくる。以前、横断歩道で出くわした時の事だ。
「友達と飲んでました」
「あのへんで飲み屋なんてあったか?なんてとこ?」
「お店の名前まで覚えていませんけど、普通の居酒屋です」
そして少し沈黙してから、にっこり笑った。
「そうか、兄ちゃんお酒飲むのかぁ。今度飲みに行くか?」
いよいよ恐れていた一線を超えそうだ。
「機会があれば、川嶋さんや水山さんも一緒にお願いします」
「そーだな、楽しみにしてるよ」
もう二度とここに来る事はないとその時に決めた。
転機
時間は深夜二時を超えた。相変わらず土屋さんが強い。二瓶さんが来てからというもの、やっぱりぴょんは少し打ち方が控え目になった。ここを捉えたいと、突破口を探している時、iPhoneが鳴る。相手は水山さん、LINEではなく電話だった。
「代走入れるか?」
後ろに座っている二瓶さんがその様子を見て気を使ってくるけど、ここの人間に代走は頼めない。
「ありがとうございます。次回場替えなのでそのタイミングで一本電話させて下さい」
その回はあっさり江口さんがマルエーのトップを取った。この一周、僕のカゴのチップはあまり動かなかった。場替えの牌を引いてから、玄関で水山さんに折り返しの電話を入れる。
「どんな感じですか?」
「そんな感じです」
「収支は?二瓶さんいる?」
「二十万負けくらいです。僕の後ろに座ってますよ」
「いいか、これが最後のつもりでやれ。これから先は何も気を使わなくていい。収支も気にするな」
丁度さっき僕の考えていた事を言われた。収支の事を除いては。人の金なんてどうでもいいが、負けで終わるのは許せなかった。
「分かりました」
そう答えると電話が切れた。何かあったのだろうか、妙な電話だったが、今は深く考えるのをやめた。トイレで顔を洗い、ラストに向けて気合いを入れた。
そして卓に戻り、こう言った。
「レートアップしませんか?」
自分で自分に驚いた。
レートアップ
経験上、レートアップを提案した人間が勝つところは見た事が無い。でもレートを上げなければ、あと五十万を数時間で勝つ事は難しい。
「人の金じゃねーのか?」
江口さんに突っ込まれる。
「ええ、でも前回、前々回と稼いでいるので、大丈夫です。まずいですか?」
ふんぞりかえっている二瓶さんに確認する。この人の許可が出れば、ここでは何でもやり放題だ。
「いや、構わねーよ。レートが上がるなら俺の代打ちでやって欲しいけどな」
レートが上がれば場代も上がる。二瓶さんからすれば文句は無いはずだ。自分の代打ちが打ってることを除いては。
「いくらでやるの?」
「ウマとビンタを1-2にしませんか?あとはチップを二千円に」
「俺はいいよ、土屋さんは?」
「いいですけど、僕はあと一周で帰りますよ」
「もし途中で抜けるなら松田が入るから心配すんな」
二瓶さんの了解を得られれば、ぴょんもそれに従うしかない。その後ろで松田さんが少し嫌な顔をしていたのを僕は見ていた。これで取り決めは大丈夫だ。チップも上がり、実質倍以上のレートになった。1000点二百円の根っ子は変わらないけど、ビンタが1-2になるという事は、マルエートップで六万円。チップも合わせれば、東風戦一回で十万円以上動く事もあるだろう。
楽しくなってきた。ぴょんの顔はまたも青ざめてるように見えたが、ここまで来たら今日こいつはここで殺す。
水山さんにレートアップをした事を連絡したけど、珍しく返信は無く既読が付くだけだった。
「よし、やりましょう」
このレートアップは功を奏すのか、反省は結果を見てからする事にした。
レートの重圧
熱くなっている時の思考は本当に危ない。あらゆるリミッターが外れ、正常な判断が下せなくなる。結果など見るまでもない、勝負は熱くなった時点で負けだ。しかし最悪の状況は、それに気付かない事。
レートアップ最初の一周は起家スタート。まずは満貫の四千円オールをツモられ、次局に5800の二千円を土屋さんに振り込む。それから江口さんとぴょんが一回ずつ上がり、一人沈みのラスを引いた。チップも含めると十万近いラス。
ここでやっとレートが上がった実感が湧く。そして二回戦、ぴょんの親リーにあり得ない放銃をした時に、熱くなっている事を自覚した。代償はでかく24000点。僕の残り点棒は1000点になった。
「代走お願いします」
ここに来てから初めて代走を頼んだ。一局やって下さいと告げ、トイレへ。どうせこの半荘はダメだ。ズボンは履いたまま、便器に座り、目を瞑って心を落ち着かせる。まずは熱くなってる事に早く気付けて良かった。まだ諦めるような時間ではない。そもそもレートアップを言い出した事を既に後悔していた。だけど、吐いたツバを飲み込む訳にもいかず、やり切るしかない。このままいけば、負けは百万を超えそうだ。少し前の水山さんからの電話を思い出す。金の事は気にしなくていい、どうやってこの状況を打破するかを考えた。
椅子を回す?ライターを買いに行く?おしぼりで顔を拭く?牌をかき混ぜる?
