A midsummer’s night dream
飲み会の後の終電の席に座っている、そんな日の夜は、Odenseがやけに恋しく感じる、デンマークにある小さな島。
私がその友人と出会わなかったら絶対に訪れることの無かった島だ。大学の卒業旅行、私はその時コロナが来るなんてつゆ知らず、それでも大学のある土地に思い入れもなく、卒論発表の次の日には住んでたシェアハウスを出た。次の日には荷物を持って、福岡空港にいた。母はあまりの私もせっかちさに、呆れていたとも思う。けれども私はその土地に親しみを覚えなかったし、何よりさよならを言うことは大の苦手で、だから強制的にワクワクするような旅のスケジュールをでかでかと立てていたんだと思う。
まずは一人でタイに飛び立って親友に会って、そのあとデンマークに行ってまた違う親友にあった。彼女は空港まで迎えに来てコペンハーゲンのマックに行って変におしゃれで戸惑ったのを覚えてる、コペンハーゲンは美しい街だったけれどコペンハーゲンで過ごした1週間よりも彼女の実家のOdense で過ごした数日の方がずっとずっと特別で、素敵だった。
アンデルセンの街と言われているOdense 。
アンデルセンは人魚姫やみにくいアヒルの子、マッチ売りの少女を生み出した、童話作家だ。
Odense は、アンデルセンが過ごした幼少期の家や博物館があった。コペンハーゲンと比べ確かに大都市ではなかったけれど、彼女がドライブに連れて行ってくれて彼女の家族の教会を教えてくれて、アルデンセンの家を連れて行ってくれて、そして街のはずれにあったビンテージのお店も、かなり遠い記憶というよりもいつかみた記憶にやけに残っている夢のような感覚だったけれど、確かに訪れたんだなぁと写真とそのビンテージのお店で買ったマグカップが今日も私に夢でなかったんだよ、とそっと教えてくれる。
東京の終電の夜の空気はため息がいっぱいだ、だからそんな空気を吸っている日はやけにOdense の澄んだ空気が恋しくなる。
最近はというと、実は低迷中だった。モチベーションもあまり無かった、
それはpmsのせいなのか、はたまたそういう季節だからなのかさっぱりわからない。
美味しいラーメンを食べても心は晴れない。梅雨のせいかな。季節の変わり目だからだろう。
何かに、行き詰まるのはシンプルに、インプットが足りていないからだ、刺激も足りてないからだ。自分の持っている引き出しでは心が整理できないのだから引き出しを増やす必要がある、行き詰まって心が晴れない時こそ、踊るべきだし、静まるべきじゃ無い。どこかに行って何かを吸収するなり、何か勉強したり、新しい人に会ったり、新しい世界に飛び込ぶべきだと知っている。同じ生活の繰り返しじゃあ、戸惑いも、期待も何も生まれない。
苦しい時に、倒れないように自分を支えるのは一つの大きな柱ではなく、細くてもたくさん柱があったほうがいい、一本倒れてもまだ倒れないから。倒れないようにまた細い、柱を立ててみることにするよ。
物に執着しない人が羨ましい、私は色んな理由をつけてしまって、ご褒美に、とか、絶対大切にするから、だとかこれに出会ったのは運命だとか、今の自分にきっと必要だからとか、そんなことを言い聞かせながらものを買ってしまう。
買ったものは愛を込めて大切に愛着をもって、愛でるけれど、死んだときには何も持っていけない。Odense でみたアルデンセンの家はやけにシンプルだった、誰もが知っている童話書いた童話作家でさえ、残ったものはあんなにシンプルなのに、私は死んだ後にまで後世に、残るものなんかあるのだろうか。
だからこそ惹かれてものは消えるものだ、キャンドルとかお香とか時間が経てば原型を留めない、近い数分ごとか数時間後には消えてしまうものが今は光って見える。
世界は自分の鏡らしい、あなたの現状は今のあなたの鏡だよ、人間関係も環境も全部。
私が変われば周りの世界は変わってくる。世界自体はきっとこれっぽっちも変わってないだろうけれど、私の見方を変えることができれば、捉え方を変えることができれば私はずっと違う景色の中で生きることができる。
6月の最初の金曜日、リトルマーメイドを観に行った、映画館で映画を観るのは随分久しぶりだった。ディズニーのリトルマーメイドよりも実は原作の人魚姫の方が私は好き、原作のエンディングはかなり儚くて切ない。
