本の話(恋の話)
実は私は5年ほど前に西の商人が統治する大阪の片隅、住人の七割がヤンキーという八尾という街からやって来たわけだが、その大阪八尾時代にも数年にわたり芸人として活動させてもらっていた。もらっていたってなんやねん媚びんなよ。自らやっとんねん。知名度ないだけで卑屈なったら終わり。というわけで芸人活動をやってたやりきってた。でもくそみたいなネタを満を持して披露していた。いまだに唐揚げのフリップといじられるのがいい証拠。だから大した芸人にはなれていなかった。当たり前のように仕方なく二つのバイトを掛け持って週何回かの労働に人生を割いていた。
その一つのアルバイト先の話。心斎橋にあるファストファッションの店員つまりは服屋の店員のアルバイトをしていたのだが、その時すでに27歳だか28歳だかで子供の頃に思っていた20代後半になれてなかったなあと日々思う28歳の頃で、周りのバイト仲間の半分以上は夢に煌めけ明日に輝け花の大学生ばかりだった。彼らにとって私は普段会う人種と違う人種という理由で人気があった。それは歳上で芸人というなんともいえないはみ出し者のやくざものの仕事をしているからであり、さらには会話がすっとんきょうで変。また相づちの間が変で返答したら返答したで変。相手的には「は?」で「へ?」で「ん?」もんのそれ。それ中のそれ。しかし大学生はそれを怖いもの見たさで絡んで「安田さんって個性的ですね」とキャッキャウフフ。もうこれは素直に楽しめる純粋な大学生がすごいのだ。そして更には自分からあまり会話せず人の話をウンウン聞いて会話を虚勢で膨らまし20歳のその辺にあるようなお手軽ケータリングサンドイッチのような28歳なら余裕で答えれるスーパーイージー人生相談にしか答えず少しでも許容オーバーの悩みには困り顔をして心中御察ししております顔でなんやでやりくりやり過ごしていたからで、決して自分の魅力が人を惹き付けて止まなかったわけではない。つら。
しかしやはりというべきか。やはり然るべきというべきか。そういう人間はグッと踏み込める人以外には煙たい存在というか、近所に住んでる交通手段が馬のおっさんみたいなもんでやはり気にはなるけど関わる気にならないような私はそんな類いの人間なわけで、休憩室で私は馬にも乗ってないのに結構な確率で一人過ごしていた。そしてその時いつも本を読んでいた。本を読んでるから一人でもええねんという文学青年気取りのATフィールド。
まあでも本はよかった。本は独りを忘れさせてくれた。別に独りが辛い訳じゃないけど、余りにも周りの人生の未来が明るく輝いていたので眩しくて直視できなかった。だから忘れさせてくれる本はよかった。サングラスの本。本のサングラス。どっちやろか?
私は文字を追って行くときに色んな想像をしながら読んでしまう癖がある。それが本の内容からどんどん離れていって文字そっちのけで進んでいく。勿論妄想と同時に引き続き文字を追う。追いながら次の文章が目に飛び込んでくるが妄想中の脳に届かない。前の文章で出てきた空想が広がって新しい文字の塊を遮るのだ。其れに気づいている。なのに空想想像妄想を止められない。妄想はバイオハザードがごとくどんどんモコモコふわふわグワグワ広がっていく。例えば商店街という文字が出てきたら肉屋とか本屋とか金物屋とか並んでるのかな?とかアーケードはあるのかな?とか駅からどういう風に延びてるのかな?自転車は降りて押してくださいの看板、急にあるチェーン店のスーパー、おばあちゃんが石像のように奥に鎮座する乾物屋、マダムしか対象としていない服屋、アジア雑貨店の店頭の民族服どれでも1000円のポップ、通り行く人にカルディのコーヒーどうですかー?、舗装された長方形のタイルの道、二種類の色のタイルでお花とかを模様つけしているのを子供がお母さんに連れられながら踏まないようによける、自転車がその子供の脇を通るときブレーキ音を軋ませる、キキィー!!、危ない!、すんでのところで無事の子供、お母さんに怒られる、もう夕暮れ、……。
そんなことがどんどん湧いてきて、その空想が終わったとき頭に門前払いされ入ってこれなかった文章まで戻ってまた読み直すことになる。だから本は読んでいてすごく疲れるのだ。そして読書が早い方ではなかった。だからいつも休憩室でだらだら一ページに何分もかけて読んでいた。
ある日そのバイト先のある女子大生と出会った。私は元々はしおらしくおしとやかな一昔前のような奥ゆかしい女性が好みなのだが、その子はダンスで鍛えたしなやかな身体と活発でいたずらっ子のような笑顔と構わずにはいられない小鹿のような屈託ない魅力があった。彼女はなぜかフロアの違う私にちょっかいをかけてきてスキンシップもちろんで馴れ馴れしくそれが嫌みでなく一人浮いている休憩室でも話しかけてきた。そんなのが何度かあり少し仲良くなった頃、私がシフトを出しにふらっと店に行ったときたまたま呼び込みをするために店頭に立ってる仕事中の彼女に邂逅し、その場の勢いで口頭で私はラインのIDを聞いた。その時点で少し彼女に惹かれていたのだ。それから何度か食事に行くことになった。男女の関係にもなった。