色々と頭をよぎったが、流れを変える前に、原点を意識した麻雀を真剣に打つ事。今日の僕は過去の勝利に自惚れているだけだ。余計な感情はいらない。その結論に至る事で、少し頭がスッキリした。用も足さずにトイレを流し、卓に戻ると、代走の松田さんが江口さんのダマテンに放銃し、飛んでいた。
「悪いな、そんな点棒無いと思わなかったよ」
朝方でも江口さんの煽りは冴えている。
「いいハンデですね」
そう言って席に戻った。
命日
たかが麻雀、されど麻雀。ここ数年は麻雀に時間と労力を費やし、女といる時間よりも麻雀に天秤が傾く、典型的な麻雀馬鹿だった。
——勝ちたい
そんな僕がこれ程までにそう思った事は、後にも先にもこの場だけ。華々しく送ってやろう、今日が「桂木」の命日だ。レートアップ後の三回戦目が始まり、江口さんに300・500をツモられ、僕の親はすぐに流れる。そして迎えた東二局、土屋さんの親番。僕も牌捌きには自信があるけれど、この人には負けるかもしれない。ツモる切るの所作はスムーズで、山から手牌、手牌から河まで一直線に手が伸び、ほとんど音を立てない。そんな土屋さんが力を込めて引きヅモした。
ダマテンだけど、高い手だということはすぐに分かった。手牌を開けてみると5萬、5ピンが暗刻の四暗刻赤四。祝儀だけで二万八千円オールで六万点終了。痛すぎるラスだった。負けは五十万を超えた。やはり簡単には勝たせてくれない。
——なんて面白い麻雀なんだ
月に数百回打っていれば、負ける事なんてよくある。でも珍しく心中は心地良い。次回は江口さんがトップを取り、僕は三着だった。そして迎える四回戦目、東発から土屋さんとのめくり合いになった。先制リーチに追っかけた僕の待ちは4-7萬。入り目の感触は良く、鉄板の得意待ち、負ける気は微塵もしなかった。
しかし江口さんの鳴きが入り、僕の山から流れた牌は白ポッチだった。この光景も今日二回目だ。それからは江口さんとぴょんが一回ずつ上がり、首が切れているのは僕だけの状況で東ラスを迎えた。18000点ラス目、上は平たくトップ目は29000点、順なんて関係無い、大事なのは原点。ミスをした過去も頭によぎり、最短での満貫を作る。三巡目には、手牌が萬子と字牌だけになった。ドラを二枚、赤を一枚持っているため、対子の北を落とせばすぐに倍満ができ上がる。でもここは満貫でいい。次順、江口さんから出た北を一枚目から叩き、満貫ツモ。二着目の江口さんは親だったので、首を作り、着順を上げ、二人の首を切った。 トップよりも価値のある満貫0枚だった。ぴょんは三回目のおかわり、江口さんも初めておかわりをした。
土屋さんは、清算が終わり点棒を揃えるとすぐに席を立った。
「お兄さんどっかで打った事あるよね、また会ったらよろしくね」
しかし二度と会う事は無いだろう。チップがあふれそうなカゴを持って土屋さんはカウンターへ行った。いよいよ松田さんが入る事になる。
「十分くらい休憩くれ!金下ろしてくるわ」
江口さんが外に出るのでしばし休憩だ。ちょうど牌が重くなってきたのが気になっていた頃。
「アツシボと乾いたタオルを下さい」
洗牌をしながら待つ事にした。疲れていてもやれる事はやる。これで今まで結果を出してきたんだ。
上昇
洗牌が終わってからソファに座り、水山さんに状況の報告を入れた。今回は「了解」と短く返事が来た。収支は四八万六千円負け、今日の目標は三十万勝ち。だからあと七十八万六千円勝たなくてはいけない。
松田さんが卓に入る前に、恒例の儀式を行う。スキンヘッドが叩いた手を痛がる程の勢いで、松田さんの背中にもみじを付ける。その後力を入れておしぼりで顔を拭くと、準備が出来たと言わんばかりにどっしり卓に着いた。長時間打つ場合、メンツの入れ替えはあまり好きじゃない。朝までにあと二周できるかな。そんな事を考えていると、見透かすように松田さんが口を開く。
