遙かなるルシス -シーズン1
遙かなるルシス、シーズン1
「古き闇の名をもとめて」
序
一匹の虫がいる。そいつは暗い檻の中で、自由を知らないまま、ひとつの不自由もなく暮らしている。ある日、邪悪な鳥が舞い降りてそいつに言う。「外は明るく、困難と喜びに満ち溢れ、何よりとても広い」虫はその羽搏きに自由を聞き、またその瞳に光を知った。虫は外を目指そうと、来る日も来る日も檻をよじ登った。がらんどうの空間、黒く手掛かりのない壁、そして無音と暗黒。虫は今まで過ごしていた世界がどんなものか、本来ならば知りえない、かつ何の意味もない現実を知った。果てしない年月を上ることに費やし、そしてその虫は至った。檻の縁を転げ落ち、まばゆい光が差す世界に目を焼いた。そして、本当の暗闇というものが舞い降りてくるのを知り、かつて暮らしていた狭い檻の中よりなお狭い鳥の胃袋でその一生を終えるのだ。
ライザールの街並みに臨むとき、彼はいつもその童話を思い出す。暗く乾いたブライト・ラプトの曲がりくねった路地を抜け、陰気な羽根をばさばさと震わせる巨大で鈍重な種族が何かしゃべっているのを頭の上で聞きながらトンネルをくぐり、最近はいつも薄く雲のかかった空の下へ出て…ぼんやりと、墓場に踊るホタルめいた光を無数に灯した「灯火の街」を、丘の向こうに初めて見た時、彼はひとつの檻から抜け出して、更に大きな檻の中へ踏み入ったような感覚を覚えたものだ。
振り返ると地下都市へのトンネルが物憂げに口を開けている。その遙か向こうには、閉ざされた清浄なる都が──王都ルシスの城壁が、晴れていればだが──臨めるだろう。彼のような地虫の足で日の下をそこまで歩くのはひどく億劫だ。水晶レンズ(かなりの貴重品だ)の備わった小型の望遠鏡を懐に忍ばせ、染みついてしまった鋭い眼光と疑り深い表情を隠すように灰色の硬い甲殻笠を降ろし。見るからに怪しいそんな姿の彼を見咎めるやつはもちろんいない。ここはライザール、灯火の街。ありとあらゆるものがぼんやりとした光に溶ける、希望と忘却、日常と誤魔化しが交錯する街。
一
普通の者ならば物理的にも精神的にも立ち入らないような場所やそういった秘密──たとえば犯罪──へ踏み込み、以てそのうちから見出したものを成果とする、そういった事を生業にしている者たちがいる。彼らはいわばジャーナリストでありながら同時にトレジャーハンターでもあり、また遺跡荒らしであると同時にナイトクローラーであった。その全てを同時に行う者はごく限られていたが、人は彼らのような闇に顔を突っ込んでしか生きられない者のことを総じてセベクと呼んだ。もちろん、あの希代の大盗賊にして暗殺者、誰より間抜けな死に様で知られるセベクが由来だ。
彼はルシスの王を殺したと吹聴してまわり、またそれによって捕まるようなこともなかった。また、あちこちの…今は廃墟となった古代の遺跡から目を見張るような宝物を見つけ出しては呆れたような安値で売り、酒などは飲まずにくだらない菓子を好んで食べた。…細身の甲虫は往々にしてごく少ない食事で生き延びる。赤い複眼にきらきらと稚気じみた熱を浮かべ、セベクは夢を語った。そして自分を覆う虹色の甲殻が傷つくたび、それを誇った。暗殺者だという噂はきっと嘘だったのだろう。彼は争いとは無縁で、それが起こるといつの間にか姿を消していた。
そんなセベクがある日うっかり毒茸を食べて死んでから、どれくらいになっただろう。初めはトレジャーハンターを指して呼ばれていた闇探りのセベクという名前はいつしかそういった集団への呼称となり、その由来である盗賊セベクはおとぎ話の存在になった。今でも、ブライト・ラプトの子供たちはセベクのくだらない死に様をまねて遊ぶのが好きだ。フラフラとお腹がすいて倒れたフリをして、ふと目の前に生えていたキノコに手を伸ばす。大げさにそれを食べ、大げさに苦しんで死んだふり。大人たちの苦笑と、セベクたちのどことなく懐かしい視線。
今やブライト・ラプトはかなり大きな地下スラムの集合体となり、数々の危うい組織が乱立する間を縫って慎ましく種々の人々が暮らすごった煮のような街だった。一体だれがこの都市を掘り進めているのかは誰も知らなかったし、知る必要もなかった。ブライト・ラプトの自治組織として最大勢力を要する自警団(彼らは自分たちをレジスタンスと呼ぶ。何に抵抗しているのかは…知られていない)も、この都市の本当の深淵には近付かない。少し上がれば地表に出られて、灯火のライザールが見える…そうした、ごくギリギリの、水面の少し下…それくらいが一番騒がしく、にぎやかなものなのだ。
誰だって、足元数十メートルだか数百メートルだかに得体の知れない空間が広がっていることを意識したくはないものだ。
「最も勇敢なセベクでも、本当の暗闇を見たことはない」そんな風説も出回り、ブライト・ラプトの最下層は暗黙のうちに秘されていた。
「おじちゃん、セベクなの?あたし、すっごい特ダネ持ってるよ」
「セベクって本当?僕の話、聞いてよお」
よそ者慣れしたライザールの子供。懐の水晶レンズを掏られないように三本目と四本目の腕を突っ込みながら、ディムロスは無言でその間を通り抜けた。急ぎ足の者、翅のある者とない者、色とりどりの者たち、見上げるほど大きくのろい生き物、鎖でつながれた小さな“鱗あるもの”、笑い声、店先から人を呼び込む声、楽器の音、かすかな怒声、あるいは呻き、そしてあまりに多様な足音。そういった感覚が一気に地虫の五感を襲う。彼はそれらすべてと自身を切り離し、灰色の笠の下から、今日の街並みを見るともなく見つめる。
常におだやかな光で満たされたこの街は、いるだけで漠然とした幸福感を与え、考える力を鈍らせていくようだった。それは商売にうってつけの条件であると同時に、ブライト・ラプトの冷たい暗がりに慣れたものにとっては少し眩しすぎる。とはいえ、その程度の感情で彼の脚運びや思索が途切れることはなかった。彼はセベクであり、この狭い世界の暗部を暴いては娯楽として提供することを生業としていた。その原動力は富でも名声でも、あるいは正義感でもなかった。
それを尋ねれば、彼は首をかしげて言うだろう。「さあな。それ以外に生き方を知らないだけだ」と。あるいは彼を知る者ならば、彼の無名の根源を好奇心と呼ぶだろうか。
…死人が出るような事件に“偶然”居合わせてショッキングな場面を捉えたり、名の知れた人物のスキャンダルを引っこ抜いてばらまいたり、そうした刺激にライザールの人々は飢えていた。だから、彼を知るものは同業者にも名も知らぬ後輩にも多い。あるいはそんな彼を恐れる者も。
「旦那」
知った声に彼が立ち止まり、暗がりを見つめた。灯りは多いが、その分影も多い。上しか見ていない観光者やよそ者、そして大半の住人が気付かない…あるいは故意に無視している暗がりはいくらでもあった。
「来てたんですね」
「ついさっき、上がってきた。ライザールは相変わらずだ」
素っ気ない彼の言葉に乾いた笑いを返しながら、ライザールの水先案内人として観光客には表の顔を、ディムロスたちのようなセベクには裏の顔を見せるシクターン、マライ・ロン=シクターンは異国出身のもの特有の長い触角を揺らした。
「やっぱりアレを見に来たんでしょう、実際のとこ、来ると思ってましたぜ」
にやにやと手を揉むその男に、彼は無機物でも見るような視線を向けた。
「関係ないな。俺が見るものは俺が決める」
「そりゃあもちろん。セベクの信条、ね…」
言いつつゆっくりと歩き出す男について、彼も灯りから離れた。揚げ菓子の甘い匂いが店先から漂い、木造りと石造りの建物が複雑に立ち並ぶ通りをあいまいに揺れている。ランタンに閉じ込められた、暗闇を食べる奇妙なホタルたちが、今日もせっせと光を生み出している。その鈍く、穏やかで温かい光が、種々の匂いやざわめきを可視化してみせるようだった。シクターンは人の影を避けるように細長い足を運んでいく。
「それで、どこへ?」
「そりゃ、ついてからのお楽しみでさ。あんたを騙そうなんて奴はいやしませんって…そうでしょう、ディム?」
「ディムロスだ」
「ヒヒ。恐ろしきディムロス・トーランド!ひとたびその目に囚われしものは…」
「やめろ」
男の軽口を封じるように冷たい言葉とわずかな殺気が放たれ、引きつったような笑いを残して細長い身体の男は沈黙した。三本目の腕の先には、失伝した加工技術が鍛えた黒曜石のナイフがある。セベクの仕事は性質上、荒事を含む場合が多い。当然の備えであった。
とはいえ案内人としての認可を受けたものを攻撃することは許されていない。シクターンは生来の臆病者であった。
案内が黙り込むと、上げ潮めいてゆるやかな街の喧騒が裏路地をひたひたと満たし始めた。ディムロスの感覚には、それがどこか重く、何かを待つように張り詰めているように思われた。歩く道はどんどん急な坂道になり、そんな街並みから離れていく。
「シクターン」
「あい、あい。なんだい、ディムロスの旦那」
シクターン、臆病な案内人は振り返らず、歩調を緩めずに答えた。
「どれくらいの者が知っている」
「さてね」
肩をすくめるシクターンの先で路地が開けた。ライザールの東側を一望する高台は今や行き場のないごみ溜めであり、当然こんな場所にたむろする者もいない。何に使うかも分からない歪な歯車を蹴っ飛ばし、シクターンは無造作に座り込んだ。灰色の触角がゆらゆらと揺れる。
「別にあいつらは隠しちゃいない。近づかなければなにもしてこない。それがルシス・デインのやり方…あのクソ城壁と同じでさ」
ディムロスは黙って腕を組みながら笠を脱いだ──一本目で笠を脱ぎつつ、二本目でカメラを取り出し、三本目と四本目を組んだのだ──地虫らしい扁平な頭が露わになり、短い触角が風の流れを敏感にとらえる。くすんだクリーム色の複眼に、街の朧な光は反射しない。
シクターンも黙り込み、じっと東を見つめた。夕方になってようやく晴れてきた空を突き刺すように、王都の尖塔が聳えている。王都とライザールの間、その地下にブライト・ラプトが広がっている。その地表、荒れ果てた茶色の平原に、淡く白い光の列が見え始めた。シクターンが呻くようにつぶやく。
「来た」
ディムロスは既に水晶レンズ投射器を構えていた。二枚組み合わされたいにしえのレンズが、尋常ならざる望遠性能を発揮する。白い光と思われたものはなにか超自然の籠であり、それがいくつか…三つほど連なり、列になって行進していた。地上を滑るように動くそれは間違いなく王都に残された異術の産物であり、籠の先端に立つ騎士めいた人影もまた流麗で洗練されたシルエットをしていた。不意に、その周りで地面が盛り上がった。
「…あれは」
遠目に見守るしかないシクターンにはその様子は見えなかったが、ディムロスは一部始終を見つめることができていた。大地を割るように飛び出した粗暴な人影が、一様に粗末な武器を持ってその列に襲い掛かったのだ。
それは、風が吹いたようにしか見えなかっただろう。光の籠は少しも速度を落とすことなく進み続け、鎧のシルエットが手にした白銀の剣を振り抜いた。行われた行為はそれだけだった。なにがしかの異術、超自然のロストテクノロジーがもたらしたものは一方的で無慈悲な破壊だった。ディムロスは舌打ちし、望遠をオフにしてゴミの山にもたれた。
「いいのかい、旦那?」
「ああ」
そして再び笠をかぶった。
「どうせ、近づくには時間がかかる。真下を通るんだろ」
「奴らが遠慮すると思うかい。ま、少しは避けていくかも知れないが…今日の通りで子供を遊ばせるような親はいねえや」
特筆すべきことは起こらなかった。王都の貴族を乗せた籠はライザールのメインストリートを滑るように進み、誰もそれを妨げはしなかった。皆、分かっているのだ。王都の清浄な白い光に手を出せば、たちまちその身を焼くことになると。ライザールに灯った暖かく濁った光の方が、何倍も何倍もましだということを。
「…シクターン」
「へえ」
「奴ら、どこへ行く?」
「へ?」
シクターンの動揺は最もだった。ルシス貴族の動向は、いわば天気のようなもの。いつ振り出し、降りやむかなど分かるものではない。ましてや、それを探ったところでどれだけの意味があるというのか。だが、ディムロスの複眼は言い知れぬ淀みに疼いていた。
「俺は…そろそろ、真実を知りたいと思っている」
シクターンが答えかねていると、ディムロスは続けた。乾いた風が王都の方角から吹き、何かの焼けたような匂いをごくごくわずかに運んできた。
「檻の童話を知ってるだろう」
「暗い檻から出ても、鳥に食われるだけ。だったら何も知らず、与えられた場所で生きる…暗黒時代の処世術でさ」
鳥なんてものを見たことがあるやつは、もう一握りも残っていないだろう。
「奴らは檻の外にいると思うか?俺たちが檻の中から、あの白い光を見ているのか?…シクターン、俺は違うと思う。どちらもな。俺たちはどちらも檻の中だ。奴らは奴らの、俺たちは俺たちの、檻の中にいる…セベクとして世界を見てきて、それが分かってきた」
「だ、旦那」
シクターンは得体の知れない恐怖を覚え、ディムロスが見つめる眼下のライザールを見つめた。光は暖かく、眩しい。西へ向かって、冷たい光の列が通り過ぎ…消えた。山の影へ入ったのだ。薄い雲のように、黒い霧が地平線に揺れていた。
「見ろ。最近、どうにも瘴気の活動が活発だ」
「おとぎ話だけのもんだと思ってたよ、オレぁ…」
ディムロスはついに踵を返し、装束の裾をきつく結んだ。シクターンはその時初めて、ディムロス・トーランドが簡素な旅支度をしていたことに気づいた。
「いにしえの盗賊セベクは未知を求めた。キノコの味も、食べなければ分からない…瘴気の活動が活発になってから少しして、貴族どもが西へ往復するようになった。そう思わないか」
ディムロスの声音は硬く、一切の感情を読み取れなかった。だが、それなりに付き合いのあるシクターンはその表情と立ち居振る舞い、そして長い触角を持つものに特有の感覚で、彼が泉のような好奇心を湧き立たせていることをぼんやりと察知した。
「…行くんですかい」
「ああ。早めに来たのもそのためだ。準備が要る──西の方でよからぬ噂を耳にしている。瘴気との共存だかなんだかを謳う宗教団体があると」
来た道を歩き出したディムロスを追ってシクターンも立ち上がった。行きと帰りで立ち位置は逆になったが、立場はむしろ、更にディムロスが上になったようだった。シクターンは半ば呆然としながら自分の記憶を探った。
「聞いたことはありやすが…なんでも、本当に瘴気の影響がなくなったとかで。今では信徒も大勢いるとか」
「お前の耳にも入るほどだ。ジェンダールなら、もう少し詳しく知っているだろう…ブライト・ラプトではあまり芳しい成果を得られなかった。あそこの住人は、自分達の空が落ちてくることしか心配していない」
へへ、とシクターンが笑った。街の喧騒が聞こえだしたが、今度は正真正銘、誰もが穏やかな顔でその中を泳いでいるようだった。ディムロスは笠を目深に被り、懐のナイフとカメラを三本目と四本目の手でなぞった。硬い爪の先に黒曜石の柄が触れ、澄んだ軋みが関節に伝わる。落とした視線の向こう…刻まれた未知の轍の先、西の空に、大きく血塗れの太陽が沈んでいくのが見えていた。
ジェンダール・ラプソディーは名前の通りふざけた、楽観的な男で、翅のような外套を着た羽虫の一族だった。緑の複眼はいつもディムロスより高いところにあり、際限ない悪巧みと競争心に常に燃えていた。彼は王都の“壁”に限りなく近づき、その欠片を削いで帰ったこともあるやり手のセベクだった。
「いない?」
ディムロスが繰り返すと、東ライザールの情報収集を一手に担う“黒い目”のカブラー、老いた元セベクでありライザールのセベクを「シメる」男は頷いた。あいさつ代わりに先程撮った写真を渡すと、カブラー老は一瞥して懐に入れ、それきり忘れてしまったようだった。乾いた短い触角はぴんと天を向いたまま動かない。光を遮るように張られた天幕から顔だけを突き出すようにして、しわがれた声がひそひそと言う。
「お前が来るんじゃないかとは言っていたがの」
抑揚のない声からは何も読み取れない。ディムロスは不遜に腕を組んだまま尋ねた。
「他には?何も残してはいないか」
「西へ向かったよ、ディム。ジェンダールは西へ行った…ちょうど、今日にやつらが通った道をな。そう前のことじゃない。そうさな、三日も前か」
カブラー老が囁くように言い、枯れ木のような指をゆっくりと西へ向けた。西ライザールの市場が真っ直ぐに続き、いたるところに提げられた灯りが誘うようにそこを連なっていた。くぐもった賑やかさと音楽が川のように流れゆき、無人の荒野へ消えていく一本道。遙か西に横たわる安寧の地ネルグに至るまで、およそ意識あるものが集う場所はない。
ひときわ物悲しく甲高い弦楽器の音色が聴こえ、ディムロスの意識は軽い飛躍から引き戻された。とはいえ、だいぶ遠くだろう。地虫族に特有の感覚が、地面を伝わる音を振動として感知させるのだ。
ジェンダールは暗闇の荒野を一人で行ったのだ。ディムロスには分かった。今の彼と同じ、ひそかに熱を持った好奇心と、暗がりに惹かれるセベクの性が同じものを探り当てていたに違いない。
「邪魔したな」
「西へ向かうのか、ディム」
うっそりと顔を上げたカブラーの視線がディムロスのそれとぶつかった。お互いに、地虫族らしく硬い無表情を貫いていた。カブラーはふと笑ったように顔をしかめ、謎めいて黒い何かの札を差し出した。
ディムロスは黙って受け取り、灯りに透かして改めた。ガラスのように透明な繊維で織られた護符で、黒く見えたのは何か不浄な粒のようなものがその内をくるくると踊っていたからだった。手にしただけで厭な感覚が全身を駆け抜け、同時にどこかで抗しがたく名状しがたい欲求が目を覚ますような錯覚をもたらすその札は、間違いなく何かの異術を秘めたものだ。
「持っていけ。わしが平気だったものだ、お前さんでも平気だろうよ」
「どこでこれを?」
カブラー老はにゅっと肩を突き出し、ディムロスの背後を指さした。
「ついさっきじゃ。馬鹿な娘っこが一人、フラフラとな」
そこには何もなかった──不自然に何もなかった。何かが通った跡があるだけだ。
「こいつだけは消え失せなんだ。そういうものは必ず何かがある…フォハ、ハ、ハ。老いたりとはいえ、やはりセベクの好奇心は消せんものじゃ…それにな、ディム。似たようなものを、西から来たという旅人が持っておった。これはわしの直感じゃが」
「ああ。きっと正しいだろうな」
ディムロスは老人の言葉を遮り、無造作に札をしまった。言わなくても分かることだ。きっと繋がりがある。間違いない。そこにどんな真実があるにせよ、ただそこに謎めいた真実がある…それだけで理由は十分だった。愚かだと笑われても、決して探究と好奇の心を失ってはならないのだ。光と未知と自由を求めて、愚かにも暗闇から這い出した虫がいたように。
カブラー老に礼を言って歩き出したディムロスに、待ち構えていたシクターンが駆け寄った。
彼が手短な祈りの言葉と共に手渡したのは、果物や“鱗あるもの”の肉を乾燥させたものを小さく分けて帯状に連ねたものを二つ、そして水をため込む硬く巨大な花びらといった荒野の必需品である。それらを慣れた手つきで身に着け、ディムロスはライザールを離れるべく歩みを進めた。
細長い市場をまっすぐに突っ切る超自然の轍はしばらく消えそうになかった。ヴァイオリンの音色が聴こえる。どこかの没落貴族が日銭を稼ごうとしているのか、雑踏に紛れることのない旋律は洗練されて近づきがたい印象を秘めていた。
シクターンの見送りを断ったのは、奇妙な予感がしていたからだった。荒野に出るのは初めてではないし、トラジェリプスまでの道のりを僅かな食糧で乗り切ったこともある。悪漢どもの群れを切り抜けて──幾人かは殺して──山の中を三日三晩逃げ切ったこともある。ジェンダールと並んで巨大な“鱗あるもの”を退け、憎まれ口を叩き合いながら朝を待ったこともある。それでも、この予感は…今度の旅から、戻れないのではないかという予感からは、不快な直感が滲んでいた。だから、こうして暮れなずむ空を見上げながら、ライザールを──この、明るすぎる大きな街並みを、ゆっくりと歩くことにしたのだ。
道は逃げない。この道を行き、そしてこの道を帰ってこられるように…赤い夕陽が伸ばす血のような手を、ホタルの灯りがやんわりと阻んでいる。ごうごうと吹き付ける禍々しい風の音を、必死に客を呼ぶ声と弦楽器が中和する。ディムロスの胸の内でも、熱い好奇心と不吉な予感が音を立ててぶつかり合っていた。浮かれた無関心の群衆の合間を縫うように細やかな足運びで彼が通り過ぎるたび、濁流に生まれた空白を人の波が埋めていく。
ふと、空虚な想像がよぎった。自分が居なくなったとして、何が変わるわけでもない──人は流れ、時も流れ、そして自分がいたという証、存在の痕跡さえ、波に洗われて消えていく。胸の内に不可解な火が熾り、逃れられない理不尽への無意味な怒りが湧いてくるようだった。何かが違う。それが自分の感情でないことを把握し、ディムロスはあの護符を取り出した。黒く不浄な力を宿した透明な札。セベクは人知れず死ぬものだ。闇の遺跡で死の罠にかかって、暗い路地裏で謎の暗殺者と戦って、あるいは…毒キノコでも口にして。そこに理不尽などない。セベクとなる者は自らそれを選んだのだから。
ジェンダールなら…あの無鉄砲で嫌味なトレジャーハンターなら、何かわかるかもしれない。少なくとも、何かよからぬ影響が滲み出ているのは分かった。とはいえ、捨てていくわけにもいくまい。それに、不穏な直感の渦中にそうするべきではないという声があった。
迷いはしない。ディムロスは思考の中で繰り返した。選んだことだ。
ライザール西端の門に近づくと、少しずつ店の軒は減っていく。人の流れは早くなり、誰もが暗い荒野から少しでも離れようとしているようだった。その流れに逆らいながら、ディムロスは耳と感覚を研ぎ澄ましていた。ヴァイオリンの音色が少しずつ大きくなってくるのをとらえたからだ。どこかの店の中や、多少の高級感(つまりそういったコンセプトのもとに)あるテラスで演奏されているのかと思っていたが、どうやら本当に道の端で弾いているようだった。それも、門の近くで。
(素人か?それとも、理由があるのか?)
自分には関係ないことだと分かっていたが、なんとなく…なんとなく、その寂しく気高い音色を放っておけないと感じていた。音楽に造詣などなかったが、彼は自分の直感を信じることにしたのだった。道は一本しかない。やがて、かすかなラベンダーの香りと共に音の源が現れた。
結論から言って、ディムロスは立ち止まらなかったし、演奏者に何か言うこともなかった。ヴァイオリンを爪弾く人影は、しかし孤独ではなかったからだ。一様に汚らしい身なりの子供たちに向かって、細い身体の見慣れぬ種族は少し困ったように笑いながら演奏を続けていた。
きっと金にはなるまい。だが──ディムロスは一瞥しただけで、その演奏者の背後に労苦の跡を見て取った。自分とは異なる生き方をしてきて、そしてそれなりの試練をくぐってきたものにしか、こういった行いは出来ない。それは誰にも、特に闇探りのセベクには、邪魔されてはならないものなのだ。
ライザールに門番はいない。荒野の悪しきものは、一晩中灯されている光を嫌って寄ってこないからだ。傾いた日が西へ沈むのと同時に、ディムロス・トーランドは“灯火の街”を背にした。
*
「本当にいいんですかい、旦那」
シクターンは不安げに尋ねたが、カブラーは黒い目をぴたりと虚空にとどめたまま頷くだけだった。
「よいとも。そうせざるを得ないからこそ、奴らはセベクなのだ……わしと同じでな」
「…彼のように、帰ってこなくてもですか」
その言葉は苦く、けれどカブラーにとっては抑えた笑いを呼ぶものだった。彼は袂から鈴を取り出し、何度か鳴らした。
「フォ、ハ…そうじゃよ、シクターン。誰もが同じ道をゆく。そして、誰もが違う道で戻ってくるものじゃ。──さあ、わしも仕事にかかるとしよう。シクターン、いつもの場所に…薬と果物かなにか、持ってきてくれるかの」
言うが早いか、カブラーはひょいと身体をひっこめた。もう、動き出したのだ。
シクターンは小さく溜息をついて踵を返し、もう一度西の方角へ向けて祈ると、ライザールの街へひょろ長い身体を揺らして消えていった。
*
「止まってくれるかな」
ブライト・ラプト自警団の執行者サイアンは不機嫌だった。この日、目覚めた瞬間に見た顔が不愉快そのものだったからだ。汚らわしい黄緑色の顔を思い出し、サイアンはまたひとつ不機嫌になる。
サイアンが呼び止めたフードの人物は、黙って彼に向き直った。地下都市ラプト十二層。正気の観光客ならば丸腰では降りてこない下層。そして、ここはその東の端だった。つまり、ルシスに最も近い場所だ。闇喰い線虫の数も少なく、断続的な発光を繰り返す奇妙な白い石が等間隔に並ぶだけの坑道。そこかしこに造られ、しかしそれを知りうるものでなければ正しい場所へ通り抜けることさえ叶わない脇道から執行者は現れる。張り巡らされた奇怪な“感覚の糸”に触れたものがいれば、即座に。
「この先には立ち入れない。死にたいならどこか別のところで死んでほしいな。僕らにとっても、ルシスと面倒な関わりを持ちたくない」
フードの下から覗く眼光はあまりにもこの場に不似合いな、初夏の新緑を思わせる強く瑞々しい輝きを帯びていた。サイアンは訝しむ。彼女は──そう、彼女だ──フードを脱ぎ、毅然としたまなざしで彼を見つめた。異国の旅装束はサイアンにとって見覚えのあるものである。
「北から来たのか」
同郷……といっても北にはいくつもの部族がある。彼女はサイアンと近く、しかして絶対的な断絶のもとから来たに違いない。そして、仮に真に同族であったとして、サイアンの役目は変わらない。
「警告だ。この先はルシス、清浄なる都。誰にも立ち入りは許されていない」
彼女はゆっくりと口を開いた。装束の胸元を留める薄桃色のブローチは葵の花をかたどったものだ。
「私は」
言葉と共にサイアンを指さし、彼女は言った。
「誰にも許しは乞いません。そこを退けとも言いません。私は私の信じる通りに進みます」
「な…」
ただの狂人か?それにしては、あまりにも…その瞳の光は強く鋭く、澄んでいた。サイアンは得体の知れない危険を感じ、即座に…不愉快に顔をゆがめながら、汚らわしいものの名を呼んだ。
「オゾン!」
液体にまみれたものがのたくる厭らしい音とともに、いくつもの節に分かれた身体を持つものが暗闇に現れる。ぼんやりと黄色い燐光を放つ粘液が滴り、ゆっくりと持ち上げた首の先には左右非対称の笑いを張り付けたような貌があった。その口が裂け、以外にもはっきりとした発音で、しかし不愉快な響きを伴った言語が零れおちる。
「執行者オゾン、来たよォー。サイアン。どうしたのォー」
「僕に話しかけるな」
サイアンは不快の色を隠そうともしない。鼻をつく腐臭が坑道に立ち込め、線虫が逃げていく。消えかけた白い光がぼんやりと黄色く染まり始める。
「お前の役目を果たせ」
言いつつ、サイアンは特殊機構の組み込まれた有機ガラスのマスクを顔にはめ、機構をアクティベートする。既に採掘場の失われた力ある水晶体、それを核にしたエネルギーが循環し、装着者を一時的に外の大気から防護するもの。とりもなおさず、それはオゾンの放つこの腐臭から身を護るためのものだ。居住区から離れたラプトの辺境でなくては姿さえ現すことのできないこの執行者は、全身から奇怪な毒を放つ──精神を溶融し、思考を麻痺させ、質問者が望む限りの答え以外を返すことのできなくなる自我毒を。それはあの瘴気にも似て、吸引を続ければ畢竟、死に至るものでもある。
「…女。僕、サイアンが質問する。答えろ。お前は誰だ」
彼女はいまだにサイアンを睨み据えている。その口が開き、ぼんやりとした言葉が漏れる。
「私は…アオイ。空と大地を、炎と氷を繋ぐ役目を負ったもの。呪いの風を…抑える…」
要領を得ない。サイアンは苛立ちのままに質問を続ける。オゾンは忌まわしく笑いながら体を揺らし、毒煙を吐き出し続ける。
「お前の目的はなんだ」
「光」
今度は即答だった。光。それが何を意味するのか理解する間もなく、突如オゾンがけたたましい悲鳴を上げた。つんざくその音は…とても、言葉に表せるものではない。合わせ鏡を覗いたように叫びが反響し、轟くばかりになって暗黒の路を満たす。
「黙れ!…ッ!?」
怒鳴りつつ、サイアンもそれに気付いた。女…アオイと名乗ったその女が、オゾンを指さしている。その指先に光がある。咄嗟にサイアンは刀を抜き、その間に割って入った。アオイが呟く。今度ははっきりと、如何なる毒の影響も感じさせない声色で。
「我が身は雪。降り注ぎて姿を変え、積もりて大樹となり、以て花を咲かせるもの」
サイアンは確信する。彼女は狂っている。なにか知性の及ばぬものに触れ、狂ったもの。しかし、狂っているからといって力を持たないわけはない。狂えばこそ力を増すものもある──(カーマイン。お前のようにか)──唇を噛み、サイアンは袈裟懸けに刃を振り落とした。雪像を斬ったかのように手応えは薄く、引き裂かれた黒の旅装束がはらりと落ちた。大きく跳び退って刀を躱したアオイが苦しげに呻き、膝をついて桃色のブローチを握りしめている。サイアンは躊躇する──彼女が泣いていたから。
「う…ぐ…ああ…!カエデ…カエデ…ごめん…なさい…!」
「動けるか、オゾン──いや、動け、オゾン。お前の呪われた足で」
オゾンがいくつもの脚を蠢かせながらサイアンを見つめる。そこにあるのは狂気でも嘲笑でもなく、まるで親に取り縋る子供のような無窮の寂寥と反抗心だった。サイアンは苛立つ。この生き物が自分に懐いているということと、それがどうしようもなく哀れみを誘うことに。
「行け!毒の通じないお前は足手まといだ!僕の手を煩わせるな!」
まるで見えない刃に切り裂かれたように悲痛な呻きを漏らしながら、オゾンは来た時と同じように粘液の音を立てて横穴へと消えていった。サイアンはマスクを脱ぎ捨て、刀を鞘へ納める。もちろん、それは戦闘を放棄するという意味ではない。己の心さえ踏み越え、この街を脅かすかもしれない存在を──斬るため。
「ただ無心に居ながら…刃身、合一すべし」
彼の根底に根付く教えを反復し、サイアンはその極意を、一足飛びに離れた間合いを斬り伏せる居合の技を、解き放つ。刃の滑り出る音さえ聞こえぬ神速の斬撃。
「は──ッ」
青く光るその刃が、雲隠れの月めいて鞘へ戻る。ただしんと粛なりて、ちりんと鯉口が鳴った。
冴えわたる無音の心に、不穏な予感が到来する。硬すぎた──その訝しみが確信に変わる。斬られたことさえ気づかぬままに倒れ伏し絶命したはずの女が、ゆらりと立ち上がった。涙はもはやなく、その手にはサイアンのものによく似た刃がある。深い呼吸の音が聞こえた。
「…ごめんなさい。私にはするべきことがある。だから──」
びりびりと空気が震える錯覚を伴い、二人の剣士は睨み合った。アオイが自虐的に笑う。
「あの子が剣を使えるようになったから、もう必要ないと思ったのに」
アオイはもう一度深く息を吸い、止めた。震えていた空気が一点に凝縮し、暗闇を陽炎のように歪ませる。サイアンは精神力の全てを燃やしてありとあらゆる動揺や疑問、感情を抑えつけ、再度の居合斬りに全身を緊張させる。今度は一方的な斬撃ではない。先手という言葉さえ意味を成さない極限の立ち合いは、互いの闘争心さえもゼロへ向かう澄み切った無空の境地へ戦士を誘う。アオイが息を止めて、どれだけ経った?サイアンが精神力を使い果たして倒れる方が先か?そんな疑問さえ、刃の前にはただ無意味。
ぷつんと何かが切れる音がした。それは二人の間の地面で、不運な線虫の一匹が千切れた音だった。
あまりに鋭利な殺意のぶつかり合いが生んだ微かな微かな音を合図に、平らな地面が二方向から爆ぜた。
二
既にディムロスは小一時間ほど走り続けていた。地面に刻まれた轍は誰も知らないエネルギーの残滓にぼんやりと光を放ち、上り始めた月と共に彼の行く手を可視化していた。仮にこの轍が消え失せたとしても、彼は少しも速度を緩めないだろう。地虫は疲れを知らない。翅を持たず、色を持たず、剣にも槍にも習熟せず、そして異術の心得も一切持たない彼らは、無尽蔵にも思えるスタミナとすばしこさで知られるところであった。
荒野の、特に街のそばは危うい。疲れ切った旅人や、あるいは仕入れた荷物でいっぱいの商人を狙った追いはぎの類などいくらでもいるからだ。ディムロスは出来るだけ早く危険地帯を抜け、親しんだ暗い森へ入るつもりだった。ライザール周辺はなだらかな丘陵が続き、見通しが良く隠れる場所が少ない。いにしえの時代、山のように巨大な竜がこの地で討たれたからだ、というおとぎ話が伝わっていた。竜の血肉が孕んでいた毒と、その恨みが今もこの地に根付いて、植物が高く育つのを阻んでいるのだという。
西へ向かえば…先程“籠”が姿を消した山のあたりまで行けば、鬱蒼とした木々と呪われた湿原が広がるはずだ。西へ向かうのは久しぶりだ、とディムロスは思った。南…トラジェリプスの方角ならば街道が続き宿もある。だが、西となると…彼の舌打ちは、上がった速度に流されていった。
振り向くことはなかったが、何かが追いすがってきているのが分かる。多少なり負担をかけても、振り切らなくては。戦闘は不本意だった。不要なリスク…集中力の高まった彼の脳内に、とある会話がフラッシュバックしていた。
『お前にはリスクマネジメントという行為があまりにも欠如しているな』
『リスクマネジメントなんてものができたら、僕はトレジャーハンターなんてやっていられないし、もしトレジャーハンターができないなら、それは僕の人生としてすごくつまらないだろう?だから、僕はリスクなんてものに興味ない。興味もないし、恐れてもいない。でも、それを知らないわけじゃない。つまりそういうことで、そういうことが大事なんだと思うわけさ。ねえ、ディム。人生に意味があるかどうかなんてどうでもいいことだよ。価値があるかどうか、その方がよっぽど大事だし、価値がないなら無意味なんだ。もちろん、意味があるから価値があるってわけでもないけどね』
要領を得ない会話だ。そしてジェンダールはそういった話術が得意だった。好んで他人を煙に巻きたがり、そしてそれを楽しんでいた。
シュッ、シュッと乾いた音を立て、何かが彼の両脇をかすめていった。同時に回想から戻ったディムロスは、大地を這うほどに姿勢を屈めると鋭く方向転換した。霧が晴れたような心地のまま、襲撃者を捉える。飼いならされた“鱗あるもの”にまたがり、弓を構えた黒い姿が三つ。頭上には欠けた月が昇り、通り過ぎた丘の向こうにライザールのぼやけた灯りが夜空をどよもしていた。下卑た笑いと共に、黒光りする矢じりがこちらを狙う。
──続く狙撃を、ディムロスは再び加速することで潜り抜けた。相手は距離を詰めてきている。そこに近づくのだから、爆発的にその距離は縮まった。逃げ惑う背中へ矢を射かける愉悦の表情は瞬く間に消え失せ、手に手に粗末な武器をとる。が。
「遅いぞ」
地面と平行になるほど低い姿勢だったディムロスが跳んだ。長すぎる助走だった。鋭角に大地を蹴ったシルエットが交錯し、先頭の一人が墜ちた。着地の勢いも殺さぬまま、続けてナイフが放たれる。二人。泡を喰って再び射かけられた矢をするりと躱しながら、ディムロスは被っていた笠の縁を何度か擦った。すると複雑な手法で重ねられた灰色の甲殻がせり出し、恐るべき刃が露わになる。慌てて逃げようと馬首を返すところに、容赦ない満月型の刃が飛んだ。
