★それぞれが確かめ、求め。②
「ただいま」
私は急いで家に帰った。少しでも自分の時間が欲しかったから。毎日繰り返してることなのに、いつになっても慣れない。でも、ものすごく疲れる。
「おかえり」
――お母さんの声だ。廊下の先のリビングからかすかに聞こえた。これも、いつものこと。でも今日は違う。
何だかリビングに行きにくい。私は自分の部屋に荷物を置いた。どうしよう…。どんな顔でお母さんを見たらいい?
――でも、そんなこと言ってられなくて。
「美香子、先にご飯食べちゃいなさい」
お母さんは廊下のドアを開けて声をかけた来た。
――そう、そうしないと。時間が無い。考えるとか気まずいとか、言ってられない。悩む時間すらないのか…。いや、もう男のことはどうでもよくて。そんな場合じゃないから。
私はいつも通りリビングに行った。多分いつも通りの態度だろう。…お母さんは、…そりゃいつも通りだった。テーブルに私だけのご飯が用意されていた。急いで食べなきゃ。
「いただきます」
私が急いで食べてること、お母さんは多分知ってる。でも、栄養面はちゃんと考えてくれているメニューなんだよね。逆を言えば、考えないといけないのかもしれないけど。
「どう?味は」
お母さんが私の前に座る。いつものことなのに、ドキッとした。
「うん。美味しいよ」
美味しくなくちゃいけない。お母さんはいつも味を確かめる。
短いけれど、これが二人だけの時間。ごめんね、お母さん。
「そう、よかった」
お母さんがほほ笑んだ。瞬間、隣にあいつが見えた。
――ねえ、今日お母さんの不倫相手に会ったよ。お母さんはあいつがいいの?どうして不倫したの?そうやってあいつにも笑ってるの?どんな気持ちでアプリをインストールしたの?なんでホテル行こうと思ったの?あいつ、あんなんだよ?ねえ、不倫がバレたらどうなるかわかってるよね?どうして、めんどいことしたの?私のことなんて黙ってればよかったのに。ごめん、お母さん。ごめん。なんでだろ、悲しくなってきた。
「美香子大丈夫?」
お母さんの言葉にハッとした。ここで悲しい気持ちになったらだめだ。
「何が?大丈夫だよ」
すぐに知らんぷりした。
「そういえば、駅前の和菓子屋さんつぶれちゃったみたいね」
「え、そうなの!?」
昔からあって、私もよく買いに行った和菓子屋だっただけに、驚きが大きかった。
「あれかしらね、もう店の人もご高齢だったから、それで辞めたのかもね」
「えー、でもまだまだ元気そうだったけどな~」
「ま、理由はわからないけど、知っていたら挨拶に行けたのにね。いつまでも当たり前にあると思ってたから、びっくり」
「いつ閉めたんだろ?」
「うーん。まだ建物はそのままあったから、最近かしらね?あそこの道あまり通らないから」
「違うお店になるのかな?」
よく見かける「テナント募集」が貼られて。
「あそこ、二階が実家だから、どうかしらね。リフォームでもするのかもしれないわね」
「あー、そうかも」
今度、あそこの通り歩いてみようかな。たまには。
会話が途切れた。別にいつものことなのに。
貴重な二人の時間はあっという間に過ぎていく。もう少しいてもいいんだけど、お父さんをリビングで迎えたくない。まだ、時間はあるけど、ごめんね、お母さん。
「ごちそうさま」
食べ終えた食器は自分で洗うようにしている。せめてもの、お礼というか。ううん。お詫びなのかな…。お母さんの背中が見える。今、何を思ってるのかな。今までと違う。あいつのこと考えてるのかな。
それがお母さんにとっての幸せ…なのかな。いや、だめだめ!不倫なんてだめ!でも、、。何も言えない。言う権利なんて私にあるのだろうか。何を言いたいの?わからない。…わからない。今日あいつに会ったばかりで、まだ不倫を確かめて1日目だもん。
――玄関のドアに鍵が差し込まれる音がした。瞬間、私の全神経がドアに向けられた。心臓がバクバクする。…大丈夫、大丈夫。
ドアが閉まる「ガチャン」という音、靴を脱ぐ音、床に足をのせて歩く音。近づく足音…。
「おかえりなさい」
お母さんが急いで迎えにきた。いつも、お父さんは何も返事をしない。でも、お母さんが来ないと怒る。これから、お母さんはずっとお父さんにつきっきり。お父さんからの言葉は何もないのに。
「おかえりなさい」
私もドアを開けてお父さんに挨拶をした。私のせいで、お父さんが怒ったら、お母さんが可哀想だから。今の私には「勉強」という逃げ道がある。昔から、ここは私の部屋で、小さい頃はお母さんと「遊ぶ場所」だった。でも、お父さんが来れば、お母さんは行ってしまう。あの時はよくお母さんのところに行ってた。一人でいてもつまらないし、寂しいから。でも、その行動は当たり前のことだけど、反対に今以上にあの情景を見ることになった。いつしか、ここにいてはいけないと、小さい私でも悟ったのを覚えてる。
勉強に集中しなくちゃ。って意識を向けるけど、リビングに全神経がいってしまう。あまりはっきり聞こえないけど、かすかな音でさえも怖い。
――いつだ?いつ?
