遙かなるルシス -シーズン2

遙かなるルシス、シーズン2


「失われた光を捜して」


 新しい風が吹いている。彼女にはそれが分かる。追いすがってきた最後の一人を無造作に斬り殺し、彼女は空を──だいぶ近くにある空を見上げた。ここにもいない。天を衝くほどの凍り付いた山のてっぺんで、けれど彼女の心は燃えている。
 風向きが変わった。遙か空の上で、大きな大きな流れが動いたのだ。それがどこへ向かうかなどどちらでもよかった。風には向きがあるだけで、良し悪しは存在しないからだ。
「──」
 ふと、歌が唇をついた。ほとんどかすれた金切り声のような歌声だったが、でたらめな韻と切れ切れの言葉で出来ていた。何の歌だったかは忘れたが、まだそんなものを覚えていたことに少しおかしくなる。
 滑らかな氷に覆われた急斜面には尖った雪が積もり、登ろうとするすべてのものを拒んでいる。この晴れ間は一瞬だろう。またすぐに吹雪が始まり、彼女の足跡さえも消し去ってしまう。振り返ると、その足跡が続いているのが見える。足の下で、みしみしと氷が音を立てる。まるで重力を無視したように斜面に立つ彼女の足は、凝った血のアイゼンで覆われ、永久凍土に突き刺さっていた。
 彼女は手をかざし、ささくれだった地面に押し付けた。当然のように凍り付いた手を引き剥がすと、ぼたぼたと血が零れる。彼女が傷ついた手を一振りすると、そこには赤褐色の鎌があった。がつん、それを斜面へ叩き付けると、それを支点に彼女は飛び上がった。
 真っ赤な身体が中天の日に踊る。捩じった視線を遙か眼下へ向けると、手足にアイゼンをつけて弩で武装した長細い甲虫たちが見えた。とん、彼女の身体が着地する。血の棘は更に分厚く鋭く伸び、彼女の鬼気迫る笑顔を高く高く押し上げていく。山頂を見回しても、何もない。当然、こんな場所に何かを作ることは困難だ。
 あるいは、それが彼らにとっては重要なことなのかもしれない。部外者が土足でそんな場所を踏み荒らすことを、よくは思わないのだろう。それこそ彼女にとってはどうでもよかった。血の棘が折れ、倒れ込むように前に一回転。彼女は斜面を落下し始める。すぐさま足の裏から血が噴き、そして楕円の板を形作った。その縁は研ぎ澄まされて鋭く、さながら剣を船に見立てるごとく。
 まるで波に乗るようにバランスをとりながら、彼女は右手から鎌を、左手からはジグザグの刃を持つ剣を生み出す。氷と風を愛する甲虫たちが口々にわめきたて、雨あられと矢を射かけてきても、彼女は止まらない。先頭の一匹とすれ違いざま、足元の板で空気ごと切り裂く。しぶいた灰色の血が空中で無数の鉈に変わり、降り注いで殺す。飛来する矢を美しいターンでかわしながら、敵の中心部へ向けて右手の鎌を投げつける。
(はじけろ)
 彼女が念じて鎌を見つめると、それは悲鳴を上げながら弾け飛んだ。おびただしい血の棘が飛び散り、バランスを崩した甲虫たちがてんでに斜面を転げ落ちていく。続けざま、左手の剣を振りかざす。
(あつまれ)
 彼女の敵が流した血がざわめき、凍り付きながら集まってくる。彼女は更に更に加速しながら、剣を水平にむけた。降りた霜によって白くひび割れたようなその刃は、遙かに長大なものになっている。軽く身長の五倍はあろうというそれをぴたりと水平に止めながら、彼女は小さく高揚の笑みを漏らした。彼女の敵はいまや総崩れとなり、背を向けて逃げ出していた。
 もっと早くそうするべきだったのだ。

 誰一人として動くもののなくなった雪山の斜面を、赤い矢のように滑り降りていく影がある。
 彼女の名はカーマイン。世界の果てを旅する狂った戦士。おとぎ話の「鳥」を探し、災いのように現れて、去っていく。翼の影を見出せばそれを追ってどこへでも登り、羽ばたきを聞けば七日七晩眠らない。たとえそれが彼女の幻覚だとしても、わざわざその歩みを妨げようとするものはいなかった。
「──」
 残骸のような旋律を口ずさみながら、彼女は次の峰を目指す。彼女は狂っていた。


一章:銀世界の帳

 銀色の触角は枝葉のように細かく分かれ、雪原に佇む彼女のやわらかな知覚そのものを表現しているかのようだ。黒く大きな複眼を閉じて、彼女はじっと雪の下に意識を向けている。
 白く分厚い翅は畳まれ、更に分厚いマントと斜めに背負った籠の下。服の継ぎ目にはなめした皮が張られて雪の侵入を拒み、空気をたくわえて膨らんだ毛が全体的なシルエットをより大きく見せている。
 その全てが、銀白の平野の中に溶け込んでいた。
(まだ、このあたりには残っているわね)
 ゆっくりと目を開け、彼女──この広い雪原に点在するコロニーのうち、東の丘からやってきたニュムラスク・ノインデラートは、身体がすっぽり雪に埋もれてしまうのも構わず膝を折って細い腕を伸ばした。
 雪の下をまさぐるような動きののち、その手には一株ばかりの草が握られていた。一面の銀世界に、まるで一滴だけ零れ落ちたかのように鮮やかな緑。腰にさげた籠を開くと、同じ植物がいくつも束ねられて並んでいる。彼女はとったばかりの草を慣れた手つきで束のひとつにまとめ、籠を閉じ、また数歩進んでは同じことを繰り返した。
 じっと触角を広げて集中し、雪の下にあるものを感じ取る。それは眠りを知らない硬いトカゲたちの鼓動であったり、地下を流れている清冽な水脈のその反響であったり、いつまでもやむことのない鋭い風が運んでくる、遠くの音であったりした。その中から──音だけではなく、彼女の感じられる全てから──植物の気配だけを感じ取り、そののち触れて種類を判別し、必要であれば摘み取る。気の遠くなるような作業だが、雪国の蛾たち、あるいは地を這う甲虫たちはそうしたことに慣れていた。
 くわえて、蛾の一族はより繊細で、手先が器用だ。永い時を経て、こうした細かい散策や季節の機微を翅のあるものが担い、それ以外を硬く無骨なものたちが担う、独特の共生関係が成立していた。
 ニュムラもその一人であり、コロニーの薬師だった。長い冬は終わりに近づいているが、いくつかの薬草は常に不足したままだ。
(…もう少し、必要だわ)
 ニュムラの表情は少し厳しい。先だって長老の座を退いたモーダンの老爺は、もうあまり永くない。病は重く、不吉な風が止む気配はない。せめて、雪解けまで持ちこたえさせてあげられたら──
(絶対、その方がいいに決まっているもの。こんな風の中で死んでしまったら、二度と大地に戻れない)
 雪のない日に氷を蹴散らして吹きすさぶ風、それは悪魔の声だ。生者を誘い、永遠に灰色の雲の中へ連れ去ってしまうという悪魔の声。ニュムラは身震いして、その風を避けようと屈んだ。触角が冷たい。少し休んだ方が良いだろう。
 ニュムラが見上げた灰色の空から、大きな雪が舞い落ちてくる。
 吹雪が始まるのだ。

「あ──」
 彼の視界に色はない。真っ白な世界。そこに血色の火がともる。それによってジェンダールは己が夢を見ていることを知り、夢の中ではまだ色が見えることに奇妙な寂しさを覚えるのだった。色覚そのものが切断されたわけではないのだ。これは契約であり、代償なのだから。
「ヴォルドール」
 水晶の生えた左目に苦悶の光を瞬かせながら、ジェンダールの前を彼が歩いてゆく。進むほど、激しい光が吹き付けて、その姿を曖昧にしてしまう。
 これはジェンダールの夢であり、夢とはただ見るものだ。夢の景色が彼を見ることはない。
「……」
 ヴォルドールが何かを囁く。勿論、それは彼にしか聞こえない。光が溢れ、その姿が消えていく。朦朧とした意識の中で、見たこともない景色が広がっている。
(銀色の…山?ちがう、氷だ。雪山……風が吹いてる)
 ジェンダールは目を凝らし、何かがいないか見ようとした。けれど、生あるものはどこにもいない。尖った葉の木々と、うずくまって春を待つ灌木、そしてあとは一面に続く、灰色の雪。
(…まあ、いいか。夢だし、別に…)
 ジェンダールは曖昧に夢の中で頷きながら、ゆっくりと意識が引き上げられていくのを感じ始める。夢の帳が上がっていく。

「…ジェンダール…!ジェンダール!ジェド!」
「うああい!?」
「死んだかと思ったぞ。触角は何本だ」
「二本!…ディム?」
 ディムロスが冗談を言うことは少ない。よほど…ものすごく機嫌がいいか、あるいはその逆だ。どうしようもない時だ。ディムロスは腕を組んでいたが、それはいつもの癖というわけではなかった。ジェンダールはようやく理解する──寒い。とてつもなく。
「…最初に起きたのは私」
 カエデが身体をぎゅっと縮こませながら言った。
「その時には籠が止まってて、外は見えなかった。……これ、見ようと思うと見せてくれるんだね」
 ジェンダールは四方を見回し、銀の燐光を放つ石の壁を見遣った。ディムロスが短く警告する。
「扉を開くなよ。絶対にな」
「う、うん」
 戸惑いながら、ジェンダールは心の中でこの不思議な石の籠に語り掛けた。(見せて)

 たっぷり三十秒ほどかけて四方の景色を見回し、ジェンダールは瞬きした。白い壁が透過をやめ、また燐光を発して三人を照らし始める。
「…えと、ディム」
「ああ」
「カエデ……さん?」
「…呼び捨てでいいけど、うん」
 ジェンダールは変な笑いが浮かんでくるのを感じながら、つとめて真剣に聞こえるように、けれどかすれた喉から精一杯に、叫んだ。
「ここ──どこ!?」

 ライザールで売られている地図のほとんど、一般的な形式では中心にライザールがあり、そこから東西南北に道が伸びている。東に隣接したブライト・ラプト、そこから更に東にはルシスの城壁が地図の端からはみ出た小さな弧として描かれ、南の街道の先にはトラジェリプスが、西方には湿原とネアロスの檻が、そして安寧の地ネルグが横たわるように描かれている。では、北側はどうか。
 北ライザールは旧市街であり、特徴的な古い石畳で知られている。ひとつの岩から削り出された北の大門をくぐれば、ライザールの民に食糧を供給し、あるいはラプトと取引されている巨大な穀倉地帯。実りの時期には黄金に輝く畑が一面に続く景勝地としても名高く、ここで働きたいと願ってくるものもいるほどだ。
 黄金の絨毯をかきわけて北へ北へと向かえば、しばらくは豊かに潤ったなだらかな丘陵地帯が続く。いくつかの集落を越え、やがて大きな森に差し掛かる頃には、足元がだんだん険しくなってくることに気づくだろう。砂利や大きな石が目立ち始め、鬱蒼とした木立の合間を何度も潜り抜け──そこから先は、本格的な装備が必要だ。なんといっても天を衝く山々が立ち並び、谷を選んで進むのにも一苦労。命知らずの登山家たちが今日も爪を打ち込み歯を食いしばって登っていくその絶壁を横目に、恐ろしい深さの谷を渡り、そうすれば……そう、あれが火の山だ。ここまで来ると、ルシスの城下とはまるで違った文化を目にすることができる。羽虫と甲虫の狭間にいるような細身の虫たちがいくつもの種族ごとにコロニーを築き、彼らなりの信仰と知恵に従って生きている。
 火の山のふもとの部族が作る鋼はトラジェリプスのものより粘り強く、また美しい。流浪の青き民は宝石の在処を知っているし、灰色の民は恐ろしく長生きで物知りだ。商人たちにとっては命を懸けてでもこの地とルシスを往復する価値はあった。
 ……それより北、火の山より向こうにはなにもない。一年中雪が降り続き、火の山よりもなお高い銀色に凍り付いた山々が立ち並ぶ。そこに棲むものたちは原始的で野蛮、今でも失われた光を密かに蓄えて、あやしげな儀式を行っているのだ──

「って、言うよね」
「火の山のずっと向こう、か」
 カエデはぽつんと言い、首元のスカーフを握りしめた。その手は小刻みに震えている。ルシスの清浄なる籠の作り手は、どうやら雪国育ちではないようだった。
「銀白の地に残った民に、失われた光か。前はなんとも思わなかったが……失われた光、と言うのは気にかかる」
 ディムロスは徐々に寒さに慣れつつあるのか、組んだ腕をほどいて籠の中を調べ始めた。これに乗った時はあまりにも事態が急展開で、ろくにそんな暇はなかったのだ。
「似てるよね。ルシスと……異術に」
 言いつつ、ジェンダールはその超常の視覚で二人を見つめた。ディムロスの首には痛々しくおぞましい焼けた手形が残り、白く熱い魂の火はわずかに黒く濁っている。全身にいくつもの傷があり、肩口から腰にかけて斜めの裂傷が最も深かった。その全てが既に塞がっていたが、それは瘴気による歪んだ治癒の跡でもあった。
 カエデは更に酷い傷だ。右目は完全にえぐり取られ、瘴気の曇りがその眼窩に残っている。右腕も肘から下が切断され、傷口は焼けただれたように塞がっている。ただ、それ以外の外傷はない──打撲痕はあるが、骨が折れたりはしていないようだった。
 何より、酷く寒いのだ。何もせずとも体力を奪われていく感覚があり、密閉空間で火を起こすわけにもいかなかった。ディムロスが一通り目をやり、座った。
「使えそうなものは何もないな。ジェド、本当に動かないのか?」
「…うん…ごめん」
「謝るな。もともとお前のものじゃない──如何にルシスの籠と言えど、何かしら動力源が必要なはずだ。ネアロスの檻から、この土地まで走るだけのエネルギーがな」
 籠は常に冷たい光を放っていたが、まるで動こうとしなかった。ジェンダールは不満のようなものをぼんやりと感じていたが、それを何で満たせばいいのかわからなかった。カエデが左手を小さく上げる。
「そもそも、どうしてこんなところに?これが勝手に動いたってこと?」
「確かにな。行先はどうやって決めた?」
「よく…わかんない、ライザールの門を思い浮かべてたと思うんだけど」
 ふん、とディムロスが考え込む。カエデは寒さに耐えようと必死だ。
「…今の主はジェンダールだ。動かないのは動力が尽きたから。だとして、目的地がでたらめと言うのもおかしい…」
 その時ふとジェンダールは思い出し、さっと血の気が引くのを感じた。
「…あ…夢…」
「夢?」
 水晶の眼の男。夢を見る都市。そして…銀白の山々と雪原に目を凝らした。目覚める寸前に見ていたと思ったけれど、夢の中の時間感覚が通常通りのわけがない。
「……雪原の夢、見た」
「なるほどな」
 ディムロスは納得し、もう一度考え始めた。
「なるほどな、って……なに?ジェンダールが見た夢の場所に連れてこられた、ってこと!?」
「…そうだね。ごめん。本当に」
「うそぉ……」
「とにかくだ」
 ディムロスは厳格に言った。
「吹雪が止むまで、なんとか耐える。その後、集落を探す。噂が本当なら、失われた光とやらを溜めこんだ奴らがいる……あとは、やるべきことをやるだけだ。同時に、この籠のエネルギー源も見つける必要がある。歩いてライザールへ戻るのは……かなり、厳しい。俺たちにはこの籠が必要だ」
 異論はなかった。それぞれ自分の服をきつく身体に巻き付け、できるだけ身体を縮めて熱を逃さないよう黙り込む。
「…あ」
 ジェンダールはふと、自分のポーチをさぐった。あの夜に五人で食事をとったとき、ほとんど飲んでしまったけれど──
「お茶、いる?」
 水筒はかなり軽いが、確かに入っているのがわかる。ディムロスがカエデを指さした。
「カエデに飲ませろ。今にも死にそうだ」
「死なないわよ…!でも…欲しい、かも」
 ジェンダールとて、ディムロスほどではないにせよ厳しい環境への適応力は持っている。火の山育ちのカエデにとっては、白い息も珍しい。
「はい。ゆっくり飲んでね」
「ありがと。…あ、湯気…すごいね、まだ温かい」
「周りが寒いと湯気も出やすくなる」
 あまりに無神経なディムロスを睨みつけながらジェンダールが笑いかける。
「熱を逃がさない特別な金属なんだって。貰いものなんだけど、僕も他には見たことない」
 へえ、と目を見開きながら、カエデが水筒を傾けた瞬間、彼らの座る床も傾いた。
「へ?」
「なに──」
「きゃあ!零れちゃ…」
 カエデが水筒に掌で蓋をする。咄嗟にジェンダールが壁を透過させ、外の景色を映した。真っ白な世界。降り積もる雪が、この籠を完全に埋めようとしていたのがわかる。そして、
「うーん…?なんでしょう、これ…」
 誰か、今まで見たこともないような柔らかい身体をした女が一人、彼らの真下でルシスの籠を軽々と持ち上げていた。
「…見た事がないですね…降ってきたのかな?埋まっていて気づかないはずはないですし…」
 言いつつ女、ニュムラスクは籠を持ち上げながら、残りの腕で地面を探った。
「あ、やっぱりここでしたか。潰されていなくてよかったわ」
 今やジェンダールたちは籠の中をまるで木の葉のようにかき混ぜられ、隅っこにまとめて押し付けられていた。ディムロスが呻く。
「どう…なってる…」
「わかんないよ」
 本心だった。ニュムラがぶつぶつと独り言を言っている。
「…うーん………捨てていくのもあれですし…持って帰りましょうかね…」
 カエデが囁く。
「これ、このまま連れて帰ってくれるんじゃない?開けたくないし、そうしようよ…」
「この籠、浮いているわけじゃないんだろう。恐ろしい馬鹿力だぞ、この女」
「投げられたりしないといいけどね…」
 ジェンダールの呟きは不穏な予感。ニュムラは体勢を変え、しっかりと籠を持ち上げる。
「よし!持って帰りましょう!」
 やった、とカエデが小さく手を握った。

 ニュムラが走りだすと、彼女はもはや喋ることもできなかった。彼女は食糧でないものに対して特に気を遣わないたちだったのだ。
「あああああ……ディム……」
「吐くなよ」
 ディムロスはそう言うと地虫らしく身体を丸め、繰り返す衝撃に備える。
 カエデはぐったりしたまま床をずるずると滑り、その身体が跳ねるたびにジェンダールが支えなければならなかった。
「ジェンダール…水筒…うっ…」
「そのまま…押さえてて……」
 雪は少しずつ弱まり始めていたが、彼らの受難は始まったばかりだった。

二章:嵐から生まれたものたち


 ビザルネルカブラの生い立ちを知るものは今や少なくなっていたが、時と共に風化することのない確かな憎悪と共に、その名を覚えている者がいた。

 枯れ木のような身体をしゃんと伸ばし、鋭く研がれたステッキで石畳を穿ちながら、執行者ローハイドは潰れた片目で憎々しげに空を仰いだ。長らく浴びていなかった日の光から彼を護るトップハットと外套は時代錯誤もいいところの代物だが、彼にとっては正装だった。狩りの装束なのだ。
 北の方から破壊の残響が聴こえる。朝日に寝ぼけまなこを擦るライザールの住民たちにとってはまさに寝耳に水の出来事だろうが、彼らにとって重要なのはビザルネルカブラだけだった。これまでは緊迫した関係を維持してきたライザールの“黒い目”が、何故突然にラプトに介入してきたのか。そして、何故今になって……ラプト自警団は、彼を始末すると決断を下したのか。それも、ヴォイドまで解き放つと言うのだから驚きだ。ローハイドは与えられた指示をゆっくりと反芻した。
「…ラピスが彼奴を炙り出す。そこで死ねば御の字だが、期待はできん…そして、彼奴は必ず狙撃手を始末しようとするはず」
 ローハイドは傷跡に歪んだ口元を異様な怒りで震わせ、呪詛の言葉を吐くのだった。
「見ておれ。我が妻の墓石を貴様の死血で潤してくれる」

 この地に街ができる以前から存在していた巨大な一枚岩の壁が、轟音と共にゆっくりと崩壊していく。たった一本突き立った矢がそれを成しえたのだ。一瞥しただけで、その巨大さがわかる。老いた地虫の身体の、ゆうに二倍はあろうという矢だった。まるで──神話の鳥殺しだ。至近距離の着弾でさえ、カブラーは全力で防御態勢をとらなくてはならなかった。直撃などすれば、彼が存在していた痕跡さえ残らないだろう。
「どんな怪力で弓を引いとるんじゃ」
 ぼやく彼をめがけて、再び矢が飛んでくる。常に方向は一定だった。躱すことは容易いが、隠れることができない。煉瓦の壁程度では紙切れも同然だった。加えて、敵にはカブラーの位置が正確に分かっているのだ。
「あ奴の仕業じゃなあ」
 ヒサメの言葉を思い出しつつ、カブラーは己の迂闊を反省する。そして、前進を始めた。狙撃の中心地、設計者はとうにこの世になく、何のために造られたかも忘れ去られた時計塔を目指して。当然、暗殺者も罠もあるだろう。けれど当然、逃げるという選択肢はなかった。
「これ以上この街を壊されてはかなわんでな」

 ラピスは矢を射る手を止め、鋭い視線を感じ取って身悶えした。標的はこちらに気づき、こちらを目指し始めた。それが狂った執行者ラピスの精神に伝わり、繊細な彼女の神経を冷たく駆け上がるのだ。あるいはその繊細さのゆえに彼女は狂ってしまったのかもしれないが、今となっては知る者もいない。
「さあ始めるわ──」
 ラピスはしなやかな肢体をくねらせるようにして、巨大な矢を拾い上げ、つがえた。今までの矢とは形状の異なる、更に恐ろしい黒鉄の棘が無数に生えた矢を。
 彼女に与えられた目的は、ビザルネルカブラの討滅。複雑な命令を理解できない彼女には、いつでも単純化された指令だけが下る。ラピスにとってもそれは心地よいものだった。純化された目的の果てに、彼女の目指し続けるかの存在が現れる──そんな妄想が、彼女を満たしてくれる。ただ目の前の敵をひたすらに殺し続けるのだ。そうしていつか、いつか。
「必ず届かせてみせるの」
 小さく呟き、ラピスは伸びきった弦を解き放った。

 初めにカブラーが感じた違和感は速度だった。矢が遅いのだ。次に感じた違和感はもっと直感的なものだった。矢の角度とでも言うべきか、放物線の軌道に何かを感じたのだ。遅く、重い矢。
(いかん!)
 結果的にその違和感が彼の命を救った。咄嗟に地面を叩き、崩れた壁の一部を跳ね上げる。即席のバリケードごし、着弾した鳥殺しの矢が──弾け飛んだ。黒鉄の棘は四方八方に飛び散って石畳を無数に穿ち、たった一枚の石板を濡れた紙のようにズダボロの石くれへと変えてしまう。
「…痛いのお」
 剣ほどもある棘を交差した腕から引き抜きつつ、カブラーは毒づいた。隠れなければ間違いなく死んでいた。灰色の血が零れる。見上げた空に黒い異物。カブラーは駆け、狭い路地の中へと滑り込んだ。背後で棘が放散し、耳障りな音を立てる。
「旧市街でよかったわい。これが市場じゃったら…」
 想像するだに恐ろしい光景を振り払い、カブラーは服の裾を引きちぎった。即席の包帯を腕に巻き付けつつ、鋭く口笛を吹く。二度長く、三度短く。決して街の住民たちには見せぬ、凶暴な笑みが口元に踊る。
「必ずつけを払ってもらうぞ、暗黒街の狂人ども」
 カブラーの位置を測りかねたか、次の矢は遅い。
 屋根を蹴る音に続いて口笛が返ってくる。短く三度、そして高らかな叫び。
「忙しそうね、おじいちゃん!」
 老いたセベクは一度足を止め、苦笑いと共に叫び返した。
「なんと、お主が戻っておるとはな!一人か!」
 ライザール北の旧市街の住人はほとんどが農作業を生業にしており、日中は家にいない者が大半だ。静かな石造りの街に、その叫びが何重にも反響する。その反響が集まる十字路に、一人のセベクが飛び降りた。しなやかな身体を着地の反動で跳ね上げ、とびきりの笑顔で。
「久しぶりね、おじいちゃん。相変わらず、こんなところでひとりっきり?」
 生気に満ちた複眼は鮮やかな赤。いくつもの傷に飾られた白銀の身体。首元を護る小さな金属のチョーカー以外はごく軽装で、かつては病弱だったことなど微塵も感じさせない自信が全身に漲っている。
「自慢の武器はどうした、アイシャ」
「整備中!ずいぶん無理させちゃったから」
 屈託のない笑顔は、けれどどこか奇妙だった。まるでそうあるべきだからそうしているというような、作り物めいた笑顔。永遠に届かない誰かの真似をしているような。
「アイシャ。“金の刃”よ」
「それ、やめてってば。おじいちゃんの“黒い目”とか、あんまりかっこよくないし」
「……なんと…それは本気か、アイシャ…」
「二つ名なんていいの。私は私なんだから」
 そしてアイシャは哀し気に目を細め、左腕に刻んだ新しい傷をなぞった。
「独りで帰ってきたよ、おじいちゃん。ケアアルクは死んだ」
「…そうか、奴めは逝きよったか」
 “焦土”のケアアルクは奇妙な火薬を好んで使う風変りなセベクで、長らくアイシャの友人だった。大きくルシスを迂回して、遙かな東の地へと二人が向かったのはかなり前になる。
「シクターンはどうしてる?ジェンダールくんは?大きくなった?」
「あいにく、呑気に話してもおれんでな。アイシャ、今すぐライザールを駆け回れ。旧市街に残っておる者を集めよ。ラプトの連中、ついに堪忍袋が破裂したようじゃ」
 アイシャは躊躇なく頷き、にこっと微笑んだ。
「よろこんで。私、こう見えて走るのは得意だよ」
「誰でも知っとるわ。行け」
 彼女より足が速いとなると、それこそ……ディムロスくらいのものではないか。カブラーは不愛想なかつての教え子の顔と、それによく似た古い友を思い浮かべ、苦い想いを噛み殺した。アイシャの気配はあっという間に遠ざかっていき、入れ替わるように黒い矢が墜ちてくる。
(直撃を狙うのではなく、曲射に切り替えたか。おそろしい腕前よの)
 矢が弾け飛べば、逃げ場のない路地では死が待つのみ。カブラーは壁を蹴り、屋根の上へ躍り出た。先の口笛はセベクたちへの救難信号だったが、果たして何人が応じるかは分からない。
 現在、ライザールとラプトにおける情報の流れはシクターンたち案内人を通してカブラーのもとへ集まる仕組みになっており、もしも彼が死ねば、その座が空白になることは自明だった。
 セベクとはそういうものだ。アイシャのような者こそ珍しい。
(──ほお)
 平たい石の屋上が所狭しと並ぶ旧市街を見渡し、カブラーは唸った。
(これだけの数の自動機構とは)
 等間隔に設置された小型の弩が、一斉に彼へと矢じりを向けていた。咄嗟に路地へ飛び込もうとしたカブラーは間一髪、隣の屋根へ飛び移る。
「実に危険な執念じゃの」
 無造作に腕を振るい、振ってくるものに比べればごく小さな矢を叩き落とす。彼の眼下の路地には無数のワイヤーが張られ、致命の罠を予見させていた。この時点で少なくとも二人が彼の命を狙っている。仕掛け人と狙撃手、厄介な組み合わせだった。
(下は罠の海、上は矢の雨か。いやはや)
 四肢の裾を割いて黒曜石のガントレットを露わにし、カブラーは進む。ぴたりと正面にとらえた時計塔を睨み据え、続く矢の雨に意識を向ける。斃れることはできない。最後に立っているのは自分でなくてはならないのだ。

「来たか」
 呟き、ローハイドは老いた指先を軽やかに動かした。まるで虚空に鍵盤があり、彼だけの音楽を奏でるかのように。
 余人の目には見えざるごく細い鉄の糸が、繋がったいくつもの弩を起動させた。
「せいぜい……醜く踊ってみせろ……!」
 尋常ならざる怒気に震えながらも、ローハイドの指は滑らかによどみなく動く。第一波の斉射が終われば、やや遠間から第二波を射かける。その間もラピスは狙撃を続け、死の雨の中を、傘も持たない老人が一人、無謀にも足を踏み出したかのようだった。矢を撃ち切った弩から、ローハイドの糸が引き抜かれる。すると内部の自爆機構が作動し──

「ぬうっ!」
 爆風に煽られ、カブラーはよろめいた。顔を護るためにかざしたガントレットに破片がぶつかり、嘲笑うように甲高い音を立てる。瞬間、棘の矢が墜ちてきた。横っ飛びにかわした先、足元には用済みとなった弩がカチカチと不穏な音を立てていた。
「ぐっ…」
 身体を丸め、ビザルネルカブラは耐える。爆発の威力そのものは大したことはないが、足を止めるのは危険だった。加えて、罠だらけの路地へ落ちるわけにもいかない。鳥殺しの矢を回避しつつ、弩の少ないルートを採ろうとすれば、必然的に遠回りせざるを得ない。しかも、一体どこまで罠が仕掛けられているのかが分からない。
 暗闇の中を刃に囲まれ、それでも手探りで進まなければならない──おとぎ話の盗賊セベクが宿敵貴族のロイエンタールに囚われて拷問にかけられるくだりは、子供たちをはらはらさせたものだ。
「わしの伝記も…書いてもらうべきかの…」
 上がり始めた呼吸を整え、拳を振るって矢を叩き落としながら、カブラーはゆっくりとした前進を続ける。

 等間隔に距離を保つローハイドは少しずつ空き始めた指先に新しい糸を結び付け、その先にナイフを通していく。奇妙に膨らんだ柄のナイフは明らかに危険なもので、彼の燃えるような憎しみが込められていた。
 彼は気配を殺して罠を張りつつ後退し、標的に近い爆弾から起爆させていく。もとよりビザルネルカブラがこれだけで死ぬ道理もなし。こうして少しずつ、戦意と命を削れればよいのだ。
「惨めにのたうち回って赦しを請え、ビザルネルカブラ……!貴様の乾いた脳みそを……!この!足で!踏みつぶしてくれる…!」
 語気を荒げながら、ローハイドはステッキを打ち付け、何度も地面を蹴りつけた。
「死ね!死ね!死ね!死──」
 異変を感じ取り、ローハイドは一瞬で冷静さを取り戻した。左下腕の糸が切られている。左上腕。右。咄嗟にローハイドは全ての糸を引き抜き、弩を捨てた。無数の爆発音が重なり、小さな轟きを生み出す。
「誰だ……何が邪魔をする……!」

「まだ生きてる、おじいちゃん?」
 小爆発の連鎖を全身で受け止めながら、彼女は得意げに振り返ってそう言った。右手には引きちぎったいくつもの鉄糸が握られ、傷口からは異様に粘ついた灰色の血が滲みだし、既に傷を癒して固まり始めていた。
「走れと言ったはずじゃがな」
 咳き込みながらカブラーがそう言うと、アイシャはけらけらと笑った。粉塵が風に吹き散らされ、上からは二人の姿がよく見える。
「あの兄弟を覚えてる?生意気な弟と無口な兄貴のふたり。あの子たちが行ってくれるって!」
「ベルムとソルムがか?流石じゃのう。お主でなければ説き伏せられんじゃろ」
 じりじりと背中合わせの体勢を作りながら、二人は同時に時計塔を見た。きらりと輝いた何かが、こちらに向いている。
「私は上に行けばいいの?」
「その方がいいじゃろ。下の奴はどうも…わしが憎いと見える。なんとなくじゃが」
「殺していいんだよね?」
 カブラーはちらりと彼女の表情を窺った。赤い複眼にはその実感情など浮かんでいない。
 右腕に増えた真新しい傷跡は、彼女が友の死を悼んで自らに刻み付けたものだ。アイシャ、灰の民の呪われた異端児は、そうして自らに無数の追悼を刻んできたのだった。
(狂っておる。誰でもそうじゃ。あるいはわしも)
「無論じゃ。殺される前に殺してしまうのが一番よ」
 カブラーが答えると同時にラピスが矢を放ち、二人は弾かれたように動き出した。