鱗ある細長い首と、それにしがみついていた顔も知らない男の首がまとめて落ちた。騎手を失った残りの“鱗”たちが逃げていく。風を切って戻ってきた危険な武器を難なく掴み取って縁をこすると、巧妙な仕掛けによって刃は収納された。刺さったままのナイフを回収し、月明かりで血糊の有無を確かめると、彼は何事もなかったかのように再び走り出した。西へ。奇妙な動揺と鼓動の高鳴りがあった。戦いは望んでいない。しかし、嫌いだというわけじゃない。ジェンダールとは真逆だった。わけもわからぬまま、本能に従って身体が動いたとでもいうようだった。無意識に、懐に忍ばせたあの邪な護符のことが頭をよぎった。
「まさかな」
久しぶりの荒野に、少しばかり殺伐とした心持ちになっただけだ。ディムロスは自分に言い聞かせ、足を速めた。アドレナリンが微かな疲れを消し去り、走ることに意識がぐっとフォーカスする。
ジェンダールがここを通ったのは三日前だと言うが、彼とディムロスのスタミナにはかなりの差があった。また、嫌な予感が去来する。ジェンダール・ラプソディー、あの好奇心と競争心に囚われた軽率なセベクの友の身に、何事もなければいいが。ディムロスがその気になれば、一昼夜でも走り続けることができる。追いつければ僥倖だが、そうでなくとも…できる限り早く、あの金色の背中を見つけ出さなければならない。そんな焦燥がじわじわと追いすがってくるような気がした。
風が吹き付け、月が翳った。あえて暗い夜道を選んだのは、彼のような背の低い地虫が行動するのに最適な暗がりと温度を提供してくれるからだ。たとえ昼間でも悪人は躊躇しない。そもそも視認されなければ、争いが起こることもあるまい……これ以上の例外が訪れないように夜の神へ祈りながら、ディムロスは無心に駆けた。
人工の灯りなどどこにもない無人の荒野に刻まれた轍はやがて大きく円弧を描き、太古の遺跡を山肌に抱えた奇怪なシルエットの山々の間を抜けていく。それは今なおトレジャーハンターや考古学者の──しばしばそれらは同一の存在であった──興味の対象であり、同時に攻略の対象だった。守護者と呼ばれた種族や、王の存在。ルシス・デインで暮らすことを許された貴族たち、そして都を護る超自然の異術。あるいはルシスへ忍び込めたならばその秘密は氷解するのかも知れなかったが、それは不可能というものだった。
ディムロス・トーランドが荒野へと踏み込んだ頃、三度目の夜を迎えたジェンダール・ラプソディーはそうした遺跡山の中腹、物理法則を無視して張り出した歯車のようなオブジェの下で座り込んでいた。風が吹くたび、何のために刻まれたかも分からない金属の文様が悲しげに唸る。月は頭上へと達し、くろぐろとした森のシルエットが緑の複眼にぼんやりと影を落としていた。明かりは焚いていない。
何度目か分からない溜息をつきながら、ジェンダールはぶら下げたかばんから金属のボトルを取り出した。スリムな形状の水筒は、中に入った飲み物の温度を保ってくれる不思議な素材でできていた。闇の中に薫り高い湯気が立つ。南方のハーブは魔除けの香りを持つと信じられ、特にこうした無鉄砲な冒険者に好まれるところだった。独特な味わいから、通常は大量の砂糖と共に飲まれることが多かったが。
「はあ…あーあ…」
鼻腔を抜けるハーブの香りと穏やかな酸味、彼はそれが好きだった。一口だけに留め置いてボトルをしまうと、かわりにランタンと手製の地図を取り出した。石ころで四辺を押さえると、玉虫の外羽が貼られた綺麗なペンで何かを書き足していく。ライザールの西方、湿原と山道のどちらを通るか逡巡したすえに、ジェンダールは後者を選択していた。湿原には呪われた怪物が棲んでいるという噂を思い出したのと、単純に濡れるのがイヤだったからだ。
「ディムなら下を通るんだろうなあ」
独り言ちて笑うと、辺りの地形と月の位置から自分の現在地と思しき地点を薄くマークする。地図の上には更に薄い羽根めいた紙のレイヤーが貼られていて、重ねたりどけたりすることでいくつものルートやメモを保持できるようになっていた。行程はのんびりしたもので、夜間に歩くようなこともほとんどしていない。昨日から探索を始めたこの辺りの遺跡は何度か訪れていたが、考古学的興味を持たない彼にとっては大した場所ではなかった。古いばかりで退屈…快楽主義のもとでは無意味極まりない。
朝までは長いだろう。目的はあれど当て所のない探索行を夜間に行えるほど、ジェンダールの感覚器官は鋭くなかった。頼りに出来るのは、つい先ほど湿原を突っ切っていった光の列…王都ルシスの貴族が残した超自然の轍だ。
「上からマッピングしつつ行けば、不意に轍が消えても、ある程度は予想できる。隠れ場所もいっぱいあるし、果物だってとれるかもしれない…うーん、やっぱり僕って…」
くだらない独り言を即座に飲み込んでランタンの灯を消すと、ジェンダールは速やかにその場を離れた。
何かを引きずるような音が近付き、離れていく…よじ登った古代のオブジェの上で、ジェンダールはまた溜息をついた。今度は退屈ではなく安堵の吐息だった。
「リスクマネジメント、リスクマネジメント…なんちゃって、ふふ」
ディムロスは来るだろうか。薄い月明かりの下で自問する。きっと来る、確信を自答する。だって、僕も彼もセベクなんだから。やってることは違うかも知れないけど、好奇心を生業にしてしまうくらいにはどうしようもない奴なんだってところで、僕らは一緒なんだ。
ブライト・ラプトはどこも暗い。地下都市だから当然だ。あの日、ジェンダールがそこに降りた時も暗かった。今にも死にそうなランプがそこらじゅうで明滅し、いくつかは点いている時間より消えている時間の方が長いような有様だった。いくつかあるブライト・ラプトの入り口のうち、最も人の出入りが少ない王都よりの縦穴から降りたジェンダールは、身寄りのない自分の面倒を見てくれた育ての親にしてセベクの師、“黒い目”のカブラーの言葉を思い出していた。あの頃はカブラー老もぎりぎり現役で、おそらくルシス城下のセベクの中では最も深くまでブライト・ラプトに潜ったことのある存在だった。
「ジェンダール。お前も立派になったの」
「ろくでもないことを言い出す前兆と見ました。失礼します」
当然、失礼させてくれるわけもない。殴られて正座したジェンダールに、老いたるカブラーは告げた。
「ジェンダールよ、そろそろ卒業の頃合いじゃの」
「はえ?」
「ハエではないわ。アブでもない。お前の実力は…そう、わしが居眠りしておる時と同じくらいにはなった。ゆえにの、セベクとしての活動を許す」
それはあまりにも唐突すぎ、同時にあまりにも嬉しすぎる言葉だった。物心ついてから今に至るまで、ジェンダールはセベクとして一人前になるためだけに修業を積んできたのだから。身寄りのない、幼い彼を引き取ってくれたのはこの…老いた、凄腕のセベクだった。
ひとしきり支離滅裂な感謝を聞き流してから、カブラー老──ビザルネルカブラという長い本名がある──は、何かの小包を手渡した。ジェンダールは胸の内で溜息をつき、あえて何か問うことはしなかった。どうせこういう事になるのは分かっていたのだ。
「ではの、ジェンダール。これを…届けてこい。ラプトの九層あたりかな、わしと同じような奴がおるでの」
「九層ですか?あの、僕まだ五層までしか降りたことは…」
「お…腰が、急に痛むのう。ジェンダール、わしはそろそろ引退するでな、頼んだぞ」
「せめて相手のヒントをもう少し…」
「ジェンダールよ」
「は、はい」
カブラーの複眼は異名の通りに黒く、宇宙的でさえあった。枯れ木のような腕が小包を指す。
「落とすなよ。火にも近づけるな。濡らすのはもっといかん。着いたら、ビザルネルカブラからだと伝えてやれ」
そのきっぱりとした口調から、これ以上何かを聞き出すことは不可能だと判断し、ジェンダールはしぶしぶ踵を返した。準備が必要だ。師はいつまでにとは言わなかった。これは…つまり、自分の卒業試験なのだ。中身が食品やら酒、そういった嗜好品である可能性は限りなく低い。というか、まず間違いなく危険なものだ。それをジェンダール一人に託し、自分は寝っ転がって待つという。信頼されているという喜びと自信に、試されているという不安と理不尽への怒りが混ざり合い、ジェンダールは泣きそうな、怒ったような表情で自室に下がった。
それから手早く準備を済まし──撥水加工の施された翅のような外套を羽織り、丈夫な有機ガラス繊維のポーチに小包をいれ、別の鞄に携帯食料と水筒を詰め込んで──そして、今に至る。ラプトに降りるにあたってこの場所を選んだのは、出来るだけ人目に付くことを避けたかったからだった。三層までのラプトはぎりぎり観光客も立ち寄るし、灯りもたくさん置かれている。危険な場所もそうだと分かるようになっているし、よほどのドジを踏まない限りは安全と言えなくもない。だが、前回五層へ降りた時は…ジェンダールは身震いすると、護身用の道具や筒薬を確かめた。爆竹、閃光弾、発煙筒。格闘技術に自信のないジェンダールにとっての命綱にも等しい。もちろん、いかに九層と言えど問答無用で襲撃されることはないだろう。自警団の本部は八層あたりに置かれていると聞いたこともあるし、案外何も起こらないかもしれない……そんな風に考え、ジェンダールは前向きに暗黒の地下都市へと踏み入ったのだった。
ディムロス・トーランドと出会わなければ、自分は今頃ブライト・ラプトの深い闇の中で得体の知れない連中に暴力を振るわれながらこき使われていただろう。そんな風に想像することがある。いや、あるいは本当に殺されて、バラバラにされ、まことしやかに囁かれる同族喰らいの狂った集落へ売り飛ばされていたかも…それとも、潔く自爆を選んだか。無理だろうな。あの頃より成長した思考で、ジェンダールは夜の帳めいた重い空想を見通した。喧嘩を売るのは得意だけど、喧嘩は苦手だった。色んなことにびくびくしていたし、絶えず不安で、未来への展望に飢えていた。頑張れば、もっと頑張れば、どこかで道が開けて…自由な、そして明るい未来があるんじゃないか…そんな風に考えていたし、きっとそうなると信じていたのだ。
彼は違った。ほとんど泣きわめきながら壁際へ追い詰められていくジェンダールと、それを追い詰める八本足の恐るべき巨躯の間へ立ちはだかったディムロス・トーランドは、宵闇よりも黒いナイフを振るって戦い、八本のうち二本を斬り落として敗走させたのだ。彼はジェンダールより一回り年上だったが、誰に対しても同様にぶっきらぼうに接した。そして、未来というものを信じていなかった。
「今があればそれでいい。俺はそう思うね」
戦いの傷を縛って誤魔化しながらそんな風に嘯く彼は、ビザルネルカブラの荷物、と言っただけでピンときたようだった。
…結局導かれるままに十一層まで下りたジェンダールが目にしたのは、粗末な墓地だった。知らない名前が並び、ディムロスと名乗った男は腕を組んで黙っていた。小包の中には、特殊な薬剤に漬けて乾燥させた花束が入っていて。
ライザールに戻ったジェンダールは、そのことについて取り立てて聞くことはせず、黙って任務の達成を伝えた。カブラーは満足げに微笑み(彼が微笑みなどという表情を見せたのはこの十数年で初めてだった)、ジェンダールを労った。そして、駄々をこねて付いてきてもらったディムロスを見て、こう言ったのだ。
「セベクは孤独だ。未知の闇に降り立つとき、誰もがそうであるように。だから、セベクにとっての友は光だ。未知を切り裂く光なのだ──わしの光は、今やあの暗がりの都市に眠っておるがの。フォ、ハハハ」
風が吹いた。ジェンダールは顔を上げ、触角をひょいと動かした。風向きが変わった。西からの重たい風が吹き始め、空気がぬめったように感じられる。
「うええ」
ジェンダールは胸元に提げていたペンダントを取り出すと、祈るように握った。陶器ともガラスともつかない、真っ白な何かの破片。それでいて、白の内側に澄んだ蒼が漂っているのが見て取れる。ジェンダールとディムロスが二人で赴いた冒険の中で、もっとも危険かつもっとも神秘的だった探索行の成果だった。…王都ルシス・デインを取り囲む清浄にして巨大な壁、その破片なのだ。その冒険についてはまた別の機会に語るとして、そこで受けた啓示とその経験から、ジェンダールにとってこの清浄な破片は特別なものだった。
実際にそれは特異な力を秘めてもいたし、また同時に見た目にもお宝と言える代物だったからでもある。何より、あの時はディムロスより自分の方が活躍したと胸を張って言えた。
破片が鈍く振動している。それに合わせるように深く息を吸うと、彼の集中力は湖の底のように冷たく深く沈んでいく。超常の感覚器官を得たような、凍った金属が全身の血管を流れるようなおぞましい錯覚と、それとは裏腹にふわりと宙に浮かぶような奇妙な快さが同時にもたらされ、彼の意識そのものが拡張されていくのだ。それが異術と呼ばれる、あの超自然のロストテクノロジーの一端であることにはうすうす気付いていた。
けれど、今のジェンダールにはそれ以上の現象は起こせない。きっと何か、特別な…異質な、あるいは失われた手法を用いることで、王都の輝く民が使うような異術を使役できるのではないか。そんな、子供の空想めいた希望的観測に留まっていた。それが逆に彼の無鉄砲さを引き出し──結果として何も起こせないなら、その中で好き放題やる──既に彼は拡大した知覚の中をある程度は見通せるようになってさえいたのである。
『突然風向きが変わった時は必ず悪いことか悪いものが近くにある』、恩師カブラー老の教えを反芻しながら、ジェンダールは注意深く精神の根を暗闇の中へ伸ばしていった。石の下でじっと息をひそめる小さな鱗あるもの、眠っている小鳥の夢、揺れる木々が水を吸い上げる音さえ聞こえるほど、それは鋭い。およそ自然の中そのものの音の坩堝から、ジェンダールは足音を拾い上げた。大きな音と、小さな──ディムロスと同じくらいの音。そして話し声。ジェンダールは集中力を一段階引き上げ、更に強く白い破片を握った。ノイズにまみれた傍受は次第に鮮明になっていき、それはつまり声の主が近付いているということでもあった。
…「だからね、何度も言うておるようにじゃ…」「ハハア。いやはや、俺とは頭の出来がちげえんですな」「…何度目じゃ…」「ハハア…」「わしらに…差異はないということじゃ…虫とは違うが、人とも違う…」「ハハア、その、人ってのはなんなんですかい」「意思を持つ…ということじゃ。意思の在りや無しやが即ちわしらの…」「ハーハア。なるほどですねェ」…「何度言わせるんじゃ…」「ハハア…」
「つまりじゃよ」
ジェンダールはもはや動かず、彫像めいてうずくまったまま全神経を周囲に広げていた。その足元に歩いてきたのは、奇妙な二人組だった。
「わしらに種としての違いはあれど、それは違いですらないということなんじゃ。本質的にわしらと異なっているのは、ホレ。ああして飛んでおるホタルだとか、コレ、この足元のトカゲじゃとか…そういう、な、わかるか」
「ハハア」
ぞんざいに答えた大柄な──というより巨大な──甲虫族の男は、戴いた立派な角を竜めいた鱗のある皮で覆っていた。それはその角そのものが明確な武器であり凶器であるという事を暗に示すための記号であり、更には重たい金属の剣やハンマーを背負ってのし歩くその姿はもはや歩く要塞めいてさえいた。
「まあよいわ。お前はその馬鹿力だけ振るっておればよいでな」
「なァにを言いなさるんで。あんたがやめろと言うから、一度も振るったことはねえじゃあないですか」
「当然じゃろが!」
声を荒げて唾を飛ばしたひょろひょろの老人は、手にした杖で男の足を打った。ガラス球を鉄板に叩き付けたような音がして、杖は折れた。
「お前が壊そうとしたものはな、お前、分かっておるんか!?だいたいお前のような…」
「ハア、ハア。さいですなァ」
息を切らす老人に代わりの杖を差し出しながら(まだ数本の予備があるようだ)、甲虫はどっかりと腰を下ろした。不満げな老人も続けて手近な石に腰を下ろすと、地図を広げた。その真上、広げていた意識を呼び戻したジェンダールは軽いめまいを覚えつつも息を殺してそれを覗き込む。悪人のようには見えないが、少なくともあちらの大男がその気になったら自分は一瞬でスクラップにされるだろう。かといってここから一目散に逃げ出すのはなんだか癪だし、それに唐突の遭遇から何も得ずに立ち去るなんてセベクらしくない。せめてこの二人が何を目的にこんな荒野をうろついているのか確かめたかった。
「わしらがおるのは…この辺りじゃろ。この辺の遺跡は軒並み手が入っておるが、わしは更に奥を目指すつもりでおる」
ジェンダールのものと同様に手書きの地図には、これまた同様に周囲の遺跡や何かの痕跡、生物のスケッチなどが並んでいた。ジェンダールはうっすら見当をつけ始める。セベクか、考古学者。どちらかといえば後者だろう。そのどちらかでなければ、わざわざこんな場所へこんな時間へ訪れることはない。
「ハハア。俺はあんたについてくだけでさ」
大男は興味なさげに言うと、腰の両脇に提げた鞄から分厚く滑らかな石と水の入った瓶を取り出した。そして無造作に背負った剣を降ろし、その恐ろしい鉄の両刃を矯めつ眇めつしながら砥石を使い始めた。
「なんじゃ。今度は森林伐採でもやるつもりか」
「ハハハァ。それもいいですな。スッキリしたらお目当ても見つかんじゃあないですか」
「馬鹿に何を言うても聞かんと思うがな、木というものは切り倒しても根を絶たねば地下の障害になり続けるもんじゃ。どうせわしの手伝いをするなら全部根こそぎにせい」
「ハハア…考えておきまさァ…」
ふと、大男が動きを止めた。ジェンダールの全身が緊張する。気付かれた?
「馬鹿。考えるのはわしの仕事じゃろが」
「確かにそうですなァ…ときにレイドリアン教授」
大男は手を止めたまま、ゆっくりと老人の名を呼んだ。ジェンダールの脳は流星のような速さで回転し、鞄に入ったいくつかの物騒な道具をリストアップする。命乞いという選択肢もないではないが。生ぬるい風が吹きつけ、ジェンダールの緊張は頂点に達する。
「わしを教授と呼んでいいのは知性ある我が教え子だけじゃが、特別に答えよう。なんじゃ、ハアム・デンドロン君」
「あんまり喋るもんで、地図に鼻水が垂れてますぜ…」
ハアムはそう言って地図にできた染みを指さし、また自分の剣に向き直った。レイドリアン教授のわめき声が森の闇に響き、ジェンダールはそれに紛れて溜息をついた。そして、思い出していた。偏屈じじいのレイドリアンがフィールドワークに出かけて三週間。今回はおっかない用心棒を雇い、本気で世界の中心まで降りるつもりだ…云々。少なくとも、未だ世界の中心とやらには至っていないようだった。
(おっかない用心棒、の方は本当だったんだ)
どうやら彼らはここで野宿を決め込むつもりのようだが、身動きひとつできないジェンダールは次第に自分の体勢と状況に飽き始めていた。なにより、彼の熾火めいた好奇心はこの奇妙な二人連れに対してその指を伸ばしたくてうずうずしていたのだ。
「ハアム君」
「なんです、教授」
「あれだな。眠くないぞ」
「ハハア…そうですかい。俺はどこでも寝れるんで、まあ、好きにしたってくださいや」
どうにか地図の染みを拭ったレイドリアンはぶつぶつと何事かを呟きはじめ、ハアムは一切の感情を窺わせない鋼鉄のような沈黙を周囲に放っていた。ぬるい風が吹きやみ、頭上に再び月が現れた。ジェンダールの影は木々のそれに紛れて地面に落ちることはなかった。
「…ハアム君」
「ハア、なんですか」
「君、さっき瘴気を吸ったろう」
「ちょびっとですがね。どこの遺跡もああなんですかい」
まさか、と首を振り、レイドリアン教授は細くしなびた指で地図をなぞった。
「遺跡の奥やら沼地やらに瘴気が湧くこと自体は珍しくない。ラプトの二十層より下にも瘴気だまりがあるらしいしの」
ハアムは無関心でもなく興味もないといった視線で教授の言葉を促した。
「じゃがなあ。あんなに浅い、取り立てて何もないような場所にあそこまでの瘴気が溜まることは通常有り得んのじゃ。そもそも瘴気とは…」
「ハア、ハア。結論から言ってくださいや」
「…そうじゃの、まあ講釈を垂れても仕方ないの。つまり、自然発生したものでしかあり得んはずの瘴気が…そこら中、それもごく浅い階層へ現れたという事はじゃ…分かるか、ハアム君」
「俺が言うんですかい。まあ、そこまで言われりゃ俺にも分かりまさァ。要は…瘴気そのものが湧き出している、って事でしょう…普通じゃねえこと、何か嫌なことが起きてるって感じだ。そういうのは、俺にも分かる。ついさっきも、ルシスの貴族が通りましたしねェ。あいつら、壁の中でろくでもないことしてるんじゃねえかって…」
「ま、そこまで言えるなら大丈夫じゃろ。お前は図体がバカでかいからな、毒のたぐいが回るのも遅いじゃろうて」
「ハハア、そりゃ得をしたってもんで──」
ハアムは言葉を断ち切り、巨体に似合わぬ軽やかさで立ち上がった。ジェンダールも反射的に身構え、歯車の陰で耳を澄ました。レイドリアンは遅れてそれに気付き、畏怖と興味の綯い交ぜになった笑い泣きめいた表情で眼鏡を直した。
古い鐘楼めいて低く響く、それでいて悲しく高い声が静寂を引き裂いて聴こえ始めていた。最も高い位置にいたジェンダールには、それが山のふもとに広がる湿地帯から聞こえているのが分かった。数百メートルの距離で、何か恐ろしく虚ろな声帯を持ったものが吼えて…あるいは泣いて、もしくは何かを、喋っているのだ。名状しがたい狂気を孕んだおぞましい声は徐々に大きくなり、ぬるい風が木々を渡ってそれをあちこちへ撒き散らしていく。
ふと、ジェンダールは自分の胸を探った。声に合わせるように、ルシスの破片が震えて──いや、違う──ジェンダールは水へ潜るように集中し、感覚の腕を伸ばした。何かが声を上げるたび、それが周囲の木々と沼地を渡る風に響き合い、最終的に破片へ行きついて共鳴の音を上げているのだ。つまり、この声の主は…(僕を、探している?)
鋭くなった聴覚に、何か重たい袋を引きずるような音が下の方で聞こえる。ジェンダールは自分が奇妙に冷静になっていることに気づいた。いつもの彼なら軽い恐慌状態に陥っても不思議はない状況だったが、なぜか心も手足も命じるままに澄み切って動いた。
「ハアム君、これは…」
ようやく疑問を呈そうとしたレイドリアンの眼前に飛び降りたジェンダールは、その凍ったように澄んだ直感に従って動いた。一瞬の驚愕から立ち直ったハアムが剣を構えるより早く、その出鼻をくじいてレイドリアンの手を引いたのだ。
「上へ。ここは危険です」
緑色の複眼に宿った微かな超常の光に圧されるように、老いた自称教授は無言でうなずいた。切っ先の行き場をなくした剣を降ろし、ハアムが呆れたように言った。
「誰だ、お前?」
三
月が傾く。だだっ広い荒野を駆け続けているディムロスの耳にも、その不吉な音は届いていた。遠く、今は地平線のあたりに湿った大地が広がっている。いやに青白い月がささくれだった広大な水たまりに映った瞳でこちらを見ている。ディムロスは平静を保ち、なおも加速した。もはや彼の姿は一個の弾丸めいてさえいた。身体の芯が熱を持ち、疲労感や息切れを感じる端から焼き尽くして走る力に変えてくれるような感覚が徐々に強まる。
ディムロスにはその原因が分かってきていた。カブラー老から託された邪悪な呪物は、悪しき炉めいて彼の命を焚き、以てそれを今この瞬間のエネルギーへと変換せしめているのだ。その核となっているもの…ありとあらゆる彼ら虫たちの種族を侵し、狂わせ、かつて世界を滅ぼしかけた忌まわしい瘴気の結晶が、次第に強くその力を発揮し始めていた。
だから、ディムロスはそれを捨てたりすることはしない。より早く、なおかつ正確に彼が求めている地点へとそれが導いてくれるからだ。惹き付けられるように呪符が強く反応し、轍の先へと彼をいざなう。夜明け前には、あの呪われた湿地帯へ踏み込めるだろう。ディムロスの脳裏にはぬかるみの浅瀬を渡る道筋がいくつか叩きこまれていた。あそこには確かに、何か触れてはいけない類のものが棲んでいる。安全な道を知らないままであそこを通るような者はいないだろう。
もちろん、潜んでいたものが起き上がり、牙をむいたというなら話は別だが。否応なく凶兆を思わせる奇怪な声は続いていた。あるいは…もはや加速する両足とは無関係に高速思考する彼のニューロンは、大地を真っ直ぐ無遠慮に裁断する轍との関係を思った。“彼ら”、光を纏った通過者たちが原因となる可能性も捨てきれないか。
ぬるい西からの風が、行く手から緩慢に這い寄ってきた。粘ついたカーテンのようなそれを切り裂くほどに前傾姿勢をとり、呼吸のたびに心臓が焼けるような熱さを感じながらディムロスは走った。
*
ハアム・デンドロンは多くの甲虫族がそうであるように南の出身で、よく言えば大らか、悪く言えば適当な性格をしていた。さらに言えば、彼にとって大事なことは己の膂力とその日の食事だけであった。つまり、敵対者でもなくひょろりと痩せた弱そうな闖入者に対して長続きするほどの警戒心を持ち合わせてはいないのだ。
「ハハハハア!呪われた怪物!」
ハアムは膝を叩いて笑い、困惑するジェンダールの肩も叩いた。
「ぐえ」
大した高さのない山の頂上までひとまずの非難を図った三人は、月の見える開けた草地に向かい合っていた。風は相変わらず生ぬるく、山のふもとからはいまだに不吉な音が断続的に響いていたが、当座の危険はないものと思えた。
「ハアム君、乱暴はやめたまえよ…」
ジェンダールが渡した水筒から香る茶を啜りながら、レイドリアンが窘めた。奇妙でかつ図々しいこの二人組に対して、ジェンダールは当初の振る舞いに反して翻弄され始めていた。ジェンダールが途切れがちに語った沼地の怪物の伝説にも、彼らは一切の疑問や恐怖などは抱かないようだった。
「ハーッハハア!ジェンダール、いやジェド!お前、細っこいが運はいいぜェー…」
「なんでもう愛称なの…馴れ馴れしいし怖い…なんで…帰りたい…」
一人で歩いていた時には零さなかった弱音を零しながら、ジェンダールは老人の手から水筒を奪い取った。大事に飲んでいた中身はもう半分を切っている。互いに簡単な自己紹介を済ましてすぐ、この無遠慮な考古学者はジェンダールから水筒を半ば強引に…泣き落としめいて取り上げ、それからはずっと上機嫌だった。
「ふうむ、ジェンダール君。呪われた怪物と言ったかね」
レイドリアン教授は顎を撫でながら、何かを思い出そうと虚空を見上げた。細く歪んだ月が老いた複眼を見つめ返した。地鳴りめいた恐ろしい咆哮が、少しずつ近づく。ジェンダールは水筒を仕舞いながら答えた。
「言いましたよ、教授…ライザールの子供を脅かす時によく言うでしょう。沼地のお化けが来るぞーって」
「フン。わしはあいにくラプトの出での…こういった泥の地形にはな、鱗あるものの中でも特に体の細長いものが棲みよる」
レイドリアンは硬い爪で地面にくねくねとした線を描いた。
「鱗あるものは鳴くもんじゃが、ここまで大きな声となると──」
更に近づいたと思しい血も凍る叫びが木々を震わせた。ハアムがちらと闇の先を見遣る。
「山の下にいるなァー…沼からは上がったか」
「──ま、相当デカいのお。デカくなる長虫どもの中でも凶暴で白い鱗を持つものはな、月の夜に脱皮をするというぞ、ジェンダール君」
「ハハハア、震えてんのかァ?」
「ばっ、バカなこと…僕だってセベクなんだから、怖くなんて…ない、よ…」
半ば自分に言い聞かせるように言い返しながら、ジェンダールはまた水筒を取り出して蓋を開けた。ぶら下がった金属の蓋が、紐の先でカタカタ音を立てていた。
「お前ェー…ビビってるくせに、本当は気になって仕方ねェって感じだなァ…いいぞォー、そうでなきゃセベクは務まらねえからよォ…」
その口ぶりに引っかかるものを感じたジェンダールが聞き返そうとしたが、ハアムは既に背を向けて、背負っていたいくつもの武器を地面に並べていた。手入れしたばかりの大剣、磨き上げられたメイス、ジェンダールの顔ほどもある槌頭のハンマー、予備の剣が二本、巨体には小さすぎるような円形の盾。いずれも常軌を逸した南方の金属製だ。鉄なんてものがライザールの市場に並ぶことはごく少なく、そのほとんどは装身具だった。すべてが鉄で鋳造された武器となれば、きっと目が飛び出るくらいの値が付くに違いなかった。ジェンダールは当初の問いを諦め、恐る恐るこの巨大な甲虫に尋ねた。
「こんなに沢山、その、どこで…」
「アア?」
ハアムは素っ気なく訊き返したつもりだったが、凄まれたように感じたジェンダールは震えあがった。
「あっいや、えと、こっちのほうじゃ鉄って珍しくて…」
「ハハア、そうかもな。これは全部、俺が打った。南でな」
「打った?」
おうと答えるとハアムは盾を左腕に嵌め、メイスと予備の剣を一本、そして山のような大剣を背負った。
「運がいい、ってのはよォ…な、ハハア…分かるだろ。相手がどんだけデカいか知らねえが、バラバラに刻んできてやるからよォー…」
レイドリアンは顔をしかめ、ジェンダールに向かって手を伸ばしながら言った。
「フン。頼むから、遺跡に傷をつけてくれるなよ…おい、茶が足りんのお」
「ハアムさん、僕も行くよ」
「アアー…?」
老人の貪欲な視線から逃れようと立ち上がったジェンダールを振り向き、ハアムは小さな目で彼を見回した。小さくて細くて弱そうだ。震えているし、膂力など望むべくもないだろう。それでも──
「あ…その、邪魔にはならないから…」
尻込みするジェンダールの予想に反して、ハアムはそのまま視線を前に戻した。恐ろしい武器が触れ合ってがちゃんと鳴る。
「ハァーン…、いいぜ。おい、爺さん…きちんと見とけよォ」
手の行き場を失ったレイドリアン老は憮然として膝を抱き、持ち上げることさえ叶わないほど重たい武器を見つめた。
「見とくだけじゃぞ」
ハアムは鼻で笑い、身を屈めて前傾姿勢をとった。
「え、この人走っていくの?」
「声に出てるぞォー…」
怠惰で無関心な口調とは裏腹に、全身が力の予兆に緊張している。ジェンダールの脳裏に古代の戦争で使われたという大砲の話がよぎった。ハアムは何かを抑えつけるような口調で続けた。
「それとよォ、ジェド…俺の事も…ハアムって呼んでいいからな…ァ!」
ドン!激しく何かを──たとえば木造の家に巨大なハンマーを──叩き付けるような音がした。ハアムが地を蹴って駆け出した音だと気付いた時には、バカげた質量の黒い弾丸が木々をなぎ倒して一目散に暗い山の麓へ消えていった。
「え、ええ…」
取り残されたジェンダールが呆れて溜息をつくのと同時に、一際大きく、不吉な咆哮が轟いた。意を決し、彼もまた…その音へ向かって、出来る限り急いで、急ごしらえの山道を下り始めた。
それはもはや疾走と言うより落下、滑落に等しかった。大きすぎる質量の塊は、ただ転ばないという点においてのみ走っていた。そもそも止まることなど彼の頭にはひとかけらだって存在していない。発達した右腕に留まっていた金具を弾き飛ばし、角にかけていた革の覆いが後方へ消えていく。黒光りする獰猛な先端はそれ自体が槍の穂先めいて鋭く、彼の威信と誇りによって研ぎ澄まされていた。
不気味な音が近付く。暗がりと木々に紛れてその全体像は一切把握できていなかったが、ハアム・デンドロンは躊躇しなかった。相手がどれだけ巨大であっても、首を落とせばたいていの生物は死ぬのだ。そして、おそらく彼の振るう剣に落とせない首は存在していなかった。踊る影絵めいて視界の両脇を過ぎ去っていく樹木のシルエットがまばらになった。剣を抜く。風が止む。雲が消える。月が出る。視界が、開ける。山と山の間を埋める湿原に、異常な影がのたうっていた。
誤算と言える誤算といえば、その生物は長くうねる五つの首を持っていたことだった。付け根からクチバシめいて尖った鱗までは10メートル以上、差し渡しでその倍以上。巨人の手のひらめいた威容が鎌首をもたげる。全身を覆う白濁した色の鱗は、冷えた月光を照り返して病んだ色彩を放っていた。
ハアムは止まることなどできなかった。天に向かって悲しげに鳴き続ける中央の首を残して、硬く鋭いエラ状の鱗を顔の両脇に生やした奇怪な四つの首が彼に殺到した。ひとつひとつが彼の巨体と同じだけの太さを持ったその首たちは、血の通わぬ冷酷な殺意だけを真っ赤な瞳に滾らせていた。
「ハハアー…」
衝突と同時に食いちぎられ、自分の体が八つ裂きになるビジョンが彼の網膜を横切った。闘争本能がもたらす瞬間的な未来予知めいた幻視を打ち砕くべく、彼は剣を右手だけで握ると、左から襲い来た首に慣性を込めた裏拳を叩き込んだ。硬い。だが反動を得た彼の身体は半歩踏み込み、わずかにそらした左首の内側へ滑り込んだ。剣を握る右を逆手に持ち替えつつ回転すると同時に、鋭いエラが彼の横腹をかすめるが、問題なし。右の首との距離ができる。それがもたらす猶予はコンマ数秒に満たないが、跳ね返った左手を剣の柄に添えるには充分すぎる時間だった。
「ハッハーッ!」
地面と平行に翳された大剣に、彼は不退転の決意と膂力を込めた。ぴたりと動きを止めた、不動の、山のように巨大な剣が──それは鋼鉄の板と言って差し支えない──赤黒い舌のうねる巨大な口腔を、真横一文字に切断する!当然、止まれないのは相手も同じだった。わずかに狙いを逸れた牙の真横から巨大な刃に貫かれ、そして脳を両断されながらも有り余る慣性のままに進み続ける長い首は、滝へ向かって流れ続ける激流めいていた。岩のごとくに突き立ったハアムの大剣が、その鱗も、肉も、骨もあまさず断ち切り、ついに力を失ったその首が大地へ伏す。魚の腐ったような激臭を伴う返り血を浴びながら、ハアムは瞬時の状況判断で剣を手放した。そして横っ飛びにぬかるんだ地面を転がり、真上から降ってきた二つ目の右首をかわした。
五つ首の呪われた大蛟は、痛みや怒りの声を上げることはなかった。まるで中央の首がそれを代弁するようにひときわ大きく、高く空に向かって吼え続け、残った三つの首は鉛のような無言の憎悪でハアムを見つめていた。そこに邪悪な知性めいたものを感じとり、ハアムは薄く笑った。左の二つの首が再び狙いを定め、破城槌もかくやの勢いで突っ込んでくる。回避動作をとったばかりのハアムに回避の手段はなかった。
蹴飛ばされた小石のように黒い巨体が宙を舞い、薄く霧の立ち込めた湿地へ落下した。激しく泥水が巻き上がった地点へ向けて、再び右の首が真上から襲い掛かった。金属音と水への衝突音、そして勝ち誇ったように高らかな咆哮が轟いた。
「てめェー…」
しかし、ハアムは生きていた。怪物の口の中へ飲まれながらも自慢のメイスをその顎に噛ませることで無理矢理に生存空間を作り出し、温まりだした脳が命ずるままに凄絶な笑みを浮かべて。
「危ねェだろォーがよ…」
鋼鉄の柄がミシミシと音を立て、限界が近いことを訴える。南方の鋼鉄でも、この怪物の咬筋力には抗いきれないというのか。だがハアムは不敵に笑い、予備の剣を抜くと──それは最初の大剣に比べればごく小さく、ジェンダールでも持ち上げることは出来る程度のものだったが──思い切り、上顎へ向けて突き刺した。そこに脳があることは自明だった。喉の奥から腐った血液が逆流してくるのも構わず、力いっぱいに剣を引き抜くと、もう一度突き刺す。引き抜く。突き刺す。突き刺す。突き刺す!