何度か会っているある日の帰り道、彼女が急に泣き出した。天気予報にない突然の雨のようなその涙に私は面食らった。話を聞けば私が付き合うなどの話もなく彼女のことを遊んでるのではないか?と不安だからだという。私はびっくりした。こんな30歳間近の不安定な職業丸出しの人間と大学生が本気になるとは思っていなかったからだ。だから付き合うとかは相手のために言わずいつ捨てていただいても後腐れないようにと思っていた。私は真面目に相手のことを思ったつもりだったがそれは逆で、私は彼女にそんな思いをさせているのかと反省しはっきり付き合うと約束した。
私は自分が大学生と付き合うなんて人生で最後だと思い(実はまだもう一度あるのだ。グヘヘ)それからは若くて清廉な小鹿のような子とのアバンチュールを楽しんでいた。
これはまあ言うなれば夢うつつのまどろみ時間だった。
それから暫くして太陽の小町として東京に行くことになった。私はこの小鹿を逃すまいと時間をかけて遠距離でも付き合っていきたいと説得し、同意を得て東京に行くまでの可能な限りの時間を彼女に割いた。そしていざ東京に行く昼バスの車内で携帯が震え、ラインのメッセージで「やっぱり無理です」だけというあっさりさでフラれるという運びになった。
話は少し戻るが結局フラれるのにせっせと精を出し遠距離恋愛説得真っ最中の時、もちろんバイト先にも東京に行く旨を伝えた。小説の中の登場人物のような夢を追いかけて東京に行くなんて物珍しいベタ中のベタな存在の私を彼らは心の底から応援してくれた。皆さんありがとうございます。送別会も開いてくれて人生で初めて花を添えられたような気持ちになった。プレゼントももらったりした。私の部屋にある数字が干支で表示している時計もその一つである。そんな中ある女学生に一風変わったお願いをされた。
「安田さんが読んでいる本を一冊いただけませんか?」
へー物好きな人もいるもんだなあとその時はそんな風にしか思わなかった。しかもその時読んでいた本も円城塔という少しクセの強い作家で、数学者から作家になったという遍歴のクセが読みづらさを助長している。そしてその人の書く文体もただただ自然に当たり前のように数学の証明のような文体になり読みづらい。その読んでいた本のテーマは宇宙と同時間別世界線とタイムパラドックスとヒーローものがごっちゃ混ぜになった短編作品で読みづらい。勝手な解釈で申し訳ないがおおよそ大学生が読むような小説ではないというか、物好きが読む小説に似たりかとおもう。そんなものでいいなら全然あげるよと二つ返事。
その本を持ってその大学生とシフトが被った最後の日に本を渡した。「読んでた本これなんやけどこんなんでいいの?」「はい。」「これもともと数学者やった人が小説家になったから読みづらいよ?」「はい、これがいいんです。」「そうなん?わかった!じゃあお渡しします。」「ありがとうございます。」彼女はしょうもないお願いをした申し訳なさとそれをちゃんと守ってくれた嬉しさの丁度間の表情をして大切そうにその本を受け取った。少しの心地よい沈黙があり「東京にいってもお元気で。」「ありがとう!」といって終。
正直その女学生とはバイト中もそんなに話したことなくというかその女学生自体が静かな子でその本をくださいってお願いされたときも向こうから話しかけられたのは初めてくらいで、それなのに浅はかな私は本が好きなんかな?とかその程度しかなかった。恐らくやけど彼女は私に好意を抱いていたと思う。慢心ではなくそう。もうそう思い込みたい。だってこの好意の伝え方はエモーショナル過ぎるやん。好きって言うだけが好きの伝え方じゃないねんやで。相手が遠いところに行ってしまって自分にも相手にも生活があってでも寂しさはあって。だからせめてあの人がいつも読んでる本を好きなものを一つ持っていたい。自分が最大限表現できるのがその行動。スキンシップしてグイグイくる女にグラグラ落ちるアホな男多すぎるやろ。これこそ私の好きなタイプのおしとやかで奥ゆかしい一昔前の女性の精一杯の好意の伝え方だったんじゃないのか?私はなぜあのとき気づかなかったのか?なぜ小鹿のケツばかりを追いかけてしまったのか。アホすぎる。
あのときの本をくださいって言った彼女の本当の真意は知らない。しかし私は今でも自分の浅はかさを悔いてやまない。
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