 黄金の月が呼んでいる。髑髏のように砕けかけ、まだかまだかと呼んでいる。……♪

「またこの歌か」
 ディムロスが囁いた。彼らの目には一寸先も見えない雪原の真ん中で、二度目の休憩に入った蛾の女は、吹雪に散らされるか細い歌声を絶やそうとはしなかった。
 そして、ディムロスの囁きに返すものもいない。そんな余裕はなかった。
「様子はどうだ、ジェンダール」
「どうもこうもないよ…!」
 ジェンダールはおろおろと答えながら、横たわるカエデの額に手を当てたり苦しげな呻きを聞き取ろうと試みていた。
「……いつから耐えていたんだろうな」
「いきなり気を失うなんて思わないし…!どうしよう、ディム、このままじゃ…」
「落ち着け。今の俺たちの持ち物は全て試した。今はこの女に賭けるしかないだろう」
 黒曜石のナイフ、黒い呪符(明らかに危険なので遠ざけられている)、聖堂の部屋にあった砂糖菓子(貴重な栄養源として保持されていた)、朝露に濡れていた花弁(凍っている)、干し肉がいくつか(瘴気にあてられているが食べられなくはない)、二枚の水晶レンズと筒(今は役に立たない)──それがディムロスの持ち物だった。
「水分だけはとってから倒れたんだ、焦るな」
「で、でも……もしこの人が三日三晩走り続けるつもりだったら?崖の下とかに落とされたら…?」
 すっかり弱気になったジェンダールの持ち物といえば、空っぽの水筒に地図とコンパス(当然ながら役に立たない)、傷薬と包帯(ほとんど使われている)、乾いたパン、発煙筒と閃光弾が二発ずつ、ケースに入ったまきびし、細工用の小刀くらいのものだった。
 できることがないというディムロスの結論は大いに正しい。それがますますジェンダールを不安にさせるのだった。ディムロスが釘を刺す。
「異術は使うなよ、ジェンダール。次は色だけじゃなく、光まで失うかもしれない」
「う…」
 一度目の休憩によって足元が落ち着いたとき、三人は状況を確認していた。各々の消耗の度合いと持ち物を明らかにし、そして小さな黙祷が行われた。ジェンダールが色覚を失ったと告げた時、ディムロスは何も言わなかった。それからすぐにカエデが意識を失って……
「…女が動くぞ、ジェド。踏ん張れ」
「うう………」
 カエデの呼吸は浅く、体温は酷く高い。ジェンダールに見える魂の火はまだ明るいが、良い状況とは断じて言えなかった。
「せめて…火に当たらせてあげたいな…」
 ディムロスは無言のまま外を眺める。吹雪の中に切れ切れの歌が混ざる。少しずつ風が弱まってきているが、今が何時なのかさえもよくわからなかった。

「止まらないで…月が落ちても…♪……ふう、よし。行きましょう、っと」



 雪景色に溶け込む色、と言われて、真っ先に思いつくのは純白だろう。だが、実際はそうではない。もう少しくすんだ、明るい灰のような色──それが、曇り空を映した雪によく溶け込む。
 そんな色味をした甲虫たちが集まるコロニー中央の集会所は、押し殺した不安にざわめいていた。まだ若く、働き盛りのオトが囁いた。
「ニュムラさん、遅いな…」
 それに答えてか、あるいは不安から口をついたか、彼と対照的にやわらかな身体のマイラが呟く。
「こんなに吹雪いてくるなんて…この時期に、変だわ」
 マイラはニュムラのいとこにあたり、彼女と同じく薬師でもあった。ニュムラがフィールドワークを得意とするように、マイラは調合が得意だ。
「…皆の衆……」
 かすれた声に続いて、ひゅうひゅうと荒い息。火のそばに置かれたベッドの上で、先の長老モーダンが声を上げていた。水を打ったように静まり返る集会所。
「……ニュムラは戻ってくる……じゃから…かはっ、かはっ…そう、気に病む、ことも、ない…」
 誰も答えるものはなかった。誰の目にも、老いたモーダンは永くない。閉鎖された環境の中で、彼らは巨大なひとつの家族なのだった。そして、モーダンの病はいつか誰もが罹るものなのだ。……呪いの病だ。この地に暮らすものが、決して逃れることのできない呪い。大地に刻まれ、永久凍土の下を流れる……
「…黄金の月が呼んでいる…♪」
 マイラが小さく口ずさむ。沈黙に耐えかねて、あるいは外の轟轟たる吹雪の音に対抗して。誰でも知っている歌だった。
「髑髏のように砕けかけ…♪」
 むかしむかし、月には悪魔が棲んでいた。この土地はどこまでも広がる草原で、雪が降ることはなかった。だから、毎晩悪魔はこの土地を眺めていた。
「まだかまだかと呼んでいる…♪」
 ある日、そこに一匹の虫がやってくる。彼は家をたて、水を引き、暮らし始めた。悪魔は月の上からそれを見ていた。
「黄金の月が泣いている…♪」
 やがて人が集まり、村ができ、子が生まれ……悪魔はそれをじっと見ていた。そしてまたある日、ついに悪魔が降りてくるのだ。悪魔は今まで見守ってやったお礼をよこせと言い、村の者たちを一人ずつさらっていく。二度と帰ってこられない、遠く遙かな月へ。
「骸のように真っ白な…♪」
 歌声が徐々に重なり、低く優しいハミングを生み出す。これは子守歌でもあり、警句でもある。おとぎ話の続きはこうだ。
「雲をかきわけ泣いている…♪」
 悪魔の理不尽に耐えかねた村人たちは、更に強力な存在に助けを求める。毒を以て毒を制するように、より邪悪な存在に願いをかけたのだ。それは願いを聞き届け、悪魔の目が二度と届かないようにこの土地を雲で覆った。
 雲は雪を降らせ、何もかもを絶無の白に染めてしまった。悪魔の細い腕は雲を貫くことができず、嘆きと怒りの風だけが吹き付けるようになったという。
「止まらないで…♪」
 そして、誰も住むことのできなくなった廃村からは呪いだけが溢れ出した。悪魔の嘆きと、邪神の愉悦だけがこの土地を覆った。
「月が落ちても……♪」
 だから、雪が止んで草木の芽吹く季節が近くなるたびに、彼らは不安げに身を寄せあう。悪魔が戻ってくるからだ。邪神の加護は病となり、そして悪魔の声が吹雪となってやってくる。
 迷信だ、と誰もが思っている。けれど同時に、悪魔も邪神も実在するのだと、心のどこかで信じていた。
 歌が止んで、再びその不安が広い部屋を覆ったとき──ドン!ドン!続けざまにドアを叩くすさまじい音が鳴り響いた。
「なんだ!?」
 真っ先に先頭に立ったのはオトだ。火かき棒を握りしめ、ドアに向かって叫ぶ。
「誰だよ!ニュムラさんか!?」
 野太い声が答える。
「わしだ!扉を蹴ってすまんが開けてくれ、手がふさがっとる!」
「オルドル!?待て、今開ける!」
 オトはドアに飛びついて鍵を開け、勢いよく開いた。激しい吹雪を背にした門番オルドルは素早く部屋に入ると雪を振り落とし、背負っていたものを床に横たえた。ざわつく人垣を押し分けて進み出たマイラが息をのむ。
「まあ……!生きてるの?」
 オルドルが唸る。
「うーむ、うむ。生きとる、はずだ。歩いて門の前まで来よってからに、そのまま倒れてしまいよった」
 何とも言えない空気が広がる。彼らの視線の先、ボロボロの痩身を血濡れたような赤い服に包んだ奇妙な女は微動だにしなかった。掌には真新しい傷があり、当然それは凍り付いていたが、その傷跡からは未だに血の雫が零れていた。まるで血そのものが生きているかのように、氷の下から滲み出てくるのだ。
 明らかにまともな存在ではない彼女を前に、誰もが息をのんで黙っていた。
 動揺からくるその沈黙を、マイラが手を叩いて破った。
「ほら!みんな、お湯を持ってきて!凍傷を調べるから、薬研と薬も!オルドル、ありがとう!」
 ふん、と気合を入れながら、マイラは困ったように笑った。
「それにしても、最近はお客さんの多いこと」

三章:表 月の呼び声

 東の丘(と呼ばれているだけで、何に対して東なのかは不明瞭だ)のコロニーは四つの丘に囲まれた盆地に造られており、その外部と比較すれば多少は風の影響が弱い。
 寒がりな生き物が身を寄せあうように寄り集まったいくつもの家がひとつのコロニーを形成するその奇妙な集合住宅は、いろいろな箇所で繋がり、また鍛冶場や厨房などはできるだけ中心近くに造られていた。
 そんなコロニーの端の一角にも、突然の慌ただしい気配は届いていた。
「騒がしいわね…ビルギル!なにがあったのか聞いてきてちょうだい!」
「僭越ながら、お嬢様。よそはよそ、うちはうちと申します」
 ビルギルと呼ばれた甲虫族の男は優美な長身で、老いの翳りを見せる顔立ちを紳士的な無表情で覆っていた。
「むしろ、お嬢様はここで堂々と構えておいでになった方がよろしい。貴女は富めるもの、求められて行動するものなのですから」
 やや的外れだが論理的で賢明な言葉に、お嬢様と呼ばれた少女は考え込んだ。芸術的な曲線を描いた長い触角がふりふりと揺れ、やがて結論を出す。
「そうね!確かに貴方の言う通りだわ、ビルギル!」
 ビルギルは黙って一礼し、自らの仕える主のために紅茶を淹れるべく机に向かった。
 はじめは他の部屋と同じように機能美など欠片もない質素な部屋だったが、今やここは……まるで、高貴な身分の者が住まう館の一室めいていた。調度品は適度に片付けられて持ち込んだものと入れ替えられ、床には赤い絨毯が──ビルギルがこっそりと無理を言って借り受けたもの──敷かれている。部屋の中でお湯を沸かす仕組みも、一週間ほどの思考錯誤と改築の末に出来たものだ。主にビルギルがこっそりと無理を言って通してもらったものだが、少女の欲求は留まるところを知らなかった。
 それでも、ビルギルは仕える。そのために自分が存在しているからだ。
 ひときわ強い風が吹き付け、窓枠がガタガタと音を立てた。椅子に座っている以外することのない部屋の隅から、ビルギルは背後の少女をちらりと見遣る。触角の先を指先で撫でながら、何か物思いにふける少女を。明日のことを考えているのだろうか?吹雪が止めば、外には出られるだろう。だが、ここにあるのは雪と風、それだけだ。
 ビルギルが故郷の匂いを懐かしいと思うことはない。彼にとっては主人の側こそが自分の居場所であり、無二の存在証明だからだ。明日のことなど、言ってしまえばどうでもいいのだ。
「冷えますね、お嬢様」
「ええ、本当に!でも、もう慣れましたわ!確かに寒いけど、うちにも雪が降ることくらいはあるものね」
「お嬢様がまだ小さいころ、どうしても屋根の上から滑り降りたいと言って聞かなかったことを思い出しますよ」
「…あ、あれは…だって、気になるじゃない…?」
 ビルギルは微笑み、紅茶のカップを差し出した。再び風が吹き、部屋に満ちる温かさをうらやむように窓が鳴る。
「……おや」
 ビルギルはふと顔を上げた。また外が騒がしい。少女はまだ気付いていないようだ──ビルギルは耳を澄ませる。
(……──たぞ…)
(箱…すぐに──)
「お嬢様」
 紅茶の匂いをいっぱいに吸い込んでいた少女が彼を見つめた。
「なに?言ってみなさい」
「ニュムラスク様が戻ったようですよ」

「……どうするの、ディム」
 帰ってくるなり、ニュムラは巨大な銀の籠を放り捨てて建物の中へ入っていってしまった。再び吹雪に閉ざされ、ジェンダールが呟く。四方の丘が風を遮り、寒さはいくらか和らいでいた。
「俺も考えているところだが」
 ディムロスは腕を組んだまま振り向く。
「カエデの身体が第一だ。あまり奴らを刺激しないように出ていくのがいいだろうな。突然殴り合いになるのは避けたい」
「…と言いますと」
「それを考えている。一番は発見してもらうことだが、生憎これは外から開かない」
「確かにね。病気のふりして出ていくとか?」
「俺はあまり演技が得意な方じゃない」
 ディムロスが真面目にそう答え、ジェンダールは思わず微笑んだ。
「笑ってる場合か」
「ごめんごめん、ごめんって。確かにそうだけど、僕たちそもそも傷だらけじゃん。演技の必要なんてあるかな」
 ディムロスは横たわるカエデを見、それから自分の首元に手を当てた。おぞましい存在の黒い手形が焼き付き、炭のように乾いてひび割れている。
「…次にあの女が出てきたら、その手で行ってみるか」
 そうだね、とジェンダールが頷いた。瞬間、
「──なんだ?」
 絶叫、そうとしか形容できないすさまじい音が吹雪をつんざき、全て生あるものの魂を震わせた。吹雪の寒ささえ忘れるほどに恐ろしい響きだった。
「今の──」
 二人は顔を見合わせ、次の瞬間ディムロスは籠から飛び出していた。ごうっと音を立てて雪が吹き込み、ジェンダールが慌ててカエデの身体を覆う。彼が閉じろと念じると、再び籠の中は静寂に満たされた。
「…なんだ、あれ」
 ジェンダールの視界は白と灰色だけで構成され、そこに魂の火だけが色をもっている。吹雪を蹴立てるディムロスの赤黒。カエデの明滅する橙色。そして──大きな扉の向こうから、巨大な赤い炎が漏れ出している。まるで魂そのもののように揺らめき、金切り声をあげる炎の舌が。ディムロスが扉に突っ込み、蹴り開けた。
 絶叫が轟く。

「ひ……きゃああ!」
 マイラが悲鳴を上げて床を転がり、その背後を巨大な血色の鎌がえぐり取った。岩盤を削り出した床を、まるでゼリーのように。
「マイラ!」
 まだ雪も落としていないニュムラの叫びをかき消すように金切り声が反響し、自らの意思を持っているかのように鎌がそちらに狙いを定めた。
「あ…危ねえ!」
 ニュムラを守るように進み出たオトの手には火かき棒があったが、それは眼前の死に比べればごくちっぽけで頼りない鉄屑に過ぎなかった。まさに火を見るよりも明らかだ──ニュムラがオトを抱えて横っ飛びにかわすと、大鎌が再び床に突き刺さった。
 ベッドに寝かされたその存在の、だらりと垂れた掌から、絶え間なく血が流れ出して鎌に注がれている。そのたびに刃は大きく鋭く重くなり、今や集会所の天井にさえ触れそうなほどだった。
 マイラが傷を確かめようとタオルを手に服を脱がせようとした途端だった──それは意識を失ったまま叫び、応えるように血の鎌が出現したのだ。いまだ彼女の意識は戻っていない。恐るべき防衛本能の発露だった。
 既に住民たちは奥の通路へ逃げ、入ってきたばかりのニュムラとマイラ、そしてオトだけが入り口側に取り残されていた。
 金切り声が再び発せられ、鎌が不満げに唸った。ずるり、刃が横倒しになる。ぎちぎちぎち、と引き絞られるように不快な音がした。
「い……いや…!」
 腰を抜かしたマイラが掠れた声を漏らす。それはただの武器、血によって造られた道具だったが、明確な殺意を持っていた。理不尽という言葉など知らないというように。振り抜けば容易く三つの命を刈り取ることができると刃が知っているかのように随喜し、そして。
 ごう、と風が吹いた。燃え滾るような殺意にぶつかるように雪が吹き込み、それに乗って弾丸のように飛び込んできた地虫がひとり、床を転がって黒い染みを作った。体液や汚れとは違う、病んだ炎のような陽炎が立ち昇る。間髪入れず、ディムロスは低姿勢のまま駆け出した。
 明確な殺意を持っているのは彼も同じだ。理由などなくとも眼前のものに対して殺意を持つことができる──それは畢竟、光の下ではなく闇の中で生きてきたことの証左でもあった。今にも薙ぎ払われようとしていた鎌がうねり、己が主人とディムロスの間に立ちはだかった。脅威の優先順位が書き変わったように。
 マイラが息をのむ。血の奔流は四本の剣となり、突然の闖入者を四方から襲った。地虫の身体が弾け飛ぶ。
「あ──」
 ディムロスは弾けた。だが飛び散りはしなかった──弾け飛んだかに見えたのは、彼の内側から押し広がった黒炎によるもので、嵐のように打ち振った右手が瞬く間に二本の剣を打ち払い、反動によって跳ねあがった身体の下を残る二本が通り過ぎていく。
「黒曜石…黒曜石だ…」
 鍛冶師見習いのオトが呟く。ディムロスの振るうナイフは夜闇のように黒く、厳然として鋭い。なにより火山性のものであるその鉱物はこの地ではひどく貴重なものだった。
 ディムロスが着地するより早く、四本の剣は再び鎌へ形を変えていた。無防備な落下中の身体を両断するべく、ぎちぎちと刃が唸る。

 超絶した感覚によって引き延ばされた主観時間の中で、ディムロスは冷静に状況判断した。瘴気によって肉体の限界を超えるこの業も、オズによって残された体内の瘴気を咄嗟に燃え上がらせ、強制的に使っているだけにすぎない。すぐにでも燃え尽き、即座に自分は動けなくなるだろう。
(どちらにせよ、やるだけだ)
 岩をも穿つ巨大な刃が、彼の心臓に狙いを定める。身体を強いて、瘴気の流れをコントロールする。あの場ではオズの影響が強すぎて、ただ獰猛に燃え上がるだけだった邪悪な炎を、僅かでも自分のものに。
「あぶな──」
 ごう!オトの叫びをかき消したのは風の音、ではなかった。飛び散った紅の血が円弧の軌跡を描き、それを掻い潜った赤黒の炎が流星のように尾を引く。足の裏に集中させた黒炎が爆ぜ、隕石めいた加速を彼に与えたのだった。
 しんと一瞬静まり返った部屋の中に、不満げな軋みが轟き、そして巨大な血刃が瓦解した。
 びちゃびちゃと鎌を構成していた血の雫が雨のように降り注ぎ、地虫の黒い背中に触れるたびに蒸発して焼けこげた匂いを漂わせる。黒曜石のナイフが転がり、続けてその身体がゆっくりと倒れた。赤い手のひらから伸びていた鎌の柄が、その根本で切断されていた。ディムロスの呼吸は荒く、全身から不浄な蒸気を上げていたが、生きていた。
「──………」
 唸るように、金属の爪でガラスを引っかくような声を上げると、強大な存在はまるで一瞬の悪夢に魘されただけというように静かに呼吸し、それきり静かになった。
 あとに残ったのは血みどろの部屋と瀕死の地虫が一匹、そして呆気にとられる三人。開け放たれた扉から吹き込んでくる雪は、ようやく少しずつ穏やかになり始めていた。

三章:裏 残り火

 曲がりくねった暗黒の都市の、その更なる深淵に、奇跡のように細い光の注ぐ空洞があった。潜るものを傷つける鋭い水晶の生えた横穴を抜け、罠のようにあちこちに溜まった瘴気を避けて、徘徊する自失した生物たちの目をかわして……時にはそれを狩る恐ろしい存在からも逃れ、それでも迷わずに正しい道を選ぶこと十三回。
 遙かな上方に空いた穴からこぼれでた細い細い太陽の光が、幾度も反射を繰り返し、輝く糸のように降り注ぐ。救いの手のように、あるいは永遠の闇を憐れむように伸ばされた指先のように。その光に触れられて、小さな墓石はぼんやりと浮かび上がるように見えるのだった。
 名は彫られていないが、磨き上げられて美しく、枯れることのない不思議な青い花が立向けられた墓だった。
 執行者ローハイドを除いて、その場所を訪れるものはない。誰からも恐怖と共に忘れ去られたラプト十六層のはずれに、ひっそりと彼の妻が葬られていた。

 ローハイドは瞬時の瞑目から醒め、指先の感覚に集中した。無数の遠隔クロスボウからの接続を断った彼は、その指に再び鉄糸の指輪を絡めている。伸びる鉄糸の先には奇妙な太い柄を持つナイフが結ばれており、見るからに危険だった。
 執行者ローハイドは爆発物とブービートラップのスペシャリストとしてラプトの安全を護る存在であり、決して民間人に危害は加えぬまま、どこにいても罪人を爆殺することができた。それもあの都市の、ラプトの暗黒と低い天井のせいなのだと人は思うだろう。逃げ場を奪うことの容易い、彼の独壇場なのだと。本当にそうだろうか?
 遠く青い空の下でも、彼の周囲には既に頑丈で狡猾な糸が張り巡らされている。たとえここが旧市街でなく、細い路地や無人の家屋が立ち並んでいなくとも、ほんの僅かな窪みや、あるいは風のひとつでも吹いていれば、彼にとっては充分なのだった。
「罠の数だけ仕掛ける場所はある」──彼はかつてそう豪語した。そして、そんな己を今でも憎んでいる。どれだけ権謀術策に長けていようとも、たった一人の愛する人を守れなかった。その事実を憎み、そしてその元凶となったビザルネルカブラをこそ燃え尽きるほどに憎んでいるのだった。
「……さあ…来い……来るがいい……!」

 ラピスは異変に気付いていた。眼下の屋根の群れを小爆発が覆い、そして見慣れぬ銀の虫が一人、ビザルネルカブラの前をゆく。ローハイドの罠はどうやら破られたようだった。
 彼女は大きく息を吸い、ぐるりと周囲を見渡した。はるか東、ルシスの方角からは日差しが登りゆき、彼女の背中を暖かく照らしている。北には黄金の穀倉地帯がなだらかに続き、ネルグの方角には不吉な雲がゆっくりと地平線を移動する。南を仰げば、大きな川が東から西へと横たわる。海を見た事がないな、とラピスは思った。
「そうね」
 ひとり頷く。
「あなたを殺して流したら私も流れてゆけるかしら」
 そして棘の矢を置き、巨大な弓を折りたたんだ。フレームの中心を捩じって外し、くるりと回しながら重ね合わせる。半月型のフレームはコンパクトな──それでも彼女の長身を鑑みれば充分に大きいと言えるだろう──二重の弧を描き、ラピスはそこに二本の矢をつがえた。
 彼女の足元には大小さまざま、形も違う矢がうず高く積まれて黒光りする山を作っていた。どれもラプトの鍛冶師が生んだ殺意の結晶だ。その中でも小ぶりな矢は螺旋を描いた矢じりと矢羽根を持ち、速度に特化した調整が施されている。鳥殺しの弓に比べれば小さくなったその弓は、すなわち殺人のための形態なのだった。ラピスは目を細め、無限に近い回数繰り返してきた動作を反復する。ただ弦を引き絞り、解き放つという行為そのものに、自身の存在の意義があるというように。

 前を走るアイシャが突然体勢を崩し、屋根の上を転がった。そのまま路地へ落下した彼女を、甲高い音と共に爆風が襲う。
 カブラーは躊躇せず、振り向きもせず、走った。一瞬だが、狙撃は見えた。矢の形が変わり──あるいは弓そのものも変わったか、恐ろしく速い矢が、立て続けに来る!
「──錬」
 瞬時の吸気。滑らかな構え。今や太陽の彼方にあると謳われる地虫たちの生まれた地に伝わる陽心流拳闘術の、基礎にして防御の構えの弐。速度を全く落とさない彼にめがけて、同時に二本の矢が突き立つ──
「…鳴…」
 鋭いターンを踏み、カブラーの身体は瞬時に加速した。本来は静止した状態から踏み込み蹴りを放つ技だが、陽心流は常に形を変える──日光が常に動き、影の形を変えるように。
 潜り抜けた先に、既に矢の影がある。なんたる反応速度、あるいは予見か。
「廻…」
 再び彼の身体が舞ったが、今度は加速しなかった。屋根と屋根の間を最小限の動きで飛び越えつつ、一回転。右上腕、左下腕が黒い矢を弾き返す。
「崩!」
 残った右下腕、左上腕を捩じりながら突き出す。矢が折れ飛ぶ。カブラーは小さく眉をひそめ、不意に減速した。
 眼前の家がひとつ、周囲の路地と共に吹き飛んだ。
「あーーーーーーーーーーッ!!!!もう!!!やって!くれるじゃ!ない!」
 銀の身体が飛び上がり、小爆発の軌跡を伴って着地した。粘性の血液が自らの熱に耐えかねて発火し、空気を巻き込んで爆ぜるのだ。
「ごめんねッ!」
 アイシャは自分が吹き飛ばした家に向かって謝罪を叫ぶと、きっと時計塔を見据えた。いつの間にか、その奇妙な威容は目と鼻の先だ。
「私、行くから!」
「おうともよ」
 もう一度矢が飛んできたが、アイシャは無造作にそれを掴んだ。掌が割け、こぼれた血液が燃え上がった。
「待ってなさいよッ!」
 言うが早いか、アイシャはその外壁に向かって思い切り跳んだ。途中で飛んできた矢の一本が頬をかすめたが、もはやアイシャは意に介することもなく古びた煉瓦の壁を垂直に駆け上がっていくのだった。



「さて…さて、のお」
 ゆったりとした歩みで旧市街の縁へ寄り、時計塔の前に造られた広場を臨むカブラー。噴水を作る計画などもあったが、興味の移り変わりが激しいライザールの住民たちにはその工事に割くだけの猶予を……時間にせよ、その他のものにせよ、見出すことができなかった。
 きらきらと輝くのはそんな噴水の幻影などではないだろう。張り渡され巡らされた死線の可視化めいた鉄糸の中心で、憎悪の瞳が彼を射た。
「わざわざこの中へわしが入っていく意味があるのか、甚だ疑問なんじゃがな」
「いいや」
 ローハイドは低く答えた。自らを抑えつけるような声音だった。
「お前は来る。来なければならん」
「わしはお前さんの名前も知らんのだがな」
 カブラーは言いつつ、その存在を思い出そうとした。ブライト・ラプト自警団──顔見知りは少なくないが、多くもない。そして、あまり顔を見たくない連中ばかりだった。いつ死んだかも知らないような者ばかりだ。まだ若いディムロスに、その生死を探らせたこともあったが。
「そうだろうとも、愚かなビザルネルカブラ。お前は自分が踏みつけていった者のことなど知らないのだ。気付くこともないのだ。そして……今や……その者に……」
 ローハイドは声を震わせ、糸を手繰った。重たげに張った糸の先には、
「貴様」
「知るがいい。光のもとで歩み続ける者は、己の足元さえも見えないものなのだとな」
 老いた盲目のマーヤは、口に噛まされたものが爆薬なのだと知らされているのかどうか、震える手を振っている。自分のことはいいというように掌をあらぬ方向へ向けて振り、鉄の糸にきつく縛られた両脚はもはやねじ曲がっていた。枯れた細い肉体からは血の一滴も零れはしない。
「わたしは執行者ローハイド」
 ローハイドは湖の底ほどに重くそう名乗り、帽子をかぶると、ステッキをくるりと回した。そしてマーヤに繋がった糸をステッキにかけ、地面へ突き立てる。
「スイッチは入れた。杖が倒れたとき、お前はまた友を喪うことになるぞ、ビザルネルカブラ」

四章:表 束の間


「逃れることはできません」
 わんわんと反響する声に打たれたようにディムロスは跳ね起きた。赤く、暗い、忌まわしい闇が周囲に満ちている。
 誰かがいる。闇の向こうでもそうとわかる姿形が大仰に手を広げ、真っ赤な口を開いた。
「元より誰もが逃れることなどできないのです。救済の手は常に求められている。だからこそ、私はそれを差し伸べ続ける」
 欺瞞だ。この存在が何を口にしようとも、その全てには欺瞞の嗤いが滲んでいる。それでも──低く穏やかな声は、月の光のように滑らかに……そして、さざ波のようにゆっくりと這い上がってくる。底無しの温かい沼のように、邪悪な声がぐるぐると反響する。
「拒むことはできません。死から逃れることの叶わないように、それから逃れようと欲するのならば、この救済を拒むことはできない。幸福だとは思いませんか?死か、救済か。選ぶ必要すらないのです。ただ生の結果として、純然たる結果として、それが存在している。私はそれを選べとは言いません。自らの意志で決断するということの、その苦しみを、私は知っています。私はあなたの苦しみを知っている。それに寄り添い、あなたがどちらへ往くのかを、ただ見せてほしいのです。もしもあなたが苦痛の死を以て終わるのならば、その痛みを私が引き受けましょう。もしもあなたが幸福の救済を選ぶのならば、その命は私が引き受けましょう。
「──ああ。なるほど。どちらも嫌だと言うのでしょう。生きていたいのだと。あなたはあなたの生に渇き、慟哭のうちにそれを全うしたいと願う。自分には未来があると……いつか、自身の手で自身を救うのだと、信じているのですね。私にはそれを止めることなどできません。選択するという行為の苦痛は有り余るものでしょう。……あなた自身を、その痛みをして、変革させてしまうほどに。あなたは選択のたびに、その痛みによって自らを歪めていく。生きている限り、生きていくと望むたびに、あなたの心は軋む。どんなに硬い宝石も、正しく力を加えれば砕け散るように。砕け散った心を、誰が拾い集めてくれますか?あなたが選んだ痛みを、誰が優しく覆い包んであげられますか?それすらも望まずに、ただ一人、自由という荒野を突き進もうと言うのですか?
「救済とは、死ではないのです。永遠の生そのものだ。生きていくと望むことさえ必要ない永遠。選択の余地さえない、死を超越した、究極の変革なのです。変わらなければならない。生を望み続けることはできません。自由の荒野に吹く風があなたを削り、風化させ、やがて走ることはおろか、進むことさえできなくなる。膝をつけば砂と崩れ、指はもはや石となって掴むこともできない。心臓は疲れ果て、痛みに耐えかねて、自らその動きを止めるでしょう。断末魔の瞬間に、あなたは周囲にも同じ姿の彫像が並んでいることをようやく理解する。
「そして朽ち果てた愚かな生者の残骸を踏みしだき、私は進んでいくでしょう。あとに続くのは、凡百の生者でも、無数の死者でもない。自ら選ぶという痛みを放棄し、私に選ばれた者たち。生と死から救済され、永遠を知った──」
 声が近づく。灼熱の闇、とこしえの冷気がゆらりと動く。誰かが耳のそばで囁く。
 
