生きづらさの本当の原因(数の論理)
図をつくった。
生きづらい原因は『数の論理』にあった!!
釣り鐘型社会の構造
野球でも、サッカーでも、「ホーム」では強いが、「アウェー」での試合は勝ちづらい。同じルールで戦っても、環境によって有利不利が生じる。
「アウェー」の地で戦うプレーヤーには、そこを「ホーム」とするプレイヤーと同じパフォーマンスを発揮するにも、より努力しなきゃいけない。
もし、今の日本社会全体が、発達障害を持つ人にとっての「アウェー」であるなら、社会で生きづらいと感じるのは当然だろう。
そして、現実としてそのようになっている。
私たちが、『発達障害じゃない人』たちより努力不足なのではなく、
すでに出来上がっていた社会が『じゃない人』ライクであり、発達障害にとってのアウェーの地となっていたからだ。
なぜそうなのか。
なぜ社会は、発達障害を持つものにとって生きづらさを感じるように作られているのか。社会が我々少数派を敵視しているのか!
いや、理由は簡単で、社会の多くの人は、発達障害を抱えていないから、だ。
発達障害向きに作った社会に「じゃない人」を合わせるより、
発達障害を持った人が「じゃない側」に合わせざるを得ない。
前回、数の論理が働いてしまうといったのはこのことで、
これは、発達障害であるかどうかにかかわらず、少数派に起こりがちだ。
たとえば、左利き用のはさみは、圧倒的に種類が少ない。
どうしてそのような事態になってしまったのか。
もちろん、メーカーの社長が、過去に左利きの人に振られたからとか、そういう個人的な復讐心や蔑視が原因ではない。
理由は簡単で、左利きの人が少ないので、売れない。
需要と供給の関係。売れなければ作らないのだ。
意見を集約しなければならなくなったとき、多い意見に合わせるのは自然な成り行きだ。仕方ないことと言える。
とはいっても、現状、左利きの人はたくさんいる。ニッチではあるが、確かな需要がある。だから、種類こそ少ないが売ってる。
でももし、その数が減れば、需要が減り、需要が減れば供給もなくなる。
左利きの人が日本に三人しかいなくなれば、
左利きのはさみは誰も作らなくなるだろう。
その人たちは使いづらいはさみを使わざるを得なくなる。
少数派であればあるほど、生きづらくなるのだ。
障害がある人が生きづらいのは、決して処世術が劣っているのではなく、
単に大多数向けに作られた、
いわば『多数派マイズ』された社会の仕組みが合わないだけなのである。
社会をうまく回していくために、どちらかに合わせざるを得ないので多数派に合わせている。
多数派は自分たちに合わせた『ホーム』の中に生きているが、
私たちは、彼らのホームに遠征にいく。
少数派は「多数派マイズ」された社会に合わせて(あげて)いるのだ。
(そして、合わせてあげている「損失補填」として、福祉制度や手帳があるというのが私の考えだ。⇒詳しくはこちらの記事を参照)
こういうと、なんだ恩着せがましいと思われるかもしれないが、
ここで言いたいのは、以下のようにシンプルなことだ。
生きづらさの原因、発達障害の人が劣っているとか、
努力不足とは関係ないんよ。
むしろ、アウェーなのによく頑張っている。
そうやって、自分をほめてやってもいいと思う。
もちろん、努力と工夫は必要だ。
社会を責めたり、国外へ居場所を求めたり、
反骨精神を煮えたぎらせて、エレキギターを手に取る必要はない。
社会ってやつが、通りをパーカー着てウロチョロしてるなら、
とっつかまえて、ビンタくらわして、
「てめぇ社会、何てことしてくれたんだ、すぐ元に戻しやがれ」と
怒鳴りつけてやりたのだが、
『社会』なんて奴はいない。
だから現実ラインとして、社会全体が、まだ成熟されていないことを部分的に認めつつ、上手いことやっていくしかない。
さて、どうするか。
それは、自分で考えてほしい。
さて次回。
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