人魚姫は王子が他国の王女と結婚を決めた時に姉たちが不憫に思って、髪の毛をバッサリ切って魔女にその綺麗な髪と引き換えに魔法のナイフを貰うの、そのナイフで王子を殺したら、人魚の姿に戻って泡にならずに済むのだけど、人魚姫は結局ナイフを使えなくて泡になっちゃうだよね。けれど、その後は風の精霊になって人々の幸せを運ぶ、というエンディング。
次の週の日曜はずっと行きたかったユナさんの肌診断に行った、ユナさんは初めて会う私にとっても可愛い花束をくれた、美容皮膚科は初めていった、
実は、随分前から私はSNSで溢れ出てる美容の広告にうんざりしちゃって、(SNSを整理している大きな理由な一つ)自分の表面的な部分ばかり固執して、美容や自分磨きは自分の粗探しを潰すための表面的なツールとして使ってしまうと一生満たされないと思っていたの、底の無いグラスに水を注いだって永遠に満たされないでしょ。
でもユナさんのプロフェッショナルな肌診断は、なんていうかこれから正しいアプローチで自分の肌と向き合える気がしてとっても心が整った、変だけど肌は外面的なことなのに心もつながっていて、とても不思議な感覚だった。
お薦めしてもらって購入したドクターズコスメを使っている時間は、自分をすごくいい意味で大切にできてケアできてるって体験してて、日々のスキンケアに対する価値観が良い意味で変わってきてるのを体感してる。
重い腰を上げて歯医者も予約して、やろうやろうと思ってたホワイトニングもしてみることにした。
これからも美容は自分の心も満たせるものに注力していきたいな。それにしても、プロフェッショナルなユナさんかっこよかった〜、プロフェッショナルなユナさんも、プライベートなユナさんにはまだお会いしてないけれど、きっとわたしはもう大好きだ。出会えて良かったと思う。Twitter初めてなかったらきっと会えてない。あぁ、そして私もユナさんのように瑞々しく歳を重ねていきたい。
ここに書こうか迷ったけれど私の心の置き場はここだから、書こうと思う。
今週、職場の人が急に亡くなった、本当に急に。
理由はわからないけれど胸に異変を感じて病院に行って待合室で倒れてそのまま意識が多分戻らなくて亡くなってしまったときいた。
信じられない、だって先週まで働いていて、ついこの間、事務所でも見かけたのに。あまり話したことはなかったけれど、知っている人がこんな形で亡くなってしまうのは初めてて、ずっとぐるぐると考えてしまう。
よくここでも、人生は短いから後悔ないように生きなきゃ、と書いて私は生き急いでしまったりするけれど、文章を綴った時の私はこんな意味で、生き急いじゃう、なんて意味じゃない。
それは自分が思っている当たり前の日常が永遠に普遍なく続く前提だったから。そんな前提は誰も保障されてないし保障されることなんて無意味だし不可能だ。どんなタイミングで私が死んでも、やりたいこと全部やりきるなんて難しいのかもしれないな、なんて思った。
だとしたら、ちっぽけなつまらないことで悩んだり、迷ったりしてしまうのは本当に勿体ないし、傷つける人を追いかけ続けたり、大切に扱ってくれない人のために時間を使うのは心底時間の無駄だ。なあなあでのらりくらりと時間だけが過ぎるように、生きてしまうのは本当にもったいない。でも、捨てたり大切だと思っていた場所から離れるのって勇気がいるよね、その時は正しいかなんて思っていても全力で信じられるわけではないし。でも正しい努力、はその時は傷ついたり不安になっても心が整理されていて、正しいって自分でわかるんだよね、大切なのはわかってはいてもその決断を実際できるかなんだと思う。
後30分もしないで6月が終わるの、
季節の変わり目が終わって夏がくる。
7月は、パートナーが家を空ける分、楽しい予定を沢山立ててる、16歳の時からの友達と高校の時に約束してたディズニーを約10年ぶりに果たすし、りほちゃんとも5月ぶりにあうし、ユナさんにもまた会える。資格の試験まで後少しなのでそれまでそれしか考えずに、勉強しなきゃ。でも、マティス展も行きたいな、
あとは沢山の愛を、大切にしたい人達やしてくれる人達とそして、パートナーと愛すべき我が家の犬、noodleにも伝えて。