全ては結果論。今日は平和だったって思えるまで、ずっとこの恐怖と戦う。毎日毎日。まだ、お風呂や歯磨きや、リビングに行く用事も色々ある。だから、「勉強」だけを理由に、この部屋に引きこもるなんて無理だ。
お母さん大丈夫かな…。って、心配しといて、自分は逃げてるっていうね。
――今日は私がお風呂からあがった時、すでに始まっていた。
お父さんは大声は出さない。でも、脱衣所で、お母さんの少し大きい声、「ごめんなさい!」が何度も聞こえてきた。ドクリとした。頭がグランとした。脱衣所というバリアから出るのが怖い。とてつもなく怖い。でも、お父さんが脱衣所に来る前に移動しなくちゃ。でも、ドアを開けるのが怖い。怖い。怖い!
声はリビングの方からだ。大丈夫、大丈夫だから、早く、行け!
ゆっくり脱衣所のドアを開け、リビングの扉の窓ガラスを見る。二人の姿はドア先には無い。怖いけど、どうしてか少し、様子を伺ってしまう。
毎回全部が全部、お母さんが何をされてるのかわからないけど、今日はわかった。
いきなり、窓ガラスにお母さんが倒れこむ姿が見えた。私は目が合うのが怖くて、見てるのがバレるのが怖くて、一瞬固まりかけたけど、急いで自分の部屋に戻った。
お父さんの声がした。冷たくて怖い声。いつもの声。お母さんが必死に謝る。きっかけなんか知らない。
一度見てしまった、お母さんの映像が頭から離れない。私が助けに行くべきなんだ。お父さんは私には何もしてこない。ただ、お父さんの声、目、体全てからあふれ出るそれに、立ち向かえない。
あぁ。ごめんね。お母さん。
どうして電車遅れないんだろう。会社で残業とかしないんだろう。どうして帰ってくるんだろう。どうして飲み会とか無いんだろう。どうして近所の人は通報してくれないの。…多分聞こえないんだよね。
お母さん。私の大好きなお母さん。私を守ってくれて、でも私はお母さんを守れなくて、一人だけ逃げて。泣くことしかできなくて。沢山のお母さんの映像。忘れないよ、忘れられない。忘れられる時が来るのだろうか。
廊下、玄関、色んな場所のお母さん。そしてお父さんの声。そして、そして…。
「きゃあ!」
お母さんの悲鳴が聞こえた!
お母さん、今は何をされてるの。多分、暴力と静かな暴言だと思うけど…。胸がバクつく。ドアに近寄って、耳を傾ける。
もう嫌だ…
もうやだ
もうやだ もうやだ
やだ 嫌だ もうやだ
また涙があふれてきた
あと何回これを繰り替えす
あと何度泣けばいい
あと何度逃げればいい
あと何度見ればいい
あと何度考えればいい
あと何度確かめればいい
でも今日は違う。
―たすけ て。
スマホが涙でうまく反応してくれない中、私は、我を忘れてあの男、小野寺学にメールを送っていた。
――誰もそれを言わない。全ては確かめてから…
続く
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