「江口さんが帰ってきたら回数決めるか」
「あと二周くらいでしょうか」
チャイムが鳴り、江口さんが帰ってきた。持っているコンビニのレジ袋に、レッドブルがパンパンに入っていた。
「お待たせ、みんなで飲もうぜ」
仕事でもいい親方なのだろう、やはりこの人は憎めない。そして伏せておいた風牌を引いた。上家に松田さん、下家にぴょんの順になった。非常にやりやすい席だ。
素人の松田さんが入ると雰囲気がガラっと変わる。回りは遅くなり、みんなで気を使うなんとも言えない雰囲気。 打ちにくかったけど、洗牌をしたから牌が綺麗で打ち心地は良かった。
起家スタートだった松田さんの親はすぐに落ちる。ぴょんが跳満の六千円オールをツモり、ついてねぇなぁと松田さんがボヤいた。僕はといえば、その回鳴かず飛ばずの二着にぶらさがる。
さっきと比べれば、自分の麻雀を客観視出来るようになった。手出しツモ切りをチェックし、打牌の強さ等でわずかな空気の変化もしっかり把握出来ていた。それにより、二回目、三回目は連勝できた。
この三回で負けは二十万まで減った。そして松田さんがおかわりをした。
最初は意気揚々と臨んでいた松田さんの口数は少なくなり、明らかに盆面が悪くなった。以前から気になっていたけど、ここで廻銭ではなく、自分の金で打っていると確信する。嫌な感じがした。
トラブル
松田さんが入って四回目、トラブルが起きる。僕の起家スタート、リーチの宣言時に、「おかしくないか?」と江口さんが場を止める。先ヅモが横行しているせいで、鳴きが入った時にツモ順と捨て牌の枚数が噛み合わなくなった。
僕だけは先ヅモをしていなかったので、間違うはずはないが、明らかにおかしい。裁定を店の人間に委ねると、松田さんはノーゲーム扱いと言って山を崩した。
手が入っていただけに、頭に来たが、店の裁定ならば従うしかない。
「次回からこういう場合はノーゲーム扱いなんですね?」
同じようなケースが起こった際に、状況によって裁定が変わる事は博打場では許されない。点五の雀荘でもマンション麻雀でも一緒だ。
何より連勝で良い流れが紛れるようで嫌だった。確認をしてから、少し挑発的にボタンを押して山を上げる。 親は流れず平場のまま再スタート。ここで前局以上の手が入った。リーチをかけ、二巡後に力を込めて引きヅモをした。メンタンピンツモ赤三裏。8000オールの8000円。
紛れが起きる局面で、流れはこっちに傾いた。松田さんから点棒が飛んできた。
——仕上げてやろう
熱くなっている素人に対して、少し感情的にそう思った。どうせ後一周で終わるし二度と来ないからと、この時は後先なんて考えてなかった。
勝負事には手加減や気遣いを持ち込むなと教えられてきた。同じ土俵に立った以上、正々堂々と勝負だ。極道だろうと何だろうと、卓を囲めばそんな事は関係ない。 僕の正々堂々の中には、「煽り」も含まれる。なぜなら麻雀とはそういうゲームだからだ。ただ、失う物が大きい可能性があるから、「煽り」を使う時は限られている。
「煽り」にも種類があり、言動で煽る時も、それとなく動作で煽ったりもする。今回は後者を使う。
場替えでまた上家に松田さんが座ることになった。今まで先ヅモはしていなかったけれど、上家の松田さんを煽るため、露骨に先ヅモを始めた。鳴きを捨ててでも先切りまで始め、一人の人間を仕上げたかった。