切り離れたトカゲの尾めいてのたうつ首が痙攣に持ち上がる。ハアムは剣を抜くと、代わりに思いっきり頭を引き、全力でその角を突き出した。鋼鉄の剣が穿った細い穴を、巨大な鍵のように輝く鋭利な角が切り拓いていく。螺旋にのたうちながら重力に逆らって伸びあがったその頭はズタズタに引き裂かれ、地上十数メートルの地点で…死んだ。中央の首と、ハアムの視線が空中で交錯した。落ちる。下からは左の首が一つ、滝を上るように…今度は口を閉じ、そのクチバシめいた鱗で彼を打ち砕くべく、全身を狂った殺意に蠕動させながら迫っていた。ハアムは見えづらい目の中でそれをとらえ、落ちながら身を捻った。回避など、彼は考えない。全体重と位置エネルギーを乗せた鋼鉄のメイスは怪物のクチバシをしたたかに打ち据え、砕いた。それによって致命傷を免れながらも、衝撃を逃せない空中での激突は彼を再び跳ね飛ばす。今度は高さが違うな、とハアムは思った。
戦闘の極度集中にあって、彼の見る世界はスローモーでさえあった。月がゆっくりと落ち始め、東の空が…清浄なる王都ルシスの方角が、ぼんやりと白んでいた。落下それ自体のダメージは殺せるだろう。だが──左の首はもう一本残っている。赤い殺意がこちらを見据えている。どちらに意識を振り向けるべきだ。逡巡さえ、実時間では惜しい。思考をどよもす死の予感を、風を切って飛んできた何かが強引に破った。それがセベクたちの間で使われる手投げ閃光弾だと理解したハアムは、受け身の予備動作を取りつつ目を閉じた。
彼が再び地面に衝突するのと同時に、夜闇を切り裂く白すぎる閃光と轟音が鳴り渡った。
*
少しさかのぼって。
ジェンダールはしばらく野放図な山道を下っていたが、やがて思い立って木の上を進むことにした。彼は見た目には侮られがちだが、正式な訓練を積んだセベクであり、木々の上を渡り歩くことくらいは造作なくやってのける。時折木の枝に引っかかりながらではあるが。なにより、出来るだけ長いこと葉の影に隠れていたかったのだ。
「急がないと…」
月が傾いているのが分かるほどになっている。この時期、日が昇るのは早い。彼の主だった攻撃手段は道具類に限られており、中でも有用性の高い閃光弾を使うのなら、やはり闇夜こそが適しているだろうから。あの巨体の甲虫族がどこまでの実力を持っているかは不明だが、響き続ける不吉な咆哮には楽観を許さない嫌な曇りがあった。
木の並びが少しずつまばらになる。不吉で不快な声はもはや轟くほどに近く、木の上か、木の下か、どちらかに動けばその正体が分かるというところまで来ていた。
「どうしよう。覗くか、やめるか、覗くか…」
当然、そんな逡巡は気休めだ。このまま行けば、否が応でも咆哮の主と相対しなければならない。出来れば永遠にこの坂道が続いてくれればいいのに。
「ディムなら…迷わないよね…よし」
意を決して樹上に顔を出したジェンダールは一瞬、本気で逃げ出すことを検討した。激しい金属音が数十メートル先で響き、怪物のクチバシめいた鱗が砕ける。今や小さくさえ見える巨体の甲虫が、なすすべもなく宙を舞う。そして生き残った凶暴な首の一つが、彼に狙いを定めている。
…ジェンダールは既に飛び降り、駆け出していた。閃光弾のピンがぬかるんだ地面に落ちる。ルシスの破片を握りしめる。その瞬間、それに応えるように、三つの首が──今の今まで空を仰いでいた中央の首までもが──ジェンダールを振り返り、その真っ赤な瞳で見つめた。彼は恐怖に凍り付いたが、既に閃光弾は手を離れていた。
小さな太陽が咲くのと同時にジェンダールは飛び込み前転を打ち、複眼を強い光から守りつつ恐怖を振り払って戦場へエントリーしていた。もはや、濡れるとか汚れるとかを気にする段階は一足飛びに過ぎていたのだ。自分が遅れていたら、あの気のいい甲虫族の男はどうなっていたか。ジェンダールは自分とその心を叱責し、奮い立ち、怒り狂って地面を叩き付ける三首の大蛟を睨み据えた。首を二つ殺されても退かない規格外のお化け。なによりジェンダールが気になったのは、その下半身がどこにあるのか全く見えない点だった。五つに分かれた巨大な首を支えているほど長大で常軌を逸した下半身が、辺り一面を覆う泥の下にあるのだ。
(何か理由が──下半身を動かせないような理由が、ある?)
起き上がったハアムがこちらへ駆けるのを一瞥し、ジェンダールは強く集中した。チャンスは作った。自分の役割、何をするべきかは明白だ。
湖の底のように暗く深く落ち込んだ彼の精神は、超自然の感覚を得て戦場を睥睨した。剣を拾い上げたハアムが駆け寄ってくる。徐々に目潰しから復帰しかかる中央の首が、動くその背中を見つめる。その先へ…頸椎の数を数え、背骨をたどり、ジェンダールの意識は怪物の胴体を駆け上がる。冷たい別の意識の波がそれを追ってくる。
(嘘…じゃ、ない!)
六本目の首、怪物の憎悪で造られた黒い顎が、飛躍する彼の意識を背後から追いかけてきていた。今の自分が実体でないことは理解していたが、ではあれに捕まって無事かと問われれば…無理だろう。きっと無理だ。いや、絶対無理だ。
ジェンダールの精神は更に集中を深め、加速する。トランス状態に陥った彼の肉体は両の複眼から血を流し、尋常でない頭痛が彼の集中を乱さんとしていた。それが彼の神経に届くよりなお早い、光めいた思考の速度の中で、彼はついにそれを捉えた。
「ハハハアーッ!」
夜空に浮かぶものと似て三日月めいた軌道を描いた大剣がクチバシの砕けた顎を打ち上げて逸らし、彼の背後でゆらゆらと身体を揺らすジェンダールを護った。立て続けの猛攻を、しかし仁王めいて立ちはだかるハアムの巨体が阻んでいた。圧倒的に巨大な相手に一歩も引かない彼の身体は実際のところ限界に近かったが、ハアム・デンドロンは限界に近づくほどに奮い立ち、その戦士としての誇りにますます筋肉が膨れ上がらんばかり。呆れるほどの怪力が、再び突っ込んできた殺意の塊をいなし、弾いた。轟いていた咆哮は不満げな唸りに変わり、手負いのみずちは更なる殺意を全身に滾らせていた。
あと何度やれる。ハアムは自身に訪れる本当の限界を悟りつつある。全力を出し切れば、最後の最後まで同じように戦えるだろう。いちどきに動力を使い切った身体はしばらく動かなくなるだろうが、それまでにあと何度剣を振れる。背後の弱っちい奴は、どれだけの時間を必要としている。腕の付け根、脇腹、そして胸に激痛がある。直撃だけは避ける。もちろん、回避はせずにだ。ますます笑みを深めるハアムの脳は戦闘の狂騒に酔い、その相反した命令にさえゴーサインを出していた。きっかけは必ず訪れる。それまで、激痛を抑え込みながら全力を出し続ければいいだけだ。
真っ向から叩き下ろした大剣が、三本目の首級を挙げた。もちろん、ジェンダールが何かをする間もなく…全滅させてもいいわけだ。噴き出す悪臭と灼けるような血液が、穢れた驟雨となって注いだ。ついに二本だけになった首が、ハアムの後ろ、呻きながらも立ち続けているジェンダールを睨んだ。邪悪な苛立ちがその目に満ちる。ジェンダールは確かに何かをしているのだ。ハアムに対して襲ってきた首は毎回一本ずつだった。何か別のことに怪物たちの思考リソースが割かれ、攻撃そのものが緩んでいた。だが、それはすなわち──
「ぐ、ううう…!」
不意にジェンダールが悲痛に呻き、体の関節から血をにじませた。よからぬ影響は術者たるジェンダールにも及んでいる。(頼むぜェ…)ハアムは生まれてこのかた数えるほどしか祈ったことのない男だったが、今はその時のようだった。
飛躍する意識が作り上げる荒んだ嵐のようなイメージの空間で、ジェンダールは捉えたその場所、胴体の一か所に刻み込まれた光り輝く深い傷跡に手をかざしていた。背後から迫っていた黒い顎が、その光にぶつかって狂おしく喚きたてていた。
(これは、ルシスの轍だ)
電気信号の速度でジェンダールは思考した。見つめる傷跡から、その状況までがサイコメトリーめいて網膜にフラッシュバックする。夕焼けの空の下を疾走する超自然の籠は、この巨大な呪われた生物が脱皮のために深い泥の底から姿を現したところを通りかかり、その胴体を無遠慮に横断したのだ。そんなことを気にするような連中でないことは明白だった。そして、その痛みと憎悪が…彼の持つ、ルシスの象徴たるあの城壁の破片に対して反応したに違いなかった。理由なき痛みに対する果てしない怒りが、嵐となって彼の精神を打った。限界だ。
ジェンダールは強制的に自分の意識を引き上げ、破片から手を離した。蓋の外れたような音が脳内で響き、現実の感覚が流れ込んでくる。全身に焼けるような痛みが走っている。自分の目の前で、巨体の甲虫が化け物じみた大剣を振るう。それをさらに上回る怪物が、こちらを睨む。夜が明けかけている。未だに超自然の視点を残した彼の眼には、ハアムの限界が見て取れた。伝えなければ。本当に穿つべき傷跡がどこにあるのかを。言葉では遅すぎる。もう一度、今度はハアムに対して試みるしかない。精神として彼に「繋ぎ」、直接自分のビジョンを伝える──それは、紛れもなく異術と呼べる行為だろう。それでも、たとえ今の今まで不可能であったとしても、やるしかない。それ以外に、道もなにもないのだから。
(せめてディムだったら──)
その瞬間、せっかちな夏の太陽が、眠たげにこちらを覗いた。白熱の光が、霧の立つ血濡れの湿原を焼いた。そして東の方角から、弾丸めいた一つの影が、全身から赤く迸る蒸気を上げながら突っ込んできた。ジェンダールは考えるよりなお早く、破片に触れることさえなく、その存在と視線を交わした。通じ合った。あの日、城壁の最も近くまで踏み入った時のように。ジェンダールは奇妙な滑稽さを覚え、笑った。
(なんだ、この感じだったんだ)
異術だなんて大げさだ。心臓が冷たく湧き立つような、青い波が心と意識を洗うような、その感覚はまさしく、まだ知らない冒険に臨んだ時の、あの燃え立つような好奇心と同じ感覚だったのだから。蹴立てた水を蒸発させながら、ディムロス・トーランドが跳躍した。
その脳裏にイメージが焼き付いていた。突如現れた第三の敵に対して、中央のひときわ大きな首が動き、噛み裂きにかかった。ディムロスは空中で身体を捩じり、その鼻先を蹴ってさらに高く跳んだ。真上をとられた蛟の首が、困惑したように揺れた。ディムロスはもはやそれに構わず、着地した後頭部を滑り降りていった。彼の心身を焼く不浄のエネルギーが、黒く焦げたような跡を白い鱗に刻む。再度の跳躍。泥の中に半分埋まったその胴体の一点をしかし、彼は正確に見据えていた。ジェンダールが全霊を込めて送ったビジョンと現実の景色がディムロスの視界で重なる。
彼は再び宙を舞いつつ身体を捻った。汚れた炎めいた瘴気の残像が朝靄に浮かび上がり、それを纏って回転する彼の手には黒曜石を成形して造られた古代のナイフがあった。
水しぶきが高く上がり、遅れて激しく水蒸気が立ち上った。刻まれた傷跡を更に容赦なく斬りつけられた苦痛に声なき声を上げ、残った左の首が己の傷へ向けて曲がった。その後頭部に、巨大な鉄の剣が突き刺さった。
「ハハアー…やったぜェー…」
力尽きたハアムが投擲の勢いのまま踊るように足踏みをしてからうつぶせに倒れるのと同時に大蛇の首も崩れ落ち、そして最後の一本を小さなシルエットが駆け上がっていった。逆光の中で、ディムロスはエラ状の鱗を斬り飛ばしながらその頭部に張り付き、そしてその赤く小さな目玉に向かって自分の腕を突き込んだ。巨体ががくんと痙攣する。ディムロスの全身を苛んでいた赤黒い煙が、呪われた怪物の最後の脳を浸食し、焼き切り、殺した。もはやどんな声を上げることもない骸が崩れ落ち、その死んだ頭からディムロスが滑り降りた。彼は二歩、三歩歩き、ジェンダールに何かを言おうとして…倒れた。異常に熱を持ったその身体に触れた泥水が次から次へと蒸発して、朝靄に溶けていった。
ジェンダールはしばらく呆然と倒れた二人と怪物の死に顔を見比べていたが、やがて閾値を超えた現象と全身の苦痛がピークに達し…立ったまま気絶した。爽やかな東風が、悪臭と鉄の匂いを運び去っていった。
*
幾度目の交錯か。月のように青ざめた剣閃と、大いなる炎に鍛えられた橙の剣閃が狭い坑道を縦横無尽に駆け抜けては甲高い音を立て、徐々に月光の刃が優勢になっていった。
激しくノックバックした二人が地面に何度も刻まれた無数の死線を上書きし、そして睨み合った。アオイは深い呼吸を続け、サイアンは強制的な過集中によってトランス状態に陥っていた。己自身が刃となる、その感覚こそが月の民の奥義。そして単純な筋力で上回るサイアンの剣は、打ち合うたびに確かな衝撃と疲労をアオイの身体に蓄積させているのだった。アオイは呼吸を止め、抜刀した。
「い──やァッ!」
「ぬるいぞ」
しかしアオイの剣戟はついに崩れ、サイアンは最小限の動作でその斬撃をいなし、逸らしていた。致命の隙が生まれ、サイアンの刀が弓張月のごとく引き絞られた。悪くない時間だった。引き延ばされた主観時間の中でサイアンは戦いの終わりに訪れる苦く爽快な寂寥を覚えた。月は瞬時に満ち、青ざめた軌跡が虚空を切り裂いた。
「何?」
虚空だ。そこには居ない。ただ宇宙的に黒い目だけが彼を見つめた。緊張の絶頂を通り越して失神したアオイの前で、物理的にありえない曲線を描く黒曜石の篭手を嵌めたビザルネルカブラが拳を打ち合わせた。火花が散り、風のように…いや、流星のように彼が落ちてきた真上の黒く細い縦穴を照らした。
「──貴様!」
サイアンは激昂し、しかし精神の内にそれを波及させることなく刃を滑らせた。
「ほい」
ビザルネルカブラ、老いたるカブラーは無造作に眼前で拳を打ち合わせた。変幻自在の月光は艶めく暗闇に挟み押し留められ、屈辱に震える。両拳白刃取り。サイアンは全身の力を刃に込めて押し切ろうと試みつつ、押し殺した口調で囁いた。
「何故、貴様がここにいる。この女はなんだ」
「さてな」
カブラーは嘯き、瞬間的に拳へ力を込めながら両腕を開いた。生まれたアイソメトリックなベクトルによってサイアンは後ろに弾かれ、それでも油断なく刀を構えた。彼のこめかみを冷や汗が伝う。ビザルネルカブラの相手は…自分では不足だ。痛いほどにそれを理解している。
カブラー老は左の腕でアオイの身体を持ち上げると、縦穴へ向かって放り投げた。落ちてくることはない。誰かがそこに待機していて、彼女をひとまず危険地帯から逃したのだ。サイアンは乾いた舌を強いて動かした。
「愚かだな、老いたるセベク。みすみす殺されにきたか」
「のーこめんと、じゃなぁ」
そしてカブラー老は四つの腕をすべてバラバラに構えた。発されるキリングオーラの質はアオイの比ではない。サイアンは気圧され、それでも戦士の喜びを以て刃に力を込めた。
一触即発。しかし均衡を破ったのは二人のどちらでもない。柔らかな羽音が微かに響き、そして異常に似通った三つの声が別々の方角から発せられた。
「執行」「執行」「執行」
「ほお」
カブラー老は構えを解かずに頷き、微妙に構えを変じた。外向きの構えだ。防御の構え。
「「執行者デルタ」」「参上」
カブラーの背をとった二人に続けてサイアンの背後に現れた一人が名乗った。サイアンはそれを振り向かずに吐き捨てる。
「デルタ。お前か」
無感情な複眼に闇と兄弟を映し、デルタは頷く。小さな身体は激しく振動するガラスめいた薄い羽根によって浮かび、その手には鏡のように磨き上げられた柄のない直剣が握られていた。そのたたずまいは三人すべてが同じで、限りなく異様だった。
「我が敵」「我が友」「くろがねの道」
そしてそれ以上言葉を発さず、デルタは剣をかざした。糸でつながれたように兄弟が同じ動作でカブラーに剣を向ける。サイアンはそのあとに起こることを知っている。カブラー老は──(やはり、知っているか)──ゆらりと手を広げ、黒い複眼を覆った。
「「「執行する」」」
鈍く輝く刀身が突如として激しい熱量とそれによって白熱した光を宿し、そして空気を焼き焦がす斬撃が──それは斬撃というにはあまりに直線的で、切れ味など備えていないことは明白だ──その光と滾るような灼熱をたたえて解き放たれた。
王都ルシスから何らかの手段で持ち出された隕鉄の剣。その三振りを携える執行者デルタの恐るべき灼熱の光線を、カブラー老は黒く断絶の光を宿す篭手で弾いた。激しく火花が飛び散り、溢れる光量で複眼を灼く。だが老いたセベクは意に介さず、続けて拳を背後に回した。そうだ。跳ね返された熱線は背後に翳された隕鉄剣に反射し、無防備状態であれば即座に心臓を焼き切っていただろう。たちまち光の帯が飛び交い始め、その中心でビザルネルカブラは天衣無縫に拳を振るい始めた。加速し続けるその動きは舞めいてもおり、近づくことのできないサイアンを嘲笑うようにちりちりと火花を散らした。
「絶…」
カブラー老が気迫を込めて拳を構える。幾度も反射を繰り返した超自然の光線はやがて初めの軌道へ戻る…正面から真っ直ぐに、カブラーの額を撃ち抜かんとする。それを理解した動きだった。
「…破」
カブラーは拳を打ち合わせ、異術を通さない奇怪な黒い石で作られた篭手によってその熱と光を圧殺した。そして間髪を入れず、雪崩のように踏み込んだ。デルタは隕鉄剣に灼熱を湛え、サイアンと共に斬りかかった。背後からはもう二人のデルタが同じように剣を燃やして迫る!
「錬…」
地面を砕くほどの勢いで突っ込んだカブラーは、自らを袈裟懸けに両断せんとするサイアンの刀を掌打と膝蹴りで挟んで殺した。その膝にも──否、およそ攻撃手段となりうる部位の全てに、神秘的な黒いプロテクターがあった。
「…剛…」
そして逆サイドからの横薙ぎの隕鉄剣を真下から叩きつつ身を沈めて回避し、同時に残された左右の腕で双方向へ掌打を繰り出した。
「…崩!」
それは完璧な反撃手段であり、同時に更なる攻撃へつながるムーブメントでもあった。ごくわずかな残心。サイアンとデルタは吹き飛び、カブラー老の全身は自由だ。
「驚…」
背後からの交差斬撃のその交差点に、黒光りする爪先が押し込まれた。隕鉄剣は切れ味よりも炎熱攻撃力に重きを置く異術兵装であり、黒曜石に覆われたその蹴りを無理矢理に切断することはできなかった。二人のデルタが体勢を崩す。
「…漸…」
カブラー老は鋭角に身を沈めつつ体を捌いて方向転換し、虚無めいた黒い複眼で二人をとらえた。
「…鳴!」
デルタが防御態勢をとるより早く、カブラーの身体はジグザグに闇を走り抜けて二人の背後に到達していた。そしてぴたりと動きを止め、残心した。
「ふう。骨が折れるわい…もうおらんじゃろうなあ?」
カブラー老が声をかけた暗闇の向こうでオゾンは震え、二人のデルタは稲妻のような蹴りを受けて既に倒れていた。オゾンの曖昧で膨大な感覚神経には、この場の全員が生きていることが理解できていた。
「フォハハハ…まあよいわ。今日は美味いものでも食うように言っとけ…ではな」
そしてゆったりと歩き、ビザルネルカブラ…老いたセベクは縦穴へ向かって跳躍すると、壁を蹴って姿を消した。慌てたようによたよたと駆け寄るオゾンは右の眼から涙を流しつつ、左の眼から血を流していた。心の痛みを直接身体に現してしまう奇妙な深淵の種族はしかし、壁が砕けるほどに叩き付けられて倒れ伏している青い身体の友を見て嬉しげに身体を揺らした。
「オゾンは…足手まといじゃァー…ないよォー」
息を止めるのと似た感覚で毒の放出を留めつつ、オゾンはべたつく粘液の網を吐き出して四人の執行者をからめとり、引きずって歩き出した。今日はなにか美味しいものを食べようと思いながら。きっとサイアンは持ってきてくれるだろう。苦い顔をしながら、いつものように。
四
夢を見ている。
時折、稲妻にも似た白い閃光が翻る。それによって回廊の壁が照らされる以外には、真の闇がこの場を支配していた。甘ったるく、不快で、どこか懐かしい匂いが足元を漂う。自分の視点を後ろから覗き見ているような感覚は、まさに夢の中そのものだ。
違う点があるとすれば、自分を見る自分の、その更に後ろ…夢中の自我をさえ、傍観している誰かの存在を朧げに感じているということだろう。しかし、その一切を気に掛けることができないほどの緊張感が全身に満ちていた。爪の先から触角の先までが、張りつめた敵意と焦燥、そして痛みに震える。
ディムロス・トーランドは思い出していた。自分がジェンダールと出会う前、今思い出しても身震いするほどに…デスパレートだった時のことだ。暗黒の地下都市ブライト・ラプトのその深層、正に常闇の回廊で、更にその下へ降りる道を見つけようとしていた事を。
事の発端はなんだったか。歩き出す自分の視界を見つめながら、ディムロスは酷く重い頭を強いて回転させる。自分は今まで何をしていただろう、何故、今、この夢を見ているのだろう。違う。今考えるべきことは──自分が立ち止まった。冷え切った鉄を背筋に突っ込まれたような衝撃と共に、視界の靄が晴れる。認識の壁が消え失せ、ディムロスは軽くよろめいた。
夢では、ない?臨戦態勢を維持したまま、暗闇を見つめる。光の川が鋭く地を這い──それは実際のところ、闇の髄を喰らってごくわずかな光を生み出す線虫によるものだ──それを…行く手を阻む、鍛え上げられた細身のシルエットを照らした。
「ひよっこのくせにさあ」
続く台詞は知っている。ディムロスは鋭く相手を見つめ、呟いた。二人の言葉が、暗闇を感傷的にリフレインする。
「「あんまり調子に乗られると、困るんだよねえ」」
青い…空のような色の複眼に驚きの色が走った。ここから先は…知らない。少なくとも、あり得たはずの結末よりは悪いものになりそうだ。あの頃ほどの暗い情熱は冷静さに温度を失い、身体のあちこちを殴りつけられるような痛みを断続的に感じていた。それでも──ディムロスはその痛みを、トラジェリプスで見た鍛冶師のハンマーになぞらえ、反復した。自分の心を、体を、重く冷たいハンマーが打ち据える。より鋭く、より薄く、より硬い刃となるように。痛みという身体機能の理不尽を、更なる無為な怒りへと変え、それを更に冷徹な意志で御するために。
「あんたの名は知っている」
間合いを計る。暗い感情を嗅ぎつけ、線虫たちが四方から集まってくる。湖の底めいて冷たい二人の殺意を喰い、有機的でぼんやりとした淡い光が、この狭い通路を満たしてゆく。
「…なんだろうね。なんだろう。これは…妙な感じだ。夢を見てるのかな?そうだろう」
青い眼、はがねのような身体、そして腰に携えた異形の…細長い武器。つい数分前に、ディムロスの脇腹と脚の付け根に浅からぬ傷を刻んだものだ。おそらくはシクターンと同郷の、異国の出身者だろう。どこか頼りなく卑屈な彼とは違い、柄にかけられた手のひらには明確な意思が宿っていた。ディムロスは攻撃的に問う。
「この先には何がある?この下には、何がある?レジスタンスの目的はなんだ?」
「答えると思うかい」
ブライト・ラプト、混沌が渦を巻く地下都市の治安機構。誰が呼んだか、その自警団はレジスタンスと呼ばれていた。所属するのは暴力でしか物事を解決できないならず者やおよそ社会と呼べるものからドロップアウトした奴ら、あるいは身寄りをなくし、身を寄せる場所をただ必要とした崖っぷちの者。それでいて、その上層の存在や全体としての実像はあまりに不明瞭だった。
組織をもたない、個としての繋がりでさえも持ち合わせないセベクにとって、そういった存在は常に好奇と猜疑の対象、すなわち飯の種だ。誰かがそれを知りたいと思っていること、知りたいとは思っていても手を出せない暗闇の中、そこにこそセベクの光はある。もちろん、それはこうした…常闇の回廊で、求めていたはずの相手と武器を握って対峙するような危険と背中合わせの「仕事」ではあるのだけれど。
「ねえ」
中性的な声。自警団の荒事担当はそれなりの人数を揃えているが、その質はまちまちだ。その中でも…滅多に表舞台には姿を見せない、いわば執行者とでも言うべき連中がいる。ディムロスの脳裏に、殺される瞬間の幻視が何通りにもわたって浮かぶ。
彼らはセベクとは根本的に違う。在りようが違うのだ。ラプトの住民はおおむね、身を焼くほどの好奇心というものが破滅を招くと知っている。そんな人々のよりどころとなる自警団の傭兵たちは、カブラー老が言うところの“カビの生えた”正義を振りかざしているのだ。目を閉じること、暗闇にこそ安寧を求めること、幻の羽音を追って聳え立つ壁を登る行為の愚かさ、そしてそれを是とする者への警鐘。それが…レジスタンスと呼ばれる者たちが説く、暗黒時代の処世術。
「それでさあ、ディムロス・トーランド──やるのかい?それとも、諦めて帰るかい?」
答えなど決まり切っている。あの日、選ばなかった方を選ぶだけだ。震える手を握りしめ、無力を呪って踵を返した日とは違うのだ。ここは……ここでは、それを選んでもよいのだ。
『ディムは逆にさあ、リスクとか考えてもないじゃない。僕は危険だって分かってて、それでも行くってことに美学があると思うけど。ディムはいつでもやけっぱち…』
「うるさいぞ」
虚ろな声を振り払う。友の声など、この常闇の淵には届かない。青い存在が首を傾げた。
「え?」
「うるさいぞ。そんな質問にこそ、答える価値はない」
身体の芯を焼く不浄の熱を感じ、それが感覚を鋭敏に研ぎ澄ます。目で追うどころか視認さえ困難な横薙ぎの斬撃を、ディムロスは前傾して躱した。続けざま、倒れ込むようについた手を軸に、遠心力を乗せた踵落としを叩き付ける。鈍い手応え。防御されたと理解するのと同じ速度で、抜いたナイフが刃を受け止めた。
威力を敢えて殺さずに飛び離れ、ディムロスは赤くにじんだような視線を敵に向けた。黒曜石のナイフが線虫の光を浴びて月のように光を放つ。相手の得物も同じく、濡れたように煌めいていた。僅かに反りを持つ刃はすらりと長く、一振りでディムロスの身体など両断してしまえるであろうことは明白だ。刀身は南方のものとは違う粘りのある鋼で鍛えられ、異様な薄さと冷酷な鋭さを併せ持つ。
洗練という言葉が最も相応しい構えを崩さず、青い異邦の虫は微笑んだ。
「驚いた。正直言って、そこらのセベクみたいな青二才だと思っていたよ……」
「青いのはお前のケツだけで十分だ、“サイアン”」
名を呼ばれ、彼は不快そうに顔を顰めた。
「死に急ぐところは同じだね。君が敵うと思うかい」
「どうでもいいな」
ディムロスは吐き捨て、暗闇の中で間合いを測った。胸の奥でどろりとしたものが首をもたげて牙をむくような感覚が訪れる。サイアンはゆっくりと間合いを詰め始める。ナイフを弄びながら、ディムロスはそこへ無造作に接近していった。断片的な記憶のビジョンがコマ送りに通り過ぎていく。死の予感。
ジェンダールという男は…ごく若く、無鉄砲で無防備だった。そしてセベクらしい好奇心をあまりに多大に内包した心の持ち主で、軽率な行動を補うのはいつでも実力というより幸運だった。
サイアンの刀がディムロスの心臓を横一文字に切断した。目を閉じる。目を開く。誰かがそれを見ている。
「死に急ぐところは同じだね。君が敵うと思うかい」
「どうでもいいな」
サイアンの目に微かな違和感の曇りが訪れた。ディムロスの背後で誰かが微笑んだ。
「…これは」
「夢なんだろう」
ディムロスは代わって答え、間合いを詰める。斬撃の軌道は分かっている。ほとんど地面を舐めるほどに身を屈め、水面蹴りを繰り出す。サイアンは明らかに動揺していた。跳び退って蹴り足を躱し、即座に踏み込みながら逆袈裟の斬り上げを放つ。それを斜めに上体を逸らして回避する。
「お前が何をしているかは知らないが──」
「言ったはずだ」
コンパクトな牽制の突きを最小限の動きで回避したディムロスの右手が闇にブレた。黒曜石のナイフはその指先を離れ、何かを口にしようとしていたサイアンの胸のその中心に突き刺さっていた。
「お前の質問に答えるつもりはない。いつまでも、うるさいぞ」
無造作にその身体を蹴り倒し、ディムロスは闇の底へ降りていく。いつの間にか距離の感覚はなくなり、赤黒く明滅する螺旋階段を彼は下っている。ブライト・ラプトの湿った匂いはどこにもない。ぼんやりとし始めた頭の中に、異常な鮮明さに裏打ちされたおぞましい景色がゆっくりと浮かび始める。
ブライト・ラプトのはるかな地下から、空へ届くほどの瘴気の柱が立ち上る。彼はその根元にいて、誰かとそれを見つめている。ものが腐ったように不快でありながらどこか懐かしい甘ったるい瘴気の匂いが噴き出し、その濁った腕に触れたものの命を無差別に奪っていく。体の芯を侵される苦痛の叫びと共に命が消えていくたび、隣の誰かが微笑みを漏らす。ディムロスはぼんやりとそれを知覚しながら、誰かの顔を見ることができずにいる。夢の中なのだと分かっていても、それが恐ろしい存在であると──自分たちとは次元の違う「なにか」であるという事を、理解せずにはいられなかった。そして、この景色の持ち主が彼であることも。
自分が殺した青い虫の死体が、激しく吹き上がる赤黒い風に煽られて捻くれ、飛んでいく。ライザールの灯りが見えてくる。隣の誰かが囁いた。低く、滑らかで、異常な穏やかさと言い知れぬ情熱を秘めた声だった。熱いチョコレートのようなどろりとした響きが脳を焼き、その声以外の一切を認識できなくなるほどの力を持った声。
「きっと、貴方にも理解していただけますよ」
獰猛な死の風はブライト・ラプトの全てを壊死させて踊るように空の下へ出ると、轟音と共に四方八方に広がり出す。やめろ、と叫んだ。つもりだった。ディムロスの喉は焼け付き、掠れたような吐息が僅かに零れただけだった。東ライザールの端で所在なさげにたたずんでいたシクターンの細い身体と哀れな魂を弄び、食い尽くしながら、ディムロスは一目散にそこへ辿り着く。老いたセベクの黒い目があっという間に枯れ果てて地面に転がり、そして激しくドアを蹴り開けたディムロスの前で、緑の複眼が瞬いた。
しん、と静寂の音が聞こえるようだった。ジェンダールはもう一度瞬きをすると、首を傾げて言った。
「いきなりどうしたのさ、ディム」
「…え?ああ…ええと」
どうした、のだろうか。何か大切なことをこの友に伝えなければならないという気がしていたが、それ以外の全てがすっぽりと抜け落ちたように…現実の前では夢など無力なように、忘れ去っていた。甘く不快な香りの残滓が、あるいは記憶が、嗅覚の奥でちりちりと笑った。振り返ると、そこに影が立っていた。
「理解して、いただけると思いますよ。痛みとはかくも素晴らしく、心を変えてくれる」
影は両手を広げ、大仰に続けた。ごうごうと風の音がその後ろで轟いていたけれど、囁くような声音はディムロスの頭の中へ直接、はっきりと響いた。
「我々の精神とは不変なものです。精神の変革とは痛みに他ならない。ときに変わったように思われる事柄のほとんどは、変化とは呼べないようなものばかり」
優しく微笑むその表情に隠し切れない邪悪の色が滲む。この存在が悪しきものであると──法や罪の意識といった内省的な規定ではなく、もっと直接に、たとえば炎が大地を焼くように、夜闇が月を連れてくるように、時が全ての命を奪っていくように、それが至極当然であるように──理解できてしまう。
揺らめく陽炎のようにそれは口を開き、言葉が溢れ出した。
「私はこう言います。進むことはできる。変わることはないのだと。進むことで環境に応じた心を持ち、視野を切り替え、対処する。痛みを回避する。痛みこそ、恐れるべきものであると…精神は理解しているのです。では痛みとは何か?転んで膝を擦りむいた?けっこう。あるいは…死線を潜り抜け、刀傷を負いながら、相手の胸にナイフを突き刺した?よろしい。なるほど、貴方の身体は痛みを感じている。では、あなたの心は?心などと、可愛らしい言い方でなくとも構いません。精神、自我、あるいはもっと抽象的に、「自分自身」と言ってもよいでしょう。
「私はこう言います。貴方は進んだ。初めて刃を手にした時であっても、貴方自身に変化はなかった。貴方は進んだだけで、変わったわけではない。貴方は不変の自己であり、不変の自己を定義し得る力を持っていた。誰もが持ち合わせながら発揮することのない力を、否応なく使役せねばならない定めにあったとも言えるでしょう。貴方は痛みを潜り抜けながら、痛みを知ることはなかった。時折それに触れそうになるたび、自らそれを斬り捨ててきた。ごく小さな鱗あるものが自らの尾を切って危機を逃れるように。そうでしょう。痛みの名は、未来と言うのです。
「私はこう言います。真に未来を求めるものには必ず痛みが訪れる、と。ゆえに、大抵の者はそれを諦めます。あるいは、痛みを感じた気になって、未来を手にした気になるだけなのです。それこそが大いなる罪の名であり、私はそれを希望と呼びます。痛みから目を背け、誰もが求める安息の“未来”と名の付く出来合いのガラクタを崇拝することをこそ、私は希望と呼び、これを憎んでいるのです。未来へ向かって「進んでいく」。それが共通認識となり、本当の光を忘れた世界を、私たちは憎みます。いえ、憐れんでいるのです。私たちは変わらなければなりません。未来へ向けて…「変わっていく」。それを成し得るのは痛みだけ。真に心で感じる痛みだけが、私たちを本当の未来へ導いてくれるでしょう。人はそれを絶望と呼ぶかもしれません。何故なら、真なる心の痛みとは耐えがたいものだからです。
「私はこう言います。痛みに耐える必要などない。それを受け入れた先にこそ、本当の変化が待っていると。貴方が貴方でなくなる痛み、自己の変革という名の大掛かりな自殺の先にこそ、貴方はもう一度貴方を規定し、陳腐で汚れた狭い世界から解き放たれる…未来があると。それが何を意味するのか、もう理解していますか?それとも、まだ理解したくない?ええ、ええ。そうでしょうとも。それが痛みを伴うという事を、貴方は既に理解している。だから、躊躇ってしまう。戸惑ってしまう。本当の痛みとはどんなものなのか、冷たく柔らかな槍が心臓を貫き、水面に映る月が揺れるような快楽と共に自己の認識そのものがさざ波となって消えていく恐怖を、知らないのだから。恐れるのは当然です。それでも、
「私はこう言います。それこそが、全てを縛る檻であり、枷であり、まったくの虚構であると。痛みこそが救いであり、死すらも超える救済であると。さあ、ゆっくり息を吸って。貴方は生きています。生きているから、苦痛を恐れるのです。では、死ねば恐れは取り除かれると?ああ、それもまた、否、否、私は三度否を唱えます。死は終焉です。終焉。未来の一切が絶たれ、変化も進化も訪れない永久の闇。私はそこからやってきたのです。久遠の暗黒の底から、光を説くためにやってきたのです。死んでしまえば確かに痛みも恐れもないでしょう。では、それで良いのでしょうか?死によって終わりが訪れれば、それで良いのでしょうか?四度目の否は必要ありません。貴方は理解している。終わりが正解でないことを貴方は理解している。死は必ず訪れるでしょう。それは最期の変革であり、最期の痛みです。では、死を受け入れることと、痛みを知ることは同義でしょうか?少しだけ違います。痛みを知った者が死を受け入れること、それこそが、真実の幸福へ辿り着く唯一にして狭き門なのです。
「私はこう言います。幸福とは己を知ることであると。では、己を知るとはどういうことか?痛みを介してのみ、貴方はそれを手にすることができる。変革のときが訪れるまで、精神は真に自己を理解できないのです。痛み、望外の痛みこそが精神に精神を自覚させ、本当の世界へと意識を誘います。おや、ぼうっとしてきましたか?大丈夫、難しいことを言っているわけではありません。大切なことは、痛みを知ること。痛みによって本当に傷つくのがどこなのかを理解し、それを切り離し、自身の内で再構築すること。そして私の役目は、貴方のそれをお手伝いすることに他ならない──
「私はこう言います。私は深淵から戻りし者であり、深淵の全てを従える。すべてにその深淵を与え、来るべき終わりを説くことができる。さあ、それでは。痛みとは何なのかを教えましょう。」
ジェンダールの眼を見つめるディムロスの右手には黒曜石のナイフがある。誰かがその手に細長い指を添え、柔らかく有無を言わせぬ圧力によってそれが前にしか進まないように仕向けている。ぐらぐらと揺れる意識のすぐそばで囁く声がする。
「痛みとはその実、自分だけでは理解しえないのです。他者の存在と、それによって生まれる感情があればこそ…痛みは生じうる。もう、理解しましたか?痛みとは喪失であり、最後に許された心の聖域に黒い破滅の矢を打ち込む行為によってのみ得られるものです。ああ、この言葉を理解する必要はありません──ほら、手を振り上げて!痛みが待っているのだから!ほら…さあ!貴方はためらわない、そんなことはもうできない──言ったでしょう、お手伝いをすると…ふふふふ、ふふ。ああ、そうです。そう。振り上げなくともよいのでしたね。ゆっくりと心臓に刃を滑り込ませる感覚を味わって、苦痛に歪む表情と、友の苦痛そのものを味わって…ああ…私にも分かりますよ、その痛み、その痛みが…大丈夫です、私もまたその痛みを味わうのだから。貴方の痛みを貴方だけのものにはしないのだから…だから安心して、最後までやってしまいなさい。夢の中なのだから、何度でも用意してあげますよ…」
その声が遠ざかる。誰かがディムロスを呼んでいる。清浄な光が一筋、意識の外から滑らかに入り込んでくる。邪悪な存在は一瞬だけ表情を歪め、続いて地獄のような口を開き、嗤った。
「貴方はこのことを覚えていられない。これは私の夢、私があなたの内にあって見せる夢、私が立ち去れば、貴方はこのことを覚えていられない」
呪文のようにそう繰り返しながら、影が滲んで消えていく。
同時に、ディムロス・トーランドは目を覚ました。緑色の複眼が彼を覗き込んでいる。
五
見たことのない様式で造られた小さな部屋の三方は白い壁、残る一面は継ぎ目のないガラスが張られ、銀白の陽光が滝のように注いでいた。直感的に光の位置を読み取る。真昼を過ぎて二時間といったところだろうか?