 あなたも、今なら、その列に加わることができますよ。

「黙れ!」
「きゃあ!!お化け!!」
 ディムロスは呆然とした自分の姿をその複眼の中に見出した。
「お前は…?」
 ゆっくりと記憶が戻ってくるのと同時に、粘ついた悪夢は急速に遠ざかり、その内容も曖昧になっていく。暖かい部屋、乾いて清潔なベッド、こちらを見つめる眼。
 腰を抜かした少女を支える長身の甲虫が、優雅に礼をした。
「お目覚めにならないかと思いました。こちらは……」
 少女がちらりと彼の顔を見遣る。そこにどんな意図があるのか、思い出したように激しい疲労を覚えたディムロスの頭で測り知ることはできなかった。
「さる高貴なお方で、名前を明かすことはどうかご容赦願いたい。今はフローライト様とお呼びいただけますと幸いです。私のことはビルギルと。……ディムロス様」
 自分の名前を知っているが、知り合いではない。ならばきっとジェンダールだろう。酷く頭が重かった。ショックから立ち直った少女が胸を張る。
「今だけ、フローラ様と呼ぶことも許してあげますわよ!」
 畳まれた優美な翅は、光が当たるたびにきらきらと輝く鱗粉に覆われている。ディムロスが見たこともない種族だった。少なくとも、ルシス・デインの光が届く場所では見た事がない。
 暖かい石造りの部屋に敷かれた真っ赤な絨毯は、夢に見るおぞましい血の赤とはまるで違う、高貴な炎のような赤だ。暖炉が壁に埋もれるように据え付けられ、熱を帯びた鉱石が積み重なって赤熱した光を発している。薪は貴重品なのだ。
「…俺はディムロス。知っているようだが」
 ディムロスは少し慎重に言葉を選んだ──暗黒街の実力者や、話しづらい有象無象の善人たちとも違う、力ではなく身分によって高貴であるものと話すのは初めてだったからだ。
 フローライトは目をきらきら輝かせて、彼が自分の名を呼ぶのを待っている。そんな彼女の後ろで、ビルギルは申し訳なさそうに目配せした。なんとなく、彼は察する。
「フローライト──」
 ほんの一瞬、その一瞬彼女の瞳に浮かんだ落胆をディムロスは見逃さなかった。表情の観察は相手の嘘を見破るもっとも効果的な方法であり、彼に染みついた技術なのだ。
「──フローラ、様。お目にかかれて光栄……だ。俺はディムロス・トーランド。その……この部屋はあんたのものか。ありがとう」
 フローライトは自信に満ちて胸を張った。世界が自分の思い通りに回っていると信じているかのように。
「ええ、そうですわ!ディムロス、貴方は……薬師の命を救ったそうじゃない。つまり、このコロニーを救ったと言っても過言ではありません!……わたくしは滞在者ですけれど、でも、いいえ、だからこそ、わたくしは貴方にお礼が言いたくて──ありがとう、旅のお方」
 フローライトはちょこんと頭を下げた。
 その後ろで扉が開き、ふわふわした白い毛の塊が──ニュムラスクが入ってくる。続いて、細い金の身体。
「ディム!起きたの!?触角の数──」
「二本だ」
「あらまあ、よかった!どこか痛むところはない、地虫さん?」
「ちょ、ちょっと……」
 自分の見せ場を遮られたフローライトが慌ててビルギルを見上げた。乾いた咳払いでビルギルが注目を集める。
「貴方が来てくださらなければ、大切な薬師を二人喪うところでした。私からも、皆さんに代わってお礼を申し上げたい」
 ニュムラも微笑み、ディムロスに向かって手を合わせた。異郷の風習にジェンダールが興味の目を向ける。
「そう、そう。本当にありがとう、ディムロスさん」
 当のディムロスは──身体を固くし、ベッドの上でじっと彼らを見つめ返していた。
「んふっ」
 ジェンダールが思わず吹き出す。
「ふ、ふふっ……ディムはあんまり、人に感謝されるのに慣れてないんだよ」
「うるさいぞ」
 憮然としたディムロスは、そのままずるりとベッドから下りた。自分の身体を確かめるようにゆっくりと脚を伸ばし、手を握って、開く。枕元に置かれていたナイフをホルダーにしまい、望遠ガラスを軽く光に透かす。彼の中で警戒の度合いがやや下がったことをジェンダールは見て取った。
「丈夫なのねえ。そんな傷で動けるなんて」
 ニュムラは柔らかくそう言うと、お湯をしぼったタオルを差し出した。
「それじゃ、こっちはもう大丈夫かしら?私はマイラの手伝いをしてくるから、ジェンダールくんに任せるわ」
「はーい」
 頷いてニュムラを見送るジェンダールの肩をディムロスが掴む。おそろしい握力を感じたが、ジェンダールは平気な風を装った。
「…カエデも寝かせてもらってる。あんまり具合は良くないみたいだけど、ひとまず大丈夫だってさ」
「そうか」
「お二人は……いえ、お三方は、外からいらっしゃったそうですが」
 ビルギルが尋ねた。
「不肖ながら、あのようなものは私どもの国でも見たことがない。あれは……あなた方の技術なのですか。だとしたら、何故こんな場所へ?」
「籠?あれは……えーっと…なんていうか」
「俺たちにも分からない」
 言い淀むジェンダールをディムロスが遮った。無感情の、はがねのような声色で。
「ここに来たのはちょっとした手違いみたいなものだ。すぐに帰る方法を見つける」
 彼がわずかに敵意をにじませると、応えるように首につけられた黒い痣が熱を持った。ジェンダールの超感覚にも侵蝕してくるような不吉な温度だ。
 ディムロスはこの二人を信用していない──フローライトとビルギルという二人は、この雪原よりもずっと北の国から来たという観光客だった。こんな場所に、観光だなんて。けれど、特にフローライトの方は無邪気にそれを信じている。ジェンダールもそのことを感じていた。この二人には何かがある。だが……
「まあ、本当ですの!?それじゃ、しばらくは一緒にいられますわね!わたくし、外の話が聞きたいですわ!」
 少女がそうした無邪気さの片鱗をのぞかせるたびに、ビルギルは苦悩を滲ませる。それが決して悪意から来るものでないことは理解できた。
(まあ、ディムの警戒は習性みたいなものだし……)
 ジェンダールはつとめて笑顔を保ち、ディムロスの服の裾を引っ張った。
「もちろん!晴れるまで、いくらでも話してあげるよ。フローラの話も聞きたいな」
 ディムロスが小さく身を引く。こと知らない者とのコミュニケーションに関しては出る幕がないことを知っているからだ。
「そういえば」
 だから、彼はいつもまずジェンダールに話しかける。
「あの赤い奴はどうした?放りだしたのか」
「ああ、あの人なら──」
 その時廊下から、がりがりという奇妙な音が近づいてくるのが聞こえた。慌てた誰かの声が続く。
「こら!まだ動いちゃいけませんって……ダメでしょう!こら!」
 音は逡巡するように止まったが、再びがりがりと近づいてくる。
「いい加減にしなさい!こら!」
 がりがりがり。音が止まった。ジェンダールがそっと扉を開くと、そこに赤い影が立っていた。
 おそろしい長身痩躯、布なのかも判然としない擦り切れて返り血にまみれたボロボロの服。誰かによってつけられた傷ではない、泉のように内側から裂けた傷が無数に残った腕。
 がりがりという音は、彼女が長い足の片方を引きずる音のようだった。血のスパイクが細かく逆立ち、石の床を細かく削っていたのだ。ばたばたとマイラが走ってくる。
「もう!……あ!起きたんですね。よかった」
 ジェンダールが囁く。
「カーマイン、さん。あんまり喋るのが得意じゃないみたい……悪気があってやったんじゃない、らしいよ」
 細い眼をぎゅっと吊り上げて彼女は笑っていた──笑っているのだろうか?この存在に自分達と同じ感情があるのか、ディムロスには信じられなかった。生物としてのステージが違う、と感じた。他の連中は、そう感じないのだろうか?
 マイラはその腕を引っ張って部屋に連れ帰ろうとしているが、彼女の身体はぴくりとも動かない。もしもその気になればたちまちここにいる全員が死ぬ、ということが分からないのだろうか?それとも──
「…………」
 かすれた声は確かにあの絶叫の主のようだったが、何を言ったかは分からなかった。ディムロスは久しく感じたことのない背筋の震えを覚える──恐れを。オズはこちらを下等なものとみなし、本気の殺意を向けてくることはなかった。だから逃げ切れたのだろう。
 だが、この存在は違った。常に凍るような欲望を周囲に発散し、それに応えるものを探している。この場所でそれにもっとも近いものがディムロスなのだ。
(どれだけやれる?五秒ももてば良い方か)
 凝視を睨み返すだけで精一杯だ。実際にはほんの数秒だったが、死に瀕した時のように引き延ばされた彼の主観では数分にも感じられた。カーマインが手を伸ばした。ディムロスは動けない。
「……」
 その生物の感情が小さく伝わった。落胆、失望、そして……期待。彼女が心から望むものと比べればごく僅かな、寄り道のような感情だ。凍り付いた湖のようにささくれだった血の膜がその指先から広がり、ディムロスは己の内側で自分の血液が沸騰するような感覚を覚えた。
 カーマインが指を離すと、急速にその感覚は失われる。ディムロスは小さくよろめき、触れられた箇所に手を当てた。何もない、自分の身体だ。
 ふっと重圧が弱まり、そしてカーマインはずるずると引きずられ始めた。がりがりがりがり。マイラが必死にその身体を引っ張る。ニュムラに比べて非力な彼女だが、それ以上にカーマインの肉体はひどく軽いのだった。
 彼女は今度こそ笑った──おそらくディムロスにしか理解できない一瞬、およそ笑顔というものが持つべきどんな感情にもそぐわない、狂った笑顔だった。囁きが、彼にだけ聞こえる。

(まだ遠い)

(もっと高く)

 ディムロスは──自分でも驚くことに──廊下を曲がろうとする彼女に向かって、小さく礼をした。それが自分にできる唯一のことだというように。ジェンダールが後ろから笑いかけた。
「ね。変な人でしょ」
「……ああ」
 肯定しながら、彼は今の経験を反復した。心臓の音を強く意識する。自分が生きていることが少しだけ不思議だった。
「カエデはどこだ。様子を見ておく」
「はいはい、こっちね。フローラ、ビルギルさん、またあとで」

「なんだか忙しない人たちですわね……庶民というのはそういうものなのかしら。ねえ、ビルギル?」
 珍しく、彼は返事をしなかった。じっと扉の方を見つめ、両手に力を込めて緊張している。フローライトはその腕をつついた。
「ね、ビルギル?」
「──はい、なんでしょう、お嬢様」
「?庶民は忙しいものなのかしら、と聞いたのよ」
 ビルギルは己を恥じた──無論、表情には出さなかったが。
(お嬢様を守護する──それが私の至上命題。しかし、それがためにお嬢様の問いを無碍にしてしまうなど)
 彼は全身の緊張を素早くほぐし、自然体に戻った。カーマインという存在も、そして目覚めたディムロスという男も、彼の琴線に触れるものだった。暴力の匂いを、彼は嗅ぎ分けるのだ。自分がかつてそちら側にいたという事実が、彼をそうさせる。
「余裕というのは、心によるものです。お嬢様。すなわち、優雅であるということは心に余裕を持つということ。余裕があれば、他のものはすべからくして忙しなく見えるものなのです」
「なるほど…」
 フローライトはひとしきり頷き、にっこりと笑った。
「優雅さというのも、教えてあげなくてはいけないわね!お友達ですもの!」
 ビルギルは己の微笑みが苦いものになっていないか心配だった──あれだけの悲劇を越えてなお、この少女はあまりにも純粋すぎる。それが両親の願いであったのだから喜ぶべきなのだろうが、それでも──
(……ああ、旦那様。お嬢様にどうか、天のお慈悲がありますよう)
 彼の悲哀を知ってか知らずか、あんなに強かった風はもうすっかり吹き止んでいた。

四章:裏 霞の中へ


 アイシャが生まれた時、灰色のその身体には奇妙で複雑な赤い紋様が無数に刻まれていた。それが一体なんであるのか、彼女の両親が告げたのは二十年と少し経った頃である。
 アイシャは毎日のように血を吐き、五歩も歩けば気を失い、日差しを受けると肌が焼けた。そのたび、誰よりも粘ついた血液が彼女を生かした。想像も及ばない苦痛──だが、アイシャはどんな弱音を吐くこともなく生き、育ち、灰の民に与えられた長寿をその苦痛と共に過ごすことさえ厭わなかったという。
「それは呪いなのだ、アイシャ」
 父の言葉をも、アイシャはただ受け容れた。
「そっか。……他の人には、ないよね」
「ああ」
 母がその言葉を受け継いだ。
「百年に一度、生まれてくる子に呪いがかかる。時を経るほど呪いは強まり……それでも、お前を百年生かすの。誰もが苦痛に耐えられず、命を手放してきた」
 アイシャは小さく咳き込み、手についた泥のような血の雫をごしごしと拭いた。
「百年生きれば呪いは解けるってこと?」
「いいや」
 父は重く言った。
「百年たてば次の呪いの子が生まれ、お前は死ぬ」
「……じゃあ、今すぐ私が死んだら?」
 母は涙をたたえている。
「呪いは強まるけれど、次の百年は現れない。そうして呪いはどんどん強くなるの。わたしたちの遠い遠いご先祖様は、その呪いと引き換えに長寿を願ったの」
 アイシャはしばらく考えて、それから尋ねた。
「他の方法はないの?私が呪いの全部を引き受けて、どこか誰も知らないところで生きていくのはダメなの?」

 愚かな問いだったと、今ならわかる。いいや、誰もがずっと愚かなままだった。両親は答えなかった──答えられなかった。娘が一体何を考えているのか分からなかったのだ。灰の民は自身の長寿を直感で理解している。優れた感覚神経を持ち、痛みを感じる能力も高い。赤い竜の呪いを受けて、二十年も生きていること自体が奇跡のようなものなのだ。娘の痛みを、とうに二人は理解できなかった。

「……アイシャよ。呪いは贖罪、我らの罪そのものだ」
 長老は半ば石と同化したような姿でそう言った。彼がどれだけの時を生きてきたのか誰も知らない。彼の前に立つと、アイシャの全身に刻まれた呪いは熱く疼くのだった。
「だが……我らは……永い間、本当に永い間、そのことを忘れていたのかもしれんな」
 アイシャはぺっと血を吐いた。焼ける臓器を、その血が癒す。永劫のサイクル。
「もしもそれが償いだと言うなら、幼子ひとりに負わせた我らの罪をこそ償うべきなのかもしれん」
「どういうこと?」
 アイシャはまた少し成長していた。もう、誰も彼女を疑わなかった。呪いを背負い、それでも彼女は立ち上がるだろうと。彼女なら、呪いの全てを消費してしまえるのかもしれないと。
「……私は……この域になってようやく……分かって…きた」
 長老の眼が閉じゆく。並んだ灰色の虫たちの前で、もっとも古い彼が眠りにつこうとしている。その身体は石となり、根となり、川となる。
「彼らは……生きておる………今なら……わかる……アイシャ」
「はい」
 燃える血の涙が眼を焦がす。激痛と共に暗闇が訪れ、またすぐに再生する。
「……探せ。イアの民を探せ。彼らは知っている。もっとも旧い呪いの、その在処を知っている」
 はっきりと長老はそう言った。枯れ果てた喉から最後に絞り出した生きた言葉だった。

 そしてアイシャは故郷を発ち、若きシクターンを伴って探索行を始めた。
 永い旅になるだろうとシクターンは思ったが、実際にはそこまでの時を要すことはなかった。今や自然と同化し、誰にも見つけられないと思われたイアの民の、その生き残りは存在していたのだ。
 その痕跡をたどって二人ははるばるあちこちを渡り歩き、そして辿り着いた──灯火の街ライザールに。まるで導かれ、引き合わされたように。

 シャグナイアとアイシャの間でどんな言葉が交わされ何が行われたのか、誰も知らない。
 だが、その日を境にアイシャは呪いを克服し、信じられないくらいに明るい一人のセベクとしてあちこちを駆け回り始めた。シクターンもライザールに住み着き、呪いの影は呆気なく消えてしまったのだった。

 ラプトの真上に広がる荒れ地には、およそ生あるものの気配がない。巨大な岩が野放図に転がり、泥とも砂利ともつかない湿った地面には呪わしい灌木がうずくまるように生えているばかり。岩のせいで視界も悪く、似たような地形が続くために迷いやすかった。ルシスの貴族が通った銀の道も、今やそれがどこにあったのかさえ分からない。
 何かがこの地に住み着き、毎夜毎夜岩を並べ替えているのだという伝説を信じざるを得なかった。。見えざる巨大な手がボードゲームをしているかのように、荒野はたえずその姿を変えていた。
「こんなことって……あり得るの?」
 真っ直ぐに進んできたにも関わらず同じ岩が三度目に現れて道を塞いだ時、アオイは思わずそう呟いていた。この岩を乗り越えて真っ直ぐ泥の道を進み、茂みの中に小さく実った赤い果実を横目に………
「シャグナイア、これって…」
「……分からない。シャグナイアは……雨の気配を感じる。岩陰に入りたい」
 頼りない同行者の言に従い、アオイはその岩の陰に乾いた石を敷いて座った。シャグナイアも身体を屈めてそれにならう。
「シャグナイアは濡れたくない。あまり……好きではない」
 シャグナイアがぽつんとそう呟くと、それに答えるようにぽつぽつと雨が降り始めた。ぼんやりと白い靄があたりを覆い、囁きのような雨音が反響して聴覚を支配する。
「雨、嫌いなの?」
 その沈黙があまり良くないものだと直感的に思ったアオイがそう尋ねた。シャグナイアはきらきら輝く眼をあちこちに向けていたが、少ししてから答えた。
「嫌い……ではない。雨は綺麗。でも、濡れるのは……嫌。嫌、だと思う」
 理由はわからないが、濡れたくないらしい──彼女の身体はまるでガラス細工のようで、濡れたらきっと綺麗だろうなとアオイは思った。
「道、わからない?」
「…わからない。シャグナイアの知っている道ではない。ここは……何か、違う。シャグナイアは迷っていないから」
 要領を得ない返答だった。
「どっちにしても、雨が止むまでは動けそうにないかな」
 シャグナイアは頷くと、そのままついと俯いた。
「シャグナイア?」
 その身体にぼんやりと薄緑の光が走っていた。薄暗がりに雨を映して、蛍光色の緑色。不思議な光に包まれながら、シャグナイアが囁いた。
「少し、休む……シャグナイアは、疲れた、から……」
 そのまま彼女は動きを止めた。アオイが目の前で手を振っても、何の反応も示さない。
「……寝ちゃった、ってことかな…?」
 その眼は確かに開いているように見えたが、どうやらそのようだった。不思議な同行者を横目に、アオイはじっと雨の幕を見つめる。

 そのうち、彼女にもうっすらと眠気が訪れ始めた。単調で、永遠に続くような雨の音。湿度からくる、ぼんやりとした息苦しさ。呼吸が自然と深まり、だんだん頭が落ちていく。
 目指すルシスの都はまだずっと遠くだ。荒野を抜けて、ガラスの森を抜けて、谷をひとつ越えて、そうしたらようやくあの白い城壁に辿り着くのだ。自分が今どこにいるのかも分からないのに、遙かなその地を目指しているということの無謀さを、改めてアオイは実感した。水先案内人はあまり話が通じないし、雨に濡れることを嫌がる。
「そうだ……」
 自分は濡れても平気だ。少しだけ、あたりを見て回るのはどうだろう。永遠に続く迷い道なら、少し離れても……大丈夫だろう。ぼんやりとした眠気の中で、アオイはそう考えた。
 そんなアオイの眼前を、何か小さく光るものが横切った。地面の上を素早く、きらっと光るもの。滑るように通り過ぎ、先の方へ消える。
「…?」
 思わずアオイは立ち上がり、雨の中に身体を乗り出した。雨に煙る泥と砂利の道のその向こうに、またきらっと何かが光った。生き物だろうか?
「なんだろう…?」
 そのまま、彼女はふらふらと誘われるように雨の中へ踏み出していった。
 さあさあと続く雨の檻がその足跡をしめやかに消し去り、たなびく霧の渦がその背中をあっという間に隠してしまうのだった。

五章:表 闇のきざし


「今、なんて?」
 ジェンダールは思わずそう訊き返した。マイラはそれに答えず、ベッドの上で眠っている少女を見つめ、申し訳なさそうに繰り返した。
「私……私たちで、この子を治療してあげることは……できない、と思うの」
 カエデの呼吸は静かで、右目に巻かれた眼帯の下から不可視の熱がじわじわと滲んでいる。もちろんそれはジェンダールにのみ知覚できる情報ではあったが、マイラもまた不穏な何かを感じずにはいられないのだろうか。組んだ腕を落ち着きなく組み換え、時折窓のほうをちらりと見る。雪は止み、外は深く澄んだ暗闇が支配していた。
「これは……なんと言うか、ただの病気じゃない。ううん、きっと病気じゃないのね。もちろん怪我もひどいけど、何か……もっと、悪いものが…」
 マイラは言い渋る。しかしジェンダールにはそれが何なのか、理解できている。
「──うん、そうだね」
 そう言うと、ジェンダールはつとめて明るくたずねた。
「…そのうえで、僕たちに何かできることはある?少しでも、カエデの痛みを和らげたい」
 ディムロスはこの集落を見て回ると言ってどこかへ行ってしまった。彼は病人の看護に向くタイプではないし、そもそも他人に興味がないのだ。
 出会ったばかりのときはそれが更に顕著だったが、それを理解して身を引くことができるだけかなりの成長と言えるだろうか。
(……でも、すると…ディムはどうして平気なんだろう)
 ラプトの暗黒街は少なからず瘴気が漂う。そこで過ごしてきたからだろうか。それとも、地虫という種族の特性故だろうか?
「今は……こうして火のそばで、身体を拭いてあげたりするくらいしか。だけど、目を覚まさないと、水も飲ませてあげられないわ。……あの人なら…」
「あの人?」
 マイラはもう一度言葉を詰まらせ、窓の外を見た。
「他にも薬師がいるの?」
「…いえ。…あのね、このあたりにはあと二つ、コロニーがあるの。ずーっと西の方、尖った山のそばに一つ、ほとんど外と関わらない灰色の村。それから…ここよりもっと北に、永遠に凍ったままの湖があるの。そのほとりにも一つ。一番大きくて、白い石の建物がある村……そこにはね、奇跡を起こせる人がいるの」

「奇跡だと?」
 そうね、とニュムラは頷いた。堆積物のようなコロニーを最高層から見下ろすと、さながら暗黒の海に浮いた不格好な船に乗っているかのようだ。凍てついた風が吹き下りてくる空の向こうには、金色の月が昇っているのだろうか。
「私たちは大地から薬を採ってきて、できうる限りの治療をする。当然……救えないこともある。だけど、それは自然の掟だもの。奇跡なんかじゃない、対価も代償もない。その人がどれだけ頑張れるかにかかっているわ」
 ニュムラは言葉を切ると、ディムロスの表情を伺った。彼はいつものように疑り深く腕を組み、水底めいた暗闇を見つめている。この異邦の地虫族は、いたくニュムラの興味を引いていた──全てに無関心なようでいて、常に何かを追い求めている、そんな不思議な二面性を感じ取っていた。
「…それで?」
 ディムロスが促すと、ニュムラは慌てて続けた。
「でも、司祭様は──あ、司祭と言ってもなにか特別な信仰があるわけじゃないの。強いて言うなら、この空と大地かしら。…そのひとは奇跡を起こせるのよ。魔法の力で、どんな病気も治してしまう。本当はモーダン爺も連れていけたらよかったのだけど、あの身体じゃもう……そんなに遠くまでは行けないわ」
 ディムロスはいくつかの言葉に小さく反応していた。「司祭」、「信仰」。「奇跡」……「魔法の力」。とりもなおさず、嫌な予感と結びつく単語の羅列だ。彼はそれを、頭の中でかたっぱしから否定していく。
(そもそも、あの暗黒聖堂からは遙かに北。彼の勢力が及んでいるとは考えにくい──オズはまだ自分の力を試しているような雰囲気だった。勢力と呼べるものも死人の群れと聖堂の噂、それだけだった)
(そして辺境の地に土着の信仰とはよくあるものだ。ラプトの深層でさえ、独自の宗教めいた価値観が生まれていたのを見たことがある……)
 奇跡と魔法──それはおそらく異術によるもの。魂を対価として、不可能を行使する業──それならば納得がいく。この場所にもルシスの光は届き、そしてそれに強く感応する者がいた。それこそが「司祭様」であり、「魔法の力」によって「奇跡」を行使することで、ある一定の「信仰」を集めているに違いない。
(その場合、気になるのは代償か。ジェンダールは色を喪った──その司祭とやらもなにがしかの対価を支払っているに違いない)
 符号するように、彼はもう一つの違和感を感じていた。
(この村は……妙に、人気がない。確かに大勢が住んでいるのは分かるが、姿を見ない──よそ者を避けているのか?何故、この女ばかりが表に立つ?閉鎖された空間に、指導者はいないのか?)
 だが、目の前の女から敵意は感じられなかった。騙し合いに探り合い、闇討ちに脅迫、どれも彼には慣れたものだ。だからこそ、ニュムラの饒舌さが安堵によるものだと言うことはなんとなく分かる。なにがしかの危機を脱した者は、一時的に喋りすぎるほど饒舌になるものだ。それは情報を引き出すテクニックでもあったが──
(何故だ?)
 彼を満たすのは単なる疑問でもあり、拭いきれない警戒感でもあった。夜闇の中に幻灯を見るような、好奇心と猜疑心の間に揺れる。だが、今はまだ……分からない。この状況で、警戒だけを前面に出すのは得策ではない。
「治療とやらは無条件で受けられるのか」
 ニュムラはまだ話し続けていたが、ディムロスは構わずにそう尋ねた。元より、自分の思考に没頭していた彼には聞こえていなかったが。
「三日は歩き続けなきゃいけないし──え?」
「奇跡の力に、対価はあるのかと聞いたんだ」
「ええ……そうね。もちろん、お礼の品を納めたりはしたけれど、何か特別に必要なものはなかったわ──もう二年前になるけど、確かにそうだった。マイラがひどい怪我をして、傷口がひどく膿んでしまって。でも、傷跡さえ残らなかったの!ドーマ様は本当に奇跡を起こせるんだって、私たち、心から思ったわ」

「雪の下に尖った氷の塊があるのに気づかなくて、ここを…」
 マイラはひょいと脇腹を露出し、ついと指でなぞった。
「ばっくり。血も止まらないし、化膿し始めて。でもほら、何にも残っていないわ」
「それは…すごいね」
 ジェンダールはなんとかそれだけ口にした。
(異術──それも、かなり高度な。だとしたら、どれほどの代償を払って……)
「ドーマ様ならきっと、この子も救えるわ。ううん、あなたたち皆の傷だって…それと、あの紅いひとだって」
 ドーマ様。ジェンダールは脳内でその名を反芻した。当然だが、聞き覚えはない。
「…僕たちでも、そこまで行けるのかな?それとも、雪解けを待ったほうがいいのかな」
 その時マイラの瞳によぎった感情を、あるいはディムロスなら読み取れただろうか。灰色の視界に魂の色だけを見るジェンダールには、ただその影が揺らいだようにしか見えなかった。
「ええ。きっと。きっと行けるわ、私たちが案内してあげるもの」
 マイラの言葉に、ジェンダールはほっと息をついた。
(不安はいくらでもある。けど、少しは良い方向になった…かなあ)
「…ディムにも話してくる。ありがとう、マイラさん」
 マイラは黙って微笑み、彼の背中を見送った。

 扉が閉まると、小さな部屋の中は唐突にその薄暗さを増したかのように思える。マイラは目を伏せ、懊悩に唇を結んだまま、カエデの額に手を当てた。カエデは微かに身動ぎしたが、意識に変化はなかった。
 マイラが小さく、本当に消え入りそうな声で囁いた。
「……ごめんなさい……ごめん……なさい…」

 小さな主の小さな寝息を聞きながら、彼は暗闇の中でじっと虚空を見つめていた。
「春が来たら、か」
 皮肉なものだ。この地に春は来ない──だが、仮にそれが訪れたとして、自分達には行く場所などないのだ。ならば、永遠に雪と氷に閉ざされたこの土地こそが相応しい。そう思えてしまうのも仕方のないことだった。
「…お嬢様…」
「…ん…うん…」
 彼の呟きに答えるようにフローライトが寝返りを打ち、ビルギルを驚かせた。
 よく眠っている。毎晩のように、明日に希望を持ったまま、幸福な夢を見ているのだろう。それを知っているからこそ、彼の苦悩に終わりは来ない。さながら彼自身が永遠の冬であるかのように、少女が抱く目映いばかりの温かい心に照らされて。
「……必ずや、もう一度。せめてお嬢様だけでも、太陽のもとで生きていただかなくては」
 そうだ、ビルギル。必ず手段はある。今は亡き主人と奥様に誓ったではないか。状況は好転しつつある──来訪者はその兆し。自分はこの呪われた大地を切り拓き、何よりも遠くへ、この哀れで幼気な少女を逃がしてやらなければならないのだ。
 彼は机に向かい、ごく僅かに絞った灯りにいくつもの資料を広げると、ペンをとった。無数のキーワードと人物像が結び付けられた紙を重ね、深く息をついて集中する。りん、と小さく鈴のような音がした。
「……これも、お嬢様のため」
 肌身離さず持ち歩く分厚い懐中時計をゆっくりとポケットから引きずり出し、文字盤の裏側を開く。ぱちんと小気味いい音がして、色あせた写真が彼に微笑みかけた。それは在りし日の記憶であり、同時に二度と還らぬ思い出の残滓。それと同時に、薄い布に包まれた何かの破片が転がり出た。
「……」
 ビルギルは慎重にその布を解いていく。その鋭い視線に呼応するように、露わになった破片は清浄な光を放つ。大理石とも水晶ともつかない、白く滑らかな何かの破片──
 それが真実なんであるのか、彼は知らない。だが、これは遺されたものであり、そして彼の意思に呼応するのだった。ならば、それで充分なのだ。
 ちりちりと胸の奥を焦がすような感覚と共に、彼の知覚は拡大する。
 彼の知る街と比べればごく小さなこのコロニーで行われている全ての会話の内容を、同時に把握することなど容易かった。彼が望むなら、その時間さえ遡ることができるのだ。
「……司祭ドーマ……やはり…この名が出るのは三度目だ」
 夢うつつのトランス状態のまま、彼はペンを走らせて発言者とその内容を書き留めていく。それを繰り返し、網の目のようなプロファイリングを完成させていく。同時に、彼の敵の気配を探る。最後に出会ってから、もう随分と長くになる──今度こそ振り切れた、そう確信することはできずにいた。雑念を払い、集中。
「……ディムロス・トーランド……ニュムラスク……ジェンダール君。彼からも、何かを感じる……カエデ。眠り続けている……カーマイン」
 そこで一度彼は接続を切った。あれは危険な存在だ。こうして感覚の手を伸ばす時でさえ、注意深く彼女を避ける必要があった。意識することさえ躊躇われる何かがあった。
「……利用することができれば良いのだが」
 それは傲慢か、あるいは祈りに近いのか。
 再び、彼は更けていく夜のように深い世界の裏側へと意識を伸ばしていった。

五章:裏 清算


 カブラーの声は聞こえていた。動くな、そのままでいろと言っている。それでも、老いたる盲目のマーヤは必死に這いずるのを止めようとしなかった。
(あんたが言うことは、絶対にあんたのためにはならないからねえ──)
 その口に噛まされている太い筒の中には爆薬が詰まっており、彼女を攫った男が望めば、すぐにでもその存在を消し去ってしまえることは明白だった。
(ああ、どんな顔をしてるんだろうね。あの爺さんが私のために酷い顔をしてたら──さぞかし、スカっとするだろうね)
 
 ラプト暗黒街に生まれ落ちてからというもの、ろくなことはなかった。貧しい生まれであることは勿論──いや、この街の住民たちはみな貧しく、富めるといえばそれは暴力によってのみであるのが当然だったが──、早くに父親を亡くしたその一家はラプトの中でも底辺中の底辺、もっとも力なき者であることは疑う余地もなかった。
 あるいは一層の生まれであったなら、ある程度はまともな商売にありつけたのだろうか。四層の端で泥水を啜るような生活の末に母も命を落とし、マーヤ自身も徐々に視力を失っていった。
 そのころ、よく光の夢を見た。明るい外の世界で、幸せに暮らす夢──だが現実には、彼女は上へ昇る方法も、外で暮らす方法も思いつかずに這いつくばっていた。死ぬ勇気も、生きる希望もない──そうした自失の果てに暗闇に消えていく者のどれだけ多いことか。

 通りがかった二人のセベクが彼女を拾ったのは、まさに最後の光が失われようとする時だった。
「おい……わざわざラプトに来てまで人助けか、カブラー」
 呆れたようにそう言いつつ、ヴォルドールは腕を組んで彼を見ていた。ビザルネルカブラの頑固さは誰もが認めるところだったからだ。
「壁の向こうで死んでいるならともかく、目の前でとなれば無視はできない」
 若かりしカブラーはそう言ってマーヤの手を引き、その日の探索を丸ごと切り上げてライザールへ戻った。ヴォルドールは不満げだったが、彼女のために部屋を探してきてくれた。
 初めて浴びる陽の光の眩しさを理解することはできなかったけれど、身体中に染み込むような温かさにマーヤは震えた。
 消えゆく最後の視界に映ったビザルネルカブラの満足げな表情は、その後ずっと瞼の裏に焼き付いて消えることはなかった。

 彼は確かにまっとうな者ではないのだろう。悪いこともしただろうし、恨みを買って当然なのかもしれない。だが、暗黒の縁に消えようとしていたか弱い存在を一人救ったという事実を消せるものではない。少なくとも彼女は、彼のおかげで永らえた命で彼の邪魔をしたくなかった。
 マーヤが必死に這いずるたび、彼女に繋がった糸の先の杖が傾いていく。それが倒れたとき、彼女は……死ぬ。
(死ぬのがなんだってのさ)
 強制的に開かされてずきずき痛む口元を歪めてマーヤは笑っていた。
(元々死んでた命なんて今更惜しくもないさ)
 
 必死に這いずる老女を一瞥し、ローハイドはカブラーを睨みつけたまま軽く右手を引いた。KBAM!至近距離で地雷が爆ぜ、哀れなマーヤの身体がごろごろと転がる。鉄糸がぴんと張りつめ、地面に突き刺さった杖がじりじり傾いていく。
「どうした?助けには来ないか。それでも構わない──この婆あが死ねば、次はライザールの民を片っ端から引きずってくるとも。遅かれ早かれ、貴様らは全員死ぬ──ならば、こんなものは余興にすぎない。貴様の処刑という、私の願いの余興にな」
「ふーむ」
 そう呟くカブラーは既に落ち着きを取り戻し、じっと彼の言葉を聞いていた。義憤や人情といった感情は全て、鋼のような状況判断の前には無力だった。
(助けてやることはできんな) 
 勢いに任せて飛び込めば、よくて爆死。悪くて惨殺である。自分が死んだあと、ローハイドが彼女をどう扱うかは分からないが──地雷まで埋めてあることを考えれば、あたり一面を丸ごと吹き飛ばしてしまうくらいはやってのけるだろう。
 逆に手をこまねいていれば、間違いなくマーヤは殺されるだろう。その後、彼の言の通りに罪もない一般人たちが犠牲になっていく──(なるほど、どちらに転んでも最悪のシナリオというわけじゃ)
 だが、ひとつだけ気がかりなことがあった。『遅かれ早かれ、貴様らは全員死ぬ』──どういう意味なのか?これはカブラー一人を狙った作戦行動ではないということなのか。
(確かめる必要があるじゃろうなあ)
 合理的な判断だけをとるならば、この場は一時撤退して奇襲を仕掛けるか、この場で様子見しつつアイシャと合流、そののち一気に叩くのが正解だ。
(しかし──何らかのタイムリミットがあるのなら話は別か)
 この場でなんとしてもローハイドを仕留め、しかるべき手を打たねばならない。
「わしらの命運は貴様らが握っているというわけじゃな、ローハイド」
 KBAM!再び小爆発の花が咲き、マーヤが呻いた。
「黙れ。その唇で私の名を呼ぶな。反吐が出るわ──…そして、その通りよ。どの道、この街は終わりだ。ラプトの総意が決めたこと。執行者ヴォイドはけして止まらん」
「……!…なるほどな。ヒサメの奴、そういうことか」
 ヒサメが彼の背に貼りつけた身体の一部は、つまり寄せ餌のようなものだ。それを目印に、深淵の破壊者がやってくるということ。
「…ならば、こんなところでぐずぐずしてはおれんの」
 言うが早いか、カブラーは跳んだ。斜め前、死の罠に埋め尽くされた広場の中央に向かって。
「愚か者めが!」
 ローハイドが歓喜と共に一斉に罠を起動する。死神の手のひらへ降り立つようなその行為だが、カブラーは冷静だった──冷静にならざるを得ない、とも言えた。死の予感が急激にその主観時間を鈍らせ、スローモーションになった世界の中で彼は呟いた。
「あのヴォイドと戦うことに比べれば、この程度で死ぬわけにもいくまいよ」