不要牌は右端に置くことにし、先切りをはじめてからは音を立てずに素早く小手返しをしていた。そして上家にポンが入った際、ツモ牌ではなく、右端の不要牌を戻す。そんな小技も使っていた。 疲れている時間帯、唯一打てる江口さんに気を付ける。手戻す動作を素早くすれば、疑われる事も無かった。やれる事は全部やる。
残り四回戦。さっきのでかいトップで収支は十万負けまで来ていた。時間は深夜四時。
東発に親のぴょんが松田さんから満貫を二回上がり、松田さんが逆マルエーのラスを引いた。早くも二回目のおかわりをした後の松田さんは打牌がさらに強くなった。
慣れない牌捌きの強打は見ていられるものではない。しかしたった一時間程で二十万溶かした心中は燃え上がるものがあるだろう。
無情にも、こうなってしまった人間に麻雀の神様は微笑まない。それを僕はよく理解していた。
底無し沼
松田さんにどれ程の手が入っているのか分からない。上がりは少なく、手牌を開く事が無いので、手牌の構成や捨て牌のバランスも測れない。配牌を開けた際にため息をつくと配牌が悪いという事だけは分かった。
最後の一周が始まる。休憩は無く、松田さんから風牌を引いていく。僕の場所は変わらず また松田さんの下家になり、ぴょんと江口さんの席が入れ替わった。まだ負けてはいるものの、負けで終わる気はしなかった。先ヅモが有りとはいえ、ツモ牌を触ってしまっては鳴けない。先ヅモ有りの特徴だろうか、全員鳴きたい牌がある時に露骨に先ヅモをしなくなるので、字牌の絞りも楽になり、下家に江口さんが座ったため、守りは完璧になった。
スタートは僕のマルエートップから始まった。江口さんが先ヅモをする時は自由に手を進め、しない時は死に場所だと言わんばかりに絞る。そんな簡単な基準の押し引きで取れたトップだった。僕は収支を把握するために、カゴの中でチップのタワーを作っていた。一万円チップ十枚の山が四つできて、ようやく原点に戻る事が出来た。しかし気は抜かず、手は抜かなかった。自分の中の分岐点を超え、より一層、冷静に集中力が上がっていくのがわかる。
二回目、東二局に親の松田さんからリーチが入り、同順に僕の手牌も追いつく。九順目、ドラの6pを切れば2−5−8ソウの三面張。点棒は東発に千点横移動だけの平たい局面。ドラを叩きつけてリーチをかけた。松田さんから聞こえたのはロンの発声ではなく、舌打ちだった。松田さんが一発目に叩きつけた牌は赤5ソウ、跳満の六千円。その点棒を守りきって二回目もトップで終了。ようやくプラスに転じた。だが露骨に松田さんの機嫌が悪く、卓上の雰囲気は最悪だ。
続く三回戦、江口さんがでかいトップを取り、僕は二着で終わった。松田さんはまたラスだ。ここ三十分くらいは、麻雀の発声以外、誰も言葉を発さない。
あっさりと最後の四回目は終わった。ぴょんがトップ、僕が二着、松田さんが三着、ラスは江口さんだった。目標までは足りなかったけど、何とか報酬をもらえるまでは勝てた事により、ほっと胸を撫で下ろした。
松田さんから出てきた黒棒をしまい、椅子を引いて最後の清算をしようとすると、支払いの前に松田さんがこう言った。
「もう一周やろう」
もう一周
「江口さんいいかい?」
「ああ、付き合うよ」
僕とぴょんには聞かないようだ。
「仕事があるので、できてあと一周ですよ」
これは経験上、永遠に終わらないパターンだ。始まる前に釘を刺すも、松田さんから返答は無かった。ところが次に出た言葉が、僕を喜ばせた。
「レートを上げよう」
チップはそのまま、ビンタとウマを倍の2−4という提案だった。
「おいおい、大丈夫か松田さん」
「このまま終われませんよ、いいですか?」
またも質問は江口さんにだけ。少し考えてからいいよと頷いた。この少しの間は、江口さんが自分の財布と相談していた訳では無く、松田さんを気遣っての事だと分かるが、熱くなっている素人相手に、そんな事は余計なお世話だろうと僕は思っていた。ぴょんは言われるがまま。