「お、起き、た…?ディム、大丈夫!?触角の数、わかる?」
慌てるジェンダールの声が頭にがんがん響いた。「二本くらいだ」ディムロスは不愛想に答え、枕元にかけられた自分の外套を探った。持ち物はなにもなくなっていない。
「ここは?」
「え、あっさりすぎない?もっとなんか…」
「お前が呑気に座っていられて、武器もある。ヤバい状況でないのは分かる」
ジェンダールは不服そうに俯いたが、まあいいやと呟いて立ち上がった。
「覚えてる?何があったか」
「お前がやれと言ったことをやった、それは覚えている。それから…夢を見た。悪い夢だった…と思うが、あとは分からん」
「…いや、まあ、実は僕もそんな感じなんだけどさ」
手ぶりを交えたジェンダールの解説は時折身震いに中断されたが、おおむね次のようなものだった。
謎めいた怪物を打倒した三人はそれぞれがそれぞれに失神したが、真っ先に復帰したハアム・デンドロン──彼は別の部屋にいるらしい──が、二人を担いで湿原を抜けたという。山へ戻らず進んだのは、大蛇の首なし死体が動いたからであるらしい。
「死体がか?」
「冗談ならよかったんだけどね」
当然の疑問を軽くいなし、ジェンダールは黙った。どうやらあまり思い出したくないようだった。不思議な白い部屋の中では、声があまり反響しない。少しでも沈黙が訪れると、とたんにしんとした静寂が足元から這い上がってくる。
「湿原の向こうはひどい荒れ地と枯れた山、そして…ネルグだ。ここは?」
“安寧の地”の名を出すと、ジェンダールは肩をすくめるような仕草で地図を取り出した。ペンの先で、空白になっている地帯を指す。
「こっち…この建物から、裏手の山を越えて、川を三本くらい渡るとネルグ。ディムなら一週間ってところだと思う。で、今いるのはこのあたり」
その空白地帯がなぜ空白なのか、ディムロスは知っている。西へ足を延ばしたことのある旅人やセベクであれば、同じように知りえているだろう。
「淵の森か」
「うん」
ジェンダールは短く肯定し、ディムロスの顔を窺った。淵の森、またの名をネアロスの檻。ネルグを目指す奇怪な巡礼者からは悪魔が棲むと畏れられ、あるいはそこにこそ神があると信じてやまない狂人がたびたび消息を絶つ地。八本足のものの先祖が生まれ出た場所であるとか、あるいは誰も知らない財宝の眠る古代の王国であるとか、噂は絶えない。それでも、噂がどれだけ大きくなろうと変わらない事実はある。
「ネアロスの檻からは出られない」
ディムロスは記憶の中に刻まれた警句を諳んじた。だが、その表情に恐れや焦り、追い詰められた思索の類はなかった。ディムロスは呟いた。
「本当かどうか、試してみるのも悪くはない」
「来るとき、案内してくれた人がいるんだって。…実は僕もさっき起きたところなんだけど、ハアムが言ってた」
「いつの間にか知り合いを作るのが上手いな、ジェド」
滑るようにベッドから降りたディムロスは、小さくフットワークを踏んでコンディションを確かめた。全身に若干の気怠さがあるが、それ以上のことはない。酷い空腹と、胸の中で何かが燻っているような奇妙な熱だけがあった。もはや手に取ることもなく、黒の護符を意識することができる。それはどこか不穏を感じさせる静けさを保ち、ただの紙切れのように黙りこくっていた。燃えるような激情と力を与えてディムロスを走らせていたとき、それは確かに──何かと響き合うように震え、歌っていたと思うのだが。脳裏を知らない誰かの声がよぎるような錯覚に、ディムロスは顔をしかめた。
「もう一人、変なおじいちゃんもいるんだけどね。そっちは怪我がないからってあちこち歩き回ってるみたい」
「活発な老人ほど面倒なものはないな。…肝心なことを聞いていないが、ここはなんだ?淵の森にこんな──」
小さな部屋のドアを開け、ディムロスは言葉を失った。
見渡すほどの細長いホールは吹き抜けで、床も柱もすべてが磨かれた石材で造られている。どうやら聖堂らしいこの場所で、彼らのいた部屋は、その一角を抉るように造られた小部屋に過ぎなかった。ホールの外周には同じような扉がずらりと並び、歪んだ蔦を思わせる黒いレリーフが精巧に彫り込まれているのが見て取れた。そしてなにより、椅子も机も何もないがらんどうのホールには、体の線と顔を奥ゆかしく覆う修道服めいた衣装をまとった者たちが佇み、会話に興じ、あるいは祈るように跪いていたのだった。
「本当に…ここが、ネアロスの檻の中か?」
ディムロスの驚愕を半ば面白がりながらジェンダールが答えた。
「うん。僕の部屋は二階だったけど、窓の外は…全部木だった。植生はたいてい記録してあるけど、見たことなかった。間違いない」
ゆっくりと歩き出す二人に、周囲の信仰者たちは目立った反応を返さない。まるでそこにいるのが当然とでもいうように、あるものは小さな会釈をし、あるものは柔らかな一瞥をくれるだけだった。
「これだけでかい聖堂は…ライザールでも、なかなかお目にかかれないぞ」
そもそもライザールには高い建物が少ない。街の灯りからはみ出してしまうと、得体の知れない暗闇が屋根をさらっていくのではないかという狂信じみた恐れがいつからともなく街に流布しているからでもあり、単純に…高さが必要となるような場面がないからでもある。権力を示すにはむしろ横に広く豪奢であるほうがよく、ことさらに世界を見下ろそうと考える者はごく少ない。
頭上の吹き抜けはかなり高く、ライザール唯一の時計塔(整備されなくなってもう随分長い)と同じかそれ以上はありそうだった。どこか歪んだ菱形に並べられたステンドグラスはおそらく手製で、それそのものに誰かの祈りが込められていると思しい。
「…やっぱり、聖堂だよね?神様の像とかは見当たらないけど」
「偶像の信仰が禁じられているという可能性もあるだろうな。どちらにせよ…」
横をふらふらと信仰者が通り過ぎ、ディムロスは声を潜めた。
「期せずしてだが、ここは俺たちの目的地でもあるわけだ」
身体中の筋肉が伸びきるような快い痛みに、ハアムは顔をしかめて笑う。日差しは強く、彼の黒い身体をぎらぎらと睨みつけてやまない。大きく逸らした身体を跳ね返るように戻し、ハアムは残された剣を振り抜いた。老いたる自称教授が火事場のなんとかで無理矢理に持ってこられたのはそれだけだった。びゅん、びゅん、小気味よい音が風と午睡の光を引き裂く。
それをぼんやりと見つめる奇妙な女がいる。だらりと垂らした腕はどこか奇妙に歪み、赤く濁った瞳は虚ろで、本当にハアムを見ているのかも定かではない。切り出された石のベンチの上で、彼女はにこにこと笑っていた。ハアムはその症状に心当たりがある。
「…聞いてるかァー」
返事はない。瘴気にあてられた者に特有の、心が抜け落ちてしまうような病だ。やがて体そのものにも変調をきたし、徐々に世界を認識できなくなっていき……死ぬ。深く吐いた息の中に、ハアムの悔恨があった。彼だけの悔恨が。その暗い根が心に降りていなければ、彼は今でもトラジェリプスの海を見下ろす街で一心不乱に鉄を打っていただろう。
ハアムは再び剣を閃かせると、革細工の鞘に納めた。女が顔を上げ、彼を見た。
「戻るぜェー…」
身体の痛みはほとんどない。一昼夜──あの怪物を殺してのち、カデーナと名乗るこの女の案内でネアロスの檻に入ってから一日。ジェンダールは全身の痛みを訴えながらも目覚め、ディムロスと言うらしいあの強靭な地虫は未だ昏睡にあった。が、ハアムの勘ではそろそろ目を覚ましてもおかしくない。
(あいつは強そうだったからなァ…ちっこいけどよ)
なにせジェドより小さいのだ。ハアムにとってみればどちらも大差ないが。それより目下の懸念は──
「そこにおったか!おい、こっちじゃ!来てみろ!」
カデーナが濁った眼で追いかける先に、興奮して手招きする老いた自称教授がいた。
「うるせェんじゃねえの…」
ハアムはレイドリアンを丸きり無視することに決め、この中庭に面した大扉からのそのそと石造りの屋内へ戻った。カデーナはそのあとを半ば足を引きずるようについてくる。
「…ついてこなくてもいいぞォ…」
カデーナは首をかしげ、また笑った。その様は不気味ではあったが、同時に奇妙な無邪気さ…子供のような、何も知らない少女のような無邪気さを感じさせるものでもあった。この場所もそうだ。ハアムはぐるりと聖堂を見回す。
「天井が高すぎるしよォ…誰もこっちを見ねえ。案内人からしてイカれてやがる。まともな奴はいねえのか?」
そして、明らかにまともでないこの場所は…意外に、というよりむしろ異常に居心地がよかった。良すぎるくらいだ。静かで光に満ち、食べ物も潤沢にあるらしい。一体どんな建築技術を以て建てたものか、石造りの柱には継ぎ目がない。
ここが何かしらの祈りの場であるなら、司祭のような者がいてもいいはずだが、それもこの一日見ていない。いるのは前後不覚の病んだ女と、似たり寄ったりの信仰者たちだけだ。だが、どこかにその存在を感じる。統率者がいるのは間違いない。
「…ま、やむを得なかったのは事実だしなァ」
そして、ハアムはあまり深く物事を考えないたちだった。ここがどんな場所であれ、あるいは邪悪な意志を持つものがいたとして、それらすべてと対峙し打ち破ればよいと思った。事実、彼が本気になれば石の柱だろうとへし折ることは難しくないだろう。だからこそ南の地では壊れない金属製の道具やあるいは直すのが容易な土を使った建造物が多いのだ。
「おい、人が呼んでおるのに答えんのはどういうわけじゃ」
「ハハア…どうも、気が付きませんで」
「本当かぁ?まあよいわ…ハアム君、これを見てくれんか」
彼を追って開け放しの扉から入ってきたレイドリアンは、木で彫られた何かの像を持っていた。彼にはそれがなんだか分からなかったが、どうやら教授をしてひどく興奮させるものであるらしい。歪んだような四対の手足を持った精巧な像は、禍々しくも力を感じさせるものだった。
「これァ…“八本足”ですかい」
とりあえずそう言うと、レイドリアンは喜色に震える声で叫んだ。
「そうじゃ!それもひどく古い!わしらが見るような八本足とは明らかに違うこの身体構造からしてネアロスの檻には本当に八本足どもの祖先が……」
息継ぎを忘れてまくしたてる老教授に閉口し、ハアムはのそのそと歩き出した。レイドリアンは我を忘れて付いてくる。
「そもそもネアロスの檻に何故ああした噂話が絶えんのかわしは不思議に思っとった!誰も行ったことがないというのにあまりに一貫性のある尾ひれの付き方、誰かが真実を知っておるんじゃろうと思っておったんじゃ!あるいはわし以外の皆が知っておるんかとな!」
「ハア、ハア…」
長方形のホールにどれだけしゃがれ声が響いても、ぼんやりとした信仰者…いや、あるいは患者なのだろうか?彼らはこちらに注意を向けることはなかった。この老人はなぜ平然と自分の興味だけを探求していられるのか、ハアムは心底不思議だった。
「そしていつから淵の森はネアロスの檻と呼ばれるようになったんじゃ?わしの仮説では、ネアロスというのはそもそも誰かの…何者か、あるいはもっと恐ろしく大きな何かの名前ではないかと──」
「で、その像はどっから持ってきたんです」
「あ?これはその辺に置いてあったのを持ってきたんじゃ。誰もおらんかったからの」
「知りませんよ、俺ァ…」
呆れながら扉を開いたハアムは、自分が部屋を間違えたことを知った。立ち止まった背中にぶつかり、レイドリアンがよろめく。
その瞬間、空を裂いて飛んできたなにかが体勢を崩したレイドリアンの手、そこに握られていた像に突き刺さった。それは鉄より軽く、石より丈夫な、絶壁に棲む甲虫の羽根を丹念に磨いて造られた投擲用のダートナイフだった。
投擲者は部屋の真ん中で、凛と澄んだ鋭い視線をハアムに向けた。そこに病の翳りはなく、またその手に握られた次のナイフもそれに似て鋭かった。身体のラインを包む黒の旅装束は見慣れぬ素材の布で出来ていて、ハアムの目には夜を纏っているようにも見えた。開け放たれていた窓から風が通り抜け、彼女の──そう、彼女だ──マントを丸くはためかせた。幼ささえ感じる高い声で、彼女は言った。
「誰?」
答えが数秒遅れたら、彼女はまたナイフを投げるだろう。ハアムは両手を小さく上げた。「わりィなァ。部屋間違えたぜ」
「わ、わしの研究対象が…」
彼女は警戒を解かない。ハアムは自分とレイドリアンを続けて指さした。
「ハアム・デンドロン。こっちのヒステリーじじいはレイドリアン。自称教授だ。怪しいが、悪い奴じゃねえ」
その受け答えに少し毒気を抜かれたように、彼女はナイフを納めると、細い両手を胸の前で合わせ、身を屈めた。異国の挨拶にハアムは戸惑う。
「私はカエデ。ごめんなさい、突然。ここにいるのは…おかしい人だけだと思ったから。それに、武器を持ってる」
ハアムは自分がぶら下げていた剣を苦笑まじりに背負い、彼女…カエデの真似をして背を丸めた。
「おう。確認しなかった俺が悪いんだ、許してくれ。この爺さんは気にするな」
「──うん。一応聞くけど、貴方たちは外から来たの?」
その問いの意味を測ることはせず、ハアムは即答した。
「そうだ。色々あって困ってたんだが、カデーナってやつに案内されてよォ……迷ったが、野垂れ死ぬよりマシだ。連れもいたしな」
「そのおじいさん?」
レイドリアンを見つめるカエデはまだ申し訳なさそうだ。落胆する教授は言葉も出ない。
「それと、もう二人な。セベクだが、嘘をつかねえ」
「セベク……」
カエデは黒い目を細め、その言葉を吟味する。ハアムは部屋を見渡した。自分やレイドリアンが通されたのと同じ狭い部屋で、彼が世話になったことはないが、確かに病室めいてもいた。ベッドと机が一つずつ、そして大きすぎる窓。壁際に立てかけられているのは細身の剣。鍛冶師の目は、それが南方のものでないことを見抜いた。そして…ベッドの下からカエデが引っ張り出したのは、ぎゅうぎゅうに詰め込まれて膨れ上がった編カバンだった。
「えっと…この辺…に…」
「…なにやってんだ?」
「見て分からない?荷物を…」
細身の彼女にはあまりに大きすぎるそれを、カエデは大まじめに引っ掻き回す。ハアムは控えめに尋ねた。
「…お前、なんでここにいる?」
「…あった!…貴方と一緒。動けなくなっちゃって、変な人に案内されてきたの」
そりゃ動けなくもなるだろう、という台詞を飲み込み、ハアムは曖昧に頷いた。鍛えられていることは分かるが、旅に関しては素人に間違いないようだった。カエデは古びた冊子を誇らしげに開き、文字をたどる。
「ええと…セベク…」
「…辞書か?それ」
「そう。ふうん、トレジャーハンターなんだ」
「セベクを知らねえとはなァ。どこの出身だ」
カエデは肩をすくめ、辞書らしき冊子をカバンに詰め込んだ。
「北の方。もっと寒くて、火山がある。お姉ちゃんを探してるの。アオイって言うんだけど、知らない?」
「知らねえなァー…俺も南の出だからよォ」
「そっか」
カエデは何度も経験してきたというように落胆を瞬時に乗り越え、次いで声を潜めた。
「…ここ、変だと思わない?誰も私たちのことを見ない。こんな部屋がたくさんあるのも変だし……裏手の山には洞窟があるの。見た?あそこで、あいつが…」
「あいつ?悪いが来たばっかりでよォ、さっぱりだ。このホール以外にも建物があるのか?」
「あるよ。ここは信者たちの暮らしてる、こう…細長い、四角い聖堂。入り口と逆の奥には倉庫があって、食糧とかもそこ。多少は話のできる人がたまにいて、欲しいものを伝えると用意してくれる。お布団とか、水とかね。中庭には井戸があるけど、あんまり綺麗じゃない。私は朝露だけでも足りるからいいけど、水には気をつけたほうがいいかも。で、中庭を突っ切った先にも建物があるでしょ。そこは礼拝堂。何日かに一回、信者が集まるの」
カエデはシーツの上に指で線を引き、流れるように話す。ハアムはその話し方に好感を覚えた。(青い海の上に青い世界があって、海はそこを映してるんだって。海の上の、空の上のその上に暮らしている人たちは、海を鏡にしてるんだよ)(ハハア…そりゃ、いいなァ)(もう、お兄ちゃん。ほんとなんだよ。ラア婆が言ってたもん)
「…裏の洞窟は、分からない。でも、“お客さん”が来たから、あいつはそこでお客さんにかかりっきりになってる。きっと大事な場所なんだと思う」
ハアムは一瞬の記憶の残響を振り払い、尋ねた。
「お客さん?俺たちのほかに、ってことかァ」
「ううん。光る籠に乗って東から来るの。きっと大事なお客さんなんだ。ちょっと前に来てから、あいつはずっと閉じこもってる」
レイドリアンの眉が動く。ハアムも理解していた。“お客さん”、その正体は間違いなく──ルシスの貴族だ。閉ざされた清浄な都に住むことを許された彼らが、何故こんな場所に?
「あいつ、ってのは誰だ」
カエデは目を見開き、言葉を詰まらせた。最後の一ピースになったパズルが、突如として違う絵に変わってしまったようだった。
「…あいつだよ。ううん、きっと見たらすぐに分かる。絶対、絶対に信用しちゃダメ。ううん、考えてもダメだ。私は……なんとか目を逸らして耳をふさぐことしかできなかった。ハアムさん。ここはね、“リムゼの救い”。あの黒い呪いの風を崇める、狂った信仰の場なんだ。あいつは…その教祖。この二週間で、私が知りえたのはそれだけ。あいつは干渉しても来ない。でも──眠るたびに嫌な夢を見る。覚えてないけどね」
カエデは細い身体を震わせ、無意識にナイフを握りしめていた。ハアムは彼女の恐れを本能的に感じ取り、口の中が渇いていくような感覚を味わう。ようやくショックから回復したレイドリアンが、持ち前の図々しさを発揮して質問した。
「で?その狂った教祖の名はなんと言うんじゃ。案外、知った名かもしれんぞ」
彼の脳裏にはライザールやブライト・ラプトの悪人リストがずらりと並んでいただろう。だが、彼女が切れ切れの声で微かに呟いたその名はどこにも、かすりもしなかった。ハアムの両腕を得体の知れない悪寒が駆け上る。
「オズ。そう呼ばれてる。彼の名前はオズ・キーラン……ごめん。気分が悪い。またあとで、話そう?今日は…夕食のとき、顔を出すから」
「なんだかねえ」
風は穏やかで暖かく、ほんの一日前の死闘や痛みを忘れさせるほどに平和だった。ジェンダールは呟き、ぶらぶらと足を遊ばせる。地上数メートルになろうという礼拝堂の屋根の上に、二人のセベクは座っていた。
「だいたいの間取りは分かった。メインの聖堂はむしろ居住区で、この礼拝堂の方が出入りが多いな」
何より不気味なのは、信仰者……あるいは患者、信者たち。彼らがどこからともなく現れて、ふらふらと礼拝堂を訪れ、また出ていって…どこかへ行ってしまうことだ。淵の森を彷徨う亡霊の正体はこれか、とディムロスは思った。
「洞窟もあったけど、やっぱり入らなくて正解かな」
「だろうな」
頷き、ディムロスは望遠レンズを取り出した。屋根は高く、地面は遠い。それでも淵の森の木々は遙かに背を伸ばしていて、周囲の地形は掴めなかった。聖堂の中庭、ベンチに腰掛ける虚ろな表情の女をディムロスは見つめる。レンズの奥で、カデーナは太陽に向かってにこにこ笑っていた。
「……あれが、案内人か」
「そうだよ。カデーナさん。喋れないらしくて、名札を見せてくれた」
「…よくもまあ、ついていく気になったもんだ」
しょうがないよとジェンダールは言い、部屋から持ってきた金色の砂糖細工をしげしげと眺めてから口に放り込んだ。
「だって、蛇のお化けだよ。首がないのに動くお化け」
「おとぎ話なら、朝日を浴びると消えるもんだがな。…それに、お前、何か妙なことをしただろう」
「ああ…」
ジェンダールは忘れていたというように、首から下げたルシスの破片を引っ張り出した。
「破片か。前にも言っていたな。…何かが起きるとか」
「うーん、言葉にするのは難しいんだけどさ……でも、見えるようになるっていうのかな。見えないものが」
「分からんな。禅か?」
「っていうか、異術みたいだった。ほら、都の貴族みたいにさ」
ディムロスはフンと鼻で笑い、自分も黒い護符を取り出す。
「手のひらから炎を出したり、空を飛んだりか?大道芸で食っていけるな。…ジェンダール、これに見覚えはないか?もしくは、これに似たものに」
「なにこれ」
ジェンダールは護符を受け取ろうとして…弾かれたように手を引っ込めた。
「熱っ」
非難がましく睨まれ、ディムロスは笑う。
「熱いわけがないだろう。ただの札だ」
「…ええ…?でも今、確かに…あれ、熱くない」
今度は護符を手に取り、ジェンダールはそれを矯めつ眇めつして、返した。
「分からないか」
「うん。見たことはない…でも、なんとなく似た雰囲気のものは知ってる。かなり古い遺跡とかで、危険な深さまで潜ると…こういう感じが、首の後ろにする。嫌な感じだ。瘴気の感じ。ディム、これは…」
「カブラーから渡された。なんでも、ライザールの道で例の“籠”に轢かれた女が持っていたんだと」
ふうんと生返事をして、ジェンダールは二個目の砂糖細工を口の中で溶かした。
「瘴気との共存を掲げる宗教に、怪しいお札。明らかにおかしい人たちが暮らす、森の中の聖堂か。ディム…僕は、なんか、ワクワクしてきた。あの二人はどう思うか分からないけどさ、ディムならわかるよね」
ディムロスは答えず、レンズを仕舞った。そして懐から自分の部屋にあった青い砂糖菓子をジェンダールに放り、躊躇いなく屋根から飛び降りる。
「わお。部屋ごとに違うお菓子なのかな」
柔らかな草地に抉るような跡を残して前転着地し、ディムロスは屋根の上を振り返った。
「俺は戻って、ハアムとやらに挨拶してくる。礼を言っていないからな」
「りょーかい。僕は…もう少しこのあたりにいるよ。どこにも行けないだろうし」
ディムロスがくれた青い砂糖菓子は微かに苦いミントの匂いがした。
「ふむう」
何度目かの唸りをあげ、レイドリアンが顎をさすった。
「カエデとかいう小娘、あれだけ怯えていながらなぜここを離れんのじゃろうな」
その疑問は最もだったが、ハアムはなんとなくその理由を察していた。姉を探しているという彼女が、二週間も留まるのなら…ここに何かを嗅ぎつけているのだろう。あるいは──
「本当にここから出られない、とか?まるきり怪談だけどよォ」
「ネアロスの檻からは出られない、か。誰が言い出した事やら、定かでないのぉ。学者は定かでないことを信頼しないんじゃ」
「ハア」
ぼやいたハアムの視界に、黒い弾丸のような姿が映った。いつの間にか背後に立っていたカデーナがその姿を凝視する。彼女をちらりと一瞥する刃めいた複眼の奥には感情を読み取れない。
「ハアム・デンドロンか。世話になった。ディムロス・トーランドだ」
突然、レイドリアンの喉から踏みつぶされたような呻きが漏れた。
「ディムロス・トーランド!?なるほど見覚えがあると思ったわい!カーッ」
「…今度はなんですかい…」
疲労さえ感じ始めたハアムの横で、レイドリアンは心底苛立っているようだった。当のディムロスはそんな老教授に首をかしげてみせる。
「…どこかで会ったか?生憎俺には覚えがない」
「フン!自分が有名人だという自覚がないんじゃな。ところ構わず秘密とみれば暴き立てずにいられないお前のようなセベクがどれだけ嫌われているかも!」
その言葉になけなしの興味さえ失せたと言わんばかりに、ディムロスは視線をハアムに戻した。ハアムは苦笑い。
「あんたも大変だな」
「まァな。用心棒も楽じゃねえ」
次いでディムロスはカデーナに視線を映した。赤黒く濁った瞳に、彼の姿は映っていない。
「案内人だそうだな。喋れないと聞いたが」
カデーナはそれが自身に向けられた言葉だと理解したのか、誇らしげに胸元から名札を取り出した。まるで子供めいたその仕草に、ディムロスは得心がいったように頷く。
「そうか。瘴気と信仰…分かってきた」
「そういえばよォ、ディム…」
思わず睨むようにハアムを見たディムロスは、手ぶりで続けるように促した。
「嫌だったなら悪ィ。さっき、まともな奴に会った…北国の出で、カエデとかいう女だ。夕飯の時に話をしてくれるらしい」
レイドリアンは付け足す。
「夕食の時間は決まっとる。このホールにぞろぞろ集まって食うらしいが、部屋にこもっとれば勝手に届けてくれる」
「作戦会議にはもってこいと言うわけだ」
ディムロスはそう言うと、彼らしい淡泊さを発揮してくるりと踵を返した。
「なら、話はその時にしよう。動くにしても夜の方が都合がいい」
「都合?」
レイドリアンがオウム返しにすると、ディムロスは皮肉っぽく笑った。
「ああ。嫌われもののセベクらしい、ちょっとした仕事の都合さ」
六
ネアロスの檻の夜は暗く、得体の知れない何かの声がひそひそと足元を這い回っているような、奇妙な静けさ──目を閉じても瞼の裏に光の粒が見えるように、しんと耳を打つ静寂の中で蠢くあの甲高い音──に満ちていた。
それは聖堂の中においてもほとんど変わらない。唯一外と違うものは、時折食器が触れ合って立てるかちゃかちゃという音だけだ。それを外から見遣り、ハアムはおかしそうに笑った。ざわめく木々が腕を伸ばし、星は見えない。夜露はまだ降りておらず、輪になって座る彼ら五人──ハアム、レイドリアン、ディムロス、ジェンダール、そしてカエデの五人は、それぞれにあてがわれた食事を見つめていた。ライザールでもよく見る硬めのパン、魚と香草のスープ、干し肉をもどして炙ったもの。
レイドリアンだけは既に食べ始めていたが、他の四人はある種牽制するような懸念から手を出していない。
「なんじゃ、食わんのか?若さが勿体ないのぉ」
「よく食えるよなァ」
レイドリアンは肩をすくめ、香り立つスープを啜った。肉も魚も果物も、森の奥とは思えない多彩さだ。ジェンダールはお腹がすいていることを思い出しつつも、黙って腕を組むディムロスを横目になんとなく手をつけられないでいた。
「グースカ寝とったお前らと違ってわしは昨日から食っとるんじゃ、今更毒だのなんだのと気にしていられるか。それに…ホレ、奴らは黙って食っておるわ」
「それもそう…っちゃ、そうだけどよ」
ハアムは煮え切らず、背後の暗がりを見た。カデーナは夜と共にいつの間にか姿を消し、全き闇と静寂だけがそこにある。
「カエデ」
ディムロスが突然口を開いた。同じようにじっと考えていたカエデは弾かれたように彼を向き、少し警戒しながら答えた。
「なに?」
「お前の目的はなんだ?」
稲妻めいて単刀直入な問いに、カエデはディムロスを見つめたままじっと息を詰まらせた。
「二週間ここにいると言ったが、ここにお前の姉がいるのか?それとも、何か別の理由があるのか?」
「…あなたには関係ない」
カエデは突っぱね、俯き、もう一度呟いた。
「ごめん。私のことが信じられないなら、そう思ってくれていい。お姉ちゃんがどこにいるか…私には分からない。でも、可能性はあると思ってる」
「そうか」
ディムロスは頷き、また黙った。それが「それに関して納得したのでそれ以上詮索もしない」という意思表示であることを理解したのはジェンダールだけだろう。
「ディム!カエデさん!お腹すかない!?」
その空気と空腹に耐えきれなくなったジェンダールが叫び、香ばしく焼き締められたパンを掴んだ。
「俺はいい」
即答するディムロスの器にパンを突っ込み、必死の眼力でカエデの言葉を抑えて投げ渡す。気を利かせたハアムがお茶の入った瓶を差し出した。レイドリアンは自分の分を平らげ、早くも割れた像の修復を始めている。ジェンダールは口を湿らせ、ゆっくりと喋りだす。
「…ええと。僕らは、この教団とルシス貴族の…君が言った、“お客さん”てやつとの、つながりが知りたい。それで西へ来たんだ。それ以外のことには興味ないから、お互い邪魔になるようなことはナシ。で、この二人は…なんていうか、成り行きみたいなもので。だから、こっちも気にしないでいい。僕らはそいつ…オズってやつに会わなきゃいけなくなるだろうし、真実ってものを知りたい。それが僕たちの理由。いい?」
カエデはこくりと頷き、渇いたパンをお茶に浸した。ディムロスの携行していた吸水花から絞りだした水を沸かし、ジェンダールの持ってきた予備の茶葉で淹れたものだった。しおれた花は無造作に草の中へ置かれ、夜露を吸い上げるときを待っている。
「…」
ディムロスは黙ったままだが、ようやくパンに手を付け、少しちぎった。
「お姉ちゃんは…ある日、突然いなくなったの。私たちは両親がいなくて、二人きりだったから…後を追うのは当然」
カエデはとつとつと語りだし、思い出すように目を細めた。
「お姉ちゃんは…そう、巫女みたいなもので。火の山と白の大地に感謝と祈りを捧げて、村のために踊ったり、音楽を作ったりしてた。私は山に入って石を拾ったり、密猟者を追い払ったりしてたの。知ってる?雪の降る日に、妖精みたいな白くて柔らかい虫が出てくるんだ」
作業に没頭していたレイドリアンがふと手を止め、口を挟んだ。
「聞いたことはあるの。希少価値もさることながら、手触りと愛らしさに密猟が絶えんと」
「爺さん、聞いてたのかよ」
「ハアム君はわしを老いぼれ扱いしすぎじゃのお」
そのやり取りに口元を緩ませ、カエデは続けた。ディムロスはじっとパンを見つめていたが、ようやく口に運んだ。
「時々そういう荒事はあったけど、私たちの生活はだいたい平和だった。お姉ちゃんと一緒だったし、村のみんなも優しいし。でも、瘴気が湧き出すようになって…変わった。温泉は嫌な臭いがするようになったし、妖精は山の更に奥に逃げていった。お姉ちゃんにみんながかける期待と負担も、大きくなった」
「巫女というのは」
茶でパンの欠片を流し込み、ディムロスが口を開く。ジェンダールは少し心配したが、カエデは真っ直ぐ彼を見た。
「本当に力を持つ血族なのか?たとえば…ルシスの貴族のように?」
「ううん。それは違う」
即座に否定すると、カエデは指の先で地面に線を描いた。真っ直ぐに草の根を裂いた直線の片側に石ころを置く。
「昔からの言い伝えみたいなものでね。私たちがいるのは、こっち。こっち側の私たちは、あっち側──空の上から雪を降らせる妖精たちの王様や、火の山を掘り進む大きなムカデ、地を割って温泉をもたらしてくれる大地の芯から、許されて生きているの」
小石の置かれた側に向かっていくつもの線が向かう。それは太陽の光にも似ていて、あるいは注ぐ矢のようでもある。
「巫女に選ばれる人は、この間にいるって信じられてる。祈りが必ず届くわけじゃないし、どんなに必死で舞っても雪は止まないよ。でも、そうすることで私たちはあっち側の存在を感じられる……感じられていた。呪いの風は大昔に止んで、吹くことはないはずだったんだ。お姉ちゃんにだって、私にだって、長老様にだってどうにもできない。大いなる赦しを求めるためにできることは、ただ祈り、生きることだけ」
ジェンダールとディムロスは顔を見合わせる。ライザールやラプトには存在しない方向性を持った信仰だ。おそらくは彼女と同郷であろうシクターンは故郷の話をしたがらない。確かに──ディムロスは思う。この信仰のかたちは、ライザールのような混沌とした巨大な街やラプトのような暗黒の力が支配する場所では生きてゆけないものだろう。
「ハハア、なんとなくわかるぜェー…俺も、空の上に神様がいて…毎日、海を鏡代わりに覗いてる、そんなおとぎ話をガキの頃から聞いてるなァ」
「民俗学的な視点から言わせてもらえば──」
「それはまた今度にしましょう教授!」
ジェンダールがレイドリアンの口を塞ぐ。カエデは続けた。
「…でもね、でも、本当にたまに、そういうことが起こるの。お姉ちゃんも、今までの巫女さまも、たまに…見えないはずのものを見たり、知らないはずの事を知っていたりする。お姉ちゃんが飛び出していったときもそうだった。お姉ちゃんは夜中に私を起こして、『見つけた』って。私には何のことだか分からなかったけど、今ならわかるよ。お姉ちゃんは見たんだ。呪いの風を…どうにかする方法。あの時、私も一緒に行けたらよかった。訳が分からないまま、朝になったらお姉ちゃんはいなかった」
俯くカエデの口元を、橙のスカーフが優しく包み隠す。私のせいだ、と彼女は呟いた。
「私がもっと、お姉ちゃんの近くにいてあげればよかった。お姉ちゃんのために、もっと…」
「やめろ」
ディムロスはそれを短く遮り、冷酷なまでに決断的に立ち上がった。
「変わらない昨日を憂うな。届かない明日に手を伸ばすな。どちらも、命には代えられない。ジェンダール」
「…はーい…」
気が進まないながらもジェンダールはそれに続いて立ち上がる。結局、食べたのは砂糖菓子とお茶だけだ。
「始めよう。信者どもの食事が終わるまであと五分あまり。俺は下の階を調べる」
「りょーかい。見つかった時は?」
「部屋を間違えたとでも言え。行くぞ」
そして振り返ることも説明することもなく、二人の闇探りはしめやかに走り出し、今なお異様な静けさのまま輪を描いて座り込む信者たちの背後を煙のように過ぎていった。
「…あー、なんだ。その、つまり、気にすんなって言いたいんだろ」
いたたまれずにハアムが口を開いたが、カエデは既に顔を上げていた。その目に宿る炎めいた揺らめきに、ハアムは体の芯で戦士の鼓動を感じる。
「──セベクって、ああいうのばっかりなの?」
「大抵は他人に興味がねェもんだ。ああいうのは…珍しいんじゃねえか?」
「フン…」
レイドリアンは一人鼻を鳴らし、まるで気にくわないというようにぼそぼそと呟いた。
「妙に雰囲気が変わりよった。ディムロス・トーランドといえば、もっと…なんというか、凍った泥のような男じゃったがな。昔はな」
「どんだけ昔から知ってんだァー?」
「あいつがわしを知らんのは本当じゃよ。ライザールの年寄りは誰でも…奴の事を知っておる。何せ、最も若くして最も深くまでラプトへ潜った奴じゃ。おまけに人情を解さん。どんなことでも秘密とみるや白日の下に晒し、自分はそれを後目に陰へ戻っていく…そんな奴だったがの」
それ以上は何も言わず、レイドリアンは再び手の中の像へ意識を向けた。ナイフの衝突によってできた傷はほとんどがふさがり、やや色合いを異にしながらも形を取り戻しつつある。
「…ふうん」
首元のスカーフを小さく持ち上げて口元を覆い、カエデは頷く。
「変わらない昨日と、届かない明日…」
*
何かを想うカエデを見つめながら、ハアムはじわりとこみ上げた思い出に身を委ねていた。あの日の彼女も、こんなふうだった。何かに気付いたような得意げな表情で、もはや取返しのつかないほどに病に冒された身体を動かして、ハアムの耳元で囁いたのだ。
「お兄ちゃん。私ね、見たんだよ。黒い風が吹くの。私たちはもっと大きくなるの」
なんと返したか、忘れてしまった。馬鹿なことを言うな、休んでいろ?それとも、もっと詳しく聞かせてくれ?あるいは…もはや妹の耳には言葉など聞こえないことを、知っていただろうか。あの時の自分はぐちゃぐちゃで、まともに過ごしていた記憶など少しもなかった。ただ必死に鉄を打ち、現実ごと薄く鋭く引き伸ばして、忘れてしまえたらと思っていた。
それなのに、いざ思い出せないとなると──寂しいものだ。もはや自分を待つ家も家族もない、あの南の遠い海の景色が胸を満たす。
カエデが膝を抱えて座り、スカーフの匂いを嗅いでいる。レイドリアンが木を彫る音が、蟲の鳴く声に合わせてかりかりと小気味いい。
あるいはこんな平和な夜が、永遠であればよいのだが。そう願いつつも、ハアムは胸の奥にざわつく予感を感じずにはいられない。星のない夜。周囲の木々の根本から、誰も覚えていない古い時代の妖気がじわじわと流れ出てくるようだった。
*
ディムロスは素早くドアを開けては覗き込み、あるいは物色して次のドアへ向かうことを繰り返していた。ジェンダールも逆側から同じくだ。だが、廊下の真ん中で顔を見合わせた二人の表情は似通っていた。
「何もないね」
「…ああ。この部屋は調べたか?」
「ここは空き部屋みたいだよ、ディム──」
ジェンダールの答えを待たず、ディムロスはナイフをドアの隙間に突き刺した。力任せに引き落とし、錠を切断する。
「どの部屋にも鍵がかかっていないのに、空き部屋にだけ鍵をかけるか?」
「…まあ…手段はともかく、おかしいよね」
ジェンダールはピッキングツールを所在なさげに指の間でくるくる回した。ディムロスが滑り込み、ジェンダールも慌ててそれに続く。
「これが空き部屋か?」
「酷いホコリだね。空き部屋って言うより廃墟……ここだけ廃墟って感じ」
「俺が聞いたのはホコリの量じゃない。あれだ」
ディムロスが指さした先に目を凝らすジェンダール。複眼の感光性の差が徐々に和らぐと、ジェンダールにもそれが見えた。他の部屋と同じ間取り、壁に寄せて置かれたテーブルの上に、異様な存在感の彫像が置かれていた。
「…うわ、何アレ…ちょっと気持ち悪い」
言いつつ、ジェンダールはひょいひょいと部屋に入り、像を手に取った。
「ん…教授が拾ってきたやつと、形が違うね。なんか丸い感じがする。…ディム?」
ディムロスは腕を組んで何かを考えている。表情は険しい──(いつもか、とジェンダールは思った)
「まるで見つけてくれと言わんばかりだ。…俺たちのようなセベクが訪れると知っていて、こんなふうに置いてあるようにさえ思える」
「仮にそうだったとして……罠だとして、目的はなんだろう?真実を知られたくないなら、こんなもの置いてはおかないだろうし。それとも、これ自体が何らかのブラフ?」
「わからん」
ディムロスは短く答えると、背を向けた。
「他の部屋も調べるぞ」
*
「お姉ちゃんは私なんかよりずっとずっと強いの。だから、心配は…してないんだ。ただ、お姉ちゃんを一人にしたくなかっただけ。…変かな?」
二人のセベクが非合法的な行いへ向かって五分。じき戻る頃か、カエデは呟いた。レイドリアンは既に草の上で横になり、鼾をかいている。恐るべき豪胆さにハアムは内心溜息をつきながら答えた。
「家族ってのはよォ…大事にするもんだ」
その言葉に秘められた揺らぎ、あるいは含蓄めいたものに気付いたかどうか、カエデは神妙に頷き…立ち上がると、鞘に納めたままの刀をとった。そしてハアムを見つめ、にこっと笑って手招きする。
「ね、組手をお願いしてもいいかな。お姉ちゃんの特訓思い出したら、身体動かしたくなっちゃった」
ディムロスならにべもなく断っただろう。彼は戦士ではなく、セベクだったから。だがハアムは戦士だったし、相手が自分より小さな女であろうと、それが戦士であると理解したながら対等に扱う男だった。
「ハハアー…いいぜェ…」
静かな高揚。彼の剣は予備のもので、その巨体に比べれば矮小にも見えるほど小さなものだったが、それでもそれは彼自身が鍛えたものだ。それはすなわち、彼の肉体そのものと変わりない。刃が抜けないように紐を何重かに縛り、無造作にハアムはそれを構えた。
「…なんか…アイサツとか、いるのかァ」
「ふふっ」
カエデは軽やかに風のように笑うと、抉り込むほどの低姿勢で刀を構える。
「いくよ」
傲然と笑い返したハアムの眼前に少女が出現した。薄目で見ていたレイドリアンにはそう見えた。踏み込みが速すぎて目で追えなかったのだ。歳のせいと片付けられる程度のものではない。ハアムは咄嗟に剣を突き立てて防御したが、それも精一杯の反応と言うべきか。彼が攻撃に転じる間もなくカエデの間合いは離れ、くるりとターンを切って…再び、蛇のような前傾姿勢に転じる!
