【考察】日本人が自分を犠牲にして仕事をするようになった理由とその処方箋
はじめに
僕が、小さい頃に、大正15年生まれの祖父がボソッと言っていたことが忘れられません。
中学生の頃から感じ始めた世の中に対する違和感があります。
どうして会社で働く大人たちは、長時間懸命に働いているのに、活き活きとしているように見えないのだろう。働けば働くほど家庭生活とのギャップが広まり、幸せを感じられなくなるのだろう。その疑問を持ったまま社会人になり、15年ほど働いた頃、父親に介護の可能性が出てきたときに自分の未来に光が見えなくなりました。
「ただでさえ自分を犠牲にして働いているのに、休日までも自分を犠牲にしなくてはいけないのか?」
仕事内容や給料や職場環境、チームワークなどにも不満をもっていたわけではなかったので「自分は仕事のことをそんな風に思っていたのか!」と驚きました。
反面教師にしていたはずの両親同様、自分もいつの間にか働けば働くほど家庭生活とのギャップが広まり、幸せを感じられない日々を過ごしていたのです。
この経験から、当時の自分も含めた、いわゆる旧来型の"会社人間"の「家族のために生活を犠牲にして働かねばならない」という思い込みの反動が、家事や育児や介護などの「家庭生活の仕事」の価値を認められず、分断が起きている原因なのかもしれない、と思うようになりました。
自分を犠牲にして働いていることに対する違和感に気がつきつつも、長いあいだ自分の心の声を聴かなかった理由としては、「違和感を感じている自分の方がおかしいのでは?」「この違和感を信じると日本社会で生存できないのでは?」という無意識の思い込みを持っていたためです。
これらの自分の声を認め始めたのは、コーチングという対話手法で、他者に自分の声を聴いてもらうことで、内省力を鍛え、自己理解を深めていった結果です。
やがて、自分もコーチングを学び、人に提供する立場になって、同じように「自分を犠牲にしている」人たちのコーチングをする機会が増えるにつれて、「これは個人の問題というよりも、日本全体の課題なのではないだろうか?」と、思うようになりました。
仮説
「日本人が自分を犠牲にして仕事をするようになった背景として、日本人は、第2次世界大戦で自己犠牲の精神が暴走したが、今もその信念を引き継いでしまっているのではないだろうか?」
そんなことを漠然と考えていた時に、バンダービルト大学歴史学部準教授の五十嵐惠邦さんの著書「敗戦の記憶: 身体・文化・物語 1945-1970」を読み、その仮説への思いは、より強くなりました。
今日はその著書を元に、自分自身の解釈や考察も追加して、日本人が自分を犠牲にして仕事をするようになった理由について改めて仮説をたててみたいと思います。
「戦前に東洋の盟主を目指した日本。その繊細で、誇り高き民族が、どのように敗戦を受け止め、いかに現在の姿に至ったのか。」
戦争、敗戦によって被った直視できないほどの痛みや傷を負った日本人が、その後、短期間で、アメリカという敵を味方として認知し、急激な復興を遂げていった理由として、敗戦の記憶を、「起源の物語」と著者が名づける日本国民が納得のできる物語へと転換していったというところから本論は始まります。
起源の物語とは?
起源の物語(ファンデーション・ナラティブ)の一部を紹介します。
この起源の物語により、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」天皇自らが " 回心 " して聖なる決断をしたことにより、日本を救ったという認識が出来上がりました。また、日本とアメリカの2国間の戦争という部分にフォーカスすることにより日本の被害者としての側面が強調され、アジアをはじめとする国家との戦争による加害者の側面に蓋をしました。
戦後、日本の「被害者としての歴史認識」が可能になった背景には、天皇の戦争責任が問われなかったことも大きく関わっています。第二次世界大戦後、日本はアメリカの占領下に入り、戦争犯罪人を裁くために東京裁判が開かれました。しかし、天皇はこの裁判で戦犯として告発されることはなく、その地位を保ち続けました。これは、主に占領軍を率いたダグラス・マッカーサーとGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、天皇制を維持することで日本の安定を図ろうとしたためです。
天皇が裁かれなかったことで、国民の多くは戦争責任を政府や軍の一部指導者に限定し、天皇と国家そのものを戦争の「加害者」から切り離すことができました。これにより、日本全体が戦争の「被害者」としての意識を持ち、かつ、「加害者」としては当事者意識の希薄化という土壌が作られたと言えます。
1946年、天皇は「人間宣言」(「新日本建設に関する詔書」)を発表し、神格を放棄しました。この宣言によって、天皇は神としての絶対的な存在ではなくなり、日本国憲法の下で「日本国民統合の象徴」としての役割を担うことになりました。これにより、天皇の地位は戦前の絶対的な指導者から、戦後の平和国家を象徴する存在へと変化しました。