もう時間は六時を過ぎている。次の日も夕方から仕事なので、帰って少し休みたかったけど、こうなれば仕方がない。後の事は考えなくていい。熱くなっている素人のチップは根こそぎ頂こう。席替えを挟み、「もう一周」が始まった。
チャンスが出来た事が嬉しいのか、松田さんの機嫌が少し良くなった。クビ有りの二着を取り、少し戻したかと思いきや、それも最初の一回だけ。当たり前のように最初のトップは僕だった。二着でもクビがあれば、ビンタだけで六万のプラスになる。レートアップを繰り返した結果、感覚が麻痺してきた。
それからやはり松田さんは刺さった。上がりは無く放銃は多い。めくりあいにすらならない。江口さんの点棒の申告は、少し申しわけ無さげな感じで声を出す。正直らしくないと思ったけれど、江口さんにそうさせる程、松田さんは刺さっていた。出来れば松田さんからは上がりたくない。同卓している誰もがそう思っていたはずだ。麻雀を知らない人が実践で覚えていくようなレートではない。
最後の一回、決着は早かった。
僕の起家スタートで始まり、ダブ東を仕掛けて赤ドラの満貫をぴょんから上がる。続く一本場、最高の手が入る。
待ちは得意の4−7萬。好きな待ちなんていうものは、どうでもいい戯事。だけど誰しも思い浮かぶ牌はあるだろう。僕がこの待ちを好きなのは、こういう印象に残る場面でこの待ちが多いからだろうと、牌をツモってからリーチ宣言をするまでの短い時間でしみじみ考えていた。タンピン三色赤3ドラの、高めダマ倍だ。原点を意識するように打っていた姿からは有り得ないかもしれない、水山さんが後ろで見ていたら怒るかもしれない。
でもここでリーチをしないのは僕の麻雀じゃない。マンションだろうが、ビンタのルールだろうが、ヤクザと一緒に打っていようが、僕の根本には麻雀はリーチをかけてツモるゲームだという、師からの教えがあった。力は込めず、綺麗に河に並ぶように、丁寧に牌を切った。一発目から無筋を切ってきた松田さんが、四巡後にリーチの発声と共に切ったのは7萬だった。安めだけど、裏ドラは7萬で倍満。本当に麻雀は良く出来ている。
ロンと言って裏ドラをめくってから、倍満の申告をするまで少し間を空けた。それは指を折っているわけではなく、同情の念だった。もうやめた方がいいという事を伝えるには高すぎる授業料かもしれない。いつもなら点数の申告後には真っ先に山を落とすボタンを押すが、今回は押さなかった。
誰も押さなかった。
駆け足
卓上に倍満を残したまま、松田さんが黙ってみんなにチップを支払う。一人沈みだとウマだけで一二万の払いだ。自分の点棒を揃えてから、おしぼりで卓のパネル表示部分を拭き、雀荘であればご案内出来る準備をしてから席を立った。
「もう一周やろう」
松田さんが冗談なのか熱くなっているのか分からない声で言う。
「すいません、仕事があるので」
「おい、座れよ」
ドスの効いた声で言った言葉は正に極道。仮に断ったとして、僕みたいなガキに本職の人間が手を出すのか、どんな態度を取ればいいのか、ギリギリのラインはどこか。そんな事を考えながら立ったまま答えを探し、沈黙の時間が過ぎる。
「ごめん松田さん、俺も時間だ」
そう言って江口さんも席を立ち、沈黙は破られた。そしてカゴをカウンターまで持って行く。松田さんはもう何も言わずに椅子にうなだれている。僕に気を遣ってくれた、江口さんの粋なファインプレーだ。
麻雀が終わった瞬間に恐怖がこみ上げてきた。一刻も早くこの場所から出たい。江口さんの換金を待っている間、チップを数えやすく並べ、二割の取り分の計算をしていた。思った以上に勝っていた。五十四万六千円分の浮きチップがあり、報酬は十万九千二百円。 水山さんに素早くLINEで報告を入れる。