「二度はねえ」
だがハアムもただの木偶ではない。短く吐き捨て、彼もまた踏み込んだ。カエデの踏み込みが風のよう、矢のようだとするならハアムのそれは大岩だ。風を砕き、矢を弾く大岩。
カエデが持つ刀は刃渡りが長く、振り抜くには必然の間合いがある。敢えて刃へ向かうことで、流れるような刃の軌跡を無理矢理に歪めることも可能──それもまた必然であった。
剣さえ構えず肩から突っ込むハアムはまさに岩の衝突にも似て、直撃すれば相手がどんな鎧をまとっていても軽々と弾き飛ばしてしまうだろう。既に目算を狂わされたカエデはしかし、前傾姿勢から踏み切り、垂直に跳んだ。無理な体勢ながらも高度を得た身体が舞い、破滅的な突進を回避する。ハアムは…ブレーキをかけることはせず、一気に間合いを離した。その背中へ向けて、再びカエデが走り出す。身体が沈む。ハアムが…跳んだ。カエデと同じように垂直に、しかし圧倒的な質量と筋肉の差で、跳んだ。夜空にその身体が溶ける。
初めて二人の剣がぶつかり合った。戯れるようなカエデの初撃と逆に、叩き付けるようなハアムの剣をカエデが受けたのだ。拮抗は一瞬。
「おらァ!」
ハアムが全体重と重力加速を合わせた一撃に裂帛の気合を上乗せすると、風に飛ばされる木の葉めいてカエデの身体が吹き飛んだ。長く弧を描いた刀身ゆえの、受け流しによる防御──それさえ、質量が生み出す威力を殺しきることはできない。勢い余ったハアムの剣が地面に激しくめり込むと、夜闇に土くれがぱらぱらと踊った。レイドリアンは呆れ、寝たふりを決め込む。(無茶苦茶するもんじゃ。怒られても知らんぞ)
カエデが空中で身を捻り、聖堂の壁を蹴った。重りになる刀を捨て、鋭角の飛び蹴りでハアムを狙う。砂塵とめり込んだ剣は彼女のアドバンテージだ!
二階の窓から、二人のセベクがそれを見ていた。ジェンダールが息をのむ。ディムロスはじっとハアムを見ている。
「はあ──ッ!」
ハアムは剣を手放さない。然り、徒手にて迎え撃つつもりなど毛頭ないのだ。その腕が網目状の筋肉に膨れ上がった。カエデは既に空中にいる。
「早さより……力だろォ……!」
そして、彼は力任せに剣を引き抜いた。無理矢理な力の行使に沿って大量の土と雑草の根や石ころ、およそ地面にあったものがまとめて打ち上げられる。
「きゃあ!」
意識外の攻撃に思わず悲鳴を上げ、カエデは両手で防御姿勢を取った。威力を減じた飛び蹴りを肩で受け、ハアムは──ふと剣を止め、カエデの脚をむんずと掴んだ。
「捕まえたぞォー…」
「ちょ、ちょっと…ちょっと!」
宙吊りのカエデを揺らしながら、ハアムは剣を再び地面に突き刺した。そう、突き刺さったのだ。力任せに引き抜いた反動で、その刃は鞘から抜けてしまっていた。
「わりいなァ。筋肉が有り余った」
「いいから下ろしてよッ」
ひょいとハアムが細い身体を放り投げると、カエデはくるくると宙返りを打って着地した。
「もう!」
きっとハアムを睨みつけながら、カエデは刀を拾って土を払う。そして小さくお辞儀した。
「…ありがと」
「心がこもってねェなァー」
「う、うるさい!汚れたし着替えてくる!」
ぱっと駆け出すカエデを苦笑で見送るハアムの横に、入れ違いに出てきたディムロスが歩み寄った。聖堂の扉は開け放たれたまま、夜の森に柔らかい光を吐き出し続けている。信者たちは三々五々、ふらふらと動き始めていた。
「お仕事は終わりかァ」
「まあな」
ディムロスはそう答えたが、肩をすくめて続けた。
「これといって怪しいものはなかった。ジェンダールがもう少し頑張るらしい」
「そうかァ……まあ、怪しいと言えば…全部が全部、怪しく見えるよなァ」
鷹揚に頷いたディムロスの視線が寝転がるレイドリアンを見、抉られた地面を見、突き刺さった抜き身の剣を見た。
「カエデはどうした」
「着替えだと。覗きか?」
「いや」
「真顔で言うな、冗談だろォ」
ディムロスの視線が一点にとどまった。中庭の中央、礼拝堂との間にぽつんと置かれた井戸だ。昼間はただの井戸にしか見えなかったものも、夜闇の中ではひどく不吉なものに見える。心なしか、ぽっかりと口を空ける井戸の上にこそ闇がわだかまっているようにさえ思えた。
「…すべてが怪しい、か。調べられるものは…調べた方が得策と言うわけだ」
「何、言ってんだァ?」
ディムロスは無造作に歩き出しつつ、折りたたんでいた笠を広げて被った。
「ジェンダールが戻ったら伝えろ。下にいる」
「下ァ?」
素っ頓狂な声を上げたハアムに構わず、ディムロスは足を速めた。未だ遠い朝日から逃れるように。それに呼応するかのように、あたりの闇が微かにざわめいた。ハアムの胸中に嫌な予感が去来する。何かが迫ってくる、というように。
「おい、待て、おい!」
「無駄じゃ無駄じゃ。セベクというやつは一度気にしたらもう止まらんのじゃ」
レイドリアンの言葉を裏付けるようにディムロスの歩みは加速し、ほとんど走り込むようにして…小さな黒い身体を闇に躍らせ、井戸の中へ飛び込んでいった。
「正気かァ…?」
自称教授が小さく鼻で笑う。その手元に置かれた邪な像が、降り始めた夜露に濡れて厭わしくぬらぬらと光を放っていた。
七
暗い。彼は目を閉じ、強く瞑って、開いた。闇に順応した複眼が微細な光を集め、彼の視界に像を結ぶ。
とはいえ、映るものは濡れた石の壁だけだ。井戸は浅く、水を汲むという役割が正確に果たせているかは疑問だった。(やはり)ディムロスは頷く。彼の視線の先、井戸の底とは思えぬアーチを描いた天井が続く。明らかに誰かの手によるそれは苔と得体の知れない地衣類にまみれ、相当の年月を誰の目に触れることもなく佇んでいたことをうかがわせた。
(淵の森に、ルシスの貴族が出入りする聖堂。ネアロスの檻。八本足の彫像。地下空間の存在か)
ディムロスの顔を笑みが襲う。それはセベクとしての彼の本能であり、同時に彼自身がつとめて抑える感情だ。低く思考を声に出すことで、彼はその動揺を制御する。
「信仰の形が歪に過ぎるのは、元からあった信仰を歪めたから…そうだとしよう」
信仰者の数は多い。だが、偶像はどこにもない。カエデが恐る恐る口にした教祖の名、それをたたえるような声もない。彼らはただ虚空に祈り、何かを待っている。およそ信仰の対象と呼べそうなものは、倉庫や空き部屋にぽつんと置かれた謎めいて禍々しい八本足の彫像だけだ。それが一体誰の持ち物であったのかさえ、判然とはしない。
「信者たちの部屋を見て回ったが、恐ろしいほどに殺風景だった」
ディムロスはゆっくりと歩きながら呟き、同時に周囲を抜けめなく観察する。濡れた壁は続き、灯りがなければそれ以上先を見通すことはできそうになかった。懐の小瓶から慎重になにかを取り出し、ほとんど動きのない水の中へそっと滑らせる。それはライザールを今も照らし続けているであろう、闇を喰う奇妙な蛍の、その死骸だった。水を吸う事によって、死してなお保たれたその特性を発揮し、乾いたその身体が極小の灯火となって彼の足元を揺蕩った。
「彼らは…確かにオズとやらを信じている。誰もがみな等しく瘴気の病に侵され、救済の手を待ち望んでいる。リムゼの救い……それが瘴気との共存を謳っているならば、彼らはその恩恵に預かるべく集ったのか?」
分からない。疑問の全ては教祖オズの存在に帰結するように思われたが、得体の知れない、目的も分からない…顔も知らない相手の語る真実だけを信じるような者は、セベクではいられまい。
セベクは探る者。闇をまさぐり秘密を暴き、その光でただ暗い暗い己の心を満たす者。好奇と情熱の毒杯を飲み干した愚かな者──
「!」
ディムロスは思考を断ち切って跳び退り、闇の中に浮かび上がったそのシルエットを見つめた。迂闊だな。自嘲の笑みを漏らす余裕はあった。それは…その八本足は、物言わぬ石で出来ていたからだ。消えかけたホタルの灯りが照らす顔は恐ろしい無数の眼を持っていたが、今や地衣類と時の汚れにまみれたそれは悲しげでさえあった。
「ネアロス」
その声は暗闇に低く響き、言い知れぬ何かを呼び起こすかのような錯覚をもたらした。古い言葉だ。石像の台座には確かにそう刻まれている。ネアロス、それがこのものの名か。では、ネアロスの檻という言葉に秘められた意味も…ディムロスは瓶から灯りをぱらぱらと撒き、同時に自分が開けたドーム状の空間にいることを知覚した。空気が淀み、触角に伝わってくる感触はかなり鈍い。方向感覚も鈍っていなければ、この空洞はおそらくあの聖堂のちょうど真下にあたるはずだ。
「ふっ」
澱んだ空気をかき分けるように鋭く息を吐き出し、それに乗ったホタルの躯がひらひらと舞った。空洞の周囲には等間隔に八本足の像が立ち並び、硬く乾いた狩人の眼でじっと虚空を睨んでいた。ネアロスだけではない。どこか聖なる趣を抱いた女、より好戦的で残虐な顔立ちの戦士、あるいは俯き、星を見上げるがごとき者。みな微妙に姿が違い、それを精巧に描き出した作り手の技量までが透けて見えるようだった。
そこに秘められた歴史の重みより先にそれの持つ価値を測ってしまうのはよくない性だ。おおむねジェンダールのせいではあったが。どちらにせよ、禍々しく恐ろしい彼らの像を飾りたいと思うやつは少ないだろう。
「持って帰るわけにもいかないしな」
そしてディムロスは今度こそ息をひそめ、暗闇…彼自身が放った仄かな光でいくらかその密度を減じてはいたが…に己を溶け込ませて這いつくばった。誰かいる。空気の動きがあれば、彼はそれを鋭敏に察知する──(音楽?)
軽く三拍子を刻む音がこだまし始めた。石を叩くような三拍子は少しだけテンポが狂っていたが、それでも音楽の名残めいて確かなリズムに乗っていた。ディムロスはそれが確かに足音であることを察知し、ますます身体を縮めながらゆっくりと移動し始めた。地虫の本懐ともいうべき匍匐姿勢の移動はしめやかで音を出さず、同時に鋭い気迫を湛えてもいる。這いながら、副腕でナイフを抜く。足音が止まった。ゆらゆらと宙を舞っていたホタルの灯りがそれを照らした。
「…?」
その顔は半分ほど溶解したように爛れ、どこか無邪気さの残る動作でホタルを見つめて首をかしげていた。細い身体つきには見覚えがある。(…あの…ライザールの門でヴァイオリンを弾いていた奴と似ているな)
確かに似てはいた。だが、そいつの姿からは滲みでる高貴なものに特有の雰囲気や、労苦を重ねたものの温かみといったポジティヴな印象を一切感じ取ることはできなかった。それはただそこにいて、生きているだけ…あるいは生かされているだけ、といった風だった。
(あの女と同じだ。カデーナと)
ふらりふらりとよろめく足音はきちんと三拍子を刻んでいたが、それもまた不快なズレを伴っていた。きっとこの生き物自身が意図することもなくそうしているのだろう。あるいは、それが記憶の残響なのか。少なくとも今の彼からは知性や理性といったもの──意志もつ者には必ず備わるものを感じ取ることはできなかった。そして、そのどろりと蕩けた瞳がディムロスを見つめた。
「ッ!」
地虫の匍匐前進はただの隠密ではない。どんな姿勢にも即座に発展させることのできる万能の構えでもある。ディムロスの黒い身体は後方の闇へバック転を打ち、彼が存在していた座標に突如として現れた奇妙な武器を回避した。
「槍か?」
もはや思考ではなく声を出し、ディムロスはナイフを構えた。正中線を護る、受け身の構えだ。その武器は長い柄とそれに被せられたような形の鋭い穂先を持ち、確かに槍のようだった──らせん状に捩じれ、鋭い穂先からまるで何かを伝えるかのような溝が入っていることを除けば。
少なくとも目が合った瞬間に攻撃を仕掛けてくる存在に対話など望めまい。ディムロスの視線は敵が現れた方角の闇へと向いた。奴の来た方向、そちらにも空間があるに違いない。どうする。引き返しても垂直の井戸、ならば…切り抜け、進むしかない。じりじりと円を描くように足を運ぶディムロス。
「!」
すると、それは槍をぽいと放り捨て、首にかけられた小さな錠──(悪趣味なアクセサリだ)──を握りしめ、そしてそこに刻まれているのであろう言葉をゆっくりと口に出した。
「…ヴァ、ル、ツ」
それが名乗りだと気付いた瞬間、ヴァルツの手には再び奇怪な螺旋の槍が出現していた。ディムロスは咄嗟に横っ飛びにかわし、躊躇なく黒曜石の巨大なナイフを投げた。回転さえせず真っ直ぐに飛んだ刃はヴァルツの首筋へ狙い過たず突き刺さり、苦悶の叫びさえ許さない。
ヴァルツは倒れ、槍がまた地面に落ちた。だがそれは落ちたとみるや蒸発するように霧散し、持ち主が望まない限り姿を現さないことを暗に告げた。ディムロスはつかつかと歩み寄ってナイフを抜きとり、不快な匂いに顔をしかめた。瘴気の匂い。それがヴァルツの身体から発散されていることは明らかだった。正確にはその傷口から。蕩けた目がじっとディムロスを見つめ、そして不意に現れた螺旋の穂先がディムロスを突き刺した。
*
ジェンダールは聖堂の屋根へ上り、空き部屋から持ってきた八本足の彫像をしげしげと眺めていた。
「変なの。…手足の付き方が、八本足とは違う…けど、こっちの方が…旧い?ネアロスの檻…檻ねえ」
不意にジェンダールはびくっと動きを止め、静かに空気の匂いを嗅いだ。甘い匂い…だが花とは違う、ものの腐り果てた跡のような…
「瘴気?…あれ」
まぼろしのように匂いは消えた。その匂いを追おうと立ちあがったとたん、ジェンダールは再びうずくまった。声も出せないほどの激痛が右肩を貫き、思わず屋根から落ちかける。…だがそれも、また唐突に消え失せた。
「い…ッた…」
涙さえ浮かべながらあたりを見回すも、しんと静かな淵の森の木々がじっと彼を見つめ返すだけだ。空を見上げても星はない。そのことが──闇の中で、微かなしるべさえも見いだせないことが、ジェンダールに奇妙な不安を抱かせた。
「ディム…?」
うわごとのように友の名を呟くジェンダール。その下からハアムの声が呼ばわった。
「おおい」
「なに?」
ひょいと軒先から顔を出したジェンダールを見て苦笑すると、ハアムは言った。
「お前、よく高いところにいるよなァ。…ディムロスの奴、井戸に飛び込んでいったぞ。言っちゃあ悪いが、なかなかイカれた奴だな」
「わしは寝るぞ!お前、曲りなりにも用心棒じゃろ。ついてこい!」
「ハア。分かってまさ。じゃあな、ジェド。──今更とは思うがよ、気をつけろ」
曖昧に頷くジェンダールの視線は中庭の井戸に釘付けになっていた。ぽっかりと空に向かって開いたその穴は、昼間は感じることのなかった奇妙で重苦しい冷気のようなものを放っているようにさえ感じられる。胸の前でルシスの破片が微かに震え、彼の感覚を拡張しようとした。
「…やめて」
呟き、集中を打ち切る。それだけで、不可視の傷が痛むようだった。破片を用いた異術の断片は、しかし断片と言えども失われた叡智なのだ。小さなこの身で扱うには、その力は重すぎる。受けたフィードバックは今もなおじくじくと疼き、彼にその行使をためらわせていた。そればかりではない。このまま異術を使い続ければ、自分が自分でなくなってしまうのではないか──あの拡張され、解き放たれた精神の荒野に、自らの魂までも置き去りにしてしまうのではないか、そんな荒唐無稽にも思える想像が脳裏をよぎる。
「ディム──無事でいてよ」
ジェンダールは今度こそしっかりと立ち上がり、踵を返した。知るべきことはいくらでもある。ディムロスはそれに向かっている。ならば、自分もそうするべきだ。彼のあとを追うのではなく、自分のやり方で。屋根の上に並べたいくつもの八本足の彫像が、彼の決意を冷たく見つめ返した。ジェンダールはとっておいたスケッチを見返しつつ、呟いた。
「どれも少しずつ姿が違う。ネアロスと名のついたものは一体だけで、他は…それと比する存在、もしくは、神官のようなもの…?」
ふと、ジェンダールの視線が一体の彫像に向いた。それは石ではなく、木彫りで、素朴な温かみを帯びてさえいた。彫られているのは、おそらく女。恐ろしげな多眼の顔を柔和に崩し、何かを待つように腕を組む。
「…似てる…かなあ。でも、相当昔のもののはず…ん?」
ジェンダールの指先が、台座に彫られた溝をとらえた。細かな溝が縦横に交差して、なにかの文様めいていた。灯りのない屋根の上でははっきりと読み取ることができないけれど、ジェンダールにはそれが旧い言葉の一節であることを理解できる。
灯りを求めて屋根を飛び降りるその背中を、真っ赤な眼がぼんやりと見つめていた。
*
それは状況判断と言うよりも脊髄反射だった。右の肩を鋭く抉られながら、ディムロスは左腕を伸ばして槍の柄を握った。そして一気に身体を回し、ヴァルツの手から槍を奪い取った。槍は即座に闇に溶けて消え、ディムロスの肩口から地虫らしい灰色の血が吹いた。
「…!」
ヴァルツの麻痺した脳は、そのスピードにはついてこられない。ディムロスは傷にも痛みにもひるむことなく前進し、物も言わずにナイフを握ると、倒れ込むようにそれを突き刺した。厭な手応え。ヴァルツの身体がびくんと仰け反り、溶けた瞳が無機質に闇を見上げる。誰かの声が耳の奥にこだまする。
(おやおや。酷いことを)
闇に混ざった瘴気が粘つきながら凝り固まり、ゆっくりとヴァルツの傷に集まっていく。たとえ何度貫いても、仮に首を落としたとしても、効果があるかは甚だ怪しかった。なによりそれは殺すための技だ。既に死んだと同じモノに対して、できることなどどれだけあるだろう?
「くっ」
外套を引き裂いてきつく傷口を縛り、ディムロスは更なる闇へ向かって駆け出した。じわりと澱んだ風が吹き、痛みによって鋭敏化した感覚がなにかを捉える──この闇と瘴気と悪意とは異なる、新鮮な悲鳴を。それが知った声ではないことに、無意識な安堵を覚えずにはいられない。
(先客がいるのか。それとも、罠か?)
いずれにせよ──進むしか道はない。ヴァルツはこの湿った暗黒の淵からやってきた。であれば、その先には必ず何かがあるだろう。あるいは…誰かがいるだろう。
真の暗闇と思えた四方の壁から、微かな光が漏れ始めていた。それは決して日の光などではなく、もっと冷たく、小さく、そして確かな意志を持っているように揺らいでいる。暗闇ホタルでも、感情喰いの線虫とも違う光──
『暗がりで自ら光る石は、心を持っておる。心あるその光はな、同じく心ある我らにとっては毒の光じゃ。…まあ、光る石などもはやどこにも残ってはおらんじゃろうが』
「フン。ますます御伽噺めいてきたな」
ディムロスは足を止めず、脳裏にこの場所の地図を思い起こした。方向感覚が狂っていなければ、この洞は間違いなく、聖堂裏の洞窟の方角へ続いている。何故中庭の井戸とここを繋げる必要があったのか──(いや)──ディムロスの想像は嫌な感覚を伴っていた。つまり、その推測が限りなく真実である可能性を秘めていた。
(元からここにあった──この空洞が、元からあったものだ。偽りの聖堂を、その上に建てた……何のために?いや、違う──信仰されるほどの存在がいたにも関わらず、何故、そんな振る舞いが可能だった?)
ずきずきと肩が痛んだ。ジェンダールの不安そうな表情が瞼の裏に浮かぶようだった。
「悪いな」
ディムロスは口角を歪め、塗り潰したような暗闇を突っ切る。触角に伝わる空気の流れが、やがて再び、今度は更に大きな空洞があることを伝えてくる。道の先、明らかな灯火…超自然のものでない、炎の光が斜めにさしていた。そこに教祖オズが──奇妙な違和感。まるでその者にかつて会ったことがあるような、それでいて、その記憶だけがすっぽりと欠落しているかのような──気のせいだ。ディムロスはそれを迷いと断じて振り切り、背後から迫ってくるものがないことを確認すると、慎重に、素早く、光の中へ滑り込んだ。
*
カエデはそれを感じていた。
旅装束ではない、滑らかな黒い生地で織られた艶めく衣装に着替え、身体に馴染んだいくつかの体術を反復しながら、徐々に大きくなるその奇妙な存在感を感じていた。松明めいた橙のスカーフ、大切な姉との約束が詰まったその宝物を握りしめて、カエデはじっと呼吸を深めた。
鞘に納めたままの刃が震えているような錯覚。何かが近付いてくる。夜の訪れとともに地中から目覚めた太古の怪物か、あるいは月の向こうから降りてきたいにしえの魔物か。それとも、もっと悪いものなのか。全てがただの妄想であればいいと思った。だけど、とカエデは思う。これは、この予感は本物だ。今まで何事もなくこの地で過ごしてきたけれど、急激に変わった。ほんの二週間だけれど、幾人かの旅人がここを訪れ、そして何をするでもなく、いつの間にか去っていった。
彼らは違った。特にあの二人──ディムロス・トーランドと、ジェンダール・ラプソディー。あの二人は違う。何かを秘めている。ハアムとレイドリアン教授は、それを理解していただろうか。それとも、これさえ私の妄想なのか。
カエデはぐっと唇を噛みしめ、刀の柄に手をかけた。なにかが部屋の外にいる。ゆっくりと扉が開く。赤黒い、甘い香りが漂う。
それが真っ赤な口を開く。
からん、からんと音がした。何の音だか理解する間もなく、カエデは目を見開いたまま膝をついた。自分が刀を取り落とす音だった。記憶にない景色が無数に瞼の裏によみがえる。悪夢の光景はまさしく、自分が見たはずのものだった。忘れていた──忘れることを強いられた、狂った欺瞞に満ちた悪夢の。
視界いっぱいに優しい笑顔が映り、聴覚の全てを支配するような哄笑がそれに続いた。あまりに相反するその二つが、目の前にいるその一つの存在から放たれたという事実さえ受け入れることもできず、カエデは自分の意識がブラックアウトするのを感じた。
*
「おい、起きとるか」
灯りの落とされた白い部屋の中で、ハアムはのっそりと老いた教授を見つめた。あたりは異常な静けさをたたえ、夜の全てが更なる暗闇を恐れて口を閉ざしているようだった。
「ハア」
レイドリアンは仰向けに天井を見つめていたが、やがて言った。
「疫病神をしょいこんだの」
「…ハア。さいですな」
枯れ木を震わすような笑いが短く起こった。
「ふはは。なんじゃ、気づいとったか。いやいや、わしは満足しとるよ。五本首の化け物にネアロスの檻、瘴気に冒された者どもの聖堂、そしてこの夜!わしは考古学者じゃがな、研究なんてものはしょせん自分を満たすためだけのものじゃ。誰にも渡すつもりはない。そういう意味でも、理想の終わり方だと思うんじゃ」
「…理想、ですかい」
「そうじゃ」
レイドリアンは頷き、上体を起こした。が、老いた複眼には暗闇を見通せず、また寝転んだ。ハアムの黒い身体は闇に半ば溶け込むように鎮座しながら、じっと彼を見つめていた。
「秘密のただなか、熱い悦びの中心で、得体の知れぬ大いなるものに……死を与えられる。もしそうなるなら、じゃがな。わしはそれこそ、学者冥利に尽きると思う」
「…俺には分かりませんや。それに、誰だろうとあんたを殺させるわけにはいかねえ」
「かはは。なんじゃ、ボディーガードの自覚はあったか」
ハアムは頷きながら立ち上がった。雄々しい角があやうく天井をこする。
「俺は…守らなきゃならねえものを、一番大切なものを、守れなかった。守るべき時に。だから、次はねえ」
手には剣。彼の体躯にしてみればあまりに小さいが、誇りによって鍛えられた熱い鋼で出来ている。小さな部屋のドアが開く。
「──」
ハアムは言葉を失い、構えていた剣を下ろした。
ジェンダール・ラプソディーは両目と背中からおびただしい血を流し、奇怪な彫像を握った手を必死に伸ばして、絶え絶えの息で囁いた。
「…カデーナ。この像の…名前…!」
ねっとりとした静寂が世界を満たし、およそ健やかなものの一切が潮のように退いていく。ハアムが倒れ込むジェンダールの身体を咄嗟に受け止めるのと同時に、無数の金属をいっせいに引き裂いたようなおぞましい絶叫が、すぐ階下のホールから轟いた。
*
絶望的なまでの疲労を溜めこんでいた彼女は、ほとんど昏睡めいた湖のような眠りに落ちていた。宇宙的に黒い目でそれを見遣り、ビザルネルカブラは長く重たい煙を吐く。湿原の端で採れる香草はどこか青臭く、清冽な酸味を伴う煙草になる。人を選ぶその味をゆっくりと味わいながら、老いたるセベクは自分の吐いた煙をじっと見つめた。渦を巻いて停滞し、ライザール北の旧市街に特有な石造りの部屋の中を独特の匂いに染めていく煙がさらに二筋増えるころ、古く重い木材で出来た扉をノックする音がした。
「よいぞ」
「へえ。それでは失礼を」
ひょろ長い灰色の身体を揺らしながら入った彼は、部屋中に漂う煙の匂いに顔を顰めた。
「うへえ」
「なんじゃ、シクターン。お主、まだこれが苦手か」
「ガキの時分から苦手なもんで」
思い出を含んだ笑いを零しながら、カブラー老は煙草を消した。シクターンは息を止め、時の重みにひび割れた分厚い窓を開ける。ゆっくりと煙が外へ出ていき、シクターンとカブラーは向かい合う。その間で、アオイは規則的な寝息を立てている。座り込むや否や、シクターンは口を開いた。
「…で。一体、何をしようってんで?この女、お知り合いか何かです?」
「いや」
短く否定し、カブラーは腕を組んでシクターンとアオイを交互に見つめた。二人の身体はどこか似通った構造をし、けれど異なる歴史を歩んできたことは明白だ。北の異郷の民は、いくつもの部族に分かれている──このアオイのように火の山の近くで暮らすもの、執行者サイアンのような、月の満ち欠けに合わせて旅をする奇妙なもの、あるいはシクターンのように、火の山から降り注ぐ灰を浴びて育つ、極めて生育の遅い長命のもの。
「虫の知らせというやつかの」
「…虫、ねえ」
シクターンは取り立てて追及することも、何かを提案することもせず、黙ったまま荷物を探った。
「とりあえず、言われた通りに。薬をいくらかと、果物を」
「うむ。感謝する。…シクターン。どうもよくないことが起こっておる──ディムロスも、ジェンダールもそれを嗅ぎつけておる」
二人の名を聞いて、シクターンは微かに顔を上げてカブラーを見つめた。
「あやつらはそれなりに腕が立つ。が、どうしようもなく阿呆じゃ。たとえ目の前に悪魔がいても、恐れるということをせんじゃろう」
「でしょうな。…ですが、それがセベクというものでしょう」
カブラーは乾いた笑いをあげた。
「フォハハハ、違いない。どちらにせよ、自らの探索行から戻ってこれぬような輩では…」
シクターンは黒い目を見つめ、その裡にある絶対的なまでの冷徹さ、力ある意志に身震いした。それは、たとえ肉親であろうと裏切りに対して決然と報復を行ったかつてのビザルネルカブラと寸分違わぬ気迫だった。
「戦うことすらままならん。大いなる危機と…あるいは、災厄と。時に全てを捨ててでも逃げるという決断を下すことも必要じゃ。戦いの手段はいくらでもある──しかし、その全てが、生きていなければ無意味。シクターンよ、お主はどちらに賭ける」
「は?」
思わず訊き返し、そしてカブラーの笑いを見て、シクターンは溜息をついた。
「つくづく、恐ろしい人ですよ。曲りなりにも自分の弟子と、かつての弟子でしょうに」
「そうじゃな。ま、それはそれよ。わしは帰ってこないほうが大きいと思うがな」
「淡泊というか、なんというか。それもセベクの極意ですか」
「かもな。ほれ、どっちじゃ。灰色の民は直感力が鋭いと言うではないか、これで当たっていればお主を賭場に連れていこうと思うてな」
カブラー老は楽しげに言い、パイプを手に取ると、今度は煙の薄い果物の葉を詰めて火をつけた。シクターンは目を閉じて小さく息を吸い、やがて答えた。
「失う。…なんとなく、そう思う。それがどんな意味かは分かりかねます」
「そうか」
しかしビザルネルカブラはそれ以上何も言わず、黙って甘い煙をくゆらせていた。シクターンも無言のまま立ち上がり、扉を開けて、出ていった。
時折煙を吐き出す長い息と、規則正しい寝息の他は、ただ旧市街を渡る乾いた風の音だけが、時の止まっていないことを証明してみせるような夜だった。
八
ほの赤い闇は脈動する溶岩めいていて熱く、しかし見ているだけで身体の芯が疼くようなあの奇妙なうすら寒さ、目を閉じ続けていると感じるあの厭な不安と似た、本能からの怖気を絶えず背筋に走らせた。
灼けつく痛みと、冷え切った安寧。それはとりもなおさず、生と死の狭間を想起させる不吉な組み合わせだった。
次第に闇の向こうが見通せるようになってくるにつれ、感覚が少しずつ鋭くなっていき、やがて漠然とした恐怖は霧めいてまとわりつく悪寒へと変わっていった。全身の神経を集中させ、カエデは手の中に刀をイメージする。炎の中で鍛えられ、蕩けるほどに冷たい雪解け水に冷やされた鋼を。炎の山のふもとで生み出される鋼とその刃は、彼女にとって常に懐かしく拠り所となりうるものだった。
それはまた、よく似ていた。命の狭間で飢える己に。精神と身体の間に金床を置き、以て魂を打ち据え、薄く鋭く引き伸ばしてゆくさまに。
重くのしかかる邪悪な意志に抗おうと、カエデは必死でそのイメージを育て続けた。今の自分が夢を見ていることも、その夢そのものが、良からぬ誰かのものであることも、理解していた。その存在は、カエデがそう理解していることに少なからず興味を持っているようだった。
低く優しく地を這うような声が囁いた。
「ああ、どうか怖がらないで──貴女の痛みを、私は知っている。そうでしょう。私が知っているということも、貴女は知っているはずだ。拒む理由などないことも、理解できているでしょう?聡明な貴女ならば、自分の望みを叶える方法もまた、自ずと…」
カエデは耳をふさいだ。聞きたくなかった。それが毎晩聞こえる声であることを、ただ夢の中では思い出せたから。この存在が、毎夜そうして語り掛け、彼女の心を毒そうとしていることを知っていたから。──それが、抗いがたい誘惑であると、身体よりも心が分かっていたから。そして、その声を真に拒むこともできないのだ。
「──貴女の姉君が──」
本当に知りたいこと、心の底からの欲求を囁かれて、それを拒めるものなどいるはずがない。万華鏡めいた夢の視界を、遠い記憶の景色が埋めていく。どろりと重く、言葉が絡みつく。それなのに、カエデは立ち尽くし、もはや懐かしい姉の笑顔に見惚れていた。まるで、この夢に、幾星霜もの刻を囚われていたかのよう。
「本当はどうなったか、知りたくはないのですか?かわいそうに、身に余る願いの果てにその命を焼き尽くし、私のもとで泣きわめきながら死んだと、そう言ったらどうします?…ふふふ、ああ、貴女の心のざわめきはとても鋭く、素直だ。痛むのですね。そんなことは事実でないと分かっているのに、想像せずにはいられず、そしてその痛みに心を軋ませる。──私なら、その痛みから救ってあげられますよ。約束しましょう。貴女の夢見る理想の現実だけをその眼に映し、貴女が拒む苦痛の嘘から、永久に守ってあげられる。貴女は真実を拒み、そして優しい虚構に心を委ねる。それがどんなに快く、取返しのつかない快楽であるのか、きっと想像できてしまうのでしょう?…ああ…必死に自分の心に言い聞かせるその姿。ここが夢でなかったなら、酷い醜態であったことでしょうに。冷たく甘い痛みに胸を抉られ、それを無いものと振る舞おうと必死な貴女の、涙だけが真実だ。その痛みの前に、貴女の真実も、貴女の夢も、境界などないのです。…脳というものは、否定する言葉を認識できないそうですよ。つまり──否定すればするほど、貴女はそれが本当だということを、ほかならぬ自分自身に言い聞かせてしまうわけだ。おや、そんなに睨んでも無駄ですよ。これは貴女の無意識、私はそこに佇んでいるだけ。そうでしょう?…もう、よくわからない?結構。ひとつだけ、貴女のできる最後の抵抗を教えてあげましょう──信じることも、否定することも、しなくていい状態。夢も現実も、どちらも見なくて済む方法がある。私の姿さえ、消してしまえる単純な行いが。…目を閉じなさい。ほら。闇だけが貴女に優しい。苦痛なだけの空想からも、果てのなく空虚な現実からも、貴女は遠い。遠く、遠く、消えていく。貴女の心は落ちてゆく。深く、深く、落ちてゆく。…今更、抗おうとしても無意味ですよ。ほら──目を覚ます、その行為さえ私のものだ」
*
地響きと奇怪な絶叫を聞きながら、ディムロスは屈みこみ、指先で床をなぞった。黒光りする石材が敷き詰められた床は、明らかに人の手によって造られたものだ。先程までの、古いばかりの洞窟とは違う。誰かが目的をもって造り上げた床は徐々に上へ向かって伸び、そして…その両側に、いくつもの扉を備えていた。等間隔に配置された松明にはどこか寒々とした炎が瞬き、その光がぼんやりと背後の暗闇を照らしていた。
ヴァルツが戻ってくるまでにどれだけの時間がかかるかは分からない。ディムロスは速やかにその廊下を進み始めた。
地響きはおそらく、ジェンダールの持ち込んだ爆薬によるもの。絶叫は…少なくとも、知った者の声ではなかった。それどころか、この世の生物から出たものとは思えない、おぞましい響きであった。
それと呼応するように、嗚咽まじりの悲痛な声が暗い通路を反響していた。ディムロスは扉のひとつに近づき、鉄格子から中を覗いた。
「赦して…ください…無理だったんです…私には無理…お願い…もう…」
暗がりの独房にうずくまる女が一人。その背後の壁には──両手足を壁に縫い付けられた、誰かの骸が磔になっていた。
(ああ、かわいそうなものでしょう)
どろりとした風とともに、誰かの囁きがディムロスの耳元に漂った。ディムロスは動じず、鉛のように重い呟きを返した。
「オズ・キーラン。お前か。…会ったことが、あるな?」
含み笑いがそれに答えた。ディムロスは次の扉を覗く。不明瞭な言葉を繰り返しながら、男が一人、壁に何かを刻み付け、数を数えていた。
(おやおや。見てごらんなさい、まだ正気を保っている…つもりのようだ。この男は一週間ほど前、愚かにも…ふふふ。ネアロスの財宝を求めて、ここを訪れたのですが。大して面白味のない男だったので、しばらく自分の骨の数を数えさせています。ああ、命に別状はありませんよ。少しばかり柔らかくして、自分で骨を抜き差しできるようにしてあげただけですから)
その声は極めて穏やかで、さも当然のことを口にしているようだった。吐き気をこらえながら、ディムロスは向かいの扉を覗いた。
(そこは…はて、すみません。ずいぶん前に死んだので、よく覚えていませんが…ああ、思い出した。毒虫でいっぱいの壺の中に、くりぬいた目玉を入れたのです。拾えば命は助けると…まあ、たいして面白い死に様ではありませんでしたね。私の気まぐれは、私自身が反省するところでもあるのです。もっと効率的に、苦痛を、恐怖を、味わおうとは思うのですが…ふふふ、いかんせん、命というのは脆すぎる)
ついさっき聞こえたものと同じ悲鳴が、再び上の方から聞こえた。ディムロスは他の扉に構わず、悲鳴を上げ続けるその独房へ走り込む。邪悪な声が囁く。
(結果は変わらないのだから、もっとゆっくり見て回っても良いのですよ。ここにあるのはほんの一部…と言うよりも、まあ、余興のようなものです。死んでしまったものは…既に、無価値ですからね)
「おい!…助けに、来たぞ」
言いつつ、ディムロスは自分の言葉に疑念を抱かずにはいられなかった。助ける。何から助かるのだろう。ここには絶望しかない。一体、いかなる聖者がここに光をもたらせるというのだろう。
「い、嫌…いやああああああああ…!」
「おいッ!」
少し広く造られた独房の中で、地虫と思しき女が一人、腰を抜かしながら後ずさっていた。機能的で頑健な旅装束…おそらく、セベクなのだろう。彼女の視線の先には、同じく地虫の男がいる。ただ、まともであるようには見えなかった。複眼はどろりと濁り、四本の腕をだらりと垂らしたまま、気まぐれな振り子のようにゆらゆらと身体を揺らしている。その身体はところどころに黒い染みができ、ぶくぶくと泡だって不快な匂いをたてていた。
「来ないで…レクシス…お願い…嫌…嫌ああ…!」
泣きわめく女に、ディムロスの声は届いていない。
(貴方の声では、救えませんよ。レクシスとピルファ、彼らはセベクだそうですが…ふふ、セベクとは、また。確かに、あの男はどこにでも現れ、奇妙な価値観を持っていた。できればこの手で頭を開いてみたかったものですが)
まるでおとぎ話の存在を見知っているかのような口ぶりでオズの声が囁き、そしてまた笑った。何か楽しくてしようがないといった風だった。
「…お前が、やっているのか」
(まさか)
オズはくすくす笑いながら、それでも心外だとばかりに否定した。その否定が邪悪に過ぎる諧謔を秘めていることは明らかだった。
(私はただ、状況を与えているだけですよ。状況と、手段を。たとえば一つ目の部屋ですが、あれは男を磔にしたうえで、女にナイフを与えました。それだけですよ。後は勝手に、苦しむ自分の恋人を救おうとした女が殺しただけです。それだけで…心がどこかへ行ってしまった。彼女はずっと、「殺せなかったから代わりに自分を殺せ」と言ってくるのです。ふふふ、ははは…自分が殺したという事を受け入れられない、そして私はそれを否定も肯定もしない。時に他者の刃より、自身の心というのは鋭くなるものだ…永遠に呵責され続ける魂が、一体どうやったら救われるのでしょうね?それとも、死はやはりすべての答えなのでしょうか?だとしたら困ります──私は全てに答えを与えたいと、そう願っていることになってしまう。もっと、もっと、痛みを与える方法の限りを尽くさなければなりませんね)
欺瞞。いや、欺瞞と呼ぶにも相応しくない。それはただ邪悪として存在していた。ディムロスは──それを、ごく自然に受け入れた。…誰が拒めるだろう?本当の邪悪を前にして、それを理解せずにいることは、自分達には不可能なのだ。
「…ルシスの貴族と、何をしている?」
それでもディムロスは問うた。それが、自身の目的だから。誰の為でもない、ただ好奇の心からくる目的だったからだ。
(──貴方はルシスについて、何を知っていますか?)