この象徴天皇制は、戦後の平和主義と結びつき、天皇自身が戦争の責任を直接負う立場ではないという国民的認識を強化しました。また、天皇が政治的権限を持たない象徴的な存在として、戦後の新しい平和国家としての日本の再構築に寄与することとなり、国民の間で「被害者意識」が浸透しやすくなったのです。
日本人が自分を犠牲にして仕事をするようになった理由と処方箋
さて、ここからは僕の考察も加えていきたいと思います。
第二次世界大戦の日本の自己犠牲の象徴として、まず、特攻隊が思い浮かびます。
若い兵士が自らの命を犠牲にして国のために尽くす姿勢は、日本の武士道精神や忠誠心と結びつけられ、美徳として称えられました。この精神は、戦争中のプロパガンダによって強調され、国家の存続と栄光のためには個人が自己を犠牲にすることが求められました。
戦後、日本は敗戦の反省を通じて、このような「死をも厭わない」精神の危険性を見直しました。特攻隊員たちの犠牲は、国家が個人の命を軽視した象徴として批判されました。しかし、その献身や自己犠牲は、依然として戦後の組織や社会の中に残り続けました。
なぜなら、国民の多くは戦争責任を政府や軍の一部指導者に限定し、国家や"私たち"を戦争の「加害者」から切り離すことができたからです。そのため、戦争の反省は、
・2度と戦争をしてはならない。
・死が前提となった自己犠牲を繰り返してはならない。
という表層部分(Doing)に留まり、
・勝たねばならない。
・勝つためには自己犠牲を厭わない。
と言う深層部分の信念(Being)は、敗戦という痛みによりむしろ強化され、呪縛のように残りました。
自己犠牲の精神は、戦時中の軍事的な意味合いから経済的な再建のための労働へと形を変え、特攻隊のように国のために命を捧げることはなくなったものの、「会社や家族のために自分を犠牲にする」という考え方が強く残りました。
つまり、本質的には、戦争の時と同じ自己犠牲の精神をエネルギーとして、貧困から抜け出したいという生存本能や"起源の物語"では覆い隠しきれない怒りの感情なども強力な後押しとなり、戦後日本は急速に復興していきました。
しかし、経済復興が進むにつれて、貧困や怒りや痛みが薄れていくとともに、自己犠牲のエネルギーの副作用の側面が目立ってきます。
自己犠牲の文化が組織に浸透すると、個人はしばしば「全体の一部」として、機械的に扱われがちです。組織の目標や利益が優先され、個々のメンバーが持つ感情や願いは軽視されることが多くなります。このような環境では、個人は自分自身を「ただの歯車」として感じ、消耗される存在になりかねません。
組織が(正確には自己犠牲の精神で、自分の全体性を抑え込んだ個人の集団が、)個人の全体性を抑え込むことで、メンバーは本来の力を発揮することが難しくなり、創造性や主体性が失われていきます。
"起源の物語"も、その推進力を失っていき、起源の物語そのものへの違和感や抵抗が生まれたり、物語に則った上での加害者としての日本への批判や擁護など、複雑な分断や葛藤が生まれていきました。
この状況を、五十嵐惠邦さんは、本書で文芸評論家の加藤典洋さんの評論を引用して以下のように表現しています。
おわりに
自分自身もその症状を体験したことがあるため、本書の"起源の物語"に始まる敗戦のトラウマへの向き合い方は、まさに統合失調症と向き合うプロセスと似ていると、共感しました。
その上で、敗戦直後、焼け野原で大切な人も大勢亡くなり、食糧もない中で、「敗戦のトラウマをありのまま受け入れる」痛みからは一旦、目を逸らして "起源の物語 " にしがみついた日本人を、僕は懸命だったと思います。
体力や気力がない状態でトラウマに向き合うことはできません。
そして、その後の"起源の物語"をめぐる分断や葛藤こそ、トラウマに向き合う重要なプロセスだったと思います。
自分自身も、自己犠牲の人生を選択しないと決めた時に初めて、葛藤しながら懸命に自己犠牲の時代を生きてきて、バトンを渡してくれた両親に感謝の気持ちが湧き上がりました。
これからの私たちのテーマは、全体性の回復なのだと思います。
"起源の物語"によって、加害者としての「私たち」を切り離すことで、私たちは自己の闇の部分に蓋をしました。
東洋医学の陰陽の考え方にもあるとおり、闇の部分に蓋をしてしまうと、光の部分もその力を失います。
「敗戦のトラウマをありのまま受け入れる」=自分の闇の部分を受け入れることによって、むしろ光のエネルギーも解放され、光も闇も含めて、自分の中にあるものを認めていくことが、全体性の回復のプロセスであり、自己犠牲の暴走を繰り返さない処方箋でもあると思うのです。
「全体性の回復」は、歴史の複数の側面を統合し、分断された意識を回復することでもあります。被害者としての自己認識は、加害者としての側面と対立しがちで、これが内的な分裂を引き起こすことがあります。しかし、過去の責任を認識し、他国や他者と和解を目指す過程で、私たちは自己との和解をも果たすことができるのではないでしょうか。
小さい頃に、大正15年生まれの祖父がボソッと言っていたことが忘れられません。
全体性の回復の先にある世界は、光も闇も含めた自他の存在に寛容な世界、そして、それこそが真に平和な世界ではないでしょうか?