 灰色。むせ返るような霧。灰色。巨岩の群れ。灰色。自分さえ、その中に溶けていく。

 アオイはふと、後ろを振り返った。灰色。前を向く。きらり、何かが光を放っている。そこだけが、灰色の世界に唯一鮮やかだった。それなのに、どんなに追いかけても届かない。周りの景色も変わらず、ぬかるんだ地面はずっと同じ感触で、終わりの来ない夢の中にいるようだった。
「シャグナイア……」
 そう呟いた瞬間、アオイは我に返った。シャグナイア、不思議な同行者は隣りにいない。自分が置いてきてしまったのだ。雨に濡れるのを嫌がって岩陰で眠ってしまったシャグナイアを置いて、奇妙な光を追いかけて……記憶がぼんやりとしている。どうしてだろう。唇を噛むと、その痛みがますます意識を鮮明にする。
「ここは…どこだろう」
(こんな得体の知れない場所で、シャグナイアを置き去りにするなんて)
 激しい自責の念が湧いてくる。彼女が目覚めていても動けないに違いなかった。雨はますます強くなり、数メートル先で視程が途切れてしまうほどの霧が立ち込めている。幸いというべきか、振り向いてみれば一本道のようだった。
「戻ろう、真っ直ぐ──身体の濡れ方からして、そんなに長いこと歩いてはいないはず」
 踵を返した瞬間、また目の前を光が横切った。
「!」
 今度こそしっかりとその正体を見定めることができた──それは、きらきらと輝くコインのようなものだった。見るからに古い硬貨に、木の根のような細長いものが絡みついている。そしてその先は──霧の向こう。
「引っ張ってる…?」
 何かに似ているとすれば、それは間違いなく、釣りだ。霧の海にコインを投げて、引っ張る。迷い人がそれを見つけ、ふらふらとついていく……では、その先には?釣り人は一体?得体の知れない恐怖に背筋が震えると共に、また雨の音が強まった。全てがぼやけていくように激しい、単調な雨の音──なにか嫌な感じがして、アオイは目を閉じ、耳を塞いだ。判然としないものに惑わされることなく、刃の上に己をおくべし。それは刃鉄の巫女の心構えでもあった。
(……え?)
 アオイはゆっくりと薄目を開け、立ち止まったまま確認した──自分の肩の上を。耳を塞いだのに、雨の音がするのだ。まるで自分そのものから響いているようなその振動は、彼女の肩の上から──ざああああああ。ざああああああ。ざああっ。アオイが素早く手を伸ばして捕まえると、その蟲は不満げに唸った。ざああ…
「蟲の…声だったの?」
 確かに雨音にしては大きすぎた。灰色のバッタのような蟲は翅を震わせ、再びその音を奏ではじめる。ざあああ……目の前を輝く硬貨が横切る。
「うわっ!?」
 目を凝らすと、そこらじゅうの岩肌にも彼らがいた。みな一様に灰色で、そうと知らなければ判別することは極めて難しいだろう。ざあああ、激しいノイズ。
「これじゃ、うるさいわけだよね……」
 雨音に紛れてこのノイズを聞かされ続けたら、頭がぼうっとしてくるのも納得だ。周波数の微妙に違う音を同時に聴くと、そういった作用が起きることがある。トランス状態に陥るための手段のひとつでもあり──
「…なんのために?」
 観察してみても、肉食のようには見えなかった。これだけの大群で襲ってこられたらひとたまりもないだろうけれど、それならこの音は?
「うーん…繁殖のため…?」
 しかしそれなら、個体どうしで競い合うはずだ。いたことに気づくまで雨音にしか聞こえないほど統一された音色を出す必要は感じない。考えるほど、アオイは嫌な予感が強くなっていくのを覚えていた。
「戻らなくちゃ。シャグナイアが…」
 ちりん。
「…え?」
 硬貨がぶつかる音だった。今まではひとつずつしか見かけなかった硬貨がふたつ、彼女の前にある。ちりん。ざああああ。木の根は細く伸び、アオイの背後へ続いている。
 ちりん。三つめ。雨の音。蟲の声。どちらかなんてもう分からない。アオイは蟲を放り出し、前のめりに駆け出した。駆けながら、腰に手をやる。刀の感触は重く、確かだった。この世界で最も信頼できる重みだ。深く息を吸う。急速に世界が遠ざかり、慣れ親しんだ集中力が湧いてくるのがわかった。
 しゅらり。鯉口と刃が擦れ合うその音がした瞬間、ぴたりと全ての音が止んだ。アオイは動きを止め、腰を落とし、構えた。敵意が膨れ上がり、低い振動が近づいてくる。蟲と雨の共鳴がヴェールのように隠していた、巨大で重たいものを引きずるような響き。近い。アオイはもう一度深く呼吸し、右足を踏み出しながら身体をねじって刀を振るった。
 渾身の一閃が空気を巻き込み、分厚い霧の壁を引き裂く。
 刃の軌道に沿って分かたれた霧の向こうに、それがいた。
 一瞥したところでは、それは巨大な植物の塊に見えた。無数の太いツタが触手のように巻き付いた巨大でいびつな岩、と言っても間違いではないだろうか。ただしそれは転がるでもなく、巨大な根を伸ばして這いずっていた。身体中から伸びた細いツタの先で、無数の硬貨がきらきらと光っていた。遠近感を狂わせる冒瀆的なその光景に、アオイは眩暈を覚える。
 それは彼女に姿を見られたことを嫌がるように身体を震わせ──
「っ!」
 アオイが飛びのいた瞬間、轟音と共にその足元から巨大な根が突き出した。岩のように鋭くごつごつとしたそれは、植物というよりむしろ兵器のようだった。
 霧の海がゆるやかに動き、一瞬の悪夢を覆い隠してしまう。
 アオイはもう振り返らない事を決め、刃を納めて走りだす。背後から地鳴りが轟き、あんなに五月蠅かった雨の音はもうすっかりそれにかき消されてしまっていた。

 その振動でシャグナイアは目を覚まし、身体をめぐっていた緑の稲妻がぱちぱちと音を立てて鉛色に戻っていった。
「…アオイ?」
 雨が降り続いている。だが、シャグナイアの直感は正しく脅威を伝えていた。何かが迫ってくる。躊躇なく、彼女は岩の陰から這い出した。
 その脚に巨大な黒い影が絡みつき、動きを封じる。振り向こうとしたその腕さえも、影の腕が空中に縫い留めてしまった。
「……ヴォイドは賢い」
 深淵から響くようなその声に混じって、背後から機械の駆動音が小さく聞こえた。
「ヴォイドは負けない。ヴォイドは……死なない」
 異術によって作り出された影の腕はその本体と同じだけの膂力を持ち、シャグナイアの抵抗などものともしなかった。紅い光がその腕を駆け抜けても、実体のない影は揺らぐだけだ。
「ヴォイドはお前を殺す。……その次に、ビザルネルカブラを殺す。そういう約束だ」
「闇に住むもの。その心臓は……」
 シャグナイアは問いかけようとしたが、叶わなかった。逆立つ黄金の棘に覆われた腕が背後からその細い身体を貫き、ひときわ強く機械仕掛けの心臓が脈打った。
「ヴォイドは強い」
 黄金の輝きが弾け、内側から破壊されたガラスのような身体が不毛な荒れ地に散らばった。影の腕を己の影に収め、ヴォイドはじっとその破片を見つめる。
 数度にわたって、色とりどりの稲妻がその上を走ったが、ついに形を成すことはなかった。雨に打たれるイア族の破片に向かって、ヴォイドは小さく礼をした。通常の彼であれば考えられないことだが、この状態の彼は暴力と魂の制御を同時に行うことができた。
「……もう一人、いたか?」
 ヴォイドは振り向いたが、やめた。取るに足らないと思ったからだ。
 帰っていくその巨大な足跡をさえ、降り続く雨がかき消していった。

六章 表:旅は道連れ

 翌日も朝から雪が降っていた。
「さ、寒い」
「無理しなくていいのよ、ジェンダールさん」
 震えるジェンダールを振り返るニュムラの真っ白な姿は、雪景色の中に溶けてしまいそうだ。彼女がスコップを振るうたび、積雪が穿たれて道ができていく。
「うう…大丈夫、やります」
 そう言う彼もスコップを手に、必死に雪かきを手伝っていた。
「こんな重労働を毎日?」
「ええ、そうね。四方の入り口を交代制で。今日は私が東の担当、ってわけ」
「ひい」
 悲鳴を上げながら、恐ろしい高さの雪を崩していく。
「潰されないように気をつけてね。たまに死んじゃうひともいるから」
「ひいい…」

 北側の門はすっかり雪に埋もれていた。大柄な門番オルドルが落ち着いて周囲を見回し、指示を出す。
「オト、あっちからだ」
「…おう」
 オトはまだ若く、オルドルの指示に従う方が安全だ。本人はそれがやや不服だが、オルドルの実力を疑うことはできなかった。
「俺はどうしたらいい。雪を見るのは久しぶりだ」
 …そして、ディムロスもまたそこにいた。オルドルは彼を一瞥し、少し考え込んだ。
「うーむ。うーむ……そうだな、お前さん。……そうだな、試しに、そこをやってみてくれ。道の左右に雪をよけてくれればいい」
「わかった」
 そしてオルドルはひとり、門を埋めている雪に向かうのだった。今日は比較的日差しが感じられる。雲は薄く、その向こうに青空があるという事実が奇妙でさえあった。オルドルがここにきてから青空を拝んだのは数えるほどだ。
「うーむ」
 肉体労働をするときは考え事をするのが一番だ。オルドルはそう考えていた。身体は勝手に動くのだから、とりとめのないことを考えていたほうが生産的だ。
 もしも春が来たら何をしようか。ごくごく短いその日を可能な限り有効に活用しなければならない。
 今年はまだドーマの世話になっていない──モーダンの老爺を診せることは検討されたが、彼自身が拒否していた。どの道あの身体では、担がれて三日も雪原を往けないだろう。
 それにしても、来訪者が妙に多い。フローラとビルギルと名乗ったふたりは旅行者だと言い張り、不思議で貴重な遠方の品を滞在費がわりに渡してくれた。カーマイン、おそろしい力を宿した放浪者は、自分が引き入れてしまった。そのことを、オルドルは少しだけ後悔している──あやうくニュムラとマイラを喪うところだった。薬師がいなければ、コロニーは立ち行かないだろう。
 カエデというらしい少女は南方火山地帯の出身らしく、奇妙な高熱にうなされている。オルドルは、その症状によく似たものを知っていた。
(大地の呪いか……うーむ、よそ者には無関係だろうが)
 そしてジェンダールとディムロス。ちらりと振り返ると、彼は黙々と手を動かしていた。一目でわかる、よく鍛えられた体つきだった。
(こいつがニュムラとマイラを助けた──ついでにオトも。不思議な力を使ったと言っていたが、うーむ)
 オルドルは考え事をするのが好きだが、結論を出すことはあまりしなかった。そのことについて考えてみるだけで満足なのだ。とりあえず自分がどう思っているのかさえ整理できれば、あとのことはなるようになる。
「……なあ、オルドル…」
 いつの間にか近くまできていたオトが囁いた。我に返ると、オルドル自身の持ち場は半分ばかり片付いたところだ。やはり考え事は良い──
「なんだ、オト」
「…あいつら、本当に大丈夫なのか?怪しいっていうかさ、よそ者ばっかり引き入れて、悪いことが起きるんじゃ……」
「おれも元々はよそ者だ」
 オルドルは切って捨てるようにそう言った。オトの心配は最もだが、閉鎖空間において最も悪いのは疑心暗鬼になることだ。そして、閉鎖空間で暮らし続けたものたちはそうなりやすい傾向にある。
「悪いことがあるとしても、それは大地の意思だ。彼らが悪だという証明にはならない。現に、不運ながらも彼らはここに辿り着いた。大地は彼らを選んだ──おれを選ばなかったようにだ」
「……だからあんたはここにいるんだ、そうだろ」
「うーむ」
 オルドルは唸り、それ以上は口を開かなかった。
「……ニュムラさんたちに、任せておけばいいんだよな」
 自分に言い聞かせるようにオトは呟き、逃げるように戻っていった。

「ありがとう、ビルギル。助かるわ……私もニュムラみたいに力持ちならよかったんだけど」
「いえ、居候の身ですから。当然のことですよ、マイラ様」
 ビルギルは常に礼節を欠かさず、たとえほとんど睡眠をとっていなくても十全に動くことのできる人材だった。
「ときに、ひとつ伺いたいことがあるのですが」
「はい、なにかしら?」
「ドーマ司祭、とはどのようなお方なのでしょう?小耳に挟んだ程度ですが、少々興味を惹かれまして」
 マイラはやや面食らった様子だったが、落ち着いて答えた。
(──やはり、か)
 その内容は概ね、昨夜に見聞きしたことと同一だ。奇跡の力……具体的にどんなことをするのかまで尋ねたほうがいいだろうか?
(いや)
 ビルギルはそれきり、その話題を避けた。長年にわたって積み重ねてきた直感力が、何かあると告げている。であれば、よそ者が正面から尋ねたところで教えてくれるはずもない。
(この件に関しては、もう少し情報がいる)
 雪と風の冷たさも、彼にとっては苦ではなかった。黙々と身体を動かしながら、鋭い思索を巡らせる。常に最善の選択を──それが、執事としての彼の使命。

(………)
 ささくれだったような手のひらを翳したまま、既に彼女は数分その場に固まっていた。何を考えているのか分からない、奇妙に歪んだ笑いの残滓が口元にある。ごう、と冷たい風が吹きつけると、その姿はまるで雪の中に突き立った一本の槍のようだ。誰もそこに近寄ろうとはしない──敵意の有無に関わらず、その存在そのものが恐ろしかったからだ。
 彼女は身体を引きずるように外に出てきてから、雪かきを手伝うわけでもなく、じっと立ち尽くしていた。
 手のひらからぽたりと一滴、赤い雫が落ちた。積もった雪に触れる前にパキパキと音を立てて凍り付いたその血の滴りを見て、カーマインはどこか満足そうに頷くと、またゆっくりと屋内へ戻っていくのだった。

「妙だな」
 部屋に戻るなり、ディムロスはそう言い切った。北の村へ、司祭ドーマという人物を訪ねることで一致したばかりである。
「…言いたいことはわかるよ、ディム」
 寒々とした部屋の中には二人きり。向かい合って床に座り、ごく小さな声で。警戒に理由はなかった──習慣みたいなものだ。
「辺境の、しかも氷に閉ざされたコロニーで、これだけの滞在者を快く迎えてくれるものか?ライザールでさえ、その日暮らしに事欠く連中がいる。俺は……何かがおかしいと思う」
「つまり、何か理由がある……ってことだよね。僕たち…ビルギルさんやフローラにも、かな」
「あの二人もまた別の意味で怪しいがな。旅行者がわざわざこんな場所に来るとも思えない──とにかく、行動の優先順位を決めるべきだ。俺たちの最終目的は籠の起動とライザールへの帰還。せめてその方法を見つけなくてはならないわけだ」
 ジェンダールが引き継ぐ。
「この場所に異術の痕跡はなかった。ルシスの籠を動かすには、きっと異術にかかわりがあるはず──そして、奇跡を操るという司祭ドーマ。その人なら、何かわかる可能性がある」
「極論、その方法さえ分かるならカエデの治療は後回しでもいい。こんな土地の奇跡とやらに頼るくらいなら、ライザールの方がまだ医療が発展している。籠は速い──ネアロスの檻からここまで一日だ。半日もあれば、火山地帯にカエデを降ろしてやることも可能だろう」
「それは最善の場合、だけどね。実際、司祭さんでも分からないかもしれない。そうしたら、春まで待つしかないのかな?」
「そうなるだろうな。……急ぐ理由があるわけでもないが、出来るだけ早くライザールに戻るべきだと俺は思う。ここの違和感もそうだが、俺たちがネアロスの檻で見たものを伝えるべきだ」
「……うん」
 ジェンダールは思い出さないように努めたが、どうしてもそれは不可能だった。
「その点で言えば、現状の目的は一致していると言えるだろう。カエデを治療すると同時に、籠の動力を解明する」
「どうやって持っていくの?」
「ニュムラが担いでいくそうだ。カエデを雪にさらさずに運ぶこともできる……気をつければ揺れないらしい」
「……まあ、気をつけられてはなかったよね」
「それともう一つ」
 ディムロスは床をトントンと叩きながら言った。
「道すがら、目印になるようなもの……山なり、凍った川なりを探す──本当に最悪の場合に備えて、俺たちだけでも逃げる道を見つけておくべきだ」
 ジェンダールは寒さを覚えた。身体の芯からひやりと昇ってくる寒さを。生存こそを至上主義にするセベクたちの、冷え切った価値観からくるものだった。
「違和感が拭えない。ニュムラもマイラも親切だが、親切すぎる。他の村人たちは意図的に接触を拒んでいる節がある。いざとなれば……」
 その先は言わずともわかることだった。ジェンダールは、絞りだすように答えた。
「……うん。でも、ディム。僕はぎりぎりまで、カエデのことを護るよ」
「当然だ」
 ディムロスはそう言い切った。
「あくまで優先順位の話だ……俺もこれ以上、喪いたくはない」

「それで、いつ出発するんですの?私も同行しますわ!」
 質素な朝食の席でニュムラから遠征の話が出るや否や、フローラはそう言い放った。控えたビルギルがすっとナプキンを手渡す。
「……え、ええとね、フローラさん。私たちは治療のために行くのであって、道のりは厳しいわ。ずっと雪と風にさらされるし、食べ物もずっと少ない。温かいものもないのよ」
 フローラは優雅に口元を拭うと、きらきら輝く瞳をビルギルに向けた。
「それはビルギルがなんとかしますわ!」
「…………………もちろん、なんとかします……」
 その表情はまさに苦渋という言葉が相応しいものだった。
「ですがお嬢様……」
「流石ねビルギル!そうと決まれば支度をしなくちゃ!」
 ジェンダールが同情の視線を向ける。なんとか止めようとするニュムラを手で制したのは、ディムロスだった。
「…籠は広い。カエデの様子を見てもらいながら、雪をしのいで行くこともできるはずだ」
(ディム?)
 ジェンダールが訝しむ。ディムロスはフローラを──いや、その後ろに立つビルギルをじっと見つめながら、袖の中で副腕を動かして彼に合図をした。調子を合わせろ。
「人数は多い方が安心な気もするんだけど、最低限の方がいいのかな?ニュムラさん」
 ニュムラが唸る。否定的というよりは、予想外…そんな雰囲気だ。
「私は別に、もちろん、構わないけれど……」
 違う?ジェンダールは奇妙な違和感を感じた。どちらかというと、彼女は少し……嬉しそうだ。安堵した、というような。魂の火はゆらめき、そこに不穏なざらつきはなかった。邪悪な心は尖って歪に見えるもので、ディムロスはいつも少しちくちくしていた。
(気のせい……だよね)
「……その、行ってもよろしいのですよね?私、凍った湖を見てみたいんです」
 奇妙に張りつめてしまった空気を、フローラがおずおずと破った。ディムロスが素早く頷く。
「ああ。問題ない」
「お嬢様がお望みとあらば」
 ビルギルも言葉を重ねた。マイラがけらけらと笑う。
「いいんじゃない、ニュムラ。危ないものはどこにいても危ないもの、ちょっとは遠出するのも悪くないわ」
 そうね、と溜息。
「留守の間、モーダン爺を任せるわね、マイラ」
「もちろん。皆も居るんだから大丈夫よ。そっちこそ、気をつけてね」
「俺たちは特に用意もない。早い方が良いが、タイミングはそちらに任せる」
 カエデは昨日から水分をとっていない。最後に飲んだのはジェンダールのお茶だが、体質から考えてまだ余裕はあると言えるだろう。──(朝露だけでも足りるわ)──暗黒の聖堂、その中庭でそんな会話をしてから、ほんの数日しか経っていないことが信じられなかった。
「……ビルギル、今すぐ用意をした方が…?」
 やや申し訳なさそうにフローラが囁く。視線はお皿に残った小さなパンケーキに──ビルギルが優しく微笑む。
「お嬢様、ゆっくりで大丈夫ですよ」
「そ、そうよね!」
 空気を読まないディムロスが席を立とうとするのを引っ張って阻止するジェンダール。何か考えているニュムラ。その皿からひょいと野菜を盗むマイラ。はむ、最後のパンケーキを頬張るフローライト。
 ビルギルはかすかな頭痛を覚えた。奇妙に、その光景に現実感を感じられなかった。
(破片の使いすぎか)
 謎の清浄な破片は確かに強大な力を秘めているが、それに頼るほど自分の精神が削られていくのも分かった。削られたところに更なる光が集まって、ゆっくりと蝕まれていくような。
 視線を感じて我に返ると、ディムロスがじっとその姿を見つめていた──ビルギルは彼の内側に、少し自分と似たものを感じている。おそらく、互いにそうなのだろう。そして、互いにそのことを口に出そうとはしなかった。今はどちらも敵ではない。そのことを確かめるような瞬間、がたがたと窓が揺れて全員の意識をそちらに向けさせた。
「……今、誰か登っていかなかった?」
「…どうしてわざわざ雪の積もった屋根を登っていく人がいるのよ…」
 マイラが窓を開けて身を乗り出し──「ぎゃあ!」
「マイラ!」
 思わず駆け寄ったニュムラの目の前で、バランスを崩したマイラの身体を真紅の鞭めいた無数の腕が支えた。ひょいと押し戻され、へたりこむマイラ。
「びっくりした……逆さまで登ってた……」
 今度はニュムラが身を乗り出し、大喝一声。
「こら!危ないことはしないで!……飛び降りるのもダメ!こら!」
 少しも話を聞かない真紅の影はふわりと降りてくると部屋の中をじろりと見回し、それからもう一度跳んで視界から消えていった。
「……何してたんだろう…」
 ジェンダールが呆れ半分怯え半分に呟くと、フローラは無邪気に言った。
「高いところに登ると気持ちがいいですものね!わたくしもこっそり屋根に登ってみたことがありますけど、とっても気持ちが……あっ」
「お嬢様?」
「違うの!違いますわ!爪先だけでしたわ!」
「あれほど危ないことをしないとお約束いただきましたのに──」
 ディムロスが今度こそ席を立つ。
「行くぞ、ジェンダール」
「えー、もうちょっと見てようよ」
「まあ、好きにしろ」
 一気に騒がしさを増した部屋をあとに、ディムロスは──真っ直ぐにフローライトの部屋へ足を向けた。決断的かつ密かに、身体に染み付いた動きで。

六章:裏 燃え立つものは


「ネアロスウィル。それが…今はヴォイドと呼ばれてる執行者の、本当の名前ってわけさ」
 盲目の鍛冶師はそう言うと暗闇の中で笑った。かん、かん、と規則正しい金属音が響いている。
「大仰な名前だろ。ネアロスの意思ってのがどういう意味かは知らないけど、きっとあいつは八本足の貴族か何かなんだ。んで、団長はあいつの心臓を止めた。機械でできたほうをな。そしたらあいつは突然大人しく……いや、大人しくなったわけじゃないな。なんていうか、知性のレベルが下がったんだよ。全てが暴力に結び付くというか……思うに、小さい時はあの心臓の方があいつを生かしていたんだろうな。上手に生まれられなかった赤ん坊に、機械の心臓をあてがって蘇生させる──それが本当なら、八本足の技術力はとんでもないな」
 サイアンは黙って聞いている。彼が知る中で唯一無二の業を持つこの鍛冶師はとにかく腕はよかったが、どうしてもおしゃべりになるのが玉に瑕だった。普段から無音の暗闇に棲んでいると、そうなっていくものなのだろうか。
「おれが打つのは剣ばかりだが、いつかそんな風に……誰かを生かすことのできるものを造りたいな」
「少なくともお前のおかげで僕はまだ生きている」
 サイアンはそう言うと、彼の手もとに置かれた美しい刃をじっと見つめた。
「ヴォイドを殺すことができると思うか?」
「できるだろうな。パワーはものすごいが、バカだ。罠にはめるなり闇討ちにするなり、手段はいくらでもあるさ。──もちろん、一つ目の心臓なら、だけどな」
 裏返し。黒い炎。熱された刃が月のように輝く。
「一度殺せたとして、“鉄心”が起動したら…勝ち目はないぞ。あの事件で、ただでさえ少なかった執行者は更に減ったんだ。団長がいなければ全員死んでた」
 おれもな。感慨深くそう付け足して、彼は刃をうやうやしく捧げ持った。
「……うん。まあ、悪くない……あとは仕上げるだけだ」
 そして懐から薄い木の板を取り出し、サイアンに渡した。
「きちんと彫れたと思うが、一応確認してくれ」
 それは……彼ら月の部族に伝わる呪文であり、刀身の片側にびっしりと刻まれていた。すっと交互に指でなぞるだけで、彼には両方が同一であることが理解できる。
「ああ。流石だ」
 打ちなおされた刀は、自ら放つ光によってうっすらと暗闇を照らしていた。どこかにひっそりと祀られているという、月から降ってきた巨大な鉄の塊から削り出された特別な刃だ。
「おれも色々と触ってきたが、この鉄よりいい音がするものはなかなかない」
 彼は慣れた手つきで仕上げの作業にかかる。サイアンはじっとその闇を見つめながら、ひとつのことを考えていた。自分がここにいる理由を。
(……執行者、か)
 ラプト暗黒街の守護者であり、外部からの脅威に対して抗い続けるものたち。ルシスの強大すぎる輝きから、優しい暗黒に慣れてしまった民の眼を守るための組織。
 彼はライザールの事を考えた。カブラーは確かに鼻持ちならない存在だし、同じく腹の立つセベクの連中がわんさか住んでいる。
 だが、ライザールには友がいた。帰るべき故郷を失ったらしい不思議な羽虫の種族で、ヴァイオリンが得意な友。
 ある日、その友人と食事をとっていた時、偶然にカブラーと居合わせたことがあった。当然ながら、友人はセベクと自警団の間にあるものを知らない。サイアンはしらを切ろうとして──『なんじゃ、黙って飯なんぞ食いおって。ほれ、飲め。そして笑うんじゃ。…それが長生きのコツじゃよ』──無造作に渡された酒が相当の高級品だということは、あとから知ったのだった。
 他にも……シクターンは時折ラプトに下りてきて、彼に護衛を頼むことがあった。アイシャという女のセベクは底抜けに明るくて、同郷だというだけで彼の背中をバシバシ叩いて笑った。

「……なあ、サイアン」
「どうした、トゥレノー」
 トゥレノー、暗黒の鍛冶師は微笑むと、刀を差し出しながら言った。
「トラジェリプスは年中日が照って、不思議な果物ができるそうだ」
「……そうらしいね。僕も、まだ行った事はないんだ」
 そっと刀を受け取り、軽く一振り。闇の中に淡い残光が走る。
「丸くて、一抱えもあって、硬い。切ると中は真っ赤で、池みたいに水っぽくて甘い」
「………ああ、そうらしいね」
 サイアンは繰り返しながら、刀を鞘に納めた。まるで鋼が生きているかのような、かすかな振動を錯覚する。トゥレノーは闇の中で他者の心を視る。
「……いつか、それを食ってみたいと思うんだ、サイアン」
「わかった」
 彼はきっぱりと答え、そしてトゥレノーの手を握った。
「約束しよう。必ず、ここに戻ってくる……やるべきことを、果たしてから」
「よせよ、恥ずかしい奴だな」
 トゥレノーは笑ってそれを振り払い、立ち上がって服の煤を落とした。
「そういう意味で言ったんじゃない。お前はお前で、したいことをしろって意味だ」
「どういう意味でも構わない。どの道、お前以外にこの刀は任せられない」
 二人はしばらくじっと視線をかわしていたが、やがてサイアンが踵を返した。
「……またのご利用、お待ちしてるよ」
 ものの数歩離れただけで、その声の出所は分からなくなっていた。
「……ああ。また来る」

「痛ったぁ……」
 文字盤を蹴破って時計塔内部に突入し、アイシャはしばしの休止を余儀なくされていた。螺旋を描くように垂直の壁を駆け上がる途中で射かけられた矢は全部で四十本近く、そのうち六本が命中していた。致命部位だけはなんとか避けていたが、奇妙な黒い金属でできた矢は彼女の治癒力をわずかながら阻害するのだった。
「ちょっと勢いに任せて突っ込みすぎたかな……ま、いつものことか!」
 天井を見上げる──部屋の隅には梯子があり、この真上に狙撃手がいるのは分かっていた。当然、相手も理解しているはずだ。天井を突き破って攻撃をしかけてくる様子はなかった。
「…ま、出てきたところを撃てばいいだけだもんね。そりゃそうか」
 周囲には誇りを被ったなにかの部品や機械、予備の歯車などが散乱している。
「もったいないなあ。ここもちゃんと動けば、もっと楽しい街になりそうなのに……」
 呟きながらそれらを手に取り、捨て、使えそうなものを探すアイシャ。すでに足を穿っていた三本の矢傷の治癒が終わり、歩けるようになっている──粘ついた血が乾き、黒ずんだ粉を落とす。
「ふんふーん…♪」
 あらかた物色し終えると、おもむろにアイシャは筒状のものをいくつか取り出した。ライザールでは見かけることのない、実用性だけに特化した……爆弾。最初の狙撃で路地に落とされたとき、抜けめなく何個か拾っておいたのだ。
「…見ててよ、ケアアルク。私にも花火が上げられるかな」
 自ら腕に刻んだ新しい傷跡をなぞりながら、四方の柱に爆弾をくくりつける。そこに乾いた自身の血液をふりかけ、導火線のように中央までさらさらと持ってくる。四度繰り返し、魔法陣めいた血の道を完成させると──
「よいしょっと」
 身長ほどもある巨大な歯車を引きずり、盾のようにかざし──
「ん…いてっ」
 指先を小さく噛みちぎり、新鮮な血液を一滴。大きく息を吸い込んで──
「ふっ」
 極めて可燃性の強いその血に、熱い吐息が火花を散らした。しゅうっと音を立てながらその火が床を走り──

 ラピスはじっと待っていた。梯子を上ってくるか、また壁を駆け上がってくるか、あるいは天井を突き破ってくるか──どの手段をとっても即座に無数の矢を叩き込んで殺すつもりだった。
(そうしたら貴女のもとに近づけるのねカーマイン……)
 知らず微笑みがその表情に現れる。もしも出会えたら、どんなことをしよう──
 そんな思考ごと、展望台の床が吹き飛んだ。

「痛ったあ!痛すぎ!死んじゃう…」
 折れた両腕をぶらぶら揺らしながら、アイシャは粉塵の中を見回した。衝撃波の余韻で、耳は全く聞こえない。
「…死んじゃった?ねーえー、生きてる?」
 返事があったとしても聞き取れなかっただろうが、アイシャは呑気に呼びかけた。その背後から──
「ぎゃいっ!」
 心臓のやや上あたりを漆黒の矢に貫かれ、アイシャはもんどりうって倒れた。埃っぽい粉塵が徐々に収まっていき、すっくと立った執行者の姿が露わになる。
「……自爆だなんて愚かなひと」
 アイシャはうずくまって動かない。ぎりぎりぎり、ラピスは弓を引き絞る。
「死んだかしら?それともまだ生きているかしら」
「……死んでるよー…」
「!?」
「えいや!」
 ラピスの驚愕を縫って、倒れ込んだ姿勢からアイシャは歯車を投擲した。
「く!」
 のけぞって躱すラピス。ごしゃ、と歯車が壁に突き刺さり、アイシャは跳ね起きる。粘性の血液が尾を引いて発火し、爆発的な加速を生み出す!
「そりゃあ!」
「無駄なこと」
 ラピスはそのまま身体を倒してバックフリップし、続けざまに黒矢を放った。空を切った腕に矢が突き刺さり、怯むアイシャ。ラピスは背後の壁に垂直に立ったまま、更に矢を構えた。
「死ね」
「痛ったいけど、死なないし!」
 力任せに矢を引き抜くと再びアイシャの血が爆ぜ、三本の矢がくるくると宙を舞った。ラピスが二本の矢を同時に放つ──
「いやあッ!」
「なっ!?」
 ラピスの驚愕も当然、アイシャは空中の矢を真っ直ぐに殴りつけ──二本がぶつかり合って地に落ち、残った一本がラピスの帽子を貫いた!
「やった!ぶっつけ本番、最強!」
「理解できないどうしてお前は──」
「問答無用!」
 アイシャにとって疑問は無意味だ。現実だけが彼女に意味を与え、真実は二の次。とにかく殴って解決できるなら、それ以上のこともそれ以下のことも気にする必要はないのだから!
「よくも女の子の身体にバカスカ穴開けてくれたわね!死ね!」
「黙れお前が死ね!」
 ラピスはもはや不要と断じて矢を捨て、湾曲した弓の二重のフレームを切り離した。暗黒の鍛冶師トゥレノーが鍛えた機構により、それぞれが鋭い三日月刀となるのだ!
「どりゃあ!」
「はあッ!」
 爆炎と共にアイシャが殴りかかれば、逆手に振り抜いた黒のシミターがその拳を真っ二つに切り裂く。アイシャは意に介さず、続けて逆の手で殴りつける!それすら斬られても、まだ足が残っている!
「痛すぎなんだけど!死ねえ!」
 全身をばねのように跳ね上げて、後方宙返りを打ちながらの蹴り上げ──サマーソルトキック!したたかに顎を蹴り上げられて、ラピスの細い身体は打ち上げられた。常人なら失神して当然の衝撃を噛み殺しながら、ラピスは身を捻って両手の刃を投擲!
「お前の相手をしている暇はない……!」
「私にだってんなヒマないわよ!」
 激しく分泌されるアドレナリンが代謝を爆発的に促進し、アイシャの傷が急速に再生していく。飛来したシミターを、掴む!投げ捨てる!切り裂かれた両手から、泥のように血が溢れ出す!
「乙女はね!忙しいの!いつでも!あんたも!そんなんじゃ!好きな人に逃げられちゃうよ!」
 その言葉は全くもって勢い任せの適当な啖呵だったが、ラピスはその瞬間動きを止めた──空中で無防備を晒したその背中に、飛び上がったアイシャが両手を当てていた。真空を作り出すほど大きく息を吸う。肺の中で空気が過熱し、燃え上がる!
「ぶっ飛べえええーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!!!!!!」