独房の中では、ついに後ずさる先をなくしたピルファが甲高い悲鳴を上げていた。レクシスはその声を頼りに、己の相棒を探し出そうと必死で手を伸ばしていた。その指先は黒く沸き立ち、爛れた肉が黒い石の床へ滴って、熱い臭気を迸らせた。
「永遠の都ルシス。寿命や病から解き放たれた貴族たちが暮らす、異術の都。…選ばれたもの以外は入ることも許されない清浄なる街。それだけだ」
(ふふ。異術。異術ですか。ああ、確かに、あれは異術と呼ばれるに相応しい力だ──それでも、本当の闇、全て毒なるものの母、大いなる病の父たる黒い風…私の力。それこそが、真に勝るものだった。本当ならばね。…とはいえ、神話とは得てして歪められるものだ。それに、私はこうして帰ってきた…常闇の淵から、最果ての、そのまた最果てから。命の極北から)
ピルファの悲鳴はくぐもった呻きへ変わっていた。覆いかぶさったレクシスの肉体が崩れ、溶け落ちて、焼けこげながら彼女の口へ流れ込んでいったからだ。炎ではない忌まわしい熱に肉の焦げる匂いが漂い、ピルファの身体が何度も痙攣する。オズの声は徐々に熱を帯び、遙かな思い出と共に隠し切れない怒りが滲んでいるようだった。
(ルシスの貴族は瘴気を恐れている──そして、何故それを恐れるのかを忘れてしまっている。時の流れというのは不思議なものだ。初めは許されざる行いも、やがて時がそれを摂理へと変えてしまうことがある。何をしていると聞きましたが)
赤い瞳がこちらを見つめる錯覚を覚え、ディムロスは振り向いた。廊下の奥から、いびつな三拍子が聞こえ始めた。
「ヴァルツ…!」
(私はただ、彼らの求めに応じているだけですよ。たとえ聖なる城壁に囲まれ、開かずの門に護られていようとも、内側から腐ってしまえば…それは、卵と変わらない。そうでしょう?殻ばかり硬くとも、無垢な命が過ちを望めば、とたんにその護りは彼らを縛る檻となるのだから。かつて、私にそうしたように。永久の苦痛と牢獄を、与えてやらなければ──腹の虫がおさまらない、と言うものだ。……さて、少し喋りすぎました。じきに先日のお客様はお帰りになるでしょうが──貴方たちにはとびきりのショーを用意してありますから、どうか楽しんでいってください。もちろん──)
オズの声が薄れゆき、ヴァルツがひたひたと近付いてくる。独房の中はしんと静まり、ただ黒く蠢くなにかの残骸が床に粘りついていた。
(それまで、生き残っていればの話ですが)
もはやオズの声に構わず、ディムロスはヴァルツへナイフを向けた。次で三度目。三度目には正直があるというが、どこまで通じるものだろうか。だが、ディムロスの心はずっと静かに、そして燃えていた。真実の一端を得たことに、間違いはない。
オズという存在は恐ろしく強大で不可解だが、少なくともその悪意はただ純粋で、自然なものだ。裏を返せば、個人への強い感情を向けてはいない。憎悪や嫉妬、怨恨を向けられているわけではない。単なる純粋な邪悪。その理不尽な暴虐にこそ、隙があるかもしれない。ディムロスは傷を縛るために引き裂いたコートからその邪悪の力を宿した護符を引き抜くと、靴のかかとに仕込まれた銀の針でそれを胸のあたりに縫い付けた。ヴァルツは不思議そうにそれを見つめ、そして溶けた瞳を細めて笑った。少なくとも、笑ったように見えた。
ヴァルツの手から槍が消失し、中空に瘴気がわだかまる。出現した槍は一本ではなかった。無数の槍がヴァルツの周囲に出現し、そしてその穂先を一点に定めた。ディムロスは深く息を吸い、止めると、無数の槍を睨みつけながら、黒い床に亀裂が走るほどの力を込め、そこへ向かって突っ込んでいった。
*
北ライザール、旧市街。既にこの世に亡い種族たちが作り上げた石の建物が立ち並び、その古い信奉の精神と新しく雑多なものたちの闊歩が混ざり合う、混沌とした賑やかな街。その一角、ひときわ古く変色したかつての倉庫がある。中は改装され、時折そこをひと時の宿として使うもののためにといくつもの心配りがなされていた。
床は塵一つなく掃除され、花瓶には常に新しい花が活けてある。テーブルの上には果物が補充され、何種類かの煙草も備え付けのものだ。
「ちょいと、カブラー爺さん。そこを拭くんだから、どいとくれ」
「おお、おお、すまんの。考え事をしておったんじゃ」
ずいとカブラーの身体を押しのけたのは、ここの管理を買って出ているマーヤという女だった。彼女は地虫で、年老いていたが、いつまでも健脚だった。そして、彼女は盲目なのだ。
「全く、普段は影だって落とさないくせに、いざ来るとなったらいつまでも居座るんだからねえ。爺さんの気まぐれっぷりと言ったら、まあ!火の山だってそんなに気まぐれじゃあないに違いないさ」
「フォ、ハハハ。すまんの、マーヤ。あれじゃ…ちと、一人になりとうてな」
とたん、マーヤは食いついた。手は動かし続けたままだ。
「何が一人なもんですか。病人を連れ込んで、シクターンまで呼びつけて!どうせ何か、悪巧みでもしてるんでしょう?あんたが何を企もうと勝手ですけどね、このかわいい家を傷つけたり壊したりするのはやめてくださいよ、カブラー爺さん」
カブラーはうむと呻いて黙り込んだ。この女に喋らせておくと、心の休まりというのが訪れないことを知っているからだ。とはいえ、一度喋り出した老女というのは滝のようなもの。
「それで、その子は誰なんです?もう二日も眠り続けていますけど、病気なんでしょう?うつったりしないのかい?」
「伝染るような病気ではなかろうて。酷く疲れておるんじゃ…火の山からここまで、寝ずに歩いてきたんじゃろ」
「そりゃ…あんた、病気と言うより、頭がおかしいんじゃないのかい?どうやったって二週間以上はかかるだろ」
「うむ。じゃから、その、わしが様子を見ておる。マーヤよ、お主が気にかけるようなことは…」
「まあ、まあ!最近はどうもよくないことばかりだよ、カブラー爺さん!かわいいジェンダールも姿を見せないし、ルシスの貴族様は通っていくし、西の空は瘴気でひどい景色だって言うじゃない!ああ、嫌だ嫌だ──」
その瞬間、寝かされていたアオイが目を見開いた。そして枕元の刀を掴みざま、
「──だいたい、空気の匂いが違うじゃないの。ねえ爺さん、最近は…」
喋り続けるマーヤの首筋に向けて、抜刀した。
「そうじゃのう。確かに最近は妙なことばかりじゃ」
伸ばした指先で刃を挟みこみ、カブラーはアオイをじっと見つめた。震える刃の根本で、彼女の複眼は虚ろにマーヤを見つめていたが、やがて徐々に光が戻り始めた。カブラーの指が刃を離すと、からんとそれは地面に落ちた。その音に驚いたマーヤが叫ぶ。
「なんだい!驚かさないでおくれよ、爺さん──おや!その子、目が覚めたのかい!」
「まあ、そうまで煩ければのお。マーヤよ、わしは話があるでな、少し席を外してくれんか」
マーヤは何か言いたげにもぞもぞと手を揉んだが、カブラー老の有無を言わせぬ雰囲気を感じ取って踵を返した。
「はい、はい。お邪魔虫は引っ込みますからね。お嬢さん、その人が変なことを言い始めたらこう思うんですよ。“悪い癖だ”ってね…特にお金儲けの話と、魔法の話はね!」
「わかっとる、わかっとるよ」
マーヤが立ち去り、中途半端に掃除された部屋の中は石の壁が話す声さえ聞こえるほどの静寂が満ちた。どちらも、じっと互いを見つめていた。カブラーは無言のまま、音もたてずにパイプを拾うと、爪の先で火をつけた。乾いて鋭くなった爪に、火打ちの石を仕込んであるのだった。
「…ごめんなさい。私」
アオイがそう切り出すと、たっぷり煙を吐き出しながらカブラーは笑った。
「フォ、フォ。次は気をつけてくれるとありがたい…この歳になると、対等な友人というのは少なくての」
アオイは俯き、そして刀を拾うと鞘に納めた。流水めいた見事な銀の装飾が施された鞘は、およそルシス城下のものではなかった。
「私の刀…ここは?」
「ライザール。灯火の街ライザールの…隠れ家みたいなもんじゃ。奴らが追ってくるようなことはあるまいよ」
「ありがとうございます──私はアオイ。火の山のその麓、刃鉄族の巫女でした」
宇宙めいた黒い目がアオイをじっと見つめる。山野の中で鍛えられた肉体を異国の装束で包み、荷物の類はほとんど持っていない。刀と、わずかな路銀。それだけでここまで歩いてきたというのか。
「大した足じゃの。わしはもう、便所まで行くのも億劫じゃが…おお、名乗っておらんかったわい…わしはビザルネルカブラ、長ければカブラーで構わんよ」
その名前を口の中で繰り返し、アオイは神妙に彼の顔を見つめた。剣の心得がある彼女から見ても、彼の芯から放たれる隠し切れない闘気は計り知れないものだった。老人は咳をして、口を開いた。
「それで…まあ、答えたくなければ言わんでもよいが、何をしに来たんじゃ。少なくとも、いきなりラプトの辺境を抜けようとするのは感心せんな」
「ルシス・デインへ。清浄なる都へ、行きたいのです」
神がかった呟きを零しながら、アオイは手を伸ばして何かを受け取るような仕草をした。
「…そう、それだけ、覚えています。そうしなければならない、と」
「人生で本当にしなければならんことは、飯を食うことと寝ることだけじゃ。それ以外を望む輩は阿呆か、もしくは…わしらとは違う、何かじゃな」
カブラーはそう嘯いたが、決して軽んじてはいなかった。アオイが気にかかったのは最後の一言。
「私たちとは、違うもの」
「うむ…たとえば旧きもの。名も知らぬ暗闇に潜むもの。あるいは光の内にのみ住まう、死を知らぬもの。──よくこんな話をしたものじゃ。懐かしいのお」
カブラーは遠い目をしてそう呟き、石の床をかりかりと爪でなぞった。
「わしにも古い友がおってな。今はもう亡き身じゃが、世界の真実とやらを追い続けておった。そんなものに形があるはずなかろうに、いつかそれを手にすると息巻いてな」
「私たちが信じるものと、似ているかもしれませんね。世界には裏側があって、私たちと互いに支え合っているのだと…そう、教えられてきました」
また、カブラーが煙を吐く。清冽な苦い煙は、アオイにはどこか心地よかった。
「私に呼びかけたものは、きっと、裏側のものなのでしょう。それが、助けを求めているんです。だから、私は行かなくちゃ」
「フン。別に止めはせんよ…が、何事にも正しい道というのがあるもんじゃ。お前さんはサイアンにも勝てなんだ…執行者の連中はあれより極まった化け物ぞろいじゃぞ」
言いつつ、カブラーは妙な既視感を覚えていた。あの時と似ている。最大の友を、その探究心ゆえに失った日と。
「まあ、そう言って聞くわけもないだろうがなぁ。あいつと同じじゃ。思えば、奴も妙なことを言っておった」
「…私と同じようなことを?」
「いいや。ただ…夢の話じゃ。誰かの夢を覗き見たと。それから、ルシスへ行くと言い出してな」
アオイは微笑み、立ち上がった。身体はどこも悪くない。奇妙なほどに力が満ち、触角の先までぴんと張りつめる。まるで誰かに引っ張られているように。
「…やっぱり、行かなくちゃ。私、妹がいるんです。世界で一番、大事な妹。あの子に戦ってほしくはないから、黙って出てきちゃったけど…それでも、私がなにか、よくないことを抑えられるなら。光の都がそれを望んでいるなら、行かなくちゃ。あの子の暮らす世界のために。ありがとう、カブラーさん。…それと、ごめんなさい。せっかく助けていただいたのに」
老いたセベクはまた咳き込み、手をひらひら振った。
「いいんじゃよ。わしが何をしようと、年寄りのなんとかじゃ。お前さんに何ができるかは誰にも分からん。わしが知らん間に、世界はもっと住みよくなるかもしれんでの」
「そうなるように──そうなりますように。また会えたら嬉しいです。さようなら」
カブラーは止めなかった。そうするほど、彼女に対する思い入れがなかったからでもあり、同時に懐かしく思ったからでもあった。仮にアオイがたどり着けば、それも一興。無理だったなら、ラプトの深淵に骸がひとつ増えるだけだ。
「お前はそう言って、戻ってこなかったのぉ。なあ、ヴォルドール…誰より勇敢なヴォルドール・トーランド…」
老爺の呟きは誰に聞かれることもなく、冷え切った石畳を流れていった。アオイが開き、閉じていった扉の向こうから、夜の闇までもが風と共に流れ込んでくるようだ。カブラーは肩口をさすりながら、副腕の先でパイプを打ち付けて灰を落とした。その視線の先に、黒い爪先が佇んでいた。
「どうであったかの」
上半身は闇に呑まれて見えなかった。灯火ホタルの放つぼんやりとした灯りが窓から差して、塗り固められた黒炭のように滑らかで乾いた爪先と、すらりと長く、氷のように半分透き通ったその足を浮かび上がらせていた。それは無感情な声で答えた。
「シャグナイアは見ました。よからぬ風が起ころうとしています。シャグナイアは…ビザルネルカブラに従います」
「月が満ちるぞ、シャグナイアよ」
答えるように灯りが動き、彼女の上半身を照らした。うねる花弁のように垂れ下がった異形の触角を戴く彼女は、疑いようもなく尋常の生命ではないことは明らかだった。淡い光の中で、滲むようにその姿は薄れていく。
「シャグナイアは光を愛しています。光は…シャグナイアを愛していません。ビザルネルカブラ、シャグナイアは…闇を愛するべきなのですか」
声色もその肌も水晶のようだった。乾いていて、冷たく、硬く、しかし生きているものの色をした水晶だ。蛍の光にぼやけながら、自分の手を見つめて呟くシャグナイア。カブラーはそれを見もせずに答える。
「よい。なあ、シャグナイア。失われた血を引くものよ。光は闇を愛しておるから、明るいのじゃ。じゃが、闇は光を愛しておらん。光を受ければ逃げてゆき、取り残されて影を作るのみよ…ほれ」
カブラー老は一枚の布から造られた黒衣を大儀そうに投げ渡した。光を喰う、異様な黒さの衣だった。
「このやり取りも何度目じゃ、シャグナイア。お前さんはそろそろ自分で答えを出すべきじゃよ」
シャグナイアは半分透けた首をかしげ、ぎこちなく笑おうとした。ガラスのような手足の中を微細な鉛色の稲妻が通い、背負った触角を走り抜けて虚空へ弾けた。ぱちぱちという静電気の音が、無音の部屋を跳ねる。
「…努力、しています、ビザルネルカブラ」
「うむ。お前さんの努力に付き合っておったら寿命がもたんわな」
瞬きの間に黒衣をまとうと、灰水晶のごとき複眼がフードの下からきらきらと見つめてくるのがわかった。難儀なものだ。カブラーは苦笑いと共に扉を指した。
「ゆくがいい。わしはわしで、やらねばならんことがあるでな」
「行ってきます。ビザルネルカブラ…シャグナイアはやり遂げます」
シャグナイア、呪われた肢体を持つ薄幸の女は頷き、言葉だけを残して消えた。黒衣をまとったまま、虚空へ溶けてしまったように。
「フォ、ハ。行ってきます、か。子供の遠足みたいじゃの」
今度こそ一人きりになったカブラーは少し考え、煙草を選び始めた。夜は長い──それも、今夜は特に長い夜になるだろう。そんな予感がしていた。
九
「くッ!」
サイアンの爪先は深く地面を抉り、突き立てた刀と共に三筋の溝を描いた。両脚が痺れるほどの衝撃を噛み殺し、青い身体を捻って横っ飛びに躱す。高笑いが響き渡る。
「バァハハハハハーァ!!」
針のような短い毛で覆われた巨大な三本の腕がまとめて叩き付けられ、激しいひび割れが走った。サイアンの身体ならば五回は粉々になるほどの威力だった。転がって距離をとり、サイアンは刀を構える。猶予は一瞬だけ。吸った空気は重く澱んだ深層の匂い。
「死ねやああああああああああ!!!」
再び、ごわついた巨腕が力任せに落ちてくる。本当に殺す気なのだ。腕の筋線維はいびつに膨れ上がり、金色の血がその中を激しく駆け巡っている。歯を食い縛り、サイアンは刀を振り上げた。防御など無意味だ。ぶつかり合い、ただ極めるのみ。
青く輝く月の刃と、邪悪な黒金の大木めいた腕が衝突した。異常な硬度の筋肉と薄い鋼は互いを拒み、瞬間的な拮抗を生んだ。サイアンはその一瞬で刀を傾け、自ら均衡を破る。そうでなければ、刹那に彼の肉体は無残なボロクズに変わっていただろう。
むろん、それで執行者ヴォイドの異常怪力が弱まるわけではない。剥き出しの岩盤を打ち砕くほどの衝撃が彼を襲い、跳ね飛ばされる思考はデジャヴを伴う。最近、どうもよくないことばかりだ──サイアンは壁を蹴り、前転して衝撃力を殺した。ヴォイドはゆっくりと彼を振り向き、もう一度笑った。
「バァーハハハハァーッ!死んでねえ!」
ラプト深層にひっそりと築かれた円形の闘技場に響き渡る哄笑には知性など微塵も感じられなかった。巨大な八本足のシルエットが、外周の燭台に灯された炎に浮かび上がる。
「化け物め」
「バハハハ!そうだァ!俺は化け物だァ!化け物は化け物にしか殺せねえんだァーッ!」
「フン」
サイアンは彼の言葉に答えることの無意味さを理解していた。かれこれ数時間、この恐るべき執行者との闘いは続いていた──サイアンが自分から申し出た死に物狂いの特訓だったが、ヴォイドにとって生きることと破壊することはほとんど同義だ。忌むべき八本足のヴォイドは、ただその力を買われて執行者の座にある──サイアンのような、時にはライザールまで赴いての仕事をこなす執行者とは明らかに異質な存在。彼らは最も深いラプトの深淵で、日の光のもとには決して現れるべきでない存在へ向けてその拳を振るっているのだ。
(とはいえ、そろそろ限界か)
サイアンは己へ問いかけた。ヴォイドに戦術はない。ただ殴りつけ、蹴り飛ばし、その肉体の全てで相手を破壊するだけだ。それは天災めいていた。だが、ヴォイドを知る者は理解している──執行者ヴォイドは“八本足”、同胞喰らいの旧い種族なのだ。彼の狩猟本能を刺激すれば、彼の破壊は合理性を得てしまう。意志を持った天災から、逃れる術などありはしないだろう。
「ヴォイド!」
「なんだァー!!」
ヴォイドはどしんどしんと地響きを立てながら近づく。六本の腕を振り回しながら。サイアンは…刀を納め、踵を返し、走り出した。
「アアーッ!!次は鬼ごっこかァ!殺してやらァ!!!」
まともに会話が通じないヴォイドとの身を削る訓練の最後は、いつも決まってこうだ。そして、ヴォイドはそのことを覚えていない。サイアンが角を曲がりでもして姿が見えなくなれば、彼は何のために走っていたか分からなくなるだろう。
サイアンは走りつつ、既に別の事を考えていた。どの道、スピードでヴォイドが追いつけるはずはないのだ。
先だって、ラプト辺縁を抜けようとしていたあの女──何を目的に、ルシスへ向かうというのだろう。そして、ビザルネルカブラがラプトへ介入したことも気にかかる──とはいえ、サイアンの身でどうにかなる事態でないのも確かだった。
ただ己の未熟だけがそこにある。迷いを置き去りにするべく、サイアンは駆けた。
*
「さて…」
紅い双眸の先、優れた技術によって滑らかに切り出された岩で造られた祭壇の周囲には数々の骸が無造作に転がっている。祭壇そのものが何のためにあったのか、彼にとっては実にどうでもいいことだった。骸がかつてどんなものであったかも同じだ。彼が手を叩くと、細長く伸びた赤黒い瘴気の帯が彼の周囲にくるくると舞った。
この洞窟そのものが、一つの大きな信仰の場であったことは想像に難くない。淵の森にはかつて、“八本足”の住む国があったのだ。オズはその記憶をたぐりよせ、指先でくるくると弄んだ。どうでもいいことだ。並び立つ石像は神格化された存在たちだったが、いずれも彼に敵うほどの器を持ってはいなかった。今やここは、死の風を操る邪悪な教祖の…退廃的な実験場、あるいは恐るべき目的のための落とし穴になり果てていた。
赤い闇の中に、他の全てから隔絶された異質な立方体が鎮座していた。時折、その表面を銀色の光が網目状に走る。
籠の前には、空っぽの鎧が跪いていた。ルシスの鎧……貴族たちの護衛をつとめ、敵とみれば無造作に消滅させる脅威の自動機構は、命令を与えられるまでそうしてじっと座り込んでいる。命令するべき立場の存在は──籠へと伸びる捩じれた管の先で、そこから湧き出す甘い煙に酔いしれているだろう。
「未知への恐怖も、過去からの畏怖も…すべて溶け出してしまえば同じこと。あるのはただ、安堵と快楽、それだけだ。──あなたも、分かっていただけると思いますよ」
オズが振り向いた先、大きな石造りの椅子がある。玉座のようにも見えるその上に、ぐったりと細い身体が投げ出されていた。
「…随分とまあ、必死な抵抗ですね。貴女のお友達が、すぐそこまで来ていますよ」
ほくそ笑み、死臭漂う回廊の方向をちらりと見遣る。この場に満ちる瘴気と繋がった彼の感覚には、ヴァルツと切り結ぶ者の心臓の音まで聞こえていた。
朽ちた椅子にだらりと座らされたカエデの身体を、瘴気の糸が這う。ぼんやりと虚ろな瞳を彷徨わせ、強制的な無意識の中でカエデが呟く。
「…おねえ…ちゃ…」
「そうですねえ。それも面白いでしょうか」
…オズは邪悪に微笑むと、もう一度手を叩いた。うずくまっていた骸たちに次々と瘴気の糸が繋がり、フードを被ったおぼろな信者の群れと成る。
「ほら、起きてください。早く。貴女のお友達が死んでしまいますよ」
カエデの複眼にかすかな光が戻り、同時に激しい敵意が燃えた。朦朧としながらも咄嗟に腰を探ったその手を、彼の細長い指が掴む。
「お目覚めですか。元気そうなご様子で何より」
「ふざけ…るな…!お姉ちゃんは、お姉ちゃんはどこ!?お前の言葉は全部嘘だ!お前はここの主なんかじゃ…!」
「おやおや。元気すぎるのも困りものですね」
まるで意に介さないという風に肩をすくめると、その指がカエデの腕に絡みついたまま沈み込み始める。強烈な異物感と不穏な予感に、カエデは目を見張った。
「い…や…!やめ、なさいよッ…!」
カエデはじたばたともがき、その不快な侵蝕から逃れようとした。オズの指先が彼女の腕の骨に触れると、じわりと冷たい快楽が伝わる。それが何よりもおぞましかった。ゆっくりと、邪悪な存在がカエデの存在へ結びついていくようだ。
「命令するのは私で、貴女ではありませんよ。少し我慢してください──貴女には是非、その手でお友達を殺していただきたい…貴女は鋼のように熱く、炎のように純粋だ。ふふふ。さぞかしいい音を立てて折れることでしょう」
*
「やれやれ、だなァー…」
円形の空洞。湿り、澱んだ空気。こちらを見つめる奇怪な石像たち。飛び降りたハアムはそれらを感じ、見遣り、呟くと剣を確かめた。大剣は蛇の死体に突き刺さったまま、あるのはそれに比べればごく短い剣がひとつだけだ。
「…カデーナ…」
囁きが聞こえる。囁きの主は、石像のひとつの前に膝を折って屈み、何かを囁いている。
「…ネア…ロス…う、う…」
ハアムはゆっくりと辺りを見回し、ついでに砕けた天井を見上げた。ジェンダールの傷は…刃で切り裂かれたものではなかった。鋭い鞭のようなものか、あるいは…いや、考えて分かることでもあるまい。
「わ…た、し…」
その時ハアムは気付いた。カデーナは跪いているが、その身体が明らかに大きすぎるのだ。まるで何か、今まで内側に秘めていたものがまさに外へ出ようと蠢いているように、黒衣の下の身体が膨れ上がっていく。紅く輝く眼がハアムを振り向いた。
「ハア…?」
ハアムはふと奇妙な感覚を覚える。その瞳に宿る感情が、あまりにこの場と不似合いなものだったからだ。そこには…まるで幼子を見守るような慈愛があった。異形の肉体、死を思わせる旧い空洞、そして神聖ささえ湛えた慈愛。カデーナは微笑み、そして全身を強張らせた。その全身は既にハアムの大きさを越えている。その胸元で、何かが不吉に蠢いた。
(やべェ)
ハアムの判断は脊髄反射に近かった。彼は咄嗟に這いつくばるほど姿勢を縮め、頭の上を何かが通り過ぎるのを感じた。生暖かい風が吹き、甘く、濁った血の匂いがした。
「カデーナ…わたし…カデーナ…」
「…!」
跳ね起きたハアムは剣を垂直に構え、その異形を凝視しながら呟いた。
「…“八本足”、かよ」
腕が一本、増えていた。修道服の下で折りたたまれていたもう一組の腕が。
「痛くねえのかよォ、それ…」
ハアムはうっすら笑いを浮かべ、間合いを測る。カデーナの腕は自らの血に塗れ、粘ついたそれによっていびつな鎌のように伸びていた。瞬目の間にハアムの頭上を薙いでいったのは、その血刃だった。胸にあいた生々しい傷跡からこぼれる血液は粘ついて黒く、流れることも固まることも決してなかった。
「貧血になっちまうぜェー…なぁ」
「カデーナ…」
聞いちゃいねえ。ハアムはぼやきながら、ふとカデーナの奥、暗がりの道に目をやった。この…奇妙な、突然空から降ってきたかのようにここにある聖堂のその下に、何故こんな空間があるのだろう?カエデは裏手に洞窟があると言っていたが…カデーナという名の女、同名の彫像、姿を見せない教祖オズ…瞬時に駆け抜ける謎への疑問を、ハアムは打ち消すことも振り払うこともせず、ただ雑然と剣を構えた。
相手は常なるものではない。南方の武術体系において、他流試合の基本は「海」と称される。曰く、ただ受け入れ、ただ己であれ──鍛冶師だった彼がその神髄に触れることはなかったが、それでも、剣を扱うものとしての心構えの内に、それはある。
「…ヤバそうだよなァー」
カデーナはゆったりと鎌の腕を上げ、同時に下の腕からもぽたりぽたりと血を滴らせていた。それは雫の形をしていない。ねっとりと、空間そのものに張り付いたように細く伸び、床につく頃には赤黒く病んだ血の糸になっていた。ハアムの背後、腕を自身から引き抜いた際に飛び散った血液も、既にその糸へ変わっていた。カデーナの血が苔むした石の床に触れるたび、しゅうしゅうと音を立てて煙が上がる。甘く、ものの腐ったような瘴気の匂いが漂う。
「ハアム君!」
頭上からレイドリアンが叫んだ。ハアムはカデーナから目を逸らさない。聞こえていると見て取ったレイドリアンは続ける。
「ジェンダール君は大丈夫じゃ!出血はひどいが傷は塞がっておる──信じられん!ハアム君!これは…この破片は…」
「破片?」
ハアムは首をかしげたが、次の瞬間には問題なく回避行動をとっていた。水の詰まった袋が叩き付けられたような音がして、穢れた血液が飛び散る。カデーナの攻撃はひどく緩慢で大振りで、そして危険だった。飛び散った血液が即座に糸を形成し、ハアムは静かに危険を悟る。長期戦は明らかに不利だ。瘴気の匂いはどんどん濃くなり、ハアムの四肢に不可解な力を満たし始めていた。彼はゆっくりと円を描くように足を運び、間合いの優位を得ようと動き出す。
「ネアロスってやつと知り合いなのかァー」
「…」
カデーナは首をかしげ、じっとハアムを見つめている。そこに確かな意志は微塵も感じられなかった。剣を握る手に力を籠めつつ、ハアムは話しかけ続ける。少しでも攻撃の手を緩めさせ、可能であれば一撃でその首を落とすために。
「ずっとここに住んでるんだろォ。オズってのは何者なんだ」
「…?オズ…?」
反応があった。ハアムは足さばきを変え、少しずつ大回りに距離を詰め始める。
「そうだァー…お前のご主人なんだろ。オズってやつは…」
「う」
カデーナは呻き、目を伏せた。常ならざるいくつもの眼が赤くまたたく。チャンス、か?ハアムは慎重に慎重を期する。
「それとも、ネアロスってやつが一番偉いのかァー…信仰されてるくらいだもんなァ」
「ネアロス…ネアロス…わたし…の…」
カデーナはゆっくりと顔を上げた。赤い瞳は顔の表面ごと溶けかけていたが、確かにそこを伝う、濁った涙があった。
「わたしのネアロス」
今までで一番はっきりと、彼女は言葉を発した。同時に胸の傷口からだくだくと血が溢れ出し、その右手に絡みついていく。既にその血刃はハアムの全身より巨大になっていた。
「返して」
*
「ええい、下はどうなっておる…まるで見えんではないか」
苛立つレイドリアンのもと、ジェンダールはゆっくりと呼吸した。血管を酸素が巡り、血の糸に切り裂かれた背中の激痛とそれを和らげる不思議な温かさが混ざり合う。ルシスの破片が、胸の上で光を放っていた。
(ディム…ディム…!)