江口さんの換金が終わり、スキンヘッドの元へカゴを持って行く。チップを数え、電卓を叩き、合計の数字を見せてくる。僕の計算と合っていたので、頷くと千円持っているか聞かれ、差し出すと、十一枚の一万円札を渡された。
「お疲れ様でした」
そそくさと帰ろうとすると、ソファで力なく座っていた松田さんがこっちへ来る。そして僕の肩を掴み、また来いよと言った。
何も喋らず会釈をしてそそくさと玄関を後にする。初めて見送りは無し。ドアが閉まると、松田さんが電話をしている声が聞こえた。どこの誰と何の話をしているのかは分からないけど、その時は怖くて仕方が無かった。エレベーターを待たずに、階段を駆け下りる。
もう明るくなっていた駅までの道のりは、いつもの十倍くらいに感じた。来た道を通っていると、案内所の前で先ほどの金髪キャッチが立っていた。
「お疲れ様です、勝ちましたか?」
笑顔で話しかけられるが、世間話をしている余裕は無く、無視して駅を目指す。
人通りは多いが、おっかなくてしょうがない。なるべく大通りを通り、iPhoneのインカメラを起動して背後を確認しながら歩いた。駅の近くになると人混みに紛れ、地下に潜り改札を抜け、電車を待つ。電車を待っている間も同じ場所に止まっている事はせず、ホームを歩き回っていた。
やっと電車に乗った瞬間、力が抜けて席のない場所に座り込んだ。
その後
東ラス親番。ラス目で迎え、配牌は最悪。目指すところはテンパイしかないような手牌で、必死に周りを抑えつける雰囲気を作る。でも付き合いの長い常連たちにはそれを見破られ、あっさりと親は落ちた。
「ラストありがとうございまーす」
年は明けても、相変わらずメンバー業を楽しんでいた。やはりこの仕事は楽しい。麻雀をするのも、お客さんとコミュニケーションを取るのも好きな僕にとっては天職だと思っている。最後にマンション麻雀に行ってから二ヶ月。あれから水山さんと連絡はとっていない。もうあの場所に顔を出すことは無いと思っていたある日。
「おい、これ見てみろ」
店の待ち席で、テレビを見ていたオーナーに呼ばれた。よくある裏カジノ摘発のニュースがやっているみたいだ。東ラスの卓があったので、気になりながらもテレビの方へ。
「もしかしてこれ、例の場所じゃないか?」
開いた口が塞がらない。場所はマンション麻雀のある繁華街。よくある裏カジノ摘発のニュースだったけど、逮捕者の一番上に名前が出ていたのは、あの川嶋さんだった。
「はい、そうです」
水山さんもパクられたのか?内偵は入っていたのか?いつからだ?現行犯ではなく、客なので僕がパクられる可能性は極めて低いが、水山さんの様子が気になった。
「すいません、少し電話してきます」
一入り中のメンバーから、ラストを告げる声が聞こえたけど、それどころではない。外に出て水山さんに電話をかける。外は暖かくなってきたものの、上着も持たずに飛び出してきたので、まだまだ寒い。
呼び出し音を聞きながら、最後に行った時に、かかって来た水山さんからの妙な電話を思い出していた。そして麻雀の事も。二度と行きたくはないけれど、真っ先に浮かぶのは楽しかったという事。これから先あんな痺れる麻雀を打てる機会はあるのだろうか。
留守電に切り替わる直前、水山さんが電話に出た。少し安心して、いつも通りの低いトーンを真似て問いかける。
——どんな感じですか
——そんな感じです
おしまい。
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