 その日のライザールはよく晴れていたが、もしも雨が降っていればよく見えただろう。全身の血液を絞り出すような大爆発と閃光を受けて、流星めいて吹き飛んでいく誰かの姿が──
 ぐしゃり!アイシャは受け身もとれずに叩き付けられ、崩落した展望フロアの床の上で気絶した。常に全身全霊で、というのが彼女のモットーなのだ。目が覚める頃には、きっとこの戦いのことも笑い話程度に数えてしまうだろう──いつでも、勝った方はそういうものだ。

 ライザール南方、トラジェリプスへと至る道は常にぬかるみ、ひどく湿気が濃い。それもそのはず、東西を山に囲まれ、いくつもの川が流れ込むこの湿原は、ライザール西の呪われた湿地帯とは比べものにならない規模を誇っていた。ここを快適に超えるための道筋を知っている案内人を雇えるかどうかが商売の肝と言っても過言ではないほどだ。
 その湿原から西へ、ネルグの方角へと流れる川があった。いくつもの川が流れ込み、また流れ出ていくが、西へ向かうのはその川ひとつだけだった。旅人は孤独の川と呼び、ライザールが近いことをその川で知る。孤独の川に行き当れば、その日のうちにライザールへ入ることができるのだ、と。
 折しもその日、ライザールには強い北風が吹いていた。ごく身軽な女の身体は風に乗り、みるみる落下して──ぱあん!孤独の川の水面に、激しく飛沫が上がった。

 緩やかで深い流れはあっという間にそれを覆い包み、何事もなかったかのようにきらきらと太陽を映してきらめいていた。


 
 ……………ラピスは苦痛に呻き、目を開けた。全身がバラバラになりそうな激痛。中でも鮮明な痛みが肩のあたりに走り、消えない。何かが生えていた──いや、突き刺さっていた──螺旋を描いた槍のようなもの。刻まれたその溝に沿って、彼女の血が重力に逆らって吸い上げられていく。
 ラピスは身体を動かそうとしたが、叶わなかった。半分溶けたような顔の彼はこちらを振り向き、首をかしげた。その喉のあたりに錠前のような首飾りが揺れている。ぎこちない三拍子の足音は、死神のそれのようだった。
「…?」
 ラピスは死を受け入れる。いずれにせよ、自分は敗北したのだから──生きている価値などない。弱い自分が、あのひとに見える権利など、あるわけがない。そう思うと、ラピスの瞳からは血の涙が溢れるのだった。
 もっと強くなりたかった。もっと、純粋で、燃え上がるような力がほしかった──感情に左右されることなく、ただ求め続けるこの想いに応えるような力が。

 釣り針のように肩口を貫いていた槍から、それを形作っている不浄なエネルギーが漏れ出している。

 炎のようなそれを通じて、誰かの声が、ラピスに届いた。

(貴女が求める力を、与えてあげられるかもしれません。貴女がもしも、その苦痛を、永遠のものと受け容れるのならば──)

七章:表 黄金の月

 並んだ扉はどれも同じ造りで、かけられた鍵も単純なものだった。ディムロスならば──いいや、多少の心得があるセベクならば誰でも、触れるだけで開けられるような鍵だ。
(……これは)
 だが、ディムロスは踏みとどまった──違和感を感じた。未熟なセベクであれば躊躇いなく鍵を開けて踏み込んでいたかもしれないが、彼はそうしなかった。そしてじっと扉の隙間を見つめ──(なるほどな)
 細い紙を挟み込んだまま、扉を閉めてある。誰かが開ければその紙が落ち、侵入されたことに気付く仕掛けだ。仮に開けた後に気付いたとしても、どの高さに挟まっていたか分からなければ同じこと。
ビルギルの仕業だろう。やはりと言うべきか、ディムロスは彼に対して自分と似たものを感じ取っていた。情報屋や暗殺者といった類の、似たような──同じような境遇で仕事をしていた過去があるのだろう。
 もう一度、ディムロスはじっと扉を見つめた。そんな相手が、子供だましのこんな仕掛けひとつで終わらせるものだろうか?もっと別の何かがある──そんな直感。
 突然、首元の火傷が疼いた。熱を帯び、形なき憎悪を発している。その発作は初めてではなかったが、今までずっと無視してきたものだった。ジェンダールに近づくとき──つまり、ルシスの異術に近づくとき、呪われたその傷はそれを拒絶しようとするのだ。
「……まさか…!」
 後ずさると、声なき不服の囁きが聞こえた。再び踏み出すと、拒絶の炎が彼の裡に灯る。
(奴も、異術を…?)
 ディムロスはわずかに考え、来た道を戻り始めた。
 異術による網が張られているなら、侵入するのは得策とは言えない。せめてジェンダールによるサポートが必要だった。
 異国の民が異術を使う──ディムロスは必死に古い伝承や神話を思い出そうとしたが、興味が無かった過去の自分は断片を流し読みした程度だ。ルシスの光がいったいどこまで届いていたのか……その答えを知るには、きっとルシスまで行く必要があるのだろう。今この場所でするべきことは、入れるかも分からない聖なる都のことでも、怪しい異国の旅人のことでもない。ただ、あるべき場所に帰るために。
「……ディム、なにしてたの」
「お前のよく知っていることだ」
 素っ気なく通り過ぎようとするディムロスの足を踏むジェンダール。
「あの人たちは……悪い人じゃないよ」
「“悪い人”“善い人”は存在しない、ジェド。あるのは“悪いこと”“善いこと”だけだ。その瞬間だけだ」
「じゃあ、“悪いこと”はしないで、ディム」
「……分かっている。事実、まだ何もしていない」
「そういう問題?」
「今日はやけに厳しいな」
 黒炭のように静かに、彼は言った。ジェンダールは色の見えない瞳でじっと彼を見つめている。
「何かあったのか?」
「──ビルギルさんは、異術を使ってる」
 ディムロスは──知っている、と返すこともできたが──ただじっと彼の言葉を聞いている。
「ディムが出てってすぐ、いきなり血を吐いたんだよ。本人とフローラは持病だって言い張ってたけど、僕には分かる。そのダメージで一瞬だけ精神が弱まって、ビジョンが見えた。懐中時計の中に、ルシスの破片がある」
「……お前は大丈夫なのか」
「こっちから見ようとしたわけじゃなくて、うっかり見せちゃった、って感じだった。だから……まだ、向こうは気付いてない。ねえ、ディム……僕たちなら、異術のことで助けになれるんじゃないかな…」
「たとえそうだとして──」
 ディムロスは熾火のように語気を強める。少しずつ、炭の上を小さな火が這うように。
「お前は即座にそうしなかった。奴の異術はお前と似ているからだ。おそらく──盗み聞きをしている。部屋にも網が張ってあった。……奴が望めば、この会話も聞き取れるのかもしれないな」
「…わかってる、わかってるよ。でも──フローラは本当につらそうだった。ビルギルさんは自分の身体を削ってまで、彼女のために尽くそうとしてる。ねえ、ディム……」
「“悪い人じゃない”か?──お前のしたいようにすればいい、ジェド。俺は興味がない。ただ、やられるのならその前にやる。それだけだ」
 ディムロスは拒絶も肯定もしない。いつでも彼は他者に介入しない。
「きっと悪いことが起こる、そんな気がするんだ。だから……味方は一人でも多い方がいい、そうでしょ?」
「俺の同意が必要なのか?」
「必要だよ。だって僕たちは仲間で、友達だから」
 少しの沈黙。ジェンダールは答えを待つ。
「……ああ。…そうだな」
 ふっと風が吹き抜けたように、二人は力を抜いた。首筋に熱い疼きを感じながら、ディムロスはそれを無視し続ける。

▲▼▲

 思いのほか、気付きにくいものなのですよ。痛みというのは、そこにあって初めて痛みになるものですから。たとえば悲哀を失えば、他者のそれを見てふと気づきが訪れるかもしれません。歓喜を失えば、明らかな動揺をもってそれを知ることができるでしょう。そこには孤独だけが生まれ、そして考え始めることでしょう。自分はどこに置いてきてしまったのだろう、いったいいつから、自分はそれを失ってしまったのだろう?
 実際のところ、感情というのは抱かなくなればなるほど、徐々に摩耗していくものです。誰とも会わずにじっと己のみに向き合い続ければ必ずズレていくものなのです。感情はすべて、他者と共有し、比較し、思い出せば噛みしめ、忘れようと努めれば必ず残り続けるでしょう。
 それでは、痛みとは?私はあなたにこう言いましたね──痛みだけが真実だと。真実、あなたの心を変化させうるものは痛みだけだと──聞いていない?また、ご冗談を。私をからかってはいけません。あなたは確かにそれを聞き、確かにそれを理解した。少しだけ、ちくっと痛んだかもしれませんね。その痛みが、あなたを……頑なにしてしまったのかも。ですが、嘆くことはありません。嘆きなどという感情は不要です。痛みはネガティヴなものと思われがちですが、実際はそうではない。痛みと快楽は最も近いところにあり、あなたの痛みは私の痛みだ。そして、あなたの快楽も私の快楽なのですから、何も恐れることはありません。痛みはいつでもそこにあり、願う限り、必ず与えられる。あなたが覚えている通りに。覚えていない?ああ、それはいけない……では、思い出してみましょうか。

 あなたに痛みの記憶はありますか?……ええ、痛みは忘れるもの。感情とは違うのです。忘れていても、仕方がないことです。傷が癒えれば痛みもなくなり、時が流れれば鈍っていく。そして誰もが末期の痛みを忘れ、幸福に死んでいく──死んでしまえば、もはや痛みなど。
 それこそが絶望であるということを、あなたは私と理解した。痛みもなく、ただ無謬の荒野をゆくということが、どんなに無為で無価値で、真の悲しみに満ちているのかを。痛みこそが変革であり、希望の旗印となり、永遠の暗黒を切り裂く真紅の炎だということを。
 ……何を言っているか分からなくなってきた?いいでしょう。では、初めの問いに戻りましょうか。あなたの痛みは、なんですか?想像してください。転んで膝をすりむいた?振り向いた拍子に、家具に指をぶつけた?痛みとは、どんな感覚でしたか?かっと燃えるように熱くなり、じんじんとその痛みが湧いてきて、自分の血の色を見て、何を思いましたか?……もっと痛いことを想像してみましょう。ゆっくりと目を閉じて、三本のナイフをイメージして。黒く、鋭く、少し曲がっていて、地獄の炎に鍛えられた冷たい永久の金属でできている。
 それは私の指。

 あなたは動くことができない。

 自分の心臓に集中してみてください。強く脈打ち、命の危機を予見しているかのように震えている、あなたの心臓……私の指が伸びていき、あなたの胸に触れる。触れる。冷たい感触を感じる。沈み込んでくる、その瞬間を待ち望んでいるのがわかります。……想像、するだけですから。ゆっくりと肋骨の間に滑り込んでくるナイフ。心臓まで達することはなく、浅く突き立てたナイフをぐるりと回して、肉を抉り取るように。肋骨をまとめて引き剥がそうとするように。
 想像できない?なかなか難しいものでしょうね。
 ……では、実際にやってみましょうか。

 なぜ、驚いた顔をしているのですか?自分の身体が動かないから?私の言葉が信じられないから?それとも、その痛みが想像できたからでしょうか?想像できたのなら、素晴らしいことです。想像は必ず実現する──そうして、いくつもの偉大な発見が成されてきたのですから。今まさに、ここで成されようとしているように。あなたは痛みを知り、それを捧げ、永遠になる。暗黒の淵へ堕ちることもなく、赤きこの炎とひとつになる。
 怖いですか?そうでしょう。しっかりと噛みしめてくださいね。恐怖と、苦痛。それが、最後の変革に臨む者に与えられた唯一の慈悲なのですから。

「お姉ちゃん…?」
 誰かの声が聞こえたような気がして、カエデは悪夢から醒めた。目を開いた瞬間、どんな夢だったのかは綺麗に忘れてしまったけど、きっと悪夢だった──そんな感じがする。
 ここはどこだろう。暗く、狭い石の壁。いや、洞窟か。思わず腰に伸びた手を、誰かがぎゅっと握った。
「もう、カエデ。一人で行っちゃ駄目でしょう?」
「え──」
 誰より見知ったその顔を、カエデは驚愕と共に見つめ──「どうしたの?」──何故、自分が驚いたのかを忘れてしまった。
 そう、今から二人で、巨大な火山ムカデの卵を拾いに行くところなのだ。一人前の巫女……つまり、大いなる火の山と通じ合う存在だと認めてもらうために。
 それは確かに危険ではあったけれど、今や慣習となった他愛のない儀式だった。毒性の強い火山ガスを第二の呼吸器官によって無毒化し、より深く火山の奥へ進む。種族の持つ生態が成熟していることを確かめるための儀式だ。だから、何人で臨んでもよかったし、たとえ失敗しても問題はなかった。
「…大丈夫だって言ったのに。お姉ちゃんの心配性」
「いいじゃない、心配させてちょうだいよ」
 アオイはそう言ってけらけら笑った。灯りの類は一切持ち込んでいないが、太陽光の差さないこの場所には別の光源があった。天然の回廊のその先から、あかあかと燃える光が腕を伸ばしている。カエデにとっては初めてとなる、火の山の……“心臓”。
「…わあ…!」
 眼下を燃え滾る川のような溶岩が流れ、それをぐるりと囲む回廊を二人が歩く。煌々と輝くマグマの海を見つめるカエデの横顔に、アオイは感慨深げな視線を向ける。
 一歩踏み間違えれば溶岩へ真っ逆さまというこの回廊は、かつて、ひときわ大きな百足が──“ぬしさま”が、壁の中を泳いだ時にできたと言われる道だ。今やそこは彼女たちの巡礼路であり、無数に伸びる坑道の入り口でもあった。
「曲がり角のところに、印のついた横穴があるから。その先が百足の巣」
「何度も予習したし、大丈夫だってば…それに、誰でもちっちゃいころから教えてもらうじゃない」
「そうだけど…そうだけど!…ちっちゃいころはもっと可愛げがあったのに…お姉ちゃん、悲しい…」
「うるさいなあ…」
 数えきれないほどの数を踏み慣らされてきた道は天然のものと思えないほど平らで、壁には無数の絵が刻まれている。その多くは安全を願うおまじないであったり、あるいは古すぎて何を描いたかわからないような模様だった。そして、それら全てを真横に貫く、長大な百足が彫られていた。
 ぬしさまを見たことがある者は、もう数えるほどしか残っていなかった。あるいはもう死んでしまっていて、その後継がゆっくりと育っているのかもしれない。カエデやアオイが生きているうちに、山肌を削り取るほどに大きな古の存在を目にすることはあるだろうか──
「ねえ、お姉ちゃ──」
 何かがそこにいて、じっとカエデを覗き込んでいた。並んだ黒い複眼は赤く煤けていて、本当に見えているか定かではない。何より、その顔だけでもカエデと同じくらいの大きさがあった。燃え滾る毒の滴る顎が、ぎちぎちと鳴った。繋いでいたはずの右腕はとうに存在せず、ただ虚ろな幻肢痛だけがあった。
 声にならない悲鳴を上げると、カエデの右目から──右目だった場所から、黒く澱んだ煙が上がる。溶岩の輝きが残った左目を射る。
 それら全てを呆然と見つめる自分を理解したとき、カエデは真っ暗な空間にひとりきりで佇んでいた。その感覚に慣れを覚えながら、カエデは必死に思い出そうとする──自分は何をしていたか。悪夢の連鎖の始まりを思い出し、暗黒の淵から逃れようと試みる。
 この場所に、オズの手は届いていない。それだけははっきりと理解できた。ここは断絶されていて、冷たく、そして広大だった。鏡に映した星の中から、ひとつだけ偽物を見つけ出すように集中する。誰かがこれを見ている。邪悪な力、邪悪な意志、それを行使しようとする者がいる。
 目を覚まさなくては。彼らは自分達がどこに向かっているのか、理解していない。ジェンダールでさえ気付いていない。あるいは、どうにかなると思っている。なんとかして伝えなくては──
「ほら、カエデ。怖くないから、行ってらっしゃい」
「……え…?ああ……うん、行ってくる」
 アオイは握っていた手を放してひらひら振る。誰かが見ている。……カエデは自分の右手を見つめる。何かが変だと思ったけれど、分からなかった。これを何度も何度も繰り返しているような奇妙なデジャヴ。そんなはずない。今日初めて、カエデは火山の心臓を目にした。これから、大人の一人として認めてもらうのだ。
「……お姉ちゃん……」
「なあに、カエデ」
 カエデはふと、左手に意識を向けた。何故だか、その方がいいと思った。いつもと逆の腰に、不思議な重みがあった。そうか、こちら側に佩くんだ。左利きの訓練も、少しは受けたような気がする。
「……私は、お姉ちゃんのことを全然知らないね」
「もう、何言ってるの?早く──」
「お姉ちゃんが、わざわざついてくるわけないもんね。そうだった。お姉ちゃんは、私が成人する時──初めて、ひとりでやらせてくれたんだ。ひとりでこの景色を見るようにって言ったんだ」
 燃える。夢が燃える。あるいはこれも繰り返し、それでも構わなかった。カエデは刀を抜き、なめらかな刀身に映したそれを見た。恐ろしいとは思わなかった──もっと恐ろしいものを見てきた。それに連なる存在であることは理解できたけれど、それだけだ。
「ひとりで、出来る。お姉ちゃんも、どこかで生きてる。私は……負けたりしない」
 自分にそう言い聞かせながら、カエデは夢と共に焼け落ちていく。

◆■◆

 彼女は常に明確な意思を持っているようで、風のままに流される不穏な旗のようで、あるいは何か、もっと大きなものに従って動いているようにも見えた。真っ赤なその目の中で一切の感情は斬り捨てられて混ぜ合わされ、原色の荒廃だけを見ているかのようだった。
 つまり──カーマインは意思表示をすることが滅多にないが、自分がしたいと思ったこと、そうすべきと思ったことの実行にかけては異様に頑固だった。
「止めたんだよね?」
「雪の中を倒れてたのに防寒着も着ないって言うし、何をしでかすか分からないし……でも、かといってマイラだけのコロニーへ置き去りにしても…ちょっと怖いし…」
「まあ、それは確かにそうだけど…」
 ジェンダールはディムロスを振り返った。彼も、あまり重装備ではない──彼は自ずから熱を放っていた。
 ビルギルも同じようにしたがったが、ニュムラに押し切られて分厚い防寒着を着込んでいる。(病人が身体を冷やしていいわけないでしょう!?)
 それでも、一番着込んでいるのはフローラとジェンダールだった。
「ふわっふわしてますわね!ふわふわ!」
 彼女は防寒着を見るだけでテンションを上げ、一番気に入ったものを三着重ねて着込んでいた。もはや歩く毛玉のようになりながら、同じく毛布でぐるぐる巻きにされたカエデと一緒に籠へ乗り込む──乗り込む、というよりは荷物のようだったけれど。
「…これ、どういう仕組みで動いてますの?扉もないのに……きゃっ、開いた」
「開け、とか、見せろ、とか、そういうことを念じるとその通りになるみたい。あとのことは…よくわからないんだ」
「入ってみた感じ、案外断熱性は高いし、すごく丈夫みたいよ」
 ニュムラはそう言いつつ、ジェンダールを見てくすっと笑った。
「大丈夫、ジェンダールさん?歩ける?」
「歩けるよ!…なんとか…」
 雪の上を歩くために編まれた平たい靴を上げ下げしてみせる。ニュムラ以外には慣れない装備だった。ディムロスは明らかにフットワークを心配していたが、これを履かないとそもそもまともに歩くこともできないのだ。
 例外はやはりカーマインだった──彼女は自在に足元から血のスパイクを形成し、どんなに深い雪でも切り裂いて進むことができた。
「もう少し、毛の量を減らしたほうがいいわ。疲れてしまっては元も子もないし」
「元も子もなくても、寒いよ……もっと寒くなるんでしょ?」
「そうね」
 ニュムラは頷き、雲の向こうの太陽を仰いだ。
「北へ向かうわけだから。それに、ここは丘で風が遮られているけれど、外はそうもいかないわ」
「……本当に大丈夫なの?」
「少なくとも、私は慣れているわ。薬師としてあちこち出歩くこともあるし……私の言うことをきちんと聞いてくれれば大丈夫。心配しないで」
 それは半ば自分に向けた言葉でもあった。ニュムラはこの一行を振り返る──ディムロスとビルギルは互いに意識を向け合い、一定の距離を保っている。ルシスの籠にはカエデとフローラ。カエデの容態はどうやら安定していたが、依然として高熱は収まらず、意識も不明。ジェンダールは旅慣れているようだが、雪原には不向きな性格だ。そして、彼らの後ろから黙々とついてくるおそろしい長身の存在。
(……大丈夫。大丈夫よ、ニュムラ。私がきちんとやり遂げれば、必ず)
 祈りを嘲笑うように北風が嘶き、分厚い雪が降り始めた。だからと言って、立ち止まるわけにはいかない。身体の芯から力を奮い起こし、ニュムラはひょいと籠を背負った。数メートル四方のその籠は、実際のところ奇妙なまでに軽い──彼女は確かに力持ちだが、それを差し引いても軽すぎた。一体どんな材質で出来ているのか、鍛冶師たちはいたく興味を惹かれていたようだった。
(全て終わったら……そうね。きっと、全て上手くいくから)
「行きましょうか。とにかく、絶対に離れないようにね」

七章:裏 所在

「どうやら……お仲間は……やられたようじゃが」
 正面で交差させていた腕を解き、カブラーが呟いた。全身に火傷と裂傷が刻まれ、決して少なくない血を流しながらも、彼は毅然としていた。
「それで?」
 対照的なまでに無傷のローハイドもまた、その態度を変えることはなかった。マーヤはまだ生きている。この男にとって人質は無意味であり、黒曜石のようなその心が傷つくこともないだろう──ローハイドはそれを直感として理解していた。それに、この距離では……無意味な行動に注意を向けるより、正面の敵に全力を注ぐべきだ。今や互いにとって大切なことは、相手を自らの手で殺すということ、それだけだった。
 自らの利益だけを追及し、それ以外のことを理性によって斬り捨てることができる──それは光の有無に関わらず、暗黒街を長く生き抜いてきたものに特有の才覚だった。
 だから、ローハイドは理解していた。狙撃者は倒れた。だが、増援の気配はない。
(共倒れ、か?)
 即座に彼はそれを否定する。都合の良すぎる考えだ。ラピスは確かに精神的に脆いかもしれないが、腕は確かだ。おそらく、もう一人の敵は負傷し、足止めを喰らっている……ラピスの武器を鑑みれば、その傷は相当に深いはずだ。であれば、交戦可能な時間はまだ残っている。
「やる気じゃなあ。儂はほんのちょっぴり動いただけで疲れてしまうんじゃが──」
 ローハイドが投げた短剣を弾くだけで、その身体は大きく左右にブレた。KBAM!
「分かっておるんじゃろ。ヴォイドが……あのヴォイドが来るなら、お前さんの安否さえ保証はないことを」
 カブラーはぐらぐらと揺れながら、しかし健在だった。ローハイドは訝しむ。訝しみながら、自分が仕込んだ罠を確認する。彼がこちらへ歩み寄ってくれば、爆弾の数は五。右へ回るなら、六。左からくれば、この老女ごと爆散させる。仮に跳んでくるのなら──
「お前さんが何を考えておるのか、分かるぞ」
 カブラーはぐらぐらと揺れながら、しっかりと地面を踏みしめる。徐々に流血が治まっていくのがわかる。ローハイドは舌打ちを噛み殺し、細く枯れた指を巧みに動かした。
「フォ、ハハ……儂もな、ワイヤーを使ってみようと思った時期があってな……」
 銀の残光が尾を引いてカブラーに襲い掛かる。ふらりと影のようにその身がしなり、胴体を切断しようとしていたワイヤーを四本腕に受け止めた。
「……それで、防御したつもりか?」
 ローハイドが力を込めると、四方からその腕が引っ張られ、老いた地虫の身体がゆっくりと浮いた。磔の四肢がぎしぎしと軋む。項垂れた彼は囁くような呼吸を繰り返し、全身の力を抜いている。ローハイドは疑念を捨てきれぬまま、それでも己の怒りでそれを塗り潰した。
「殺して、やる」
 カブラーの腕が引きちぎれ、溶けた影のような血が吹き出す──その瞬間をローハイドは幻視し、閃光のような反射神経で防御態勢をとった。叩きこまれた右上腕ストレートが、交差腕の防御を、砕いた!
「な……」
 なんというスピード。カブラーの背後で一斉に地雷が起爆し、虚空に向かってその花を咲かせた。ローハイドはよろめき、次の拳を見つめながら理解していた。カブラーは敢えて腕にワイヤーを絡ませ、ガントレットごと脱ぎ捨てることで自由を得たのだ。素手の左拳でローハイドを打ち据えながら、両の下腕がたわんだ。
 ふたつの掌打が胸を打ち、執行者ローハイドは血を吐きながら吹き飛んで、石の壁に激突した。カブラーは宙を所在なく漂うワイヤーを素手でつかむと、思い切り引っ張った。
「貴様、なにを……!」
「フン」
 引きずられてくるローハイドに蹴りを入れて黙らせると、彼はマーヤに歩み寄った。
「生きておるようじゃな」
「そりゃ……ね。あたしは…あんたより先には…」
「黙っておれ」
 爆弾を抜き取り、投げ捨てる。腹に響く震動があって、小さな花が咲いた。
「儂はすぐにここを離れる。そこのジジイも連れていくが……アイシャの奴め、いつまで遊んでおるんじゃ」
「こんな婆のことは放っておくんだよ、カブラー……どうせ永くもないんだ。足の二本や三本、あってもなくても同じさね」
 マーヤが苦しい呼吸の下からそう呟く。
 その顔の横に、ぽたりと血の雫が落ちた。たちどころに蒸発し、焦げた匂いが鼻をつく。カブラーが空を仰ぐと、静まり返った時計塔から銀の身体が真っ直ぐに落下してきた。三点着地で衝撃を殺し、高らかに言い放つ。
「そんなことないッ!おばあちゃん、待ってて!今すぐ繋いだげるからね!」
「阿呆」
「痛い!」
 カブラーに殴られたアイシャが不満げに唸った。
「なによう……」
「お前の血なんぞ流し込まれたら普通の者は死ぬわい。接ぎ木でもして、その辺で休ませてやれ」
「おじいちゃんは?」
 カブラーは少し考え──
「もちろん私も行く!」
「駄目じゃ」
「なんでよう……」
 にべもなく断られたアイシャに睨まれながら、カブラーは自分の傷を確かめた。……確かめるまでもなく、重傷だ。焼けた傷跡から血は出ないが、意識的に痛みを殺せる彼でなければ到底動けるはずがない。
 幸いと言えるかどうか、腕に深い傷はない。戦うことは──まだ、できる。
「……ま、安心せい。お前たちに危険が及ぶことはあるまいて」
「それ、どういう意味?おじいちゃん、言っておくけど、私はおじいちゃんを死なせるつもりなんてないからね」
 アイシャは真剣だった。だが、カブラーがそれを許さないと言えば、誰もそれを押し通すことなどできないのだ。
「分かっておるよ」
 背中に打ち込まれたヒサメのアンカーが疼いた。少しずつ、だが確実に近づいてきているのだ。だが、まだ遠い。できることはあるはずだ。
 ワイヤーで巻いたローハイドの身体を引きずりながら、カブラーはひらひら手を振った。
「マーヤ。戻ったらきちんと謝罪をさせてもらうからの」
「……戻って、くるんだよ」
「おう、分かっておる」
 ライザール旧市街の複雑な路地へ消えていく老いた背中は、いつもより細く見えた。アイシャは最後まで逡巡していたが、結局──それを見送るに留めた。彼がそう望むのなら、彼女ですら足手まといになるだろう。