呼びかけに応えはない。ジェンダールは更に集中を強め、治癒に使われていた力をも感覚神経に充てた。温かさが遠のき、意識の中を激痛の占める割合が増えていく。
ディムロスの居場所は分かっていた──ハアムとカデーナが対峙する円形の空洞の先、聖堂の裏手側へ伸びる通路の向こうだ。黒く濁った気配が二つ。ひとつはディムロスのもので、もう一つはその敵だ。更に先へ感覚の手を伸ばそうとして、ジェンダールは諦めた──諦めざるをえなかった。どろりと濁った闇の帳がおりたようになっていて、知覚の断片さえ届かなかった。
再び、今度は身体の芯からおぞましい痛みが沸き上がってくる。ルシスの破片を使ったこの異術は、甚大なフィードバックを確実に与えてくる。それでも、この状況を打開できるのはディムロスしかいない。ジェンダールはそう信じていた。彼なら…なんとかしてくれる。その為になら、自分は力を振り絞れる。
カデーナの像は間違いなく彼女本人を模ったものだった。膨れ上がるその身体は間違いなく捕食者のものであり、この土地の信仰を集めるにふさわしい異形だった。逃げ出すのが一瞬遅れていれば、背中から真っ二つにされていたかもしれない。
記憶と共に少しずつ明晰になっていくジェンダールの眼に、老いた虫が映った。彼はジェンダールの胸元へ手を伸ばし、清浄な光を放つ、白く滑らかな破片に触れようとしていた。
「…!」
ジェンダールは叫ぼうとしたが、泡立つような掠れた音が喉の奥で鳴っただけだった。
乾いた指先が、大いなるルシス、偉大なる閉ざされた都の、その城壁に触れた。
閃光。
*
何かに呼ばれたような気がして、彼女はつ、と振り向いた。夜闇にぼんやりと浮かび上がるライザールの街並みは、ほんの数秒前と変わらずに雑多で、混沌とし、そして賑やかだった。アオイの存在は、その川の中にふと浮かんできた泡のように儚げで、そして光を受けて煌めいていた。それは目指すものがあるという強い意識であり、たとえば夢を渡る力を持つ者にとっては灯台のようなものだった。
「…おや、これはこれは」
遙か彼方の暗闇で、邪悪な存在は真っ赤な口を開いて嗤った。その指から伸びた無数の糸の先、繋がれた少女は身じろぎひとつしない──できないのだ。神経系にまで糸を結び付けられた彼女はもはや、オズの操り人形と同じだ。そして、彼は他者の意識にまつわる、異常で邪悪な業をその身に宿していた。
「貴女の姉君ですが、どうやら無事ですよ…痛いほどの輝きだ。燃え尽きる寸前の木の葉のよう」
姉の無事を知らされて、カエデが僅かに力を抜く。それにつけこむように、更に糸を増やしていく。彼女の存在と深くリンクしたもう一人の存在へ、その穢れた腕を伸ばすために。
「見つけましたよ」
アオイが振り向き、カエデの心が血の涙を流し、ディムロスはヴァルツの喉元へ迫っていた。振り落とされる巨大な血の剣が、ハアムの身体を両断しようとしていた。
更なる深淵から、邪悪な存在が腕を伸ばした。
そして、閃光が走った。
アオイの視界は真っ暗だ。誰かが夜闇のような布を被せ、瞬時にその複眼を塞いでしまった。柔らかないくつもの腕が、宙へ舞った彼女の身体を支えた。とん、と軽い音がして、二人の身体はどこかの屋根の上へ降りた。
布がふわりと巻き取られ、見知らぬ誰かの身体を覆う。とても背が高く、その身体組織はガラスのように透き通っていた。まるで稲妻に照らされたかのように、その身体に鉛色の小さな光が走っていた。
「光が見えた。シャグナイアのものではない。光は…誰のものでもない」
そして、彼女はくにゃりと腰を曲げてお辞儀をした。生きた花弁のような無数の肉角が重力に逆らってふわふわと揺れ、翼のように広がった。神話めいた光景に、アオイは言葉を失う。彼女は明らかに常ならぬ存在で、同時にひどく脆く儚く見えるのだった。
「わたしはシャグナイア。貴女とは違うもの。けれど、貴女はわたしと同じもの。だから…シャグナイアは、貴女の光を守る。闇からも、光からも」
カエデの中に深く差し込まれていた腕を引き抜くと、オズはゆっくりと彼女を見つめた。今までの紳士的な態度が全て嘘だったかのように、その瞳は酷薄で凶暴な紅色をしていた。
カエデが浅く呼吸する。
正体不明の閃光は、物理的な障害をすべて通り抜け、一瞬だけとはいえ太陽のように熱く目映く闇を照らした。それが…何か、酷く不快な思い出に触れたようだった。オズはその猛った無表情のまま、行き場を無くした指を無造作にカエデの右目に突き刺した。
閃光が二人の身体を焼いた。ヴァルツは目を見開き、その苦痛に叫んだ。だがディムロスは止まらなかった──全身から赤黒い蒸気を上らせながら、その眼は冷徹な理性を保ち続けていた。あるいは、その光に少しだけ見覚えがあったのだ。瘴気がもたらす力と衝動、彼自身の持つ忍耐と無鉄砲な決意、そのはざまで揺らいでいた彼が、後者として手綱を握ることに成功した瞬間でもあった。
ディムロスは右の両腕でナイフを握りしめ、左の腕で瘴気の槍を掴んだ。もはや存在の格が同等とみなされたか、その槍は主人を定められない。抉られた脇腹と左足、右腕の円形の傷から激しく血と煙が噴き出した。
閃光は一瞬だった。だが、もたらされた結果は明らかなものだ。
熱く燃え立つ煙が傷口を覆い、かりそめに塞ぐ。斬り飛ばされた頭が暗い廊下に転がり、もはや無数の独房の中は全てが無言だった。ヴァルツの身体はまだ動いている。ディムロスは──更に奥、教祖オズの待ち構える最奥を一瞥してから──踵を返し、甘い血の匂いがする方へ戻っていった。
呼んでいる。ジェンダールが。
痛みはなかった。ただ衝撃と、不快な脱力があった。血液が抜け落ちていくのを無理矢理せき止め、ハアム・デンドロンは剣を支えに立ち続ける。弾け飛んだ血液が無数の糸となり、触れるものを強烈な酸で拒む。びちゃびちゃと音を立て、残余血液が再びカデーナの腕へ集まっていった。切断されたハアムの左手脚を巻き込んで。
*
「…ヒサメ」
「なんだよ。ボクは仕事で来てるんだよ?君みたいに、毎日遊んでばかりいるわけじゃないんだから」
「──黙れ。何が狙いだ」
「怖いなあ。相変わらずだね。でも、もう止められないよ。たとえ君が、このままボクの首を刎ねても…………」
「本当に刎ねなくてもいいじゃないか。死んじゃうだろ?……ヴォイドの様子はどうだった?」
「本気で、あれを使うのか?」
「ボクは本気とかどうでもいいんだよ。ボクはただの伝言役なんだからさ。いい加減、君もそこんところを分かってほしいなあ」
「お前の本気なんかに、興味もない。ただ、本気で…ヴォイドを、外に出すのか。脅しではなく、か?」
「だから、その最後通告に行くんだろ。相手はビザルネルカブラだよ?ボクじゃなきゃ、最後まで喋れないじゃないか」
滑らかな笑いと足音を残し、代行者ヒサメはブライト・ラプトからゆっくりと出て行った。サイアンは唇を噛む──自警団団長の姿を見たものはいない。ヒサメは団長の言葉を伝えるためだけに存在するメッセンジャーで、不死身だった。斬っても焼いても死なない。ただ蘇るたび、少しずつ形が違うと言われていた……オゾンと似たような場所から来たのだろうが、正直言って不気味だ。サイアンがこの地に流れ着いたのは偶然だが、それなりに時間のたった今だからこそ、嫌気もさそうと言うものだった。
彼はただ、この街が好きなだけなのだ。背後から、オゾンが心配そうに彼を見つめた。
「サイアン…オゾンは、ここだよォー」
「分かってる」
苛立ちと、少しの同情を込めて、サイアンは振り返った。オゾンはその左右非対称な顔に奇妙な笑いを張り付けている。
「オゾン、待ってたよォー。サイアン、帰ろォ」
「…分かってる」
何かが始まる。自分の知らないところで。それが少し不愉快でもあり、同時に安堵もしていた。絶対に関わるべきでないことというのがこの世には存在している。その好奇心の代価は確実な死か、更に悪いものだ。目を閉じると、遠く彼方の月の幻が、意識の奥で瞬く。いつかここを出て、閉ざされた湖へ戻る日まで、折れも砕けもするものか。
十
異常発達した金色の複眼にも、その光は見えていた。彼にとっては遙か彼方の不快なきらめきで、それは例えば夢に見る彼の故郷にも似ていた。脳内を一瞬にして様々な感情が駆け抜け、彼を苛立たせた。
「バァアァァアアアアアアア!!!」
轟音はドロドロと大地を伝わり、いくつかの横穴が連鎖して崩れ落ちていった。ヴォイドの身体は崩壊とともにまた数層下にまで落下していき、暗闇の中へ消えていく。
ごく薄い瘴気が彼を包み込み、あるいは吹き飛んだ砂礫と共に押し遣られ、そして激しく着水する音が響いた。ラプト地底湖。この不可解な大地には、深奥でなくともこうした湖が存在している。たちまち、無音と暗闇の中で飢え切っていた眼のない魚たちが彼に食らいついた。みるみるうちに身体を覆うほどの捕食者の大軍が集まり、ヴォイドの巨体を包み込む。どんな生物でも瞬きの間に骨まで食いちぎってしまう貪欲さの下で、稲妻のような黄金の光が走った。
「痒いだろうがァァァァァァッ!」
ヴォイドが叫びと共に腕を広げると、それに従って金色の波紋が広がり、そして円形に水が吹き飛んだ。人食い魚たちの残骸が散らばり、それをめがけて生き残りが襲い掛かった。光の届かない深淵が、暴食に赤く染まっていく。ヴォイドは全身にそれを受けながら湖を横切り、誰が作ったのかも分からない垂直の縦穴を上っていく。無性に腹が立っていた。何故だかは分からない。ただ、自分の存在の意義を脅かされたと感じたのだ。原始の知覚だった。
あるいは、もっと大きなものの意志だったかもしれないが。
*
「夜明けが近い。薄暮の向こうに闇がある。黎明の奥で、喪失が息をしている。シャグナイアのものではないけれど、確かに」
アオイは徐々にこの奇妙な同行者に慣れつつあったけれど、依然として会話の余地はないと感じていた。こちらからの言葉は理解しているようだが、シャグナイアの言葉が理解できなかった。自分とは違う視点でものを見ている、と感じるのだ。
「…さっき、誰かに呼ばれた。あなたが呼んだの?」
真っ直ぐに東へ向かっている。夜明けに向かって進んでいる。シャグナイアは時折光と闇のことを口にしたが、どうやら抽象的な表現のようだった。彼女が歩きながらすっと首をかしげると、また鉛色の光がきらきらと輝いた。
「あれは誰も呼んでいない。応えたものを、とらえる。…けれど、シャグナイアのことだけは、呼ばない」
「…そ、そう」
ペースを乱される。市場の軒先がとぎれとぎれになってくると、ブライト・ラプトはすぐそこだ。真っ直ぐ入って、真っ直ぐ出ていく──前回と同じコース。本当にそれで正しいのだろうか?シャグナイアはアオイを護ると言ったけれど、武器の類は帯びていなかった。おまけに背が高く、やたらと目立つ。真っ黒な布を無造作に身体に巻き付けて服の代わりにしているようだが、かなり異様な出で立ちだった。
「ねえ、シャグナイア…さん」
「構わない。シャグナイアは古い。錆びたものに敬意はいらない…」
「ええと…呼び捨てていい、ってこと、だよね?」
シャグナイアはそれ以上この話題に興味を示さない。
「…シャグナイア、あなたはラプトに詳しいの?私は…真っ直ぐにしか行けないけど」
「詳しい。でも、忘れている」
東ライザールの大きな門。じき夜明けのくる、最も闇の濃い時間だった。観光やら行商やらといった騒がしさは一切なく、しんとした街並みには急ぎ足の旅人だけが行き交う。シャグナイアがぽつりと言った。
「帰ってくる。遠い日々から。戻ってくる。深淵から。シャグナイアは…それを見たことがある」
そして、しゅるしゅると長い触角を伸ばしてアオイの肩に触れた。ひやりと冷たく、柔らかく、芯の通った硬さを備えていた。
「…貴女もそれを見るだろう。シャグナイアはそれを見た。光でも、闇でもなかった。どこまでも伸びる影…全ての光が落とす影…」
一瞬、その不思議な腕の中を赤い光が駆け抜けた。潤った大きな瞳は、虫たちの持つ複眼とはどこか違っていた。アオイはそれをうっすらと感じながら、ぼんやりと歩き続けた。この不思議な存在は、悪意や敵意とはおよそかけ離れたところにいる。目的がなんであれ、アオイのことを本気で──何かから──守ろうとしているのだ。大きな門の下でアオイは足を止め、ごくわずかな所持品から小さな包みを取り出した。
「ねえ、シャグナイア。これを持っていてくれないかしら」
シャグナイアは首をかしげてそれを受け取ると、開いた。ぼやけた不夜の灯りを受けて、小さなブローチがきらきらとまたたく。透き通るほどの銀色だった。シャグナイアは触角の先でそれに触れると、少し驚いたように身体を震わせた。
「銀だ。シャグナイアは…綺麗なものが好き。たとえ輝きが永遠でなくとも、美しさだけは不変の真理であり続ける。シャグナイアの中で」
「うん。火の山からの銀なんだ。私が拾って、村で一番の職人がこの形にした」
薄く精巧な成形が施された銀は、翅のような形だった。平たく、細長く、けれど羽虫のそれとは明らかに違った。羽毛──三次元的な羽毛のデザインが、恐ろしいほどの細部にわたって施されていた。
「それはね、鳥の羽なんだって。ずーっと、その形だけ伝わってるの……鳥なんて誰も見た事ないのに、すごいよね」
「鳥」
シャグナイアの瞳が揺れ、全身を再び赤い光が駆け抜けた。一瞬、大輪の花のように広がった触角が強張ったようだった。
「…どうしたの?」
「いいえ」
彼女はまた超然とした無表情に戻ると、じっと羽のブローチを見つめた。
「どうして、これをシャグナイアに?大切なもの。シャグナイアは、大切ではない…壊れない。貴女とは違うから。どうして?」
「ふふ。あげるんじゃないよ、少しの間だけでいいから、持っていてほしいの……お守り。一緒に来てくれるあなたに、その羽が幸運を運んでくれるように」
アオイはそう言いつつ、シャグナイアの身体を覆う黒布を整えた。あまり目立たないように──といっても、あまりにも特徴的な触角までは覆えそうになかったが。アオイが背伸びをして巻き方を試行錯誤している間、シャグナイアはじっとそれに身を任せていた。何か不思議なものを見るように、じっと。
「…うーん…こんな感じ…かなあ?」
無造作に巻かれていたから気づかなかっただけで、この布は確かに服のようだった。左右の切られたフードがついていて、羽織ることができるようにと造られた形跡があった。
そして、何故こんな不思議な服が必要なのかも理解した。
「シャグナイア…!」
漆黒の覆いがなくなると、彼女の身体はうっすらと背後が透けて見えるのだった。まるで世界そのものへ滲んでいくようなその姿に、アオイは困惑する。
「だ、大丈夫…なんだよね、シャグナイア」
「大丈夫。光はシャグナイアを見ない。闇も、シャグナイアを許さない。それだけ」
彼女は無頓着にそう言った。
「…これは…ビザルネルカブラがくれたもの。シャグナイアを繋いでくれたもの」
「カブラ…あのお爺さん?そう…やっぱり、何か知ってたのかな」
「シャグナイアは、何も知らない」
「…うふふ。そっか」
彼女の返答に少しだけ頬を緩めつつ、アオイはシャグナイアの左胸の上にブローチを留めた。
「これで…まあ、脱げちゃったりはしないんじゃないかな」
アオイが少し離れると、シャグナイアはその場でひょいと逆さになった。触角を腕のように器用に蠢かせて数歩歩き、そのままくるりと回ってから、飛び上がって宙返りをうつ。流星のようにその身体がきらめき、残像を伴った。
アオイはもう一度、軽くその黒衣を整える。
「…うん。やっぱり、ちゃんとあなたの身体に合わせて作ってあるよ」
「そうなの?シャグナイアは…今まで、こんなふうに使ったことはなかった」
「…あ、あはは…」
首をかしげたシャグナイアは、少し落ち着かないというように自分の身体を見回した。
「…でも、いい。シャグナイアはこれでいい…少しだけ、近づいた。そんな気がする」
疑問をぶつければきっときりがないのだろうけど、そこまで気にすることではない、とアオイは結論付けた。シャグナイアは時折自らを否定するようなことを口にするが、確かに生きていて、心を持っていると感じたからだ。
「よし。行こう…ルシスへ。今度は、ラプトの人とも話してみたい」
そう言って歩き出すアオイは、今度こそ自分の意志で決断した。得体の知れない声に導かれ、夢のように王都を目指してきた旅路とは違う……変わった。ビザルネルカブラに救われて、話をして、妹のことを考えて、不思議な友が出来て、変わった。良い方へ転ぶかどうかはまだ分からないが──
(カエデ。私はやり切るよ。そして、きっと貴女のところに帰るから。どうか無事で、待っていて)
祈りと決意を胸に秘め、アオイは無窮の荒野へと踏み出してゆくのだった。
*
濁った闇も舞い上がる粉塵も届かない光の中で、レイドリアンは手を伸ばした。自分の身体さえ見えないほど目映い光。それでも、不思議と目は開いたままだった。まぶしいとは思わなかった。ただ温かく、そして遠かった。彼の知らない言語がそこかしこから聞こえた。
「──」
声は出なかった。許されていない、と感じた。彼の前を歩くジェンダールはふらふらとぎこちなく、しかし何かに導かれるように一点を目指していた。激しく金属の震えるような音が、あたりに響き渡っていた。目が見えない。何も聞こえない。光。白い。夢のような光景。純白の悪夢。柔らかい翼を持ったもの。瞳。魂の形。生きた銀色。ぶつんと音がして、レイドリアンは手を見た。真っ赤なものがこぼれていた。
「──!」
光の中にジェンダールの背中が消えていく。違う、自分が遠ざかっていく。誰かが彼を見ていた。慈悲深く、そして超絶した視線だった。((守護者))その言葉がニューロンに焼きついて離れない。護るもの。一体、何から護ってくれるというのか。あるいは──今までずっと、生きる全ての者を護り続けてきたのか。閉ざされたルシス・デインの全てが彼の前にあった。そして、それは知るべきでない、知ってはならない知識だった。ぶつ、と再び音がして、老いた彼の視界は真っ暗になった。
*
滝のように流れ落ちていく光の中に、無数の景色があった。激しい痛みが、まるで他人事のように自分の中から消えていくのがわかった。緑色の複眼が、磨き上げられた真っ白な壁に反射していた。ざあ、っと全てが溶けて流れて消えていき、ジェンダールは十字路の真ん中に立っていた。
「……あれ?」
周囲には誰も居なかった。白磁の壁で造られた、見たこともないほどきれいな建物がいくつも建っていた。空は青く遠く、太陽はどこにもいなかった。それでもこの街は清浄な光に満たされ、その中を超然とまどろんでいた。
ルシス・デイン。聖なる都、異術の街。選ばれた貴族だけが暮らすことを許された理想郷。その全てが真実なのかどうか、確かめる術はない──なかった。彼は今まさにそこに佇み、滑らかな白い壁をじっと見つめていた。
「なに、これ…ディム!教授!ハアム!カエデさん…!」
叫んでも、反響さえなかった。白一色の世界に全てが吸い込まれていく。意識に激しくノイズがかかり、一瞬だけ視界が灰色になった。頭を振るとそれは逃げていき、代わりに金属の震えるような音が──彼の胸元から響き渡っている。
誰かがジェンダールを見つけようとしている。
ジェンダールは咄嗟に走り出した。けれど、どこにも行けない。どこへ行っても景色は同じで、空の色は澄み切って逃げ場がなかった。何かが迫ってくる。それが敵なのかどうかも分からなかった──ただ恐ろしかった。彼の速度に合わせて周囲の景色が流れ落ちていき、また無数のビジョンがそこに映った。緑の複眼が、金色の翅が、後ろへ流れていく。
決して振り向いてはいけないと感じた。無意識に彼は胸元へ手をやり、自身の意識を拡張しようとした──逃げ道を探そうとした。電気が弾けるような音がして、それは拒まれる。首から提げていたはずの破片は激しく震え、何かに共鳴しながら、彼の内側へ入り込もうとしていた。それは……侵蝕ではなかった。彼はただ念じるだけでよかった。手や足を動かすのと同じ感覚だ。破片は震えを止め、そして今や彼がその震えとひとつになった。聖なる波動が身体の内側をめぐり、新しい感覚を彼に与えた。
その先へ行けそうだった。何かが追ってくる感覚は消え去り、全能感が真っ白に彼を包んだ──「そこまでだ」誰かの腕がその真っ白な帳を突き破り、彼の背中を押した。血色の稲妻がかすかに走り、ジェンダールはよろめく。無人の十字路の真ん中で、見たこともない男が彼を睨んでいた。
「大丈夫か」
いや、睨んでいたのではなかった。斜めに走った傷跡が彼の片目を覆い、もう片方の複眼は真っ白な水晶に置き換えられて鋭く吊り上がっていた。地虫だった。扁平な頭に笠をかぶり、いくらか旧世代のラプト式旅装束を着ている。
「だ、だいじょう、ぶ…」
ジェンダールはふらつきながらそう答えた。男は腕を組み、言った。
「…ここに来た奴はそうなる。異術は…その源は、誰にでも平等に与えられた力だ。だが、実際に行使するのは難しい──お前は運がいい。ここでは時間の流れも夢を見る。いいか、よく聞け。お前は夢を見ているだけだ──呼ばれてな。わざわざ呼び鈴を自分に付けているやつがいるとは思わなかったが、まあいい。お前は話が分かりそうだ──だから止めたんだ。悪趣味な貴族サマになってほしくはない」
彼が時折言葉を区切るたび、水晶の複眼を苦しげなひび割れが襲った。そのたびに光が溢れ、そのヒビを塞いでしまうのだった。
「──時間はいくらでもある。だが時間がない。オレはまだ、自分の時間から抜け出せていない。助けてほしい──こうして斜めに移動するのは苦だ。お前が馬鹿でかい音をたてるから、分かった。いいか。この夢は、この街の防衛機構だ。オレもお前も、交差したチューブの中に閉じ込められている。流れは一方通行で──」
またひび割れが走り、彼は背中を丸めて苦痛に耐えた。
「──今のお前なら出ていける。そして入れる。頼む。外で何が起きているかは知らないが、最近はどうもこんな来客ばかりだ。誰かが出ていくたび、一瞬だけ防衛機構が緩む…そのせいかもな。まだ言葉をしゃべれるオレでよかった──次は夢の外から、オレを見つけろ。お前はセベクだ。オレにはわかる。お前にもわかるはずだ」
水晶に覆われた複眼を上げ、彼はかすかに微笑んだようだった。その姿がノイズに覆われ、遠ざかり始める。夢が覚めようとしている。
「覚えておけ──失われた花の紋章──翼あるもの──虚無の──」
「待って…待って!僕はジェンダール!あなたの、名前は!」
あっという間に彼の姿が遠ざかる。ジェンダールは力を振り絞って彼の口元に集中した。彼の複眼から水晶が溢れ出し、その全身を覆って、跡形もなく崩れ落ちた。その一瞬、確かに彼は名乗った。
*
「──ヴォルドール!」
ジェンダールは跳び起き、同時に全身の傷が消えていることを知覚した。癒えているのではなく、最初から傷などなかったかのように消えている。自分の手を見る。灰色だ。
「え」
あたりを見回してみる。倒れた燭台。千切れたカーペット。精巧なステンドグラス。全部灰色だった。倒れたレイドリアンを見る──白く揺らめく炎が見えた。消えかけた炎だ。崩れた床の向こう、粉塵の奥を見る──巨大な黒い炎がひとつ。手前には白い炎が強く燃え上がり、その二人の周囲をゆらゆらと黒い陽炎が踊っているのが見えた。
(これ──色が)
ルシスの光が与えた奇妙な知覚の異術は、彼の色覚を代償にした。そのことを理解するが早いか、ジェンダールはもう一度自分の手を見つめた。乾いた指先にまで、熱い魂の灯が燃えていた。透んでいて、彼の色に…金色に縁どられた光だ。思い出す。ヴォルドールは止めたと言っていた──止められなければ、色よりもっと大切なものを奪われていたということだろうか。
「教授…教授!起きてください!」
レイドリアンは答えなかった。目から血を流しているのがわかった。その指先が震え、不規則な軌道を空中に描いている。炎が消えそうだ。これは──ジェンダールが知覚するこの炎は、つまり命の灯なのだろう。では、それが消えたなら──どうなるかは明白だった。ジェンダールは逡巡してから手をかざし、自分の炎に集中した。分け与えることができたら、あるいは。
集中を強めると、彼の視界はさらに奇妙なもので埋め尽くされ始めた。見えないはずのものが見えてくる。レイドリアンの指先が繰り返し描いているのは奇妙な花だった。見たこともない八つの花弁がらせんに連なり、それぞれが月のように違う形をしていた。
意識を向けるだけで、その方向を知覚することができた。ハアムは左の手足をすべて斬り落とされ、切断面からしぶく血液が瘴気に混じって熱かった。カデーナは再びゆっくりと血刃を作りあげ、今度こそ彼を両断しようとしていた。さらにその背後から、ディムロスが走ってくるのがわかった。時間の流れがひどくゆっくりだった。カエデの部屋の前に、おぞましいなにかの痕跡があった。それはずっと聖堂の奥まで続いていき──ジェンダールの視界は壁を通り抜けた──話にしか聞いていなかった聖堂裏の洞窟へ伸びていった。カエデはその後ろをふらふらとついていったようだ。闇が降りた。拒まれている。その壁を突破することも、今の彼なら可能だった。
ジェンダールは意識を引き戻した。灰色の視界の中で、レイドリアンの命はまだ低い温度を保っていた。自分と他者の炎を知覚することはできる。だけど、それをどう分け与えればいいのかがわからなかった。レイドリアンの指先が花の模様を描く。(失われた花の紋章──)ヴォルドールの声が蘇る。どうしよう。どうしたら、どうすれば。思考がぐちゃぐちゃになっていく。唐突に膨大な感覚器官を手に入れ、彼は情報量の重みに圧倒されていた。今最優先でするべきことはなんだ。考えろ、考えるんだ。僕がしなくちゃいけないこと──
((──))
突然その思考にノイズが走る。超常の感覚に、甘ったるい腐敗の匂いが満ちる。激しい頭痛がして、ジェンダールは膝を折った。嗅覚ではなく直接脳で感じる瘴気の気配はあまりにも強烈だった。干渉してきたその存在が真っ赤な口を開いた。
((見つけましたよ))
言葉が脳裏を焼き、ジェンダールは必死でその干渉を取り除こうとした。それは嗤った。
((どうも一人、妙な気配が紛れ込んだと思っていましたが。いやはや……こちらから見えなかったのは、そういうわけでしたか。なるほど、なるほど。いえ、少々気分がよくなりましたよ。理由もなく不愉快だという事ほど不愉快なことはありませんからね))
オズ。オズ・キーラン。その名前を拒むことは不可能だった。ルシスの破片がその名を知っていた。ジェンダールは無音の叫びを上げ、その干渉を断ち切った。即座に、今度は右の方から邪悪な意志が彼の精神に触れた。
(おや。また近づきましたよ……いいことを教えましょうか。脳というのは、否定を理解できないそうです。貴方が拒めば拒むほど、私は貴方に近づいていくわけだ)
その言葉は偽りではなかったが、真実でもなかった。存在の大きさはますます鮮明になっていく。彼は近付いてきているのだ、物理的に。
(貴方たちは決して逃れえない。ここは淵の森、ネアロスの檻。貴方たちがそうして閉じ込めていた場所なのだから、今更逃げ出すことなどかなうはずもない……それでは、ショーを始めましょうか。ジェンダール…ほう、ジェンダール。真の名ではないのですね、ジェンダール……ふふふ。貴方は最後に殺しましょう。貴方も知らない貴方の中身をすべて引きずり出し、それを愚かな蜘蛛に食べさせながら、その苦痛を以て屈辱の記憶を癒すとしましょうか)
オズが指を鳴らした。ジェンダールは拒めない。ルシスの光は届かない。ここは深淵──邪悪なものが支配する、永遠に明けない夜の夢なのだ──
*
ハアムは剣先で瘴気の糸を手繰り寄せると、無造作にそれを腕の切断面に押し付けた。じゅうっと黒い湯気がたち、いびつな傷口が焼けただれて血が止まる。痛みは既に、感覚の閾値を超えていた。カデーナが再び血刃を振り上げる。
「大丈夫。ネアロス。痛くない。わたし。痛くない」
呼吸の音が大きく聞こえた。もはや穢れた血飛沫を避けようとは思わない。斜めに体を捌いて刃をすり抜けると、ハアムは前に倒れ込み──突き刺した剣を支点に宙へと飛んだ。全身に無数の火傷を負いながら、どろりと歪んだ血の塊を飛び越える。空中でバランスをとることはもはや不可能だったが、逆に頭から落ちていくことは可能だった。カデーナの動きはあまりに鈍く、そしてその身体はもはや瘴気によって半分溶けかかって柔らかい。砲弾のように、ハアムの身体が突き刺さった。
ディムロスは既に勝機を見定め、ハアムが角を突き刺すのと同時に床を蹴っていた。要は、前回の焼き直しだ──前後から同時に攻撃を重ね、首を落とす。またぞろ不死身の怪物だったとして、その時はその時だ。
呼気に赤黒い塵が混ざり、パチパチと音を立てた。深く沈めた体勢を跳ね上げ、ディムロスは空中で──「!」身を捻り、鋭角に飛んできた何かを叩き落とした。軽い金属音と共に、甲虫の羽根から削り出された投擲ナイフが地面を跳ねる。それは生きているように震え、切っ先を再びディムロスに向けた。舌打ちをひとつ、装束をさばく。銀の針で止められた邪悪な護符が、それに応えて脈打った。
背後でカデーナが身をよじり、ハアムの身体が大きく弾き飛ばされるのがわかる。助けにいけるか。ディムロスは異様な冷静さをもって判断する。背中を向けることはできない。この敵からは。彼は再び飛来したダートナイフをかわしざまに掴み取り、柄から伸びた不可視の糸を引きちぎると、叫んだ。自分では無理だろう。だが、ここで自由に動ける者がいるならば──
「ジェンダール!」
その呼びかけは聞こえている。ジェンダールはもう一度、全力で邪悪な干渉を振りほどいた。そして、意識をすべて…カデーナへ向けた。
「ネア…ロス…!」
異形のシルエットがびくんと仰け反り、硬直する。首筋から胸元にかけての痛々しい傷跡がゆっくりと塞がり始めていた。ジェンダールは全霊を傾けながら、物理肉体を強いて動かした。強烈な負荷に、あちこちの関節から血が滲む。発煙筒を掴んで投げ落とす、それだけの作業だというのに。
「く…そ…!」
カデーナの拘束は想像以上に簡単だった。彼女の精神には壁などひとつもなかった──空虚で、どろどろとした偏執と、打ち棄てられて忘れられた何かの破片だけがあった。悲しみの風が吹いていた。
発煙筒が落ちてきて、湿った煙がハアムの姿を隠した。全身が燃えているように感じ、ハアムは大きく息をつく。死ぬかもな。煙の向こう、ディムロスの背中が見える。カデーナは何かに縛り付けられたように痙攣し、腕を覆っていた血刃はぼたぼたと瓦解し始めている。それでも時間の問題だろう──やらなければ。それは仲間意識でも、戦士の矜持でもなかった。ただ護るべきものを護るのだ。あの日に家族を護れなかったときとは……違うのだから。
「ごめ……なさ…」
彼女は意識を失ってなどいない。全身に絡みついたごく細い糸を、ディムロスは視認できていた。その先に奴がいる。
「悪趣味だな」
ディムロスは吐き捨て、無造作に自分のナイフを構えた。それに応えるように、カエデも──カエデの身体も──刀を抜く。黒く不浄の霧がそれを覆い、そして燃え上がった。誰かの声が耳元で囁いた。
(さあ、楽しませてくださいね。もちろん、殺してしまっても構いませんよ…ふふふ)
「ディム…ロス…!お願い…もう…」
「関係ないな」
ディムロスは全身を不浄な力で満たし、深く身を屈めた。膨れ上がる殺意に周囲の瘴気が呼応し、熱い火花が無数に弾ける。
「俺は進むだけだ。俺の求めるもののために。真実のために。それ以外は──いらない」
十一
燃え上がる瘴気の火は、まるで熱を帯びていなかった。それはただ燃えるように見えているだけで、実際はもっと別のなにか──もっと、火よりも単純で、厭なものだった。黒いけれど明るく、冷たいけれど激しかった。無条件に惹き付けられる、危うい光だ。
火の山のふもとで打たれた鋼はその炎に包まれて軋み、泣いていた。カエデにはそれが分かった……だが、彼女にはどうすることもできなかった。オズの手で無造作に抉り出された右の眼窩から、どろりと熱いものが溢れている。身体の自由は一切効かず、刀を握る手には尋常でない力がかかっていた。それなのに、そのほかのものは何もなかった。痛みも感じない。あるはずの罪悪感さえどこにもない。黒い炎が囁く、どうしようもない衝動だけが頭の中で渦を巻いていた。
(殺す)
誰かの声だった。オズのものではなく、カエデの知っている声でもなかった。いつかの誰かが命の間際に、血反吐と共に吐き捨てた言葉だった。
(許さない)(苦痛…)(どうして)
「う…う…!」
苦しい。解放されたい。それでも、生きていたい。カエデのものではない膨大な願い。既に瘴気を無理矢理に克服し、自身の生命力そのもので侵蝕を抑えつけるディムロスには聞こえない、瘴気という存在を成り立たせる根源だった。
(死が自由を求めている。私たちが死を求めるのではなく、死が私たちを求める……)
ディムロスはゆっくりと呼吸し、激しく命の火を燃やしていた。約束された寿命そのものを削り取るような、あまりにも暴力的な殺意だった。それは、死へと真っ直ぐ向かいながら、同時に死が何より厭うもの。本能や理性が守り感じるよりさらに前に存在する、命そのものの輝きだ。
それが憎いと思った。カエデの手に鋭い痛みが走り、鋼鉄の柄がどくんと脈を打った。
「は…あああっ!」
びしり、刃に無数のひびが入る。それを、血管めいて赤い疼きが埋めていく。突然、オズの驚きが──純粋な驚きがカエデのニューロンをざわめかせた。
(おや。なるほど…興味深いですね。続けてください)
黒い炎が急速に刀身へと吸い込まれ、消えた。代わりに蜘蛛の巣状のひび割れから、赤黒の灯りが溶岩のように煌めき始める。カエデの踏み込みが、いにしえの石畳を割った。
刃がぶつかり、あるいは空を切るたびに文字通り火花を散らすのを見つめながら、オズは上機嫌だった。かつて異術の源──それを理解するところまでは行ったのだ。息をするように……否、更に容易く、自らの一部として瘴気を操る彼にとっては不要で羸弱な技術だった。そのはずだった。思い出すだけで、憤怒に空気が音を立てる……だが。
「異術の源が魂であるのなら……」
荒い息をつきながら、なんとか老いたる虫を助けようとするジェンダールを見遣る。彼は間違いなくルシスに触れた。異術の扱いを…己の魂を削って不条理を行使する、きわめて自己犠牲的なロストテクノロジーを理解したのだ。
「瘴気とは死そのものであり。救われぬ他者の魂」
彼の昂りと共に、周囲を取りまく重い瘴気の霧が呻きを上げる。永い眠りの果てに失われていた力が、少しずつ彼に戻ってきている。
「必ずしも相反するわけではない、というのが…また、面白いですね。ふふふ。やはり素晴らしい。命というものは、何故こうも複雑で……価値があるのか。いやはや、命は大切なものですね。く、くく…」
呼応するように、かつての信者の亡骸たちが一斉に歩き出した。彼らはとうに死んでいる。そして、今もまだ生きている。渾然一体となった原色の死の中で、永遠に。
彼にとって瘴気はただの道具にすぎず、殺すための武器であり、潜むための霧であり、冒すための腕だった。虫たちにとって瘴気は猛毒で……なおかつ、さらに危険な作用を持つものだ。不可逆の変容──死は確かに不可逆だ。だが、変容ではない。ネアロスは死んだ。その神官オヴリナムも、戦士ラウザも。八本足でありながら異術を知っていたミュイライアは多少なりとも持ちこたえたが、死んだ。…名前を憶えているのはそれくらいか。そして、カデーナだけが残った。
奇妙なものだ、と彼は思う。カデーナは信仰されてこそいたが、力ある存在ではなかった。片側の腕が三本しかない七本腕のラウザはおそろしく勇猛で、自分の脚を引きちぎってでも戦った。ミュイライアは奇妙な青色の霧を呼び出し、瘴気を防いだ。ネアロスは──戦いが始まる前に、背後から殺した。オヴリナムの命乞いは無意味だった。カデーナは……その日も子らのために祈りをささげていた。邪悪な存在が淵の森を訪れたことにさえ気付かず、瘴気に巻かれて死んだ。はずだった。
「やはり、と言うべきか」
彼女は確かに生きてはいないが、しかし死んでもいない。ここにある虚ろな亡者たちとも違う、確かな意志を持ち、同時にかつての記憶など持ち合わせていない。それはもちろん彼がそうしたからだが──オズはもう一度カエデの刀を見た。別にどうなろうと構わなかったが、カエデは確かに瘴気を使って刃を修復した。更にはより強固にしてみせた。
ディムロスはどうだ。どこで拾ったものか、信者が持つ瘴気のまじない──いわば、オズから離れてもある程度動くことのできる時限爆弾のようなものだが──を握りしめ、あまつさえそれを無理矢理に手なずけている。
「魂が不変の自己を定義し、異術はそれを削る行いであるとするならば……同じように、他者の報われぬ魂を燃やして戦うすべがある、ということ。そして、わたしが眠っている間に──」彼は小さく嗤い、全身から呪いを迸らせた。
「──虫たちも進歩しているということか。あるいは、守護者の力が弱まっている……なるほど、その線はありそうですね。瘴気に触れさせぬという意志が弱まれば、おのずと適応し始めるのが命の道理ですか。…実験の甲斐もあろうというものだ」
思えばずいぶんな数を殺したが、結局まともに生き残って…いや、死にきらずにいるのはカデーナとヴァルツの二人だけだ。片や、淵の森の聖女。片や、滅んだ辺境種族の生き残り。どちらも普通の虫ではない。そこにきて、この侵入者たちだ。ルシスの光まで入り込んだのは計算外だが、都合が良かった。異術を使うものに瘴気を送り込んでいった時の、魂を穢されて叫ぶあの声が好きだった。
「どちらが生き残るでしょうね。あるいはどちらも死んでしまうか……それは勿体ない。できれば地虫のほうだけでも生かしておきたいですが…おやおや、どうなるやら」
ディムロスは三度バックフリップしてカエデから距離をとり、斬撃を受けた脇腹のあたりを意識した。傷口は浅い。だが不浄の炎がそこを走り、常人であれば失神を免れないほどの激痛が襲う。囁くような火花が散り、彼の苛立ちに油を注ぐ。「うるさいぞ」
だが、ディムロスの体内をめぐる瘴気の流れは徐々に弱まりつつあった。黒い護符は携帯式のボンベのようなもので、大量の瘴気を溜めておくことはできない。さらには、彼自身の体力も限界に近付きつつあるのだ。複数回にわたるヴァルツとの交戦およびダメージと、瘴気の浸食を抑えつけるために使った気力の量が効いている。くわえて──どうやってその状態を終わらせたらいいか分からない。「炎に燃えろと命ずるのは容易いが、消えろと命ずることは不可能だ。」木造の家に貼ってある警句が頭をよぎる。
あと何回ナイフを振るうことができるか、ディムロスは冷静に判断する。カエデの筋力は明らかにタガが外れており、ハアムのそれを上回るレベルにまで達している。本人にもそれなりの反動があってしかるべきだが、どうやら自滅は期待できそうにない。距離を離せば追尾ナイフが飛来し、近づけば恐ろしい威力と炎熱の斬撃がめちゃくちゃに襲い掛かってくる。右の複眼はえぐり取られて無残な傷跡になっていたが、死角になっているというわけでもなさそうだった。ナイフを叩き落としつつ、ディムロスが思考を締めくくる。
「…それしかないか」
躊躇なく、もはや回避など擲った低姿勢をとる。ナイフがその頭上をかすめ、背後で震えて向きを変えた。カエデが身体を捻り、大上段に刀を構える。来るものすべてを両断するべく、あかあかと刃が燃えた。ディムロスは背後へ自身のナイフを投じると、その勢いをつけて──倒れ込むように、解き放たれた矢のように突っ込んだ。残る力をすべて脚力に込め、一直線に。
愚直さを嘲笑うように炎が溢れ、その軌道を縦に両断するべく、カエデが刀を振り落とした。硬い金属音──やけに軽い音。周囲の瘴気が一斉に引火して黒色の爆発を起こすと同時に──カエデの細い身体が斜めに弾き飛ばされて壁を打ち、転がった。
「マジかよォー…やりやがった」
どうにか立ち上がり、壁伝いに機を窺っていたハアムはその瞬間を確かに見ていた。黒い煙がゆっくりと薄れていき、左の肩に刀を喰い込ませたまま低姿勢で残心するディムロスの姿が現れる。長い息をつきながら、彼は刀を抜き、放った。赤黒の火は消え、カエデは動かない。彼の両手はいまだに熱く、火傷の跡が生きたように脈打っている。
「両拳白刃取り、か。…あのクソじじいも、たまには役に立つもん…だ…」
ディムロスが膝をつき、必死に呼吸する。空気は熱く、焼けて腐った匂いがしていた。
叩き付けた拳の間に刃を挟み留める大技は、彼の未熟さと有り余る威力のゆえに勢いを殺しきれなかったが、結果としてはよかっただろう。両拳と肩で刃を受けつつ全霊で身を捻り、荒波のような蹴りを叩き込んだのだ──痛み分けと言うにはやりすぎの蹴りではあった。
だが、今のカエデにどこまで通じただろうか。ディムロスの肉体は限界だ。殺すつもりで力を振り絞った攻撃の反動はあまりに大きく、全身を駆け巡っていた燃えるほどの衝動は彼を責め苛む無数の声に変わっていた。
「ジェン…ダール…!」
その声は聞こえていたが、ジェンダールは動けなかった。カデーナがじわじわと抵抗の兆しを見せ始め、同時に雲霞のごとく現れた亡者たちがじりじりとこの建物を包囲しにかかっていることに気づいたからだった。今カデーナの拘束が解ければ、動けないディムロスは真っ先に殺されるだろう。ハアムの傷も深い。レイドリアンは目を覚まさない。切羽詰まったジェンダールは混乱さえ通り越し、異様に静まり返った自身の心を自覚し始めていた。
(どうしようも、ない。でも、諦めたく、ない)
ならばどうする?カデーナに繋がった精神の糸が、強く引っ張られている。彼の精神の心臓を引き抜き、自由になろうとしている。邪悪極まるかの存在は、まるで演劇でも見ているように静かだ。ジェンダールたちに絶望の未来しか待っていないことを知っていて、それを嘲笑いながら、あえて静観しているのだ。足掻き、もがいたその果てに、絶望に呑まれる姿を見ようと待っているのだ。刺された獲物の死を待つサソリのように。
(そんなのは嫌だ…!絶対に方法はある、絶対に!)
