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東福門院の仏舎利台座に菊御紋と葵紋が並ぶ 【霊芝山光雲寺を訪ね-Ⅳ-】

南禅寺の境外塔頭である光雲寺は、同寺院のHPによると南禅寺と同じく大明国師が開山し、743年前の1280年に開創した寺院。もとは大阪北中部にあたる摂津国の、現在でいう四天王寺の付近にあった。開創は本山である南禅寺より11年前であると紹介されていた。
京都が応仁の乱で荒廃になった後に、南禅寺第280世英中玄賢禅師(1627年~1695年)によって後水尾天皇の皇后である東福門院の菩提寺として、現在の南禅寺北ノ坊の地に移し再興された。

庭園から見る光雲寺
南禅寺と同じく大明国師が開山 大明国師の掛軸

 これが光雲寺の歴史の概略であるが、その歴史の中で、再興の大きなキッカケは後水尾天皇の皇后である「東福門院」という女性の存在だったようだ。歴史好きな方は、東福門院と聞くだけで徳川幕府の時代の中で強く生きた人という印象を持っている人が多いだろう。東福門院は名前が「徳川和子(まさこ)」という、徳川2代将軍秀忠公とお江与の方との間に生まれた息女である。徳川家の血筋を引いた和子が、御祖父にあたる家康公の宿願により14歳で後水尾天皇に入内(じゅだい)されのちに中宮となった。将軍家から天皇家への輿入れである。  

東福門院坐像

 
歴史に疎い私でも光雲寺を訪れた際に目に留まったものの一つに、いままでに見たことのない状況で描かれている紋様がある厨子を見た。それは光明皇后の伝来のもので、東福門院御所持の、仏具である厨子の中に安置されている仏舎利の台座に天皇家「菊御紋」を中央にその左右に徳川の「葵御紋」が描かれていた。二つの御紋が一緒にあるのは、私の知る限りでは珍しいものに映った。徳川家に生まれ天皇家に嫁いで中宮になられた東福門院の仏舎利厨子だからこその貴重な文化財として目をひいた。  

少し見えにくいが仏舎利の台座に菊御紋を中央に両サイドに葵御門が描かれている

同じように目をひいたのが「東福門院坐像」と聖徳太子の作と伝えられている「弘誓観音像(ぐぜいかんのんぞう)」。とくに写真にあるように、弘誓観音が舟に乗って漕いでいる容姿の仏像はきわめて珍しいものだと思われる。   

弘誓観音が舟に乗って漕いでいる容姿の仏像  

その他の文化財は次回に紹介するとして、江戸時代の初期に徳川家に生まれ、政略的な結婚で天皇家へ嫁ぎ生き抜いた徳川和子。和子から東福門院へと立場も位も変わる皇后として大きな役割を果たしたのが歴史の中で語られている。ほんのささいな考証ではあるが、この光雲寺は東福門院の菩提寺として歴史が刻まれている。 

リポート&写真/ 渡邉雄二 

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