 何度もつまづきながら、それでもアオイは振り返らず、もう一度刀を抜くこともなかった。恐怖に支配されたから──ではなく、冷静な判断の上で、彼女は岩の回廊をひたすら走り続けていた。
 あれの正体を考えるのも、立ち向かうのも、今は後回し。斬りかかったところで勝てる見込みはなかったし、そもそも生物なのかもあやふやなモノを相手にする理由はなかった。今はただ、シャグナイアが頼りだ。彼女ならああしたものについて、何か知識を持っているかもしれない。
(シャグナイア──!)
 アオイは後悔に歯を食い縛る。彼女を置いてきてしまうなんて。自分が情けなかった。雨の音と蟲の声に騙されて、更には逃げ帰ってくるなんて。
 ざあっ──ひときわ蟲の声が大きくなった瞬間、アオイは地面を蹴った。巨大な根が突き出し、泥水が跳ねる。かつては緑だったのか、まだらに汚れた無数の蔦が歪で巨大な螺旋を描いているのがわかる。
 ぬかるみのせいで飛距離が足りず、アオイは咄嗟にその根を蹴って再び跳躍した。爪先から伝わったのは岩のような硬度と、抑えつけられたような震え。もしも直撃しようものなら、木端微塵になるのは間違いない。高さを得たアオイは身体を翻し、初めて背後を見た。
 霧の海をかき分けて、巨大なシルエットが蠢いている。それが何なのかはやはり判然とせず──落下が始まる。地面に空いた穴に泥が流れ込み、滑らかに覆い隠していく。
(来るっ)
 再び、今度は逃げ場のない空中でそれと相対せねばならない。蟲の声、雨の音。もはやそれらは同調しておらず、何かを待ち望むような蟲の声だけが大きかった。スローモーな視界の中で地面が割れ、彼女の身体の何倍も太い根塊が突き出してくる。重い空気を切り裂き、犠牲者を求めて。
 抜刀。刃が閃くと、蟲たちは黙り込む。身を守るように沿わせた刀が大質量に激突した瞬間、引き延ばされていた時間感覚が解放された。ぎゃりん!悲鳴のような金属音と共に火花が散り、アオイの身体は地面と水平に吹き飛ばされる。
 重く大きな甲虫族ならそのまま岩に激突していたかもしれないが、アオイは身軽な刃鉄の一族だ。三度身を捻り、大岩の表面を両脚で踏みしめる。激しく手が痺れたが、持ちこたえ、そして──
(──うそ!?)
 アオイが立っていたのは、先程の雨宿りの岩だった。そして──ぬかるみの中に、きらきらと輝くガラスの破片めいたものが散らばっていた。
「シャグナイア!シャグナイア!?」
 叫んでも返事はない。彼女の姿も、当然ない。破片の横には黒いひとまきの布があり、羽のブローチが雨の中でも銀色に輝いていた。
「──どうして──」
 地響きが近づいてくる。アオイのことをどうあっても殺すつもりのようだった。アオイは考え──考え、られない。どうする。どうしよう。咄嗟に駆け寄って、夜闇のような布を拾った。大きな一枚の布は不思議な素材でできていて、雨にさらされていたにも関わらず、少しも濡れてはいなかった。
 霧の向こうで敵意が膨れ上がり、地面が揺れる。円形に開けた地形の真ん中で、アオイは周囲を見渡し──視線の先で轟音と共に岩のような根が突き出した。更にその横。その横にも。あっという間に、彼女の周囲を得体の知れない根塊が取り囲んだ。
(どうしよう。ごめんなさい、シャグナイア──)
(シャグナイア、悪いことはされていない。謝らなくてもいい)
(ううん、私が置いていったから………)
 アオイが息をのむ。耳障りな音の一切が遠ざかり、透き通ったその声がするりと脳裏にすべりこむ。
(イアの民は、もうすでに、見つけている。だから、心配はいらない)
 消え入りそうなその微笑みが聞こえた気がした。
(アレも、そうだ。だけど、間違えた。イアの民は見つけている。でも、本当にそれを実行できる者は限られている。シャグナイアはそのひとりだ)
 見つけているって何を?貴女は今どこに?何があったの?アオイはいくつもの問いを封じ込めた。一瞬のやりとりだった。アオイが飛びのくと、立て続けに根塊が大地を割って突き出す。夜闇を切り取ったような黒布がひらひらと雨の中を舞う。
 石化した根の上に降り立ったアオイはもう逃げなかった。腰を落とし、刃を滑らせる。すると蟲たちは一斉に静まり返るのだった。鋼が嫌いなのか、それとも他の何かなのか。囁きが波紋のように彼女の身体にひろがる。
(大丈夫。シャグナイアも思い出した。この場所を──道はいつでも変わるもの。だけど、大地は決して忘れない。シャグナイアが忘れても、大地は覚えている。そして、イアの民は大地そのものだ)
 アオイは静かに集中し、敵意の所在を感じ取ろうとする。今までにないほど澄み切った感覚神経が霧の向こうを鋭敏にとらえ、更に奥へと伸びてゆく。透き通ったガラスのような腕が添えられているのを、感じる。
(見えるか。あれは、もう、イアの民ではない。イアの民は大地の記憶とひとつになる。今のシャグナイアがそうであるように、この身の真実を受け入れる。……だけど、むずかしい。ほとんどは、消えていった。風になって、水になって、炎になって、石にかわって、消えていった)
 地響きと共に岩塊が姿を現した。高さだけでも十数メートルはあろうかという楕円の岩に無数のツタ植物が絡みつき、それが苛むように表面を這い回るたび、古い古い、ブライト・ラプトよりも遙かに古い時代のコインがじゃらじゃらと音を立てた。
 アオイは思考の隅に直感を覚えた。あれはルシスのものだ。輝ける都が門を閉ざしていなかった時代のもの。だから、惹かれるのだ。そこに遺された光の残滓に。
(おまえたちは賢い。イアの傍流よ。継ぐものよ。見えるはずだ。灰の民は命を選んだ。イアの民が燃えゆくのを見て、その灰に己を投影した。彼らは永く、命の在処を知る)
 まぶたの裏にビジョンが見えた。灰色のひょろ長い身体をした男は所在なさげにあたりを見回し、やがて傷ついた老爺が現れるとそれに駆け寄った。
「カブラーさん……!?」
(──これは繋がりだ、アオイ。おまえは見つけようとしている、我が傍流。月の民は流浪を選んだ。イアの民が水となり、月を映す湖へ沈みゆくのを見て、その光に己を投影した。彼らは彷徨い、ただ己の在処を知る)
 景色が切り替わった。雨の帳が降りる荒野にゆっくりと進み出るのは、刀を携えた蒼白の剣士。サイアンだ。彼の前に、巨大な影の腕を従えた恐ろしい存在が近づいていく。
「何………何なの……」
(気を確かに。今、おまえは対峙している。我が傍流。皆がそうだ。刃鉄の民は、そう、刃を選んだ。イアの民がその身を貫き、鋼の中に命のなんたるかを見出そうとしたその日から。彼らは焦げた風を吸い、山を崇め、舞い踊る)
 景色が、切り替わった。燃え上がる闇の中に、隻眼隻腕の少女が立っていた。
「────!!」
 カエデ。叫びは冷たい風にかき消され、辺り一面に真っ白な世界が広がっていた。まばゆい光の籠の中にカエデがいる。知らない者たちが一様にそれを取り囲み、ゆっくりと進んでいく。ふと、そのうちの一人が振り返った。優しい緑の複眼をしていたけれど、彼には色が見えていなかった。
 目が合うと、彼は不思議そうに首をかしげた。そして慌てて列に戻ると、吹雪の中に消えていくのだった。
(目を開け。お前は光を浴びたのだ。シャグナイアが手を貸そう)
 否応なしに現実がアオイを襲う。困惑さえも許されないまま、彼女はそれを知る。
「……見えた」
 巨岩と見えたものは、虚ろな継ぎ接ぎだ。石くれや土、あるいは亡骸を転がして、固めて、大きく大きく見せかけるためのもの。そこに無数の種が突き刺さって芽吹き、彼──空洞の中心で座した彼から、安息を奪った。種を植え付けたものの存在までは読み取れないけれど、酷く冷たい気配が残っていた。ただただ邪悪な者の残り香だ。
 シャグナイアが笑った。
(解き放って。あれはもう死んでいるけれど、死に切れていない。殺すのだ。おまえの光で)
 光。ルシスの光。突如として彼女に使命を与えた光──
「辿り着くんだ。ルシスに。シャグナイア、あなたと一緒に」
 それで、全てがきっと解決する。
 深く息を吸う。雨は降り続いていたけれど、アオイの眼には光が見えた。一直線に光の道が伸び、巨岩の一点に吸い込まれていく。びりびりと大地が震え、殺意が張りつめた。
 次に何が起こるか、アオイには見えていた。この場所を埋め尽くすほどの殺意が顕現し、以て彼女を串刺しにしようとしているのだ。だが、その光景が現実になることはない。
(おまえは光だ。往くのだ)
 碧い閃光が迸った。それは刃の残像であり、その軌道はまさにアオイが幻視した光の道だった。刹那にアオイは巨岩の一点に刀を突き立てていた。
 鈍い轟き。刃に絡みついて勢いを削ごうと試みた触手の群れが片端から焼き切れてはもがき、縮んで、捩じれて落ちる。再びアオイの前に光の道が現れる。CRACK!碧の稲妻めいてその距離をゼロ化し、アオイの身体は空洞の中心にいた。その刃が貫いていたのは、かつて生物だったもの。ぼろぼろに風化した木の枝のような、誰かの亡骸だった。
(サヴラマ=イ・ア。お前の名を知っている)
 アオイの刀を中心に無数の光の道が枝分かれして伸び、古色蒼然とした空洞を満たした。浄化の輝きが邪悪なものの根を焼き払うのを見届け、アオイは一気に刃を引き抜いた。
「……さようなら、遙かなるもの」
 全ての光が亡骸に集まり、燃え上がった。雨の中でも揺らぐことのない紺碧の炎が亡骸を最後の一片まで燃やし尽くすまでに、時間はかからなかった。

八章:表 リフレイン


 ただただ白が広がるだけの世界では、徐々に時間感覚が失われていくものだ。特にこの環境に慣れていないものからすれば、その齟齬は更に大きなものへ変わっていく。昼か夜かも分からなくなり、自分がどちらへ歩いているのかも分からなくなり、寒いのかどうかさえ分からなくなっていく──
 しかし、この地に根付いた者には分かっている。昼なのか夜なのか、進路が正しいのかどうか。いつになったらこの雪が止んで、春がくるのか。

 まるで、怪物の口の中から外を見ているみたいだ。ジェンダールはそう思った──小さな洞窟の入り口は太い氷柱がいくつも垂れ下がっていて歯のようだ。ニュムラが言うにはきっかり半日歩いたというけれど、皆の感覚はほとんど曖昧になっていた。
 振り返ると、彼の身体よりはるかに大きな氷柱が数本、なめらかな切断面を向けて転がっている。
「これじゃ虫歯の怪物だ」
「虫歯?」
「ううん、なんでも……」
 歩き続けていたニュムラが突然立ち止まり、岩の間に口を開けている洞窟に彼らを導いたのだった。ただの起伏としか見えない丘の上だったけれど、彼女が言うには……ここは埋もれているだけで、実は山の一部であるらしい。どれだけの雪が積もり、どれだけの厚みの下に本当の地面があるのだろう?
 場所によるのよ、とニュムラは笑ったが、ジェンダールは不安だった。もしも雪に穴が空いていたらどこまで落ちてしまうんだろうと考えたからだ。

 洞窟の入り口は氷柱で塞がれていたが、カーマインがそれを撫で斬りにした。何もない空間から現れた深紅の鎌の切れ味に、誰もがただ気圧された。
「ずいぶん奥まで続いているのね!これ、どこまで……」
「お嬢様、あまり奥に行かないでください」
「ちょっと覗いてみただけですっ」
 むくれるフローライト。ディムロスはとうにその奥まで行ってしまった。彼の頑健さを疑うものは誰もいない。
「記憶よりずっと大きいわねえ。最後に使ったのはだいぶ前だったし……あちこち凍ってしまっているみたい」
 風が入ってこないだけでも、洞窟の外と比べれば数段暖かい。ニュムラはきょろきょろとあたりを見回して、壁面の窪みに手をやった。
「……あった。少し待ってね、いま火をつけるから」
 小さなランタンに火がつくと、妖しい陰影が空間いっぱいに広がった。もっともジェンダールの目に影はよく見えないのだが。加えて、カーマインから溢れ出る強烈なオーラが彼の視界を妨げてもいた。
「ここは……抜け道のような場所なのですか?」
 ビルギルが尋ねる。
「自然にできたもののようにも見えますが」
「そうね」
 ニュムラは頷きながら、服の内側に手をいれてもぞもぞと何かを探している。
「もとは水が流れていたの。北の山から湖に注いで、そこから地下水脈がきていた……もし春が来て、湖が溶けたら……ここも川になるわ。だから、この道を使えば」
「湖のコロニーまで、雪の中を歩かなくてもいいんですわね!?すごいわ!」
「本当は雪の中を行くつもりだったのだけどね。籠を持って通れるかどうか分からないし……最悪、カエデさんだけ抱えていくことになるかもしれないわ」
 ごう……洞窟の奥から、重い風の流れが届いた。カーマインがゆらりとそちらを向く。
「風……?」
「おや」
 ビルギルも顔を上げる。暗がりからゆらりと黒い姿が現れ、軽く咳き込んだ。
「岩が通り道を塞いでいたぞ。本当に繋がっているんだろうな」
 言い方からして、それをどかしてきたのだろう。それなりに無茶な方法で。
「岩?変ね……誰も入っていないように見えたのに。あ、あった……はい、ディムロスさん」
 ニュムラがようやく引っ張り出した瓶には、カラフルな粒状のものがぎっしり詰まっていた。ぱらぱらと三粒とって、ディムロスに手渡す。
「……砂糖か」
「そう!お砂糖の結晶ね。お花の香りがするわ」
「感謝する」
「久しぶりにディムのお礼を聞いたなあ」
「……」
「なんでもない」
 ニュムラはくすくす笑った。
「ジェンダールさんも、はい」
「ありがとうございます!」
「あ、あの、わたくしも」
「はい、はい。どうぞ、フローラさん。ビルギルさんも」
「やったあ!」
「ありがとうございます」
 それから──カーマインは何も言わずにぬっと手を出した。恐る恐る、ニュムラが瓶を振る。ぱら、ぱら。砂糖の粒をじっと見つめるカーマイン。誰もがそれを注視し──
「……」
 ひょいと彼女はそれを口にした。緊張感がほどけ、皆がそれぞれにちっぽけな砂糖菓子を口にする。
「甘い!」
「実に、貴重な甘味ですね」
 言いつつビルギルは少しだけ遠くを見るように目を細めた。
「ええ、去年の残りだけど……きっともうじき、また作れるようになるわ」
 和やかな一瞬、ジェンダールはふと外へ意識を向けた。誰かが見ているように感じたのだ。
(誰か……いる?)
 外は吹雪だ。ジェンダールにとってはひどく視認性が悪い──何もかも白く見えるせいで、起伏の判断もつかない。それでも逆に、命ある存在がいればすぐに見分けることができた。
 ゆっくりと、彼は内なる目を開く──左に立ったカーマインから、赤い波動がもやのように溢れ出ている。それは強烈な渇望と絶えることのない一種の喜びからなるものだ。それを言語化することは難しい。強いて言うのなら……生存。生きていることへの喜びに近い。
 ニュムラの姿は青く縁取られ、ビルギルはやや濁った銀。かすかにそれが揺らぎ、ジェンダールに意識を向けた。慌てて視線を移すと、フローラの姿は明るい緑とピンク色のグラデーションを描いている。ルシスの籠の中には、溶けたようなオレンジ色の光が瞬いているのがわかる。
(……)
 やや離れて、ディムロス。燃え尽きる寸前の炭のような色の炎。洞窟の外へ意識の手を伸ばすと、あとは何もなかった。ただただ隔絶の銀世界を睥睨しても、生命の反応はない。
(考えすぎかな)
 そんなジェンダールをじっと見つめるビルギル。その間にディムロスが割って入り、視線を遮った。
「休憩が済んだなら、行くぞ。籠は通れるのか?」
「しばらくはこの広さが続くから、大丈夫なはず。でも……」
「いや。行けるところまでで構わない」
「帰りもこの道を使うことになるでしょうしね。カエデちゃんのこと、任せてちょうだい」
 ディムロスが頷いて、歩き出そうとしたとき──
「失礼。少しよろしいですか?」
 唐突に、ビルギルが口を挟んだ。彼がディムロスに直接話しかけるのはほとんど初めてだ。
「──なんだ?」
(ディム、もうちょっと穏やかに……)
「お話しておきたいことがあります。……我々の事です。よろしいですね、お嬢様」
「い、今ですの?心の準備が…」
「今でなくてはなりません。時間がない──そうでしょう、ジェンダール様」
「僕!?」
 突然に水を向けられたジェンダールが慌てふためく。
「時間って言われても、何のことだか……」
「そうですね。まずは……私の力についてお話いたします」
 ディムロスが注意を向けたのがわかる。折り隠した副腕に力が入っている。
「待て。一方的に情報を開示する気か?何が目的だ?」
 唐突に始まった剣呑なやり取りに、ニュムラはついていけない。手を揉みながらじっと見つめるだけだ。
「……気付いていらっしゃるのでしょう。私には不思議な力がございます。離れた場所の会話を聴いたり、その場に起ったことを読み取ったり。そうした力について、我々の国では理解がありません。ごく一部の限られた人物だけが、その秘密を独占しているのです」
 フローラも同じく、じっと自分の従者を見守っている。更に言えばジェンダールも、じっとディムロスを見つめるだけだ。実質的に、これはディムロスとビルギルの問答だった。
「この力はもともと、旦那様と奥様の……お嬢様の、ご両親のものでした。ですが、今は私のもとにあります。本来はお嬢様が受け継ぐべきものなのです」
「異術を、受け継ぐ?」
「異術、と言うのですね。我々の認識では、これは……理解の及ばぬ領域からもたらされた、代償を伴う神秘の技術、それだけなのです」
「ふん。その点で言えば俺たちにとっても同じだ。異術は誰にでも……ナイフを使うように、簡単に使えるわけじゃない」
「…………そうです。誰にでも使えるというわけではない。だからこそ、元老院は……」
 フローラが不安そうな顔を向けたのを見て、ビルギルはすっと微笑み返した。
「ともかく、です。私たちは逃亡者だ。信じてほしい──私はお嬢様を安全な場所まで送り届けなくてはなりません。そのためにならどんなことでもする、その覚悟がある」
「それで?結局のところ、何が言いたい」
「時間がない、と言ったのはそのことです。我々が逃亡者である以上、当然ながら──」
「ビルギル!」
 フローラが叫んだ。それより一瞬早く、カーマインが反応していた。
(あつまれ)
 誰もがその声なき声を聞いた。真紅の雫が一滴地面に落ち、瞬時に巨大な血色の壁を形成して来た道を塞いだ。ニュムラが呆然と呟く。
「な、何!?何なの、突然……」
「追手がかかっているわけだ。俺たちを巻き添えにして──」
 ディムロスは敵意を剥き出しにしたが、ビルギルは泰然とそれを受けた。
「そうです。貴方たちがいれば、まだ抗いようはある。帝国の“黒刃”を、殺し得るかもしれない」
「ディム!」
 争っている場合じゃない──もちろん、そんなことは分かっている。二人は交錯した。それでじゅうぶんだ。
「ニュムラさん、急いで!フローラも乗って!僕が後ろにつく!」
 びし、と厭な音がした。カーマインの作った血のクリスタルに、黒い染みが広がっていく。外側に、いったい何が──振り返ることなく、ニュムラをせきたて、ジェンダールは洞窟の奥へ。
 ディムロスはナイフを抜き、深く息を吸った。ビルギルもゆったりとそれに並ぶ。ディムロスの首元が灼けつくように熱を持った。異術の気配だ。
「申し訳ないとは思っています」
「必要ない」
 ディムロスの言葉に、ビルギルはやや意表を突かれたようだった。彼はもはや興味もないというようにナイフを弄び、じっと戦いに集中している。意志を持った剣のように。
「俺がお前なら、同じことをした。どんな手を使っても生存する──それはセベクにとって至上の主義だ。理解する」
「…………外の方は、本当に不思議です。驚くことばかりだ」
 そして、執事服の内側から自身の武器を抜いた。先進的な機構が詰め込まれた、細身の筒状──火打石が組み込まれた撃鉄と滑らかな引き金、彫刻の施されたシリンダーに至るまで、全てが黒く輝く特別な金属で造られているのがわかる。当然ながら、ディムロスはそれを見たことがない。
「近接格闘にはあまり自信がありません。ご容赦を」
「フン。どんな相手だ」
「私が見た時は鎧のようでしたが、おそらくは別の形をしているでしょう。“黒刃”とは──」
 クリスタルの亀裂が深まり、そして、砕けた。
 紅い破片が飛び散り、その向こうには背景が霞むほどの黒い靄が立ち込めていた。ディムロスは微かに既視感を覚える──まさか。
「機構に過ぎないのです。どこまでも追い続け、殺すための。それに最も適した姿になる」
 ぎらりと金色の光がひとつ現れ、そこを中心に靄が集まっていく。渦を巻いて頭部を形成し、金の光が単眼となって彼らを捉える。流れ落ちるように腕が現れ、身体が這い出す。それが二本の足で凍った地面を踏みしめると、瞬時に黒い焦げ跡が生じて氷を焼き溶かした。右腕が捩じれ悶えながら刃を吐き出し、以てそれは完成する。
「鎧──じゃ、ないな」
「そのようですね」
 フードの奥に黒くうごめく実体があり、ギョロギョロと動く金の単眼が唯一の生物らしい部分だった。全身を包帯のような不定形の布に包み、鱗に覆われた足には歪んだ鉤爪が生えている。呻き、身体をよじるたび、不浄な黒い残像が生まれては消える。刃を持たないほうの手がゆっくりと上がって、ビルギルを指さした。
「AAAAGH…………」
 それは宣戦布告にしてはあまりにも緩慢な動作だった。瞬時に墨めいた残像が尾を引き、同じ速度で動いて間に入ったディムロスの身体が壁面に叩き付けられて血を吐いた。黒刃はディムロスを意に介さず、くるりと手の内で刃を回した。その切っ先は既に──ビルギルの心臓に狙いを定めていた。

「う、う……ビルギル……ビルギル……」
 籠の中で揺られながら、フローラは己の無力に耐えようと膝を抱き、カエデの身体を支えることに専心していた。都を出てからここまで、黒刃に追われたのは三回。どれも、逃れられたのは奇跡としかいいようがなかった。ビルギルはそのたびに命を削って戦い、ただ逃げることだけに意識を向けることでなんとかそれを可能にしたのだった。
 あれと、正面切って戦うなんて。フローラはそれを思うだけで震えが止まらなくなるのを感じた。帝国の“黒刃”は……決して獲物を逃がさない。街を守る“白刃”とは違う、戦闘のためだけに造られた黒き腐敗の刃。輝く帝都を影で守る、かっこいい闇の戦士。きっと誰もがそう思っているに違いない。彼女だって、自分がそれに追われるまではそう信じていたのだから。
「嫌…嫌だよ、ビルギル、お母さま……お父さま……もう嫌、もう失いたくないのに…!」
 遙かに故郷を離れ、ここなら大丈夫、こんな雪原にまで追ってくるはずがない、と言い聞かせていた自分がいた。ビルギルは一言も自分を不安にさせるようなことを言わなかった。その実、必要とあらばあのコロニーの住人を巻き込んでも自分を生かそうと考えていたのだろう。
 もしも、もしも……最悪の想像だけが次から次へと湧いてくる。ひたひたと絶望の足音が聞こえる気がして、フローラは震えながら耳を塞いだ。それは自分の心臓の音で、どれだけ強く念じても小さくなることはなかった。
「嫌、嫌、嫌……!私が、私がもっと強ければ……!もっと、本当に、力があれば…!」

「何が、どうなって、るのよ……!」
 ニュムラは走りつつぼやいた。ジェンダールは答えようとして──彼にも何が何だか分からないことに気付いた。とにかく今はそうするべきと理解して逃げだしたものの、実際のところが何なのかは分からないのだ。
「とにかく、出来るだけ、遠くに──」
 ジェンダールは立ち尽くした。あまりにも見知った、そして絶対に思い出したくない焦げ付いたような甘い匂いがしたからだった。物の腐りゆくような、抗いようのない終焉の匂いが。
 どくんと強く、ジェンダールの鼓動が打った。

 ディムロスは痛みを感じない自分を認識しながら、目の前でその光景を見ていた。黒刃がその名の通りの黒い刃をビルギルの身体に突き立てると、それはバラバラに分解して地面に散らばり、消滅した。
(異術……!)
 溶け出すように背後の壁からビルギルが現れ、銃を向ける。BLAM!
「流石に、この程度では」
 黒刃はそちらを見もせずに背後へ刃を回し、銃弾を受けていた。弾丸は刃に沈み込むようにして無力化し、ずぶずぶと腐って、落ちた。
「AAAAA………」
 確かに、恐るべき戦闘力──だがディムロスにとっては、それ以上に恐れるべきことがあった。腐り落ちた弾丸から、黒刃の残像から、よく知った匂いがしていたから。黒刃はゆっくりと動き、ディムロスとビルギルの二人を交互に見つめる。優先順位を決めているように。ディムロスは血糊を吐き捨て、ナイフを構えなおしながら問う。
「アレは………瘴気を、使っているのか」
 ビルギルは警戒を最大限に高め、次なる幻影を生み出しながら注意深く答える。
「瘴気、とは?あれは輪廻技術……つまり、罪人の死からエネルギーを抽出する技術によって生まれた遠隔操作兵──」
 ディムロスは絶句する。
(死から生まれる……エネルギー……だと!)
 黒刃が動く。その残像の中に、赤い亀裂が走ったように見えた。邪悪な嗤いが。

(力が……あれば……!お父さまのような力が、お母さまのような意志が、私に、あれば)
 誰かがその耳元で囁いた。フローラは弾かれたように顔を上げる。揺れる籠の中、眠り続けるカエデ以外には誰も居ない。どくん、どくん、心臓の音がうるさい。誰かの声が優しい。
(もっと……私が、強ければ……!)
 囁きがさらに近付き──どくん!強く、鼓動が打った。
 それはフローラのものではなかった。夕陽のような色の、たった一つ残った瞳が彼女を見つめていた。掠れた声で、それでもはっきりと、彼女は言った。不明瞭で邪悪な囁きを打ち消すように。
「貴女はもう、強いから。だから、騙されないで」

九章:やがて全なるもの

 赤い夢の終わりは唐突なものだった。何度も何度も繰り返す灼熱の夢の中をカエデはひとりで漂い、強く強く自分を意識することでその中に溶けまいと努力していた。炎の中に炎を見分けるような途方もない作業だったが、カエデにとっては舞いにも似ていた。
 受け継がれてきた動きの中に、言葉とは違う、けれど言葉に近いものを見出すための舞い──それは戦いの動きとも同義であり、身体に、心に、染みついた所作の一環だった。
 ある時ふとカエデは気付いたのだ──文字通り、この夢は繰り返している。
 姉の姿が、山の心臓が浮かんでは消え、ひとりきりで取り残された寝床の冷たさを思い出し、刀と分厚い辞書と少しの食べ物を持って家を出た時のことが鮮明に蘇り、たくさんたくさん歩いて、大きな森の縁で不思議な修道服の女に出会った。
 カデーナに導かれるままネアロスの檻に踏み込んだ時のことを、戦慄と共に思い出す。ただただ綺麗だと思った。降ってわいたように建つ聖堂に招かれて、奇妙に生気のない信者たちと何日も共に過ごした。旅人は他にも数人いたけれど、気付いたときにはいなくなっていた。
 あの日彼らと出会わなければ、きっとカエデも「いなくなって」いたのだろう。ぶつんと全てが途切れて、そして、また、繰り返す。ゆっくりと残った腕を上げ、刃を強くイメージする。夕陽のような色が視界の端でひらひら揺れた。強く強く、意識する。
(──お姉ちゃん──!)
 繰り返しだ。何度も何度も……そこに、誰の意志も見えなかった。オズの声は確かに聞こえていたけれど、それは彼女に向けられたものではないのだ。自分が今どこにいるのか、正確に把握していたわけではないけれど、それでも──あの邪悪な存在に直接触れた彼女にははっきりと理解できていた。ここは、オズ・キーランの勢力圏ではない。かつてはそうだったのかもしれないが、今はそうではない。たとえ瘴気が漂っていても、それを通じてコンタクトできる場所ではない。
 ならば──自明である。偽物だ。数百の揺らぎの果てで、カエデは刃の重みをついに感じた。誰かが繰り返し囁いていたが、もはや何の問題もなかった。
(戦うんだ。戦わなくちゃ。お姉ちゃんも、戦ってるんだ)
 そこから先はただ、ようやく掴んだ自分を動かすための時間だった。邪悪な虚無の抑圧を跳ね除けるために、力が必要だった。
 その意思に呼応するような、小さな囁きが届いたのだ。赤く燃え落ちる夢の奈落にひとすじ、蛍石のような淡い輝きが差し込んだ。失った右目にその光は眩しくて、その声はあまりにも危険な震えを宿していた。
(私にもっと、力があれば……)
 その背後にも、赤い影が落ちていた。甘い香りがして、それが最後の枷を外したように感じた。果てゆく生命の嘆きの力、後ろ暗い瘴気のエネルギーが血管をめぐる。どくん!強く鼓動が打った。
 その瞬間、突き出した左腕が赤い影を貫いた。

 解放された五感に流れ込むのは冷え切った空気の重み、不規則な上下の震動、目の前の少女からかすかに砂糖みたいな匂いがする。瘴気の残滓はカエデ自身から零れたものだった。微笑む──苦笑の出来損ないだ。それでも、身体が動くことは分かった。かすれた、けれど芯のある声でカエデは囁いた。
「貴女はもう、強いから。だから、騙されないで」

「す、すごい……抜け道っていうか、これじゃ……」
 洞窟というよりは、氷に塞がれた谷をくり抜いたような場所であることをジェンダールは知覚する。もっと狭い抜け道を想像していたが、そもそもが川であるというニュムラの言の通り──狭いのは入り口だけだった。ゆるやかな上り坂を描く空洞は差し渡しが二十メートルほどもある。
 それが巨大な蛇のようにうねりながらずっと続いているのだ。頭上の永久凍土の向こうに空があって、曇りガラスのようなぼんやりとした光があたりを照らしていた。
「ジェンダール!動くな!」
 その背後から怒鳴ったのは──
「ディム!?」
「説明はあとだ!構えろ!」
 言いつつ、ディムロスは滑り込むようにジェンダールたちの前に出た。急ブレーキをかけたニュムラがつんのめる。
「今度はなに!?」
「籠を置け、隠れろ、早く!」
 ジェンダールは理解した──瞬間、はるか頭上の分厚い氷が砕けた。灰色の空を背景に、黒い染みのようなものが自由落下してくる。ジェンダールがどんなに力を込めて凝視しても、そこに生命は感じ取れなかった。背景と同じ色。無機物の色だ──そこにぎらりと金色の光が灯った。
 べちゃり!それは氷と岩ばかりの地面に叩き付けられ、ゆっくりと起き上がり、その金の単眼で彼らを順番に見た。蠢きながらその身体が形成されていく──ディムロスが息をのむ。
「こいつは……形が違う」
「生き物じゃ、ない……!」
 ジェンダールが集中しても、それに精神はなかった。揺らがすことも、幻影を見せることもできない!ディムロスがくるくるとナイフを回して逆手に構えた。彼には珍しい、防御一徹の構えだ。
「あっちは大丈夫なの!?」
「──赤いやつが動いた。とにかく、こいつに集中しろ」
「SHHHHHHHHHHH」
 金の単眼を中心に四つの脚が生え、不安定な足場をしっかりと踏みしめる。入り口で交戦したものより身体が大きく、四つ足の目玉という形状は明らかに異様だった。
「SHHHHH………」
 呻きのような声を発しているのはどうやら口らしかったが、それは四つの脚の関節のそれぞれにばっくりと開いていた──生物的と言えばそうだが、およそ正常なそれとは完全にかけ離れている。
「動くなよ、ジェド……さっきもそうだったが、こいつは……何か、攻撃の基準がある」
 ディムロスの言葉の通り、異形の“黒刃”はジェンダールを、ディムロスを、慌てて背後の岩陰に逃げ込むニュムラをそれぞれ見つめる。そして、ルシスの籠を見咎めた。ぎょろり。その眼が盛り上がったように見え──
「SHAAAAAAA!!!AAAAAAAA!!」
 膨らみは明らかに力の予兆だった。尋常ではない規模のエネルギーが収束していくのがわかる。
「伏せろッ!」
 ディムロスに引き倒されながら、ジェンダールは必死でそれに意識をフォーカスした。純粋なエネルギーの塊そのものに不可視の手を添えるイメージ。胸の内でルシスの破片が震えた。
「LLLLLLLLLLLAAAA」 
 破滅的な閃光が走った──ほんのわずかに狙いを逸れて。轟音と呼ぶにも生易しい甲高い音が凄絶に反響し、吹き飛んだ岩肌が無数に降り注いだ。意にも介さずそれを浴びながら、“黒刃”が唸る。土煙の向こうで金色の光がきょろきょろと走査している。
「ぐっ……!」
 ジェンダールは激しい頭痛を覚えたが、そのおかげでどうにか意識を保っていた。ディムロスは──いない。黒い風が土煙を切り裂き、異形の敵に迫るのが見えた。コマのように回転しながら、逆手のナイフを振り抜く。黒い飛沫が散って、黒い足が一本切断された。
「やった…!?」
 ディムロスは止まらず、立て続けに二本目を切断する。その時不意に、金の単眼がその身体にめり込んだ。流動性ある身体の中を移動し、ディムロスの目の前にぎょろりと目玉が現れる──
「LLLL」
 閃光。金色の爆発が大地を薙ぎ払い、ぼろきれのように地虫の身体が吹き飛んだ。必死で体勢を立て直そうと身を捻るディムロスめがけて、破滅の凝視が狙いを定める!
「LAAAAAA」
 ごく細く一点に集中させた灼熱のビームを、ディムロスは正面で受けた。黒曜石のナイフに金色のひび割れが入り──ZAP!偏向したビームが天井にもう一つ穴をあけた。ディムロスは地面を転がって跳ね起き、立ち止まらず真横に駆け出す。黒刃は明確な殺意を彼に向け、苛立たし気に甲高い咆哮を上げる──
「GYORRRRRRRRRR!」
 ZAPZAP!眼球が高速で回転し、針のような短いビームを連射する。踵をかすめる高熱の死を振り切らんとディムロスはジグザグ走行で壁に向かって走る!ZAPZAPZAP!ビームを撃ちながらその脚が再生していき、再び四つ足でしっかりと立ち上がった。
「LLLLLLRRRR……」
 回転する眼球の中心に、再び超高熱のエネルギーが収束していく。ディムロスを追いかける短いビームは牽制にすぎず、逃げ道を封じたうえで本命の照射攻撃によって跡形もなく消し飛ばすつもりなのだ。
「ディム………」
 ジェンダールは空間を把握し、彼の心理を把握する。ディムロスは真っ直ぐ壁に向かって走っている──三角跳びからの強襲以外に理由はあるまい。壁から黒刃までの直線距離は五メートル足らず、彼の助走ならきっと届く。それでは、自分はただ見ているだけか?彼が壁を蹴った瞬間、正面から巨大なビームが飛んでいくだろう。友が空中で蒸発するのを、ただ見ているだけ?そんなはずはない。生存をこそ至上とするセベクが、その命を預けるに足る友として、するべきことはひとつだけ。
(一度は出来たんだ。二度だって、出来る)
 ジェンダールの意識が吹き飛び、激流のように景色が流れる。エネルギーの波へ向かって、強く意識を、魂を、フォーカスする。
 金色の奔流にはなんの意志もない。ただの力なのだ。力に指向性を与えること、それこそ意志であり、行動するということなのだ。
 ディムロスが壁に到達し、勢いのまま垂直に駆け上る。ビーム弾が無数の爆炎を上げる。ジェンダールは歯を食いしばった。射出の瞬間、そこにしか干渉の余地はない──ディムロスが身を捻り、踏み切った。限界まで引き絞られた単眼の中心に、光が、膨れ上がる!
「LLLLLLLLLLLLLLLLLLL!!」
(光よ!応えて!)
 果たして光はそれに応えた。灼熱の輝きはディムロスの眼前で見えない手に優しく撫でられたように方向を変え、岩壁に突き刺さった。轟音と爆炎を背景に、ディムロスは異形の物体の真上にいた。
「A」
 それは明らかにディムロスを見失っていた。最大火力での攻撃に伴う、ほんの一瞬の空白だった。
 ジェンダールは意識と身体の乖離に伴う激しい悪寒にふらつきながらそれを見ていた。真っ直ぐに落ちた黒いシルエットが金の単眼を縦に貫き、四つ足の真下に着地する。ぱりん──澄んだ音がして、黒曜石の破片が飛び散った。限界を迎えたナイフの代わりに、その右手には脈打つ金のクリスタルめいたものが握られていた。
 それが、その存在のコアだった。
「A────」
 四つ足がもつれ、よろめき、崩れた。急速に光を失いながら、その単眼が最期の力を振り絞るようにぎょろりと動いた。
「ディム──!」
 心配は無用だった。それはただディムロスを一瞥しただけで、ゆっくりと重い瞼を閉じながら霧散し始める。瘴気の匂いはしていたが、それだけだった。利用されていた死のエネルギーが発散していくと、やがて瘴気も冷たい空気の中に消えていく。
「AAAA………………」
 消えゆく存在の閉じゆく瞳は確かにディムロスを見ていた。まるで、微笑んでいるかのように。ディムロスはそれを見つめながら、右手に掴んだ金のコアを握りつぶした。
(A……ありが……と………)