しかし考えようとすればするほど、カデーナに向ける意識の割合が低くなってしまう。そうすれば終わりだ。かといって、拘束に要する負担は大きくなるばかり。カデーナの精神は確かに荒廃していて無防備だったが、同時に膨大だった。狂い果ててからも積み上げられてきた無窮の慈悲という感情が、ただ穏やかな虚無として続く地平。引き留めることは容易い。だが、干渉することはできない。
(く…う…!)
目から血が流れている。灰色の血だ。助けを求めようにも、ここは呪われた辺境の地。旅人は残らずオズに捕らえられ、死んだ。今のジェンダールには見えていた。無念と苦痛の中で、絶望の死を遂げていった者たちの姿が──いずれ自分達もその仲間入りをするのだというように、こちらを見つめている死人の目が。
突然、ジェンダールの視界は真っ白になった。遠い日の空が見えた。
「お師匠様、ずっと東に見えている…あれは、なんなの?」
誰かが尋ねた。黒い目がまたたく。
「あれはな、ジェンダール。閉ざされた都の、一番高い塔じゃ。いつでもああして、下界を見守っておる」
「閉ざされた?入れないの?」
「うむ」
カブラーは頷き、意味ありげに笑った。
「いつかは門が開くかも知れんが、それはつまり世界の終わりという事じゃ。よいか、ジェンダール。セベクたらんとするならば、扉を開けようと思うでない。扉を開けるには鍵がいる。鍵をこじ開けるにも道具がいるじゃろう。扉が重ければ、それだけ力もいるじゃろう。だがな、扉ごと乗り越えてしまえば一切関係なくなるもんじゃ」
彼の隣に誰かがいた。偽りの記憶だ。その日に彼はいない。不愛想に腕を組んだ地虫の彼は、水晶に覆われた複眼の下でジェンダールを見つめていた。ふと、既視感が襲う。
(あれ…なんだろ。似てる?ディムロスに…?)
そんなジェンダールを叱咤するように、走馬灯めいた記憶がまばゆい光に埋もれていく。カブラーの言葉が、白く飛んだ世界に反響する。繰り返す。
(扉を開くんじゃなく……乗り越える……!)
大きな泡が弾けたような感覚、白昼夢の酔いが覚める瞬間。
カデーナの身体がよろめき、傾いた。ハアムが、酸でボロボロになった剣を握りしめて、その脚を斬り落としていた。金属音のような絶叫が空を震わせる。ハアムの不自由な身体が倒れ込む。
ディムロスが地面に転がったナイフに向かって必死に這っている。カエデの身体が微かに動き、その腕がひとりでに、あり得ない方向に曲がった。溶け落ちた右目から、怨嗟の囁きが零れ始める。
確かに、状況は絶望的かもしれない。だけど、それなら、ここにないものを使えばいい。扉の鍵がないのなら、窓から入ればいい。窓がなければ煙突から、それもなければ穴を掘って入ればいい。単純なことだ。ジェンダールはセベク、手探りで無謬の闇を進む愚か者の一人なのだから。その目的に立ち返ればいいだけのことだった。僕たちはどうしてこんなところに来ようとしたのか。何を求めて、死の淵を覗き込んだのか。
彼の意識は今度こそ飛翔し、亡者の群れを貫き、そして──(なっ──)──オズの隣を、すり抜けた。目指すべきものは確かに光輝き、誰も知らないエネルギーの残滓に脈を打っている。呪いと死の帳でさえ、その尊い輝きを押しつぶすことはできない。
(籠。ルシスの籠だ。どんな妨害にも負けない、決して止まらない、聖なる籠!)
暗闇の底でそれはただ静かに主を待っていた。今や禁じられた快楽に身を委ね、陶酔の果てに魂を穢してやまない乗り手の姿が、その中に見えた。
奇妙な感覚だった。ルシスの貴族は、その見た目だけなら…ジェンダールやディムロスと大差ないように見えた。ただどこか、もっと本能的に、そして決定的に違っていた。その羽は薄く柔らかで、悪しきものを知らない複眼は星のように澄んでいた。そして、その存在の全ては己への陶酔によって開かれていた。
ジェンダールは躊躇なく、カデーナよりもなお無防備なその精神に手を伸ばした。
(──さよなら)
銀の鎧が身動ぎしたが、ニューロンの速度でなされた呆気ないほどの略奪に追いつくほどではなかった。銀の籠は主を得て起動し、幾何学模様の光を無数に走らせながら浮き上がる。
(あとは…これを…呼び寄せれば…!)
「なるほど。実にいい見世物でした」
風が吹いた。重く、甘い香りのする風が四方八方から吹き込み、そしてその中心に瘴気がわだかまった。タールのように粘ついた黒の中で、真っ赤な口を開いてオズは嗤った。無造作に掲げた手の先に、ディムロスの身体があった。
「そこまでにしましょうか、ジェンダール」
オズが空いた手で何かを放り投げる。それは誰かの首で、どうやら持ち主と思しき首なしの虫がそれを受け止め──損ねて何度かお手玉をし、そしてぐちゃりと接合した。彼はジェンダールを見つめ、首をかしげた。
「ヴァ、ル、ツ…?」
続けてオズはカデーナに指先を向け、音楽でも奏でるように数度動かした。
「ほら、痛くない、痛くない…でしょう?くく、貴女の口癖でしたね」
ハアムが決死の覚悟で斬り落とした脚がもぞもぞと動き、傷口から黒く粘つく糸が噴き出した。まるで指のようにそれを使い、ひとりでにあるべき場所へ戻っていく。立つこともままらないハアムが愕然とそれを見つめる。
「嘘だろォー…」
そしてオズはカエデの身体をちらりと一瞥し、興味などないというようにジェンダールへ向き直った。
「さて。貴方には選択肢があるわけですが……先に、貴方たちの目的が知りたいですね。せっかくですから──」
オズは右手に掴んだディムロスの首に邪悪な意志を込める。世界の亀裂から滲んだような瘴気の滴りがその手を濡らし、黒い蒸気を上げて消えない傷跡を刻み付ける。ディムロスは目を見開き、それでも苦痛の呻きさえ漏らさなかった。それに気を良くしたように、オズが言う。
「貴方のお友達に聞いてみましょうか。だいぶ頑丈なようですし」
ディムロスが抗おうとオズの腕を掴めば、そこからも黒い煙が上がる。まるで全身が瘴気そのもので出来ているかのように、彼は死と一体だった。呼吸を封じられながら、ディムロスがジェンダールに向けて口を動かした。
(逃げろ)
ヴァルツが手をかざすと、中空に瘴気の槍が現れる。その切っ先が自分を狙っていることに気づいても、ジェンダールは動かなかった。今度こそ、絶望が彼を訪れたか──
(──もう)
毅然と上げた緑の眼に、凄絶な光が宿っていた。ぴしぴしと音を立て、無色の炎めいて水晶がそれを覆い始めていた。
「もう、どうなってもいい。僕がどうなってもいいから──」
よせ、とディムロスが囁いた。オズの瞳が憎悪に燃え、それに応えてヴァルツの槍が解き放たれた。
「──お願い──!」
ルシスの破片はそれに応えようとした。対価さえ支払えば、その奇跡は無条件に行使されるべきものだからだ。今や触媒がなければ使うことは叶わないけれど、かつて、その光は誰もに等しく与えられた技術であったからだ。
異術の最も不安定な点は、その動力が魂であるということだけだった。そして、その揺らぎこそが、異術の最後に残された可能性でもあった。
死をもって終わった魂が、ただ負の感情だけを残して消えていくとは限らないのだから。
真っ青な瞳がジェンダールを見つめていた。ジェンダールにも見ることのできる魂の色だった。そして、その眼は八つ並んでいた。失われた記憶に力が揺蕩い、微笑んだ。
「急いで。でも、焦らないで──受け継いで。でも、背負わないで──覚えていて。でも、目をつぶっては駄目」
彼女が腕のひとつを伸ばし、ジェンダールの複眼をぬぐった。その指先に灰色の水晶が付着して、小さく震え、砕けた。
「いつか、覚えていたら。かわいそうなカデーナのことを、どうか助けてあげてね」
呆然とするジェンダールの眼前から、その八本足の女はそっと立ち去ろうとしていた。
背後には七本の脚を折り曲げて死んでいる誰かの亡骸があり、内臓を腐らせて立ち尽くす神官の亡骸があり、そして背後から心臓を抜き取られた偉大なものの亡骸があった。どれもが無念を口にし、けれど決して、呪いの中に溶け出さない崇高な魂の炎を燃やしていた。
ジェンダールはそれを理解した。
一瞬の隙だった。けれど、あまりに絶大な隙だった。オズの手が緩んだ──ディムロスは溜めこんでいた力を一気に使って身体を捻り、その足元を転がって逃れた。その姿を、海のように濃い青色の霧が包み隠した。優しい重みの宿ったその霧は瘴気を阻み、ふわりと道を開けるのだった──黒曜石のナイフを拾った彼の視界に、倒れ伏す少女の姿が見えた。
海色の霧。その異術の持ち主は、確かにあの時殺したはずだった。オズは一瞬の自失から戻り、瞬時にその怒りを解き放った。最も近くでそれを受けたヴァルツの身体が不穏に揺らぎ、瓦解した。爆発的に吹きあがった瘴気の渦をしかし、秘されてきた業が押し留める。
カデーナは自身を包む霧に触れると、不思議そうに首をかしげ、血に濡れた自身の腕を胸の傷跡にぴたりと合わせた。まるで祈るようにそうすると、みるみる傷が塞がり、そしてまたいびつに癒着してしまうのだった。カデーナは目を閉じ、そして祈った──身体に記憶されている動作を、ただ条件反射的に繰り返しているだけに過ぎなかったけれど、まるで聖女がそうするように、その姿は恐ろしくも荘厳だった。
誰かが背中を支えてくれているように感じながら、ジェンダールは海色の霧を満たし、同時に再び精神の指を伸ばした。今度こそ、あの籠を動かすのだ。今やドーム状に膨れ上がった霧の中心から、凄まじい濃度の瘴気が沸き上がっている。触れただけでも死に至るほどの濃度だった。それを相殺する優しい霧の粒が、少しずつ減っていくことも理解していた──これは継承であり、同時にもはや残されたものなどない。死人の想いは、決して無限ではないのだから。今度こそジェンダールは祈っていた。ただ清浄なだけの力の源にではなく、ただ自分の幸運を、だ。それは極めてセベクらしい祈りであった。
カエデは全身の激痛を自覚しつつ、必死に周囲を探ろうとつとめた。何かが起きている。柔らかい霧が頬に触れ、反射的に息を止めた。けれど、それは熱くもなく、厭な匂いもしなかった。ただ柔らかく、優しい重みに満ちていた。ゆっくりと開いた左目に、真っ青な霧と、真っ黒な手が見えた。
自分の右手だった。刀を握り、まるでその霧が憎いというようにむちゃくちゃに振り回していた──当然、彼女の意志ではなかった。オズが握った腕の中に、その邪悪な意志がこびりついているかのようだった。
霧の中からディムロスが現れ、彼女を見下ろした。装束はあちこちが割け、まだ熱を持った傷が肩から腹にかけて斜めに走っていた。明らかに刀傷だった。
「……ひどい顔だな」
倒れ伏し、右手だけを暴れさせるカエデを見て、ディムロスはそれだけ呟いた。
「…わざわざ言うこと、それ?」
「ああ。……腕もか?」
「全部…ひどいわよ」
「だろうな」
一瞬の空白があった。ディムロスは狂ったように振り回される刀をナイフで受け、刃の根元を踏みつけて抑えると、躊躇なく右の肘にナイフを振り下ろした。
「──ッ!」
「痛むか」
「別に、平気…!瘴気のせいで…感じない…し…!」
嘘だった。通常よりははるかにましだろうけれど、それでも──いや、痛みがどうあれ、彼女は悲鳴を上げなかった。
ディムロスはもう一度ナイフを振り上げ、完全にその腕を切断した。切り離された下腕はびくんと震え、微かに持ち上がろうとしたが……かなわず、くたりと横になった。握られていた刀はゆっくりと冷え、無数のひび割れを埋めていた溶岩のようなきらめきが消え去ると同時に、砕け散った。ディムロスはカエデの左の肩を掴み、乱雑に背負いあげる。既に壊死していたのか、腕からの出血はわずかだった。
「どうして…助けたりするの。関係ないじゃない」
「確かにな。置いていかれたいか」
カエデはかすかに笑い、気を失った。
霧の向こうはまったく見通せなかったが、霧そのものがゆるやかに動き、ディムロスを導いていた。彼の疲労は限界よりなお悪かったが、それでも不思議と力が湧いてくるようだった。あるいは、オズに触れたことで再び瘴気を取り込んだか。どちらでもよかった。結果さえあれば、過程などどうでもいい。それが彼の流儀だった。
ハアムは折れた剣を杖代わりに、ゆっくりと進んでいた。カデーナは動きを止め、突如現れた超常の霧が彼の姿を隠している。死に瀕して鋭敏になった彼の感覚は、確かにこの場の中心にある巨大な悪意を感じ取っていた。
「…ついてねェー」
それは留まることを知らずに大きくなり続け、既に海色の霧の粒を少しずつ侵蝕し始めている。時間の問題だ。ここから逃げ切れる手段があるのかどうかさえ、ハアムにはわからない。ただジェンダールが何かしようとしているのは分かっていたし、ディムロスが諦めるような男でないことも、既に理解していた。
「やることを…やる…それだけだよなァ」
そしてついに、均衡は破られる。轟音とともに聖堂の壁を突き破り、霧の海を引き裂き、間欠泉めいて噴き出す瘴気をその銀の光で焼き尽くして。ジェンダールが叫んだ。
「ディム!」
ディムロスの鼻先をかすめるほどの位置にぴったりとやってきたその籠は、見上げるほどの立方体だった。幾何学模様の光が走り、継ぎ目のない石造りの面が滑らかにスライドした。中は空っぽだ。
「座り心地は悪そうだな」
言いつつそこにカエデを投げ込み、ディムロスは裂けた装束から小さな笛を引っ張り出した。甲高い音を立てる、蟲笛の類だ。聞こえるものは限られ、調整されたそれは符牒に用いられる。
合図は聞こえていたが、ジェンダールは選択を迫られていた。霧の異術を解けば、たちまち全員が死ぬだろう。だが、そちらに意識を割いたまま、他の誰かを抱えて階下に降りることは不可能だった。レイドリアンは──まだ生きている。だが果たして、目覚めることはあるのだろうか?それを理由に置き去りにすることが許されるのだろうか?
そして、ハアムは──見えているのかいないのか、ゆっくりとこの渦中に近づきつつあった。オズは手を広げ、慈悲の霧を今にも破らんとしている。選択するべきだ。そして、生きて帰るのだ。
ディムロスなら躊躇いなくそれを選ぶだろう。助けられる者には限りがある。この手は短く、そして非力だ。幸運に見出された者にしか救いはない。いつか自分が救いを与えられなくとも、後悔などしない。それがセベクだと知っているから。闇を探る者の定めであると。
何より既にジェンダールは選択していた。ルシスの貴族を手にかけ、その籠を奪い取ることを。ならばこそ、もはや立ち止まることは許されないのだった。凄まじい激怒の波動がジェンダールのニューロンを焦がし、それが最後の一押しになった。
ジェンダールの身体が手すりを乗り越え、落下する。ルシスの籠はそれを知っているかのように悠然と、ひとりでに動き、そしてその天井で彼を受け止めた。銀白の石で出来たそれはまた滑らかに表面をスライドさせ、彼を飲み込む。ジェンダールは超然とした意識の中で景色を思い描き、告げた。そうすればこの籠は起動するのだと理解していた。
(ライザール、西の門──)
同時に、霧の異術が破られる。オズは瞬時に、その光を見咎めた。天を衝くほどに吹きあがっていた瘴気が瞬きの間に彼のもとへ収束し、巨大な鉤を備えたアンカーへと物質化する。ヴァルツの作り出すものとは明らかに次元の違う、確固たる質量を備えたもの。まるで星を穿つように巨大なそれは、オズがそう念じるだけで自在に動くのだった。
彼は掌を広げ、そして憎悪と共に握りつぶした。無数の黒い腕が生じ、銀白の籠に絡みついた。巨大な杭がゆっくりと動き、その狙いを定める。
「逃がしはしない」
「やばいぞ!」
「わかってる、けど!」
ルシスの籠は確かに真っ白な貴き石で造られていたが、いかなる機構によるものか、内部から外の景色を見渡すことが可能だった。怨嗟の呻きを漏らすいくつもの腕が絡みつき、驚異的な力で籠を抑えつけていた。苦しげに光が明滅し、ルシスの籠が悲鳴を上げる。瘴気の腕が、少しずつその外壁を浸食し始めていた。猶予はない。ディムロスが傷を庇いながら立ち上がる。
「……俺が外の腕を斬る」
「ディム──」
ジェンダールが制止する暇もあればこそ、ディムロスは洗練された動きで籠から転がり出た。内部の者がそう望めば、どこにでも扉が開くのだ。
「さっさと、行け」
失伝した加工技術の鍛えた黒曜石のナイフは物質化した瘴気に対してもその切れ味を発揮し、瞬く間に邪悪な意志の宿った腕を斬り捨てていった。自由になった籠が飛び出そうとする。それをジェンダールが抑えつける。
「乗ってよ!ディム!」
ディムロスは振り返りもしない。再びオズを睨みつけ、ナイフを構えるだけだった。
「行けと言っている」
オズの顔が邪悪な愉悦に歪む。ヴァルツの身体が再生を始める。
「そんなの嫌だ──絶対…に──!」
ジェンダールの精神力が限界に達し、抑えが利かなくなるその寸前、いまだ滞留していた慈悲の青い霧の中から、砲弾のように飛び出してきたものがあった。
「独りでかっこつけてんじゃァねェー…ッ!」
「なっ──」
足の付け根に突き刺した剣を義足代わりに突進してきたハアムは、残された腕でディムロスの身体を叩き付けるように掴んだ。即座にオズがアンカーを解き放つ。
「てめえが…行けよなァ…」
尋常ならざる膂力で投げ飛ばされたディムロスの目の前で、その巨体のほとんどを貫かれながら、ハアムは膝をつきはしなかった。銀白の籠は滑らかに扉を開き、地虫の身体を迎え入れる。
ジェンダールが何かを叫んだ。一瞬で流星めいて加速した籠の中で、その声は聞き取れなかった。ディムロスは呆然と、遠ざかっていくその姿を見つめていた。
淵の森の木々をへし折り、かつて何者も踏み荒らすことのなかった苔の地面を風とともに駆け抜けて、超常の籠は真っ直ぐに東の地平へと飛ぶように駆けていく。
全てを貫いて、朝日が昇り始めていた。
エピローグ──そしてプロローグ
深い慈悲の霧が薄れゆく。それと共に、オズの怒りも引いていった。激怒に任せて暴れまわるような性格ではなかったし、ただ怒りだけが存在しているわけでもなかった。彼は──まだ少し、愉悦していた。
「ルシスの貴族でもない者に、その奇跡を扱うすべがあるとは」
それはすなわち、彼が望んでやまない、煮えたぎるような復讐への意志と合致するものでもあった。彼は恐ろしい微笑みを浮かべながら瘴気を放ち、立ち尽くす甲虫の巨体を無造作に崩壊させた。邪魔だったからだ。
彼は再び瘴気から腕を作り出し、上階の廊下に昏倒している老いた虫の身体を持ち上げた。何か情報が残っていればよし、さもなければ殺すだけだった。カデーナは体を縮ませ、また穏やかな笑みを浮かべる弱った聖女の姿になっていた。レイドリアンの頭に指を突き刺し、オズは──
「──なんともはや」
笑った。心の底から、遠い過去から追いついてきたような笑みだった。
「これこそ、僥倖というものでしょうか。天が私に味方しているとでも?笑わせてくれる。天地の全てを、私は滅ぼそうというのに」
その老いた虫はまだ生きていたが、不用意にルシスの破片に触れたために死にかけていた。とりもなおさず、それはルシスの秘密を彼が知りえたからでもある。通常ならば、そのまま死にゆくことで秘密は守られる。はずだった。
オズは軽い手つきでその頭に瘴気の糸を結び付け、二度と死ねないようにした。そして、ゆっくりとその情報を引き出し始めるのだった。
崩落した聖堂の床は、じきに元通りになるだろう。死人を働かせることの利点は、文句も疲れも知らないということだった。そしてまた暗闇に閉ざされるであろうこの空洞が、彼の新たな実験の場となるのだ。
彼はもはや、逃げていった者たちのことなどすっかり忘れていた。必要なかった。いずれこの地上にあるすべての命は彼が握るのだから、当然だった。
オズは踊るような足取りでその場を後にし、歪な三拍子と共にヴァルツがそのあとを追った。
カデーナは静かにたたずみ、暗闇の中に沈みゆく石像の群れをじっと見つめていた。ステンドグラス越しに朝日が差し込み、祈りをささげる聖女のような姿の石像を静かに照らしていた。
*
黒曜石に覆われた拳の先で、三つ目の顔が笑っていた。
「古今東西、使者は大事にするものでしょうに、カブラー老」
「さてな。わしは古いばかりで西も東も分からんよ」
代行者ヒサメは吹き飛ばされた顔を整え、自分の手足を探した。
「まあ、用件は伝えたし。もはや使者でないと言うこともできる」
言い終わる前にカブラーは拳を突き出し、その心臓を破壊していた。飛び散った肉体のどこかから、ヒサメが囁く。
「無駄なことはやめましょう、ビザルネルカブラ。僕たちは動き始めた。貴方も動く時がきたんです」
「黙れ」
カブラーの語気は荒かった。……珍しいことだ。
「何故アレを解き放つ。ライザールの民には関係のないことじゃ」
「だから、ですよ。貴方の干渉は目に余ると団長は考えた──それだけ」
その肉体はゆっくりと集まり、再生を始めている。バラバラに飛び散った身体が少しだけ足りなくても、カブラーに気付くことはできなかった。
「そもそも貴方が悪いんだ。貴方が、僕たちの目的に手を出そうとしたからだ。後悔するつもりがあるのなら、貴方は独りで死ぬべきだった」
半分だけの顔で、ヒサメが笑った。
「貴方の友のようにね」
カブラーの瞳に怒りが満ちた。そして、その瞬間をこそヒサメは待ち望んでいた。
「貴様──」
彼の背後で、ヒサメの指が形作られていた。鋭く、そして細く尖った形をしていた。カブラーが溶けかけの顔を蹴り飛ばすと同時に、その背をヒサメの指が突き刺した。ごく浅く、抉るように、そして刻み付けるように。
その指先からヒサメの肉体の一部が分離し、カブラー老の無防備な背中に貼りつく。刺青のように、ごく小さな傷跡に染み込んでいく。ヒサメは囁くように笑いながら肉体を崩し、溶かし、そして消えていった。
「さあ、遊戯の始まりだ──貴方は知ることになる。しょせん今までは執行猶予に過ぎなかったと。荒れ狂うヴォイドがこの街に到達するのが先か、貴方の心臓を彼女が撃ち抜くの先か。ご安心ください、カブラー老……誰も賭けてなどいない。これはただただ貴方の遊戯。どうか死ぬまでお楽しみあれ──あはははははははははははははは!」
*
ライザールで最も高い時計塔の上、彼女はゆっくりとその手を引いた。この世の摂理に反する黒曜の弦が、その繊細な指先にぴんと張りつめる。巨大な弓だった。そして、巨大な矢がつがえられていた。
ずるりと音を立て、彼女の背後にヒサメが現れた。
「これでよし。アンカーは打ったよ、執行者ラピス。ゲームのはじまりだ」
ラピスと呼ばれた女はただじっと自分の構えた矢を見つめていた。滑らかな金属の矢じりが、昇り始めた朝日をうけてきらきらと輝いていた。
「ねえヒサメ」
彼女はいつも流れるようにしゃべる。
「わたしがこれを射たとしてそれで死んだらどうするつもり?ヴォイドは止まらずこの街を破壊してしまう?」
ヒサメは肩をすくめる。
「さあ。僕は何も知らないよ」
ラピスはくすくす笑った。虹色の複眼がさざめくように輝いた。
「しっかり当てて見せるからねヒサメ見ていてね」
「いや。僕は見ないけど。せいぜい頑張ってよ、相手はあのビザルネルカブラだもの。殺せたら拍手くらいは貰えるんじゃないかなあ──どのみちヴォイドが来ればおしまいさ」
「そうかもしれないわねでも私は当てて見せるわよ」
ああそう、と言い残し、ヒサメはずるりと屋根から落ちていった。ラピスは弓を引き絞り、そして恍惚とした笑みを浮かべたまま、ひとつめの矢を放つのだった。
「いつか貴女にも届くのよカーマイン──」
*
ルシスの籠は揺れることなく、ただ滑らかに大地を駆け抜けていく。
カエデが朦朧とした視線を上げると、朝日の眩しさが残された左目を射た。ジェンダールも、ディムロスも、糸が切れたように眠っていた。
失った右手が疼くようだった。残った左の手で首元のスカーフを引き寄せ、カエデは目を閉じる。
──これからどうなるのか、まったく分からない。だけど、お姉ちゃんは確かに生きているのだ。あちこちが焦げて嫌な臭いがしていたけれど、橙色のスカーフは確かにそこにある。
だだっ広い湿地帯を、籠が走っていく。得体の知れない巨大な蛇の亡骸が転がっている。きらきらと輝く水辺を、煙のような蚊の群れが飛んでいく。
それらすべてを夢のように見送りながら、カエデもまたゆっくりと眠りに落ちていった。
*
ルシスへ赴くにあたって、ブライト・ラプトを通過しなければいけないという決まりはない。むしろ、ブライト・ラプトは自警団、執行者の手によって厳重に警備されているのだから。
だが、ブライト・ラプトの上──つまり地上は、それ以上に危険な場所だった。
ライザールの東門を出て、なだらかな丘の間に造られた街道をゆっくりと上がっていけば、そこはブライト・ラプトの西口だった。それを通り過ぎようという者はおらず、誰もが吸い込まれるようにその横穴に入っていく。その先には尖った岩の並ぶ荒野があり、更に先には……ガラスの森がある。それは文字通りガラスの木々が立ち並ぶ神秘の地であると同時に、死の坩堝だった。
「シャグナイアは…知っている。熱い病んだ風の吹く森だ。…そこに光はない。亡霊と、死。それだけだった」
硫酸の風が吹き、青く沸騰した川の流れるガラスの森──辿り着くまでも、辿り着いてからも、水も食糧も存在しない道程だ。それに比べれば、ただ暗く、追い立てられるだけの地下都市の方がいくらかましと言えるだろう。少なくとも、アオイの身体ではガラスの森を越えられない。
「…また、執行者が邪魔をするのかな」
「きっとそう。彼にも護るべきものがあるから」
「暴力で、護れるものなのかな」
「少なくとも、解決はする。シャグナイアでもそうする」
シャグナイアは素っ気なくそう言った。
「そ、そうなんだ…暴力が解決することも、あるよね。うん──あれ、なんだろう?」
アオイが指さした先に、ブライト・ラプトの西口が口を開けている。そこから、まばらな人の群れが吐き出されていた。ずん、と重い地響きが轟くと、彼らはてんでに悲鳴を上げ、ライザールに向かって──つまりアオイとシャグナイアの方へ向け、走ってくるのだ。
「あ、あの!」
アオイが呼び止めようとしても、波の一部と化した彼らは止まろうとはしない。アオイの身体を再びシャグナイアが抱え、跳んだ。常人離れした脚力が群衆を飛び越え、未だ不自然に轟く暗闇の前へ降り立った。最後の一人が闇の向こうから駆けてくる。ふと、アオイは気付いた。みな旅人か、ライザールの住人のようだった──つまり、朝にあわせてラプトへ降りようとした者たちだ。細身の甲虫の彼はその手足を必死に振って、恐ろしいものから逃れようとしていた。
「急いで!速く!」
アオイが叫んだ。
「何かが来る。シャグナイアはそれを知っている──」
シャグナイアの身体を赤い稲妻が駆け抜けた。花のようだった触角がみるまに硬質化し、それぞれが剣のように鋭く伸び、彼女の腕に巻き付いた。
地響きが、一瞬だけ、止まった。
「バアアアアアアアアアアアアアアーッハハハアアアアアアアアーッ!!!!!!!!!!」
ルシスの方角から朝日が差していた。清浄なその光を歪めるように、金色の剛毛に覆われた身体が宙を舞う。漆黒の針のような毛が、あまさず凶暴に逆立っている。その背後で、ブライト・ラプトの入り口として穿たれた差し渡し百メートルはあろうという横穴が音を立てて崩落していった。執行者ヴォイドが、その全身に満ちた破壊への意志を余さず解き放った結果だった。
ヴォイドは身を捻り、抱え上げていた巨大な岩を投じた。シャグナイアの全身よりなお大きな、白く硬い岩だ。シャグナイアはそれを一瞥し、無造作にその手を振るった。真っ赤な稲妻がその腕を駆け抜けた。
真っ二つに切断された岩が大地を揺るがし、逃げ遅れていた者たちを押しつぶして転がった。ヴォイドは大地を踏みしめ、朝日を憎々しげに睨むと、ついでシャグナイアを見た。八つの眼に憎悪が灯った。彼の背後で、血のにじんだ残骸が土砂に呑まれて消えていく。
「てめえかァァァァァァァーーーーーーッ!?」
シャグナイアは首をかしげ、けれど好戦的に腕を構えた。
「シャグナイアは知らない」
「うるっせェえー……何もかも……ムカつくぜえェ……!」
ヴォイドの眼は明らかに異常な殺意に漲り、黄金に輝いていた。その視線の先にはライザールがある。それに気付き、アオイも刀に手をかけた。
朝日に照らされた荒野の端で、執行者ヴォイドと旧きシャグナイア、そしてアオイは向き合う。戦う理由などありはしないというのに、けれどヴォイドはどうしようもなく苛立っていた。目の前の全てを破壊するほどに。
その背後にヒサメの姿が滲みだし、彼の背に触れた。にやりと笑い、そして彼はシャグナイアの視線を感じ、大仰にお辞儀した。
「それではどうか、お楽しみを。彼がライザールへ辿り着くのが先か、ビザルネルカブラの死が先か、──おや失礼。あるいは貴女たちが轢き殺されるのが先か!ははッ──これは見物だ!」
ヴォイドが無造作にヒサメを踏みつぶし、六本の拳を握りしめた。大木のような腕に膂力が漲り、シャグナイアが静かな敵意を放った。赤い稲妻が明滅し、その触角がますます鋭く張りつめる。ヴォイドが、動いた!
「バアアアーーーーーーーッ!!!!!」
鋼鉄の大木のような腕を、シャグナイアの細い腕と触角が受け止めた。シャグナイアは体を震わせ、衝撃力を地面に逃がす。放射状に広がる地割れの上から、更にヴォイドが腕を振り落とした。
「バハハハハハァ!!!!死ね!!死ねえ!!!!」
「シャグナイアは──」
全身を走っていた赤い稲妻が消え、くすんだ青色の稲妻がその心臓から沸き立った。鋭かった触角が丸みを帯びたシルエットに変わると同時に、ヴォイドの剛腕を、弾き返した!
「死なない。かつてそうだったように」
ぱちっと泡が弾けるような音がした。シャグナイアの稲妻は黄色く変じ、そしてその残光を伴ってヴォイドの背後へ移動していた。
「なァ―――――」
「死ぬのはお前だ。昏きもの」
再び赤い稲光が触角を駆け抜け、剣のようにその腕がきらめいた。長い脚に黄色の稲妻を留めたまま、シャグナイアの黒衣が翻る。振り向こうとしたヴォイドの背後、彼女が爪先でターンする。鋼の刃さえ通さなかったその筋肉と剛毛が切り裂かれ、ぱっと金色の血がしぶいた。
「光なきものよ」
シャグナイアの姿が消えるたびにヴォイドに傷が刻まれ、同時に背後に現れたシャグナイアが剣腕を構える。二度、三度、四度、繰り返すほど、その速度が増していく。全方位から斬りつけられたヴォイドがよろめいた。宝石のようなシャグナイアの瞳が光を放つ。
「いつか地平で会うときまで──」
ヴォイドがようやく正面にシャグナイアを捉え、嵐のようにその剛腕を振り回して襲い掛かった。シャグナイアがかざした左手に青の稲妻が収束し、同時に右腕に赤い光が集まっていく。左腕に巻き付いた触角が花のように開き、空色の障壁が生まれる。アオイの胸を驚愕が打った。異術だ。それも、触媒を使わずに。
明けゆく空に溶けていくような美しい半透明の障壁が、ヴォイドの暴虐を再び、先程よりさらに大きく弾き返した。まるで受けたエネルギーを反射したかのように。
天空の壁が誇らしげにその表面に波を打たせる。シャグナイアが駆け出し、今度こそ体勢を崩したヴォイドの巨体に向かって跳躍した。花びらのように広がった触角を全て右腕に集めると、朝日の中でもまぶしいほどの赤い閃光がそれを満たした。ヴォイドの身体を斜めに切り裂きながら大きく上半身を捻りつつ飛び越え、再び今度はその背中を斬る。
「──待っている」
鋭く伸ばされた腕の先が、ヴォイドの左胸を背後から穿った。金色の血を吐き、その巨体が痙攣する。自分の胸から突き出た奇妙な剣を、黄金の複眼がじっと見つめた。
「ア……?な…んだ?こ、れ…はァ…」
シャグナイアは腕を引き抜くと、執行者ヴォイドは首を傾けるようにして動かなくなった。黒い小山のような身体から、音を立てて金の蒸気が立ち上っていた。
「行こう。時は永遠だが、貴女はそうではない」
シャグナイアはそう言い、アオイを見つめた。朝日を受けたその顔は少しだけ透けて見え、内側を鉛色の静かな稲妻が時折走るのが見えた。
「……うん」
アオイは圧倒されていたが、恐れてはいなかった──ただ、彼女が自分達とは明らかに違うのだということを理解しただけだ。決定的に。
「いくつか縦穴があるはずだから、まずはそれを探そう──ラプトの中までめちゃくちゃになってないといいけど」
「シャグナイアは……少し、お腹がすいた。果物がほしい」
そう言って首をかしげる様子はまるで子供のようだったが、アオイは複雑な気持ちだった。この短時間で、いくつもの死を見た。そして、シャグナイアの腕は明らかに死を与える者の腕だった。
とはいえ。アオイは腰の刀の重みを思い出す。
「おんなじ、かなあ」
「?」
ううんと首を振り、アオイは丘を越え、荒野を目指して進み始めた。シャグナイアは黙ってそのあとを追い、あとにはただヴォイドの肉体だけが残された。
*
風が吹き、金の蒸気が流されていった。羽蟲の一群がそこを飛び、通過する頃には一匹残らず互いを喰い合って死んでいた。
どくん、どくん、と巨体が脈打つ。失われた心臓のあった場所が激しく沸騰し、粘ついた金色がその傷をいびつに塞いだ。ヴォイドの右手がゆっくりと動き、その右胸を殴りつけた。
「アアーッ……!」
もう一度。
「バアアーッ……!!」
もう一度。
「バアアアーッ!!!!!!!!!」
がくんと身体が跳ね起き、ヴォイドは目覚めた。休止していた二つ目の心臓が更に熱く打ち、その眼に異様な輝きを送り込んだ。
「アアア…………」
そして、彼は笑った。それは獣のような笑いではなく、理知的ですがすがしい、優しささえ孕んだ微笑みに近かった。
「いい、ぜェ……」
*
つづくよ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?