「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!!!!」
 言葉の残滓を聞き終えないうちに、すさまじい絶叫が轟いた。振り向いた瞬間、彼らが入ってきた横穴がまるごと吹き飛んで、無数の石くれが降り注いだ。
 誰かが、岩盤ごと壁を破砕したのだ。
「…………」
 血に濡れたような姿の破砕者はゆっくりと瓦礫を踏み越え、真紅の視線を注いだ。その先で、金の単眼が閃き──滲むような墨色の残像を描いてカーマインに襲いかかった。
 がきん!腐食の刃と真紅の鎌がぶつかり合った──が、均衡は存在しなかった。カーマインが腕を振り抜くと、再び黒刃は吹き飛び、空中で霧散して地上に実体化する。カーマインは退屈そうに片手をぶらぶらと揺らし、敵に向けた。血の一滴が瓦礫に落ちる。
(つらぬけ)
 黒刃の姿がぶれ、瞬時に霧散と実体化を繰り返す。そのたびに地面から血の杭が突き出し、コンマ数秒の差で虚空を貫く。短距離瞬間移動を繰り返した黒い暗殺者の影がカーマインの背後に回る!
「SHH!」
 振り抜いた刃がカーマインの姿を砕いた。砕けた血色の破片が降り注ぎ、身代わりを踏み台に跳躍していたカーマインの流星のような蹴りが蠢く頭部を捉えた。
「GY……」
 その足裏から血のスパイクが生え、その身体を宙吊りに固定する。片足を上げたまま、カーマインはゆっくりと巨大な鎌をその頭部にあてがった。喜悦に表情が歪む。鈍く痙攣しながら、黒刃は霧散しようと試み──
 斬。金の単眼とフードだけが彼女の足先へ残った。
 他の誰もが──ディムロスもジェンダールも、ようやく意識を取り戻したニュムラも、壁の向こうから何とか這い出したビルギルも、それを呆然と見ていることしか出来なかった。
 カーマインは軽くその首を蹴り上げ、指先で何かを弾くような動作を見せた。
(はじけろ)
 ごく小さな血の結晶が、影めいたその額に突き刺さった。流動するその頭蓋へ潜り込み、そして──輝く単眼が僅かに震えた。それが、もはや意志なき暗殺機構の、末期の揺らぎだった。
 刹那、内側から無数の棘が突き出す──そのコアさえ跡形もなく砕けて飛び散り、無数の瓦礫とそこから突き出したままの血の杭に降り注いだ。
 さながら神話のような破壊の光景の中心で、狂った真紅の戦士は小さく嗤うと、全てに興味をなくしたというようにゆっくりと歩き出した。

「ごめん、もう、ちょっとだけ、休ませて……」
 ジェンダールはひゅうひゅうと浅い息をついていたが、それ以上の深刻なフィードバックは受けていないようだった。それが少しだけディムロスの気にかかる。
(……エネルギーの行使量で言えば、かなりの消耗のはずだ。まるで……)
 まるで、少しずつ異術に順応しているかのような。仮にそうだったとして、それは喜ぶべきことなのだろうか。閉ざされたルシスに住まう貴族たちがどんな精神を持っているかは知らない。もしもそこに、少しずつ彼が近付いているとしたら──
「もう、なにがなんだか……」
 精魂尽き果てたように座り込んだニュムラを、ビルギルが励ます。
「もう大丈夫ですよ。……我々を追っていたのはあの二体だけですから」
 そう言う彼も傷ついていたが、そのほとんどは閉所で思いのまま振るわれたカーマインの暴力がもたらした余波だった。とうの彼女は瓦礫の山を降りてから、天井を見上げたまま動かない。
「お嬢様は、ご無事なのでしょうね」
「直撃はしていない。無事だろう」
 ディムロスがそう言うが早いか、ルシスの籠が震えた。ゆっくりとその壁がスライドし、中から二人の少女が──
「お前──」
「か、カエデ!?」
 フローラの肩に掴まりながら、彼女はおそるおそる地面に足を降ろした。その感触を確かめるように軽く爪先で蹴りつけ、少しだけふらつき、やや恥ずかしそうに左手を上げて、
「ど、どうも……えへへ」
「えへへ」
 自分にも注目が集まっていると思ったのか、フローラもつられてはにかんだ。そこに、怯えや絶望を感じ取ることはできなかった。年相応で、何も知らない少女の所作だ。
 ビルギルは彼女にほとんど何も伝えていない──黒刃の姿も、ほんの僅かに見ただけだ。“観光”なんて言葉がまるっきり偽りなのは自明だったが、聡明な彼女はそのことを深く追求したことはない。
「お嬢様──ご無事で、何よりでございます」
 だからこそ、ビルギルは心臓を鷲掴みにされる思いだった。彼女はほとんど何も知らない──両親の死さえ告げてはいない。もっと安全で、暖かく、彼女の涙が誰にも見えないような場所までゆくことが出来たなら──
「身体はなんともないのか、カエデ」
「なんともなくはないけど……なんともないよ。お腹はすいたかも」
「なんともなくないのはお互い様だよ……みんなボロボロのままなんだから。ねえ、ニュムラさん」
「なにかしら?」
 ニュムラはもうついていけなかったが、逆にその諦観が彼女を落ち着かせてもいた。
「さっきのお砂糖、カエデにもあげてくれないかな?」
「そうね、確かに。お腹の足しにはならないかもしれないけど、どうぞ……」
 ニュムラが瓶を取り出すと、ぬっと細長い影がさした。思わず、皆が身体を固くする。
「はいはい、カーマインさんもね、どうぞ」
 彼女だけはもう動じなかった。
(もう、どうにでもなればいいわ──)
 春が恋しいな、とニュムラは考えた。カーマインとカエデの手に順番に砂糖粒を転がしながら、今までは濁ったままだった決意の泉が凍り付いていくのを感じる。
(そうよ。もう、後戻りはしないの)

 長らく乾き切ったままの冷たい谷底で、いくつかの思惑が静かに、互いを感じさせないままに軋みを上げる。

「ここから湖まではどのくらいだ?」
「登り続けて、丸一日くらいかしら。普通に進めば、明日の夜には到着できるはず」
「そうか」
「走らないでね」
 ジェンダールは釘を刺した。ディムロスはライザールからまっすぐ一昼夜駆けぬけてしまうような男だ。
「……分かっている」
「病人もいるんだしさ」
「病気じゃないって!」
 カエデはそう言ってくるりと回ってみせ、三歩ばかりよろめいた。
「……ちょっと、重心がとりづらいだけ」
「歩けるならそれでいい」
 突然に片腕と片目を失ったにも関わらず、カエデの精神に大きな変化はなかった。むしろより積極的で、秘めたる熱意の輝きは増しているくらいだ。そこには姉の存在が大きい──いかなる方法か、確かにあの瞬間、カエデは姉の姿をはるか遠くの地に幻視したのだ。それが幻ではないことも直感していた。
「任せといてよね!」
「……あ、あのう」
 気炎をあげるカエデの後ろで、フローラがおずおずと手をあげた。
「私だけが安全な場所でびくびく震えながら待っているなんて、やっぱり嫌ですわ!それに、今回はそこまで安全でもなかったし……ねえ、いいでしょう?」
 ビルギルは──すでに完璧に服を整え、武器も仕舞って、執事の顔に戻っている──やや逡巡し、主人の熱いまなざしを受け止め……切れず、ゆっくりと頷いた。
「もちろんです、お嬢様」
「やったあ!カエデさんのことも、ちゃんと私が見ていますから!」
 そして、二人はいつの間にか仲良くなっているようだった。ジェンダールがにこにこ微笑む。
「なんか、こう……全部よくなった感じがあるね」
「感じがするだけだ」
「せっかく安心させようと思ったのに、台無しじゃん!」
 怒ったジェンダールを無視して、ディムロスは低く呼びかけた。
「カエデ」
 喋りたがるフローラになにがしかの目配せをしてから、カエデはおぼつかない足取りでそれに近寄る。
「なに、ディム」
「眠っている間、どうだった。何かが見えたか?意識はどこまであった?」
 奇妙な問いかけだったが、ジェンダールはなんとなく察した。オズに直接触れられたこの二人には、きっと何かがあるのだ。“黒刃”と共に瘴気が現れた事とカエデの覚醒とも何か関係があるのかもしれなかった。
「うーん…………夢を見てたのは覚えてる。皆の姿も、うっすら見えてたよ。でも……」
「いや」
 ディムロスは軽く手を振って遮った。
「俺もそうだ。夢は見るが、内容は覚えていない。そういうものなんだろう」
「……うん。でも、何か……嫌な予感がしてるの、まだ。気をつけないと」
 カエデは二度ほど片腕をぶらぶらと動かし、所在なさげに腰のあたりをさぐった。
「せめて刀があったらな」
「蹴ればいい」
 ディムロスの言葉にカエデは声を上げて笑った。
「ふ、あははっ!確かにね、足は両方残ってるし」
「真面目に言ったんだがな」
「まあまあ……ディムもナイフ壊しちゃったしさ」
 ディムロスもまた、地虫たちに伝わる陽心流拳闘術の使い手ではある。暗黒街でその基礎を造り上げ、カブラーに手ほどきを受けた彼の腕前は──実際のところ、ジェンダールもあまり知らない。何故だか、彼は拳で戦うことを嫌うのだ。
 いつだったか気になって、こっそりカブラーにそれを訊ねたことがある。どうしてディムロスはいつもナイフを使って、せっかくの格闘技を使わないのか、と。老いた拳豪はしかし、謎めいて唸っただけだった。
(うーむ。鍛錬を怠っておるわけではないようじゃからなあ……気にしなくてよいのではないか。わしもいつかは、ワイヤーだの鎖だので戦えたらなと思っておるんじゃ。殴るよりカッコいいと思わんか)
(別に……戦わないほうがいいに決まってますよ……)
 相談相手として頼りになるとは言い難い老地虫の顔を思い出し、ジェンダールは少しだけ切ない気持ちを覚える。
「……早く、帰りたいね」
 ディムロスはちらりとその顔を見、何も言わずに腕を組んだ。カエデが答える。
「この洞窟、一本道なんでしょ?さっさと行って、さっさと……何か見つけて、さっさと帰ろう」
「なんか泥棒しに行くみたいな言い方だなあ……」
 苦笑いのジェンダール、気丈に振る舞うカエデ、そしてじっと押し黙ったディムロス。少し先からそれをじっと見つめていたカーマインが、ゆらりと動いた。
「まだまだ歩くんだよ、平気なの?」
「平気よ。これでも身体ひとつでずーっと歩いてきたんだから!病気なわけじゃないし、大丈夫だってば」
 言い終わらないうちに軽く咳き込むカエデ。
「ほら、やっぱり無理してるんじゃ──……何でしょうか?」
 ぬっと顔を出したカーマインにジェンダールが凍り付く。ディムロスは黙って見送ったらしく、こちらを見もしない──ジェンダールには彼の思考がわかる。もしもカーマインがその気になれば、ここにいる全員を百回は殺せるだろう。警戒するだけ無意味なのだ。
 長身の不吉な赤い存在はジェンダールを一瞥し、微かに目を細めた。元から細いその眼光がさらに鋭く、針のように彼を刺す。
「………」
 彼が萎縮するより早く、今度はカエデに視線を移す。カエデにとっては初めての接触だ。
「え、ええと、初めまして。私、カエデ」
 ひょいとカエデが手を差し出す。猛獣の檻に手を差し伸べるような恐怖を感じつつ、つとめてそれを押し殺した自然な動きで。果たして、カーマインはすっとその手のひらに手を重ね──
「っ……?」
 ちくりと痛んだ気がした。カエデが見上げると、恐ろしい存在はただじっと彼女を見つめているだけだ。手のひらは触れ合わず、その指先からは止まることのない血の滴りのひとしずくが零れていた。刻印めいた真っ赤な血痕をカエデの手に残し、カーマインはまたくるっと踵を返した。
「……何だったの?」
「わかんない……ちょっと変だよね」
「いや、だいぶ変だと思うけど……」
 困惑する二人を見ながら、ディムロスはふと思い出していた。自分と初めて顔を合わせたときも──あの時は確か、彼の胸のあたりに触れたはずだ。その感触を思い出すと、さざ波のように奇妙な力の波動を一瞬だけ感じる。さながら己の血が、文字通りに騒ぐような感触を。
「………休憩が済んだなら、進むぞ」
 彼の呼びかけに、座っていたフローラが立ち上がる。静かに目を閉じていたビルギルがその後ろにつき、ニュムラが毅然と先頭に立った。カーマインは──また少し離れたところで、じっと上を見上げている。黄金のビームが撃ち抜いた穴から遠く灰色の空が見えていた。

 なめらかな風を感じる。この地の、他の場所では感じることのできない風だ。雪の混じった刺すような風、しんと重く張り詰めたような遅い風、そのどちらでもない。規則的で、自分の流れる道を知っているような風だ。その中にある輪廻の力を感じつつ、彼女はゆっくりと目を開いた。上向きに開いた手の上にその風がわだかまり、よどんで、渦を巻く。
 長く息を吐きながら、それを少しずつ零していく。細い糸のように、とろりとした蜜のように落ちていく──黒く濁った甘い香りの蜜。それは死のエッセンスであり、同時に再生の象徴でもあった。
 魂は不滅だ。けれど肉体が死ねば、魂はなかなか形を保っていられない。だから──さながら、砂の中で眠れる魚が、特別な粘液を吐き出して身体を包むように、そのための媒体を作り出すのだ。死人の魂がこの世に留まるための、黒い風。行き場のない怨嗟が凝った、病んだ瘴気を。……それが、彼方の帝国で教えられる輪廻技術の基礎知識だった。
「ふう…………──っ」
 長い長いひと呼吸のうちに、座した彼女の前には瘴気の蛇がいた。ゆらゆらと不定形のとぐろを揺らし、禍々しさとは裏腹の丸く小さな目で彼女を見つめている。
 泥をかき分けるようにゆっくりと手をかざし、念じる。もはや意志を失い、単なるエネルギーとなった死のエッセンスに指向性を与える。強く集中する彼女の前で蛇はざわつき、ノイズを走らせ──身体の側面から無数の小さな脚を生やし、キチキチと唸った。
 それは百足だった。
「……よし……」
 かつて──神話の時代、あるいはそれよりもっと昔、瘴気と共に在り、自在に操ることのできた存在がいたという。それは彼女が必死で集めた文献の中にほんの僅かに記載されているだけだったが、不思議と彼女はそれの存在を信じていた。そして、願わくばそれに会ってみたいとも思っていた。
 輪廻のエネルギーは無限の可能性を秘めている。もしもそれを自在に操ることが出来たなら、きっと帝国の暮らしはもっと豊かなものになるだろう。
 たとえ、彼女がもうそこに戻ることができないとしても。
「………」
 首を振って雑念を追い払い、次は魚を作ろうと──
「セリカ」
 穏やかな呼びかけと共に、真っ青な氷の回廊に存在感が満ちた。ぱちんと泡が弾けたように瘴気の渦は霧散した。
「司祭様」
 セリカはくるりと身を回し、正座したまま礼をした。周囲の氷は恐ろしく古いもので、その内側には無数の生物たちが閉じ込められている。セリカでさえも名前を知らない生物の骨までもが埋まっているという話だ──
「わたくしに、何かご用でしょうか」
「いいえ」
 彼はふっと微笑んだ──のだと、思う。純白の布がその顔を隠し、表情は伺えない。それでも、セリカにはわかる。彼はこういうとき、小さく微笑む。
「お客様がいらっしゃるようですよ、セリカ」
「……気が付きませんでした」
「いいえ。永らくあの道も使われていませんでしたから。……ところでセリカ、何か……動かしたり、しましたか?」
「動かした?」
「ええ。輪廻の風を少し、感じましたよ」
 セリカは少し考え──首を振った。
「いえ。何も動かしてはいませんが……まだ、それに至るほどの出力を得られていませんから」
「そうですか。では、ぼくの勘違いですね」
 彼はそう言ってふわりと踵を返した。金の残像が空間に刻まれ、一瞬だけ距離感を狂わせる。魂の光──と、彼はそう呼んでいた。
「“おもてなし”の準備を、しなくては……ね。セリカ、迎えを頼めますか?」
 セリカは立ち上がり、きらきらと瞬く氷の粒を払った。
「もちろんです、司祭様」

十章 狂信の徒


「私たちの故郷──彼方の帝都には、無辜の死をエネルギーに変換する技術があります。詳しい説明ができるほどそれに通じているわけではないのですが」
 歩きながら、ビルギルはゆっくりと説明した。二人が置かれている状況についても。
「それとは相反する奇妙な力もまた存在している、ということが分かってきています。そして、偶然にもお嬢様の家系はそれを代々受け継いできた……旦那様も奥様も、それをただ献上するつもりはありませんでした。彼らの……実験の評判は聞き及んでいましたから」
 彼はちらりとフローラを見たが、彼女はじっと何かを考えているようだった。カエデが口を挟む。
「さっきの……黒いのは、二人を追いかけてきたのよね」
「ええ。あれは……“黒刃”、浄罪騎士団の操る殺人機構です。意思や自我はありませんが、あの通り……まともに相手をすることは困難なのです」
 誰もがカーマインを意識した。さっきまで先頭にいた彼女は、かなり後ろのほうをふらふらと歩いている。それでも決して遅れはせず、気付くとまた先頭にいることもあった。ほとんど児戯のように容易く黒刃を葬り去った彼女の力は──文字通り、誰にとっても規格外のものだった。
 ゆらりとその視線が泳いだので、ジェンダールは慌てて足元を見た。氷に塞がれた谷の底はなだらかで、かつて水が流れていたことを彷彿とさせる跡がそこかしこにある。
(どれもそこまで古いようには見えないんだけどな)
 ジェンダールは、安寧の地にある涸れた川を数えて回ったことを思い出していた。一月かかって完成させた地図はかなり良い値になった──(いやいや、値段じゃなくて)
 さりげなく地面に目をやり、水の痕跡と土の状態を確かめる。色が見えないのは厄介だった。微妙な濃淡でしか判断がつかないからだ。
(うーん……なんだろう、この違和感。僕の知ってる川とは違う……)
 岩肌を眺め、水位を推し量る。水がきていた箇所には必ずその跡が残っているはずだからだ。
(う、見えない)
 だがやはり、色の映らない視界では判別が難しいのだ。ジェンダールはディムロスをつついた。
「ね」
「なんだ」
「壁の両側にさ、水の跡ってある?」
「水位か」
 ディムロスはすぐに合点がいったらしく、左右に目を配った。そして密かに囁く。
(…………違和感を覚えているわけだな、ジェド)
(なんで内緒話なの……)
(さっきお前が言ったことを鑑みれば、警戒はして当然だ)
(何かわかったの?)
 ディムロスはもう一度周囲を見回し、皆の注意がビルギルの話にむいていることを確かめた。
(確かに妙だ。足元に水の跡はあるが……川のように、水位が増減した痕跡はない。そうだな──雨季のトラジェリプスを覚えているか。あの時季、細い川がいくつも現れては消えていく……あれに近い)
(春になって、雪解けの水が流れる場所……自然なような気もするけど)
(水の跡は古い。少なくともこの数年は水など通っていないように見える)
 ジェンダールはふいに呼びかけた。
「ねえ、ニュムラさん」
「はい?」
 乗る者のなくなったルシスの籠をひょいと担ぎ上げながら、ニュムラは振り向いた。
「ええと……冬ってどれくらい続くものなの?」
 少し奇妙な問いではあったが、ニュムラはその意図を解したようだった。
「そうねえ。この冬はずいぶん長いわね。昔はもう少し春が近かったんだけど」
「ふうん」
「大丈夫よ、きっともうじき春になるから。そうしたら、帰り道でもなんでも見つかるはず」
 ジェンダールが曖昧に笑いかけてごまかすと、ディムロスは続けた。
(トラジェリプスのような二季性の気候なのだろうが、それにしても……冬と春の間隔が一致しないものか?徐々に寒冷化している、ということか)
(……流石に、天気そのものに仕掛けができるような異術なら僕が気付くと思うけどなあ)
(……もう少し考える)
 ディムロスの表情は険しかった──険しくないときは少ないが。
 氷の天蓋は遠く、広々とした洞窟の中は淀んだ冷たさに満ちている。ジェンダールも黙って自分の思考に集中する──奇跡を起こすという司祭ドーマ。不可解なこの土地。黒い追手。瘴気と、オズの気配。帰る方法……考えるべきことはいくらでもあった。
「……ええ、追放者には赦しが与えられますが、逃亡者にそれはありません。とはいえ黒刃を退けた以上、追手がかかるとは考えづらいですが……」
 穏やかな口調で滔々と語るビルギルの声を聞きながら、ジェンダールはかすかな高揚感を味わっていた。危険と隣り合わせに、謎めいたこの世界の全てを知りたい。隠された秘密を暴き、お宝を持って帰りたい。そんな稚気じみた欲求こそが彼の原点、セベクの原点だったから。

 開け放した窓の向こうに広がる、真っ白な湖。それを眺める彼の身体に吹き付ける激しい吹雪は直前で柔らかに方向を変え、彼の周囲にぐるぐると不可思議な紋様を作っては消えていく。
 部屋の中は真っ白だった。それも当然、この館そのものが巨大なひとつの氷から造られていたからだ。家具らしきものもなく、ただ殺風景な広い部屋に椅子がひとつと吹雪のカーテンだけが揺れている。
「……」
 風の音は凄まじかったが、纏う服も、顔を隠した布も、少しの揺らぎも見せない。彼はただ世界を睥睨し、その中から何かを見出そうとしていた。この景色を懐かしいと思う気持ちを否定できず、そこに紐づいた記憶をなんとか呼び起こそうとしていたのだ。
 司祭ドーマは──自分の名前しか知らない。長い長い眠りから目覚めて数年、彼はこの村の中で過ごしていた。この生活が気に入ってもいたし、ここ以外の場所へ行く方法もなかった。司祭という呼び名も、村人がいつしかそう呼び始めただけだ。彼は何かを祀っているわけではなかった。あるいは、かつての自分はそうだったのだろうか?
「入りなさい」
 彼にあるのは自分の名前と、他者とは明確に違う存在なのだという意識だけだった。彼がそうなるようにと念じれば、分厚い氷の壁も扉となり、刺すような吹雪もカーテンのように静かなものになる。その力を、彼はあって当然だと認識している。自分はそう生まれたのだという認識があった。
 壁が開くと、一人の女が立っている。柔らかくて白くて丸いシルエット──彼にとって、自分以外の生命体をあまりはっきりと認識することはできない。ただそうあるものと映るだけだ。けれど、どんなに似通っていたとしても間違えることは決してない。どんなに偽ろうとも、仮に全く同じ姿だったとしても、彼の眼は真実だけを映すからだ。
「どうしました、カムラスク」
 蛾の老女は深くお辞儀をした。するとますますその姿は白い雪の塊めいて見えるのだ。
「お客人は真っ直ぐ、迷わずに向かっております。ニュムラも一緒のようですじゃ」
「そうですか。セリカを迎えにやりましたから──」
「ええ」
 カムラスクはゆっくりと顔を上げ、殺風景な部屋をじろりと見回した。
「それが良いですな。御身の傍にはわしらがおりますゆえに」
「?」
 ドーマは首をかしげた。彼にとって自分以外の存在は全て等しく、隣にいるのが誰であっても構わなかったからだ。彼はそうした、他者の感情の機微についてあまりにも疎かった。
「明日まではかかりましょう。御身はしばし休まれた方がよろしい」
「ぼくに休息の必要は…………」
 彼の視界はぐらりと揺れる。カムラスクは微動だにせずそれを見つめる。奇妙な力のうねりがその瞳の中にある。
「……ありませ……ん……」
 そのまま氷の椅子に深くもたれ、ドーマは眠ってしまった。
「それが良い。その方が、ずっとよろしい……」
 カムラスクは穏やかに笑い、眠る旧き種に跪いた。彼の意識が途絶えたその瞬間から、異様な存在感がこの部屋に満ちていた。
「ようやく、春が来る……準備をして、しすぎるということは無い……おお、おお……」
 老女が手を伸ばす先に、ずるりと這い出し伸びあがるものがある。彼の存在、その背後からじわりじわりとと滲み出してくる、黒く穢れた、意思を持つ穴のような──
 それは影だった。眠るドーマの裡に秘められ、彼でさえ気付くことのない深みに凝った影だ。かつて、彼自身が己の全てを捧げて戦ったはずの影。
「おいたわしや、我らが主……我らの救い手、我らの黒き太陽……もうじきですじゃ、次の春が来れば必ず……」
 影は影ゆえに、意思を持たない。ただ虚ろなその手を伸ばし、カムラスクの老いた身体に触れた。邪悪な瘴気が流れ込み、その身が喜悦に震える。恍惚と共に吐き出された息は黒く濁り、不快な甘さに満ちていた。
「……必ず、器が完成する……そうすれば、この器など、砕いてしまえばよろしい……」
 恭しく捧げた両手に瘴気が淀み、名残惜し気に彼女から切り離されていく。カムラスク、影に魅せられ影の赦しを得た彼女は、今や死の風を操る術を心得ていた。ゆっくりと固形化した瘴気の結晶を慎重にしまい込み、立ち上がる。影が薄れゆく。
「それまで、どうかご辛抱を……」

 眠るドーマを残して退出したカムラスクは、やり場のない怒りに黒い目を滾らせていた。それに反応し、懐の結晶が優しく震える。
「……ああ……」
 深く息をついて心を整え、怒りを、憎悪を、ひとつに束ねてしまい込む。溜めこみ続けた汚染の力は確かに強大だ。叩き付ければ、今のドーマを殺してしまうことなど容易い──それでも、今は辛抱しなければならない。
「ご辛抱を──」
 それは自身に向けた言葉でもあり、彼女たち──雪の蛾、失われた光を祀る呪術師が神と崇める存在、あの影への言葉でもあった。
 神の名はオズ。死の風と共にやってきて、世界の全てを闇に包む神。そして、全ての生命を永遠の地へ導く救済の神。ルシスの光に焼かれた残滓すらもこの世に留まり、以て呪いを生み出し続ける、永久の象徴。それを祀る彼女たちは、いつか再び黒い帳が降りた時、真っ先に彼の元へと馳せ参じる宿命を自ら背負った者たちだ。
 だからこそ、その影が弱っていく様を見るたびに彼女は怒りを覚える。ドーマ──かつてこの地を訪れ、そしてオズの影と戦った光の尖兵。ずっと遠い先祖から語り継がれる物語も、カムラスクの憎悪にとってはほんの一瞬だ。
 彼女たち汚染の呪い師は、氷の中で眠りについたドーマからその光を剥ぎ取っていった。長い長い時をかけ、吹き消されんばかりに弱った神の幻影を少しずつ復権していくために。
「……おのれ、おのれ、おのれ……」
 もう少しだった。もう少しで古代種ドーマは眠りの中で死にゆき、力を残した亡骸を器として神の再臨は成るはずだったのだ。この地の全てを生贄と捧げ、永久に続く暗黒の春の訪れを祝うことが出来たはずだったのに。
 二年ばかり前、遙か遠方から訪れたセリカという女が、彼を目覚めさせてしまった。彼女は──あろうことか、瘴気のことを知っていた。そして、それを操る機械をも知っていたのだ。壮絶な屈辱であった。
「おのれ、おのれ、おのれ」
 闇夜は必ず訪れる。だが、沈む瞬間の太陽は黄金に目映いものだ。だからこそ、辛抱が必要なのだ──ほんの一瞬、最後の腕を伸ばす太陽から目を背け、輝きよりなお温かい暗闇を信じるための祈りの時間が。

 降りしきる雪の中、カムラスクは自分の家まで戻ってきたことに気付いた。永久凍土に穿たれた横穴の祠には、長い冬に怯え切った村人たちからの小さな捧げものが満ちている。
「愚かなものよ」
 カムラスクは嘲笑う。やがて春が来るその時、全ての命は露と消えるさだめだというのに。残るものは彼女たち、闇に仕える汚染の従者のみだというのに。
「トララスク」
 そして彼女が呼びかけると、祠の中で壁が動いた。
「……はい」
 壁ではなかった。うずくまり、黒く澱んだ霧を纏った蛾の女が一人。老いたカムラスクと比べると、その巨体は異様ですらあった。
「調子はどうかね、トララスクや」
「……凄く……良いです。ニュムラが見えます。大地と繋がっています……」
「いい子だ」
 カムラスクは黒い結晶を取り出し、トララスクの足元に並べた。微かに震え、瘴気の淀みが溶け出していく。緩やかに流れ込む邪悪な力に、トララスクは淀んだ眼を輝かせて応えた。
「……いいかい。セリカを殺すんだ。今が好機だからね。アレを使うんだよ」
「…………はい。トララスクは、殺します……」
 そして、大きな頭ががくんと落ちた。この地に根を張った汚染の網を使い、彼女たちは通じ合うことができる。彼女のような心身共に汚染されきった者であれば、精神だけを潜行させることも可能なのだ──
「さあ……上手くやるんだよ、ニュムラもね……」
 カムラスクは微笑み、トララスクの隣に腰を下ろした。暖かく心地よい瘴気の流れに身を任せ、その唇からは歌が零れはじめる。
「……黄金の月が……呼んでいる……♪」

 広い谷底は凍った闇に満ちていた。水がそうするように、ごく弱い日差しを飲み込むような暗闇が我先にとこの洞窟へ流れ込んでくるようだ。月の光は弱すぎて、分厚い雲を通り抜けることはない。
 セリカは暗闇をしっかりと見据え、小さな感謝の祈りを捧げた。
「……他の村人を連れてこなくて、本当に良かった」
 呻きが聞こえる──彼女が肌身離さず持ち歩く、精緻な細工の錫杖を通して。杖の内側に微かな震えがあり、それに共鳴するようにして不吉な囁きが聞こえていた。
「二時の方向、それから九時、四時の壁……」
 それは瘴気の探知機であり、彼方の帝都の輪廻技術によるものだった。特別な虫たちが水脈の場所を言い当てるように、彼女は杖を通して瘴気の場所を知る。本来は起動済みの輪廻兵器やガジェットを操作するための機能だが、今は──違う。
「いよいよ、私が邪魔というわけね。いいじゃない──望むところだわ」
 何かが這い出す湿った音が聞こえ、べちゃりと地面に落ちる。ずるりずるり、這いずってくる。錫杖の先から放つ、ほの赤い光だけが頼りだった。セリカは迷わずに進んでいく。
「遅すぎる。これはただの小手調べ、あるいは余波……もっと大きなものがいる。“お客人”の到着前に、私を消してしまいたいのね」
 おそらくドーマは眠っているのだろう。彼女が目覚めさせてからの二年間、少しずつドーマの休眠間隔は短くなっている。力を取り戻しているのだ──それが何を意味するのか彼女は知らない。ただこの土地には邪悪な力が根付いていて、それは彼女より、帝都がそうするよりずっと昔から輪廻の風を知っていたのだ。いい顔をするはずもない。
「やっぱりあのお婆さん、かな」
 苦笑をこぼし、歩みを進める。視界の端に朽ち果てた誰かの顔が映っても、無視する。この道がただの通い路でないことは明らかだった。これは生贄の道。東西ふたつのコロニーから、あの巨大な“炉”に捧げる生命を運ぶための道だ──だからこんなに瘴気が淀む。骸が、嘆きが染みついて、夜になれば湧いて出る。
 なにがなんでも、今回の旅人と合流するしかない。この二年でここを訪れたお客人は二組、三人。全員いつの間にか行方知れずだった。外部の者であれば、力になってくれる可能性はある。
 何より、目の前でむざむざ殺させるわけにはいかない。こんな場所の狂った儀式に巻き込ませるわけには。
「──負けるもんか。お兄ちゃん。法王さま。私は必ず……戻ってやる。聖杯を、見つけて」
 歩き続けるセリカの足元に誰かのおぼろげな手が伸ばされては消えていく。赤い光が柔らかく闇を照らし、ますますその深みを増していく──

「お化けが出るなんて聞いてないんだけど!!!!!!」
「大丈夫よ、何もしてこないから」
「そういう問題!?」
 ジェンダールの叫びが反響し、不吉に歪んで跳ね返ってくる。
「かわいそうよね。何か……残したものがあるのかしら」
 ニュムラが憐れみの視線とともにランタンの灯を向けると、虚ろな姿は呻いて消える。片手で籠を担ぎながら片手にランタンを灯すニュムラは、けれど涼しい顔だった。
「信じられない力持ちね、ニュムラさんって」
 そう言うカエデは、残った片手もフローラにしがみつかれて歩きにくそうだ。夕陽の色のスカーフは、今や怯える少女のための目隠しだった。
「もう大丈夫ですの!?カエデさん、そこにいますよね!?」 
「いる、いるから。大丈夫だよ、フローラ……うわっ」
 前方の暗がりにカーマインの姿が浮かび上がってカエデを驚かせる。初めのうちは面白そうに影を踏みつぶしていたが、どうやら飽きたようだった。
「なんですの!?!?」
「なんでもないよ!」
「うう……ビルギル……」
「ここにおりますよ、お嬢様」
 そしてビルギルは逆の手を握っているのだった。目隠しで両手を引かれながらおっかなびっくり歩くフローラに合わせて、皆の歩みはごくゆっくりとしたものになっていた。
「もう少し歩いたら、今夜は休みましょうか」
「嘘でしょう!?こんな場所で立ち止まるんですの!?」
「お嬢様、灯りがありますから……」
「そういう問題じゃ……う、うう……」
 今にも泣き出しそうなフローラを見かね、ジェンダールは小さく集中した。この影は瘴気に凝った怨念の、そのなりそこないだ。ルシスの光でなら、どんなに弱いものでも焼き払えるだろう──
「おい」
 灯りから外れた暗がりを歩いていたディムロスがその腕を掴む。
「……ちょっとだけだから。あんなに怖がってるんだよ」
「そうじゃない」
「え?」
 てっきり止められると思っていたジェンダールが驚くと、ディムロスは後ろをちらりと振り返った。
「……何か、いる。見られている」
「……またまたあ。こんな時に脅かそうとしなくたって……」
 だが、それは確かに在る。妖しい息遣いのような、くぐもった視線のような、無音の意思だ。穢れの本質に触れたディムロスの感覚と、研ぎ澄まされたジェンダールはそれを感じ取る。色のない漆黒の闇を睨む。
「命の気配は──ない。少なくとも二百メートル」
「だとすれば、このままではお前の眼には映らないだろう。……やってみろ、ジェド。光だ」
 言いつつ、ディムロスは僅かに離れた。黒い身体が闇に溶け込む。亡霊たちはその身体が近付くと顔を覆って離れていく──まるで、見えない炎に焼かれるように。ジェンダールはもう一度意識をフォーカスし、自分の魂を強く意識した。自分の色だ。金のような、銀のような、混じり合った火。少しずつ、銀色の割合が増していくのは分かっていた。それでも、後には退かないと決めたのだ。
(あの時──)
 暗黒の聖堂で、レイドリアンがルシスの破片に触れたとき。凄まじい閃光が世界を焼いて、彼を束の間時間と空間から自由にした。彼はそこでルシスの幻影を見、囚われたヴォルドールと出会い、そして異術の何たるかを理解したのだ。あの光は目映く熱かったが、拒絶の力ではなかった。あれは試練の光なのだ──かつては誰もがそれに見えた試練の光。
(一瞬でいい。力あるものじゃなくていい。光を)
 そう思うとひどく簡単なことだった。ただ光を生み出すだけだなんて──そう思えてしまう自分に気付かないまま、ジェンダールは魂の光を投影した。簡単なことだ。誰もが魂の火を持つのなら、それをただ見せてやればいいだけなのだから。

 銀の閃光は叫びのように闇を穿ち、巨大な剣となって亡霊たちを斬り伏せ、その呻きさえも目映さの中に消し去った。それは確かに一瞬だったが、壮絶だった。
「──、ッ」
 激しい頭痛。眩暈。くらむ視界の中に白い影が浮かび上がる。死の風が作り出した帳の中に隠れてこちらを見ていた何かが大きく仰け反り、消え去った。
 同時に、ジェンダールの意識も途絶えた。

「うああ、あ、ああああ」
「トララスク!トララスク!どうしたんだい!トララスク!!」
 トララスクは苦悶し、両手で激しく祠の壁を打った。硬く凍った石の壁にひび割れが走り、トララスクの拳から粘ついた血が零れる。その血痕を上書くようにぼたぼたと眼から血を流し、彼女は痛みを撒き散らす。それに呼応し、更なる瘴気が溢れ出す。
「な、何が……いかん、このままでは……お客人にもしものことがあっては……!」
「あ、う、うううう……!!許さない、許さない、許さない!トララスクは……光を……許さない!逃がさない!!殺す!殺す!殺す!!」

「……死んだかと思ったわ……」
 セリカはおそるおそる顔を上げた。銀の剣と見えたものはただ一条の光で、彼女の身体に害を及ぼすことはなかった。
「……!?」
 セリカが顔を上げると亡霊たちは軒並み消え去っていたが、同時に彼女の杖も停止してしまっていた。ゆっくりと光が失せ、冷たい闇がセリカを押し包んでいく。そして──強烈な怒りが彼女の足元を駆け抜けていった。本来ならば彼女に向けられるはずだった殺意の全てが、あるいはそれ以上のものが──

「……ろ、起きろ、起きろ」
「う……触角は二本……」
「妙な言い回しだな」
 ディムロスじゃない。ジェンダールは跳ね起きた──真っ白な風の中を落ちていく。
「あ──」
 その手を誰かが掴み、引き上げた。風が足元に渦を巻き、柔らかく、けれど危うく彼らを支えている。見ればかすかに赤い稲妻が走り、無理矢理に風を固定しているようだった。
「二度目だな。三度目か。ここでは時間軸が斜めに動く」
「──ヴォルドール!」
「覚えていてくれて光栄だ」
 ヴォルドールは水晶の眼を苦し気に瞬かせて笑った。
「じゃあ、ここは……」
「何度も来るところじゃない。何度も来られる奴は少ないがな」
 ルシスの城壁の内側を落ちていく。無限にも等しい高壁の側面を滑るように落ちていく。その途中だ。眼下には輝く街並み。清浄なるルシス・デインの美しい城下町──
「あまり見すぎるな。お前もこれに食われるぞ」
 片目の水晶を叩き、ヴォルドールは短く言った。
「用件はなんだ」
「用件?」
「ああ。わざわざ空間転移をするほどだ。オレに用があったんだろう?」
「え、っと」
 空間転移?自分はただ光を呼び出しただけ、のはずだ。
「えーっと………帰ろうかな」
「はは!面白い奴だ。前回のでパスが通じたか……あれからどれくらい経つ?まだ力の使い方も分からないのか。……まあいい。お前ならきっと……フン。いいか。オレに見えている光と、お前に見えている光は違う。オレのはこれだが──」
 バチバチと赤い稲妻が閃き、落下が止まった。杭のように形を成した電撃が夢の壁を突き刺している。前回より、ヴォルドールは調子がいいようだった。全身を蝕む水晶の蠢きは穏やかで、苦痛も感じていないようだ。
「お前のはもっと自由だ。まだ自由、とも言える。お前は光の見え方を規定するべきじゃない──本当に分光の鍵を求めているならな」
「分光?」
「分かるときがくるさ。オレはここでずっと探しているが、ここには鍵はない。外からしか開けられない。諦めはしないがな」
 ヴォルドールは肩をすくめ、無造作にジェンダールの肩を押した。その時ふと、ジェンダールは気付いた──その手を這う赤い稲妻の色が見えていることに。
「なんだ?……ああ。代償は前借りみたいなものだ。オレも初めは酷かったがな──フン。だが、お前はそのままでいるべきだ。求めるのならな……」
 謎めいた言葉と共にその姿が遠ざかる。落ちていく。違う、今度は上がっていく──
「だが心しろ。王たらんとするならば、戦いは続く──」

 銀の閃光に始まった一連の出来事を、ディムロスは酷いデジャヴと共に見た。瘴気の匂い。光を浴びたニュムラが悲鳴を上げ、カエデはその場に頽れる。ビルギルは立ち尽くし、銀の街の残像を見る。そしてフローラは──ただ一人、きょとんとした視線をディムロスに送っていた。彼女が感じていたのは強烈な懐古。この光を知っている、その感覚だけだった。幼さのゆえに、そして幾星霜の断絶ゆえに、その感情に名前を付けられずにいた。
「隠れろ!」
 ディムロスが叫んでも、少女には聞こえなかった。こたえようのない感情の渦に呑まれ、ただ呆然と立ち尽くすだけだ。ゆらりと紅い影がその横に現れ、ディムロスの背後をうっそりと見つめる。
 まだ終わっていない。地鳴りと共に何かが地中から現れる──立っているのは三人。穢れを纏った地虫と、幼き貴族の娘。そして──カーマインはふらりと背を向け、生え出でた血の椅子にもたれた。
(──なんのつもりだ?)
 ディムロスの疑念をよそに彼女が指を振ると、小さな椅子がもうひとつ現れてフローライトを支えた。確かにその口元には歪んだ笑みがあり、消えゆく星のようにかすかな期待が込められていた。
(何かを、求めている。俺に何かを──)
 カーマインに初めて触れた時、彼は確かに受け取っている。ちくりとした痛み、血のひとしずく。それが何を意味するのか、果たして自分をどこに導くのか──奇妙な命題を胸に抱えたまま、ディムロスは暗黒に向き合った。
 闇の中に亡霊たちが湧き出し、集まり、無理矢理にねじ曲げられ、不可視の痛みに悶えながら実体になっていく。瘴気がそれに重みを与えている。この地に淀む昏い感情を糧とし、誰かの強烈な怒りによって増幅した瘴気──ディムロスは穢れた護符を手に取り、銀の針で胸元に刺し留めた。
 浅く長い呼吸。バチバチと黒い火花が熾り、彼の殺意に呼応する。凝り固まった死が、一歩を踏み出した。激しい冷気を宿した瘴気の翳りが闇に広がる。
「…………サイアン?」
 違う。だが似ている──この地に訪れた月の部族の、その成れの果てであろうか。無数の魂によって再現されたその姿はディムロスよりも二回り以上大きく、無念だけを湛えた虚ろな目をしていた。凝集した瘴気が長大な刀を形成する。切っ先は真っ直ぐにディムロスを向き、滴るほどの瘴気が地面を焼いた。
「チッ──いいだろう。誰にも見られはしない」
 ディムロスが構えると、その拳に邪悪な炎が宿った。全き闇の中で、その黒い火だけが彼の存在を示すようだった。
「陽心流……」
 溜息に近い、おざなりな呟きだった。ジェンダールが起きていたら、絶対にしないことだ。彼を見ているのは狂った異常者と眼前の敵だけ。ならば、致し方なし。
「推して、参る」

十一章:新月の剣

「きゃあっ!」
「マイラさん!」
 慌てて駆け寄ろうとしたオトを、槍の柄が無造作に打ち据えた。声も出せずにうずくまる彼を見下ろすのは、滑らかな白銀の鎧に身を包んだ高慢ちきな甲虫の男。左胸に輝く紋章が、彼が貴族たる証明だった。殴ったばかりの二人を気にもかけず、彼は薄笑いで呟く。
「なんだなんだ。こんなど田舎に、本当に聖杯があるのか?先が思いやられるな……」
「本当ですねえ!全くこいつらときたら、ヒヒヒ!見ているだけでこっちまで貧乏になりそうな面構えときたもんで」
 間髪入れずにゴマをするのは痩せた羽虫で、彼の最も近くに侍る道化だった。
「ロイエンタール隊長!」
 呼ばれて振り向きざま、彼は怒鳴った。
「将軍と呼べ、将軍と!誇りあるロイエンタール家の僕が、たかだか二個小隊の隊長だと?違うなあ」
「もちろん!もちろんですとも!」
 道化ジエマの合いの手を受けながら、彼は全身に力を漲らせ、纏った白銀のフレーム──“白刃”の関節部から熱く焦げた赤い排気を放出した。
「僕こそは未来の大将軍……フン!お前たちに言って聞かせても無駄だろうがね。所詮は平民あがりの野蛮な…………」
「この野郎──」
 よろめきながら立ち上がった鍛冶師見習いの少年が、そのまま宙吊りになっていく。背中から突き出した槍の穂先は黒く放電を繰り返し、尋常ならざるエネルギーに唸っていた。
「ヒャハハ!串刺しィ!」
 ジエマが手を叩いて喜ぶと、ロイエンタールはますますその残虐さを露わにしていく。
「……君らのような下賤の民が、まさか聖杯を隠し持っているわけではあるまい?仮にそうなら、心の痛むことだが……皆殺しにせざるを得ないよなあ」
「が、は、あっ……!」
「あ……そ、そんな、オト……」
 ロイエンタールの薄笑いは明らかな侮蔑と嘲笑へとってかわり、応えるように輪廻の槍がスパークした。たちまち激しい蒸気が上がり、生物が生きたまま焼かれる壮絶な匂いが立ち込める。
「ぎゃあああああああああああ──ッ!!」
「ははは!みっともない奴だ、死に際くらい静かに出来ないのかね?おい、エリュテイアを呼んできたまえ。臭くてかなわん!報告はそのあとにしてくれ……何せ、ようやく楽しくなってきたところだからね!」
「ヒャハハハ!」

 背後にじっと立っていた黒い鎧の男は、彼らの背中を睨みつけてからくるりと踵を返した。欠けた触角と冷たく乾燥した黒い複眼が、彼の出で立ちを物語る。
 扉を開けると、吹雪の中に三つ、金色の眼が彼を見つめた。“黒刃”たちは命令を待っている──この小さな村を滅ぼしつくせと誰かが命ずるのを。
 時間の問題だろう、と彼は思った。黒い鎧は瘴気と血に穢れた浄罪騎士団のもので、彼は貴族ならざる軍人だ。であれば当然、真理統制局がじきじきに派遣したあの男──ロイエンタールに逆らえるわけもない。いまの帝都は複雑な状況だが、少なくとも政治的インフラはまだほとんどが生きている。
「聖杯、か」
 男は呟き、吹雪の向こうの空を見上げた。昏く、月はない。この地は輪廻の風に満ち、黒刃も白刃も、彼らが持つ瘴気兵装も力に溢れていた。
「おめでたい男だよ。こんな僻地に、左遷と変わりねえだろうが」
「言いつけるわよ、ベルカインくん」
「……将軍様がお呼びだぞ」
 ひらりと門の上から飛び降りたその女も、輝く白い鎧の持ち主だ。エリュテイア──ロイエンタール家に連なる貴族の女で、実力で言えばおそらく今回派遣された部隊の中でもトップだろう。こうして相対するだけでベルカインにも分かる。仮に反逆を企てたとして、それが成功する見込みはゼロ以下だ。エリュテイアは見透かしたように白刃を脈打たせ、赤く淀んだ火花を散らした。
「ええ。そうだろうと思ったわ。あのひとの槍じゃあ、臭くなるのも当然よね」
 装着型の“白刃”は自律式の“黒刃”とは違い、明らかに知性を持った動きが可能になる。搭乗者の熟練度に応じて戦闘力はさらに飛躍的に跳ねあがり、デモンストレーション代わりに黒刃との戦いを見せびらかすこともある──あらゆる意味で、帝都の貴族社会は絶対的なものだ。絶対的でなければならないのだ。
「うふふ。楽しみねえ、ベルカインくん?みんな死ぬのよ──みんなで殺すの」
 胸の奥にこみ上げる吐き気を抑えつけ、ベルカインは暗い吹雪の中へ進んでいく。彼の仲間たち──今回、統制局の白刃三機に率いられた(つまり監視された)騎士たちは、上官の“お楽しみ”の間、こうして吹雪の中に待ちぼうけを喰らっていた。
「隊長」
「どうでした、隊長」
 ベルカインは煙草を受け取って火をつけ、盟友たちを見回した。誰もかれも、不満と憎しみを隠そうともしない屈強な戦士ばかりだ。
「フフ。あいつもそう呼んでやれ、真っ赤になって怒りだすぜ」
「隊長──あれで良かったですかね?」
 ひとりが指さした先、雪の抉れたようになった箇所がある。ベルカインはバイザーの下で表情を曇らせ、彼の肩を叩いた。
「ああ。上出来だ。門番だろうが誰だろうが、勇敢な奴は弔ってやるべきだからな」
 そしてもう一度ぐるりと見回し、吹雪に負けないように、けれど周りに聞こえないように慎重に言った。
「野郎ども、いいか。俺たちの任務は聖杯の回収、そして帰還。だが黒刃も自由にはならねえ。おまけに奴ら、確実に俺たちを消すつもりだろう──特にあのイカれ女はな。……負けるんじゃねえぞ。何があっても、浄罪騎士団の意地だけは押し通す」
「俺たちは隊長についていきますよ。必ずなんとかなります」
「そうそう。でなけりゃ、俺たちを選んだローダバル団長に示しがつかないでしょう」
「ベルカイン隊長、俺たちのことは気にしないでくださいよ。アンタが生きてれば、それだけで浄罪騎士団の勝利ってもんです」
 めいめいにそう言って吹雪の中で笑い合う騎士たちを見ながら、それでもベルカインは感じ取らずにいられない──皆、不安なのだ。誰が生きて帰れるのか、誰が異邦の地でくたばるのか、そう考えてしまうのは当然だ。
 だから、彼に出来ることはただひとつ。
「全員、俺が連れて帰る。だからひとつ、俺に命を預けてくれ。いいな!」
 応、と勇ましい声が調和する。それがベルカインの力の源、彼ら浄罪騎士団の力の源だった。

 ベルカインが戻ると、広間にはおそらくこのコロニーの全員が集められていた。みな一様に怯え、困惑と絶望の視線を泳がせている。ひとりだけ雪の蛾がおり、老いた病人のそばに佇んでいた。ロイエンタールが尊大に言い放つ。
「フン!どこで油を売っていた?報告があったんだろう、間抜けめ」
「間抜けめがァ……」
「こーら、あんまりベルカインくんを困らせないの」
 エリュテイアがくすくす笑いながらたしなめるとジエマは卑屈な笑いを深め、ロイエンタールは見るからに上機嫌になった。
「まあいい!報告してみろ、ベルカイン“くん”?」
「……」
 ベルカインの舌打ちはエリュテイアにしか聞こえていないだろう。
「将軍様に報告ですよ。空き部屋のひとつに、こんなものがありました」
 ベルカインが取り出した宝石のペンダントをひったくり、ロイエンタールはにやにやと笑う。
「ほう、これはこれは……確かに、我らが帝都のものだなあ?それも下級市民の手には似合わぬ……明らかに貴族の持ち物だ」
「盗人かァー?」
「……他にもいくつか。おそらくは滞在者が……」
「ああ、もういい。下がれ、ベルカイン」
「──はい」
 ベルカインが引き下がると、今度はエリュテイアが進み出てペンダントを受け取った。矯めつ眇めつそれを検分し、微笑みながら村人の一人に歩み寄る。
「ねえ、これは誰のものかしら?」
 突然の問いかけに困惑しながら、痩せた甲虫は震える声で答えた。
「ふ、フローラって女の子と、背の高い──」
 声なき悲鳴が広がる。エリュテイアが軽く手を振ると、手首のユニットから現れた短剣が彼の首を落としてしまったのだ。それを軽く弄びながら、隣の女にも話しかける。
「うんうん。それで?」
「あ、や、やめて、殺さないで──」
 ごとり。傷口から血は出ない。灼けつく瘴気の滴りがそれを歪に塞いでしまうからだ。
「質問にだけ答えてちょうだいね。お姉さん、あんまり酷いことはしたくないの」
 そしてまた次の村人の前へ──その横に黒い影が立ち、彼女を睨んだ。
「──やめろ、エリュテイア」
「あら……」
 薄笑い。ベルカインの背筋を冷たいものが走る──いとこ同士、よく似た笑い方だ。首を狙った斬撃をブレーサーで受け止め、その重みに歯を食い縛りながらベルカインは言った。
「十分だろう。フローライトの生き残りはここにいた。それ以外、ここには何もない」
「それを決めるのは貴方じゃないわよね?それとも、今すぐ……みんな死んじゃった方が良いのかしら?」
 凶暴さを隠そうともしない彼女を無視し、ベルカインは怒鳴った。
「これの持ち主はどこへ行った!それを言えば、誰も殺しはしない!」
「だからあ……」
 エリュテイアの苛立ちに呼応して、彼女の白刃が唸った。全身の関節部から白熱したブレードを展開し、今にも──
「ドーマ様」
 マイラの声は小さくか細いものだったけれど、不思議とこの空間をよく通った。あるいはその名に意味があったのだろうか。
 きっとエリュテイアを睨み据え、マイラは繰り返す。
「みんな、ドーマ様のところへ行ったわ。だからお願い。もう、放っておいて。もうすぐ春が来て、そうしたら何もかも良くなるから」
「訳の分からないことを!」
 エリュテイアがひと睨みすると、燃える刃のひとつがマイラに向けて飛んだ。ベルカインは動けない──彼が呪詛を吐くのと、マイラの目の前で瘴気の刃が止まったのは同時だった。
「な──」
「なんだと」
 薄笑いのままそれを見ていたロイエンタールとジエマ、エリュテイアも、ベルカインも絶句する。マイラが指を合わせて力を込め、当然のように瘴気の刃を受け止めていたからだ。そんなことが出来る者は帝都にだっていない──素手で、ましてや力なき女の一人が。
「私たちはただ生きているだけよ。いつか来る春を信じているだけ。放っておいてください」
 毅然と言い放ちながら、マイラの内心は限界だった。ニュムラのように上手くはいかない。カムラには才能がないと見放され、ニュムラに庇われてようやく拾った命に過ぎないのだから。
 この身は確かに黒き風と共に在るけれど、だからといって皆がトララのように振る舞えるわけではない。ドーマの元へ旅人たちを連れてゆくのも、全てニュムラの役目だった。
「──っ、く……!」
 実体のない刃が霧散し、マイラは激しい眩暈──瘴気による侵蝕がもたらす、最悪の副作用に膝をついた。止まっていた時間が動き出す──エリュテイアが全身から侵蝕ブレードを解き放とうとして、再び遮られた。今度はロイエンタールによってだ。
「待て、エリュテイア!」
「……何よ。こんな奴ら、全員殺したほうが世のためってものじゃない?」
 たとえどんなに強い意思と力の差があったとしても、そうと生まれた者たちにとって貴族の階級は絶対のものだった。エリュテイアが本気になるとならざるとに関わらず、この場においてロイエンタールの命令は絶対なのだ。
「捨て置け。その女に道案内をさせればいいだろう」
「……ふうん。そ」
 エリュテイアの白刃が攻撃形態を収め、元の滑らかなフォルムに戻った。彼女は微笑みながらマイラの手をとり、引きずり出してくる。
「良かったわね。頑張ったから、みんなは死なずに済むみたいよ」
「誰が、あなたたちなんかに……!」
「いいのよ、別に。貴女が道案内をしないなら、やっぱり全員死ぬことになるんだから」
 マイラが俯く。皆の視線を背中に感じながら、彼女は引き立てられていった。

 ベルカインはその場に立ち尽くしたまま、じっと考える──可能性は、ある。この地に聖杯が存在しているかどうかは疑わしい話だが、あのフローライトの生き残りがこの場所にいたと言うのなら──そして、黒刃を二体とも撃破せしめたというのなら。絶望の中に奮い立たずとも、希望と呼べるものを抱いて戦えるかもしれない。
 帝都の白刃が三体、うち一人はかなりの強者。騎士団の全員でかかっても、一人殺せればいい方だろう。だがイレギュラーを味方にできれば、あるいは。
「……」
 怯えた視線が少しずつ怒りに変わっていくのを感じ取り、ベルカインはそっと扉を開けた。暗闇の中を舞い散る雪が、彼の感情を代弁するように複雑な色味の帳をつくる。
 生きて帰るのだ。屍を山と積み上げても。それが──彼方の帝都にその名を知られた、浄罪騎士団の流儀なのだから。

「陽心流──推して参る」
 陽心流の名は遙か古代の地虫の王に由来するとされ、故にこそその業は地虫たちの間でのみ受け継がれてきた。日の目のヨウシン、太陽に挑み視力を失った蛮勇の王はしかし、全てを見通すと言われたほどの格闘王でもあった。彼はただ構え、打つだけで古今無双を誇ったと言う──あくまでも、伝説の中では。
 日は落ち、影は立ち歩く。濁った死の刃を前に燃やす命は、あるいは太陽にも似ているだろうか。けれどそれは不浄の火、眼前の敵と本質的には変わらない。
(………あれは?)
 ディムロスは自身に向けられた剣の内側、凝り固まった瘴気の刃の奥にもうひとつの剣を見た。酷く錆びつきボロボロになった一振りの刀──そこに残った怨嗟の声が、場に満ちた瘴気を通じて聞こえる。せめて最期の一太刀を望む、古の戦士の残響。再現されただけに過ぎない虚ろな身体の奥底に、死のその瞬間を永遠に繰り返す魂の嘆きを感じ取る。
(瘴気に関わる奴らの、趣味の悪さは共通だな)
 心内で吐き捨てながら、ディムロスは瞬時に身を屈めた。重い横薙ぎの斬撃をかいくぐり、一足飛びに肉薄する。武器を持つ相手に対してとるべき戦術は基本的にふたつ。間合いの外から一方的に叩くか、間合いの更に内へ潜り込んで一方的に叩くかだ。陽心流拳闘術には後者のみが伝わり前者はない。
 刀の振り終わりに合わせ、鋭い地虫の拳が脆い肉体を穿ち、穴を空けた。その数三。陽心流、錬の構えより繰り出される基本の突きである。
「効いてはいないか」
 よろめきながら、戦士の亡霊は無造作に剣を振るった。右腕に並んだ傷跡に闇が流れ込み、塞いでしまう。元より生命ならざるその身に、傷をつける事など出来ないのだろうか。
「やはり、剣か?」
 確かに重いが遅すぎる一振りを躱しながら、ディムロスは考える。術者は、錆びたあの剣を媒体にしてこの霊体を召喚しているのだろうか。仮にそうでないにせよ、武器を破壊するというのはいい案に思えた。
(とるべき策はふたつ、か)
 ひとつ、このまま戦い、剣を破壊する。簡単ではないかもしれないが、やる価値はある。何より、誰かが起きるのを待つのは得策ではない──この敵を目覚めさせたのがジェンダールなら、彼に気付いていないうちに仕留めるべきだろう。
 ふたつ、術者を探す。これは現実的とは言い難いが、確実だ。地の利は相手にあり、遠隔地から操っていれば不可能となる。もしも、の話だ。
(仮に目覚めるとして──誰が最初だ)
 ジェンダールなら光の術で瘴気を剥がせるかもしれない。が、消耗の度合いが大きすぎる。ビルギルの異術がどこまでのものかは不明だが、ジェンダールの光に呑まれる程度であるのは確か。カエデが戦えるかは疑わしく、フローラとニュムラは戦力にカウントできない。最強のひとりは全く当てにならない──
 ディムロスはちらりとカーマインを見た。血の玉座にもたれる死神の王といった様相だ。
 相変わらず、彼女はディムロスをじっと見つめている。冷たい視線だった。期待に応えなければ殺される、とさえ思えるほどに。
(なんだ……何を求めている?)
 ディムロスは呼吸とフットワークを同調させ、回避の中にパターンを見出す。どうやら、この存在は眼が見えていない。大まかな位置だけを把握し大ぶりな斬撃を繰り返すだけで、そこにかつての戦士たる面影はまったく無かった。
(ジェドの光で目をやられたか?)
 竹を割るような斬撃を踏み込んで躱しながら、黒炎を凝集した拳をその剣に向けるディムロス。何もかも、試してみないことには始まらない。そこには確かに、彼の根底を流れる好奇心の矛先があった。戦いのうちにそれを求めることもまた、道のひとつではあるのだ。
「……絶」
 気迫を込めた構え。次の斬撃は見え透いたものだった。振り上げ、振り下ろす。重心が僅かに左へズレている。
 日の目のヨウシンが真に伝えたのは、たったひとつの技だけだったという。そこから無数の技が派生し、それを打つための構えが生まれ、やがて武器や地形を利用する流派までもが生じた。
 だから、陽心流において真実原型と言える技はこのひとつ。ディムロスは右の両腕を弓のように引き絞り、備えた。どんな構えからも素早く繋ぐことができる、陽心流のファンダメンタルアーツ。そして唯一のパリングアーツでもある。相手が拳であるなら錬の構えから、長柄の武器であれば驚の構え、そして巨大であれば絶。基礎であり、奥義とされる所以でもある。
 待ち構える一瞬、断頭斧めいた縦振りの斬撃が落ちてくる。外せば死。無限の高揚がそこにある。
「──華!」
 果せるかな、黒炎まとう拳は不浄な刃にぶつかり──弾いた。真っ直ぐに跳ね返すのではなく、相手の力を絡めとり受け流すことで体勢を崩させ、また同時に残した拳へと運動エネルギーを相転移させる、その様をヨウシンは華と呼んだ。咲き誇り、故に散る。然り、散るからこそそれは華なのだ。
 ディムロスは止まっていない。回転しながら、左の両裏拳を叩き付ける!
「散!」
 朧げな亡霊のその頭が吹き飛んで、一瞬その全身から力が抜ける。刀に纏った瘴気がゆらぎ、錆びて腐った刀身と、そこに刻まれた旧い紋様が露わになった。
「徹!」
 ディムロスは四本すべての腕を振り上げ、叩き落とした。踏み込まぬがゆえにリーチに劣る総腕での手刀こそフィニッシュムーブであり、一連の動作は本来ならば体勢を崩させたのち裏拳を叩きこんで脳震盪を誘発、行動不能になった相手を完全に破壊するためのとどめの一撃で完成するものだ。
 絶華散徹、自分よりなお大きな敵を相手取るときに地虫たちの振るう、拳闘奥義のひとつである。
「──硬いな」
 ディムロスは舌打ちをひとつ、飛び離れた。しかしその手には錆びた刀があり、崩れかけた亡霊たちが再びそれに手を伸ばし始めている。
(見た目よりずっと硬い。今の一撃で折れていないとはな)
 刀は奪った。これでも形が保てるなら別の策を考えなくては──
「……やった、か?」
 亡霊たちは折り重なり、手を伸ばし、けれど果たせず、苦しみ悶えて消えていく。誰かの強い憎悪と怒りはまだ満ちていたが、形を成すことはなかった。
「やはり、刀か」
 ディムロスは手の内にある錆びた刃を見た。元は直刀であったものか、刀身に反りはない。虫食いのようにボロボロで、鍔も抜け落ち、酷く軽かった。古いものであるということくらいしか彼には分からない。微かに力を込めると、蓄積され続けてきた呪いの声が彼の瘴気に応えるのが分かった。
 きっと、弔ってやるべきなのだろう。微かな虚脱感を覚えながら、ディムロスは背を向けた。カタはついた──皆を起こし、進まなければ。
「……なんのつもりだ?」
 その前に、赤い影が落ちた。全身から血のような赤い闘気を滾らせ、カーマインはじっと彼を見下ろす。恐ろしかったが、殺意はなかった。それは確かに囁いた。
((もっとだ))
 そしてカーマインは腕を伸ばし、ディムロスの背後を指さした。血の一滴がそこに集まり、落ちる。ディムロスは弾かれたように振り返り、刀を捨てて、構えた──
(間に合わない!)
 赤い拳が横殴りに襲い来る。ディムロスは身体を横に倒しながら蹴りを放ち、無理矢理に距離をとった。転がりながら跳ね起き、更に後ろへ飛びのく。落ちてきた真紅のカカトが岩盤を砕き、破片が散った。
「こいつは──」
 長く息を吐いて瘴気を巡らせ、錬の構えを取りつつようやくそれに相対する。姿形は地虫めいていたが、それは赤い血色の結晶体であり、表面が不自然に蠕動を繰り返していた。半固形の血で造られた人形とでも言うべきか。何より、その内側には亡霊たちが閉じ込められてぐるぐると渦を巻いていた。
(学んだというのか。瘴気を使って残影を作り出す敵の業を、再現している?)
 つまりそれは生者への憎悪を血で固めた出来損ないで、しかし操作している者は先程とは比べものにならないのだ。
「戦え、ということか」
 努めて己を抑える。少なくとも、他の者が巻き込まれる心配はない。カーマインはにやりと裂けたように笑った。血人形がゆっくりと構える──
「──なるほどな」
 見て、覚える。全ての基本だ。それは彼と寸分たがわぬ、陽心流。錬の構えだった。
「見せてみろというわけだ……いいだろう」
 鏡映しめいて相対しながら、ディムロスは奇妙な懐かしさを感じていた。
「あの爺さんよりは弱そうだ」

十二章:浄罪

「トララスク!」
 声なき声をあげて巨体の蛾が仰け反り、力なく倒れた。その眼からは濁った血を流し、震える手がしきりに何かを掴もうと伸ばされる。
「何が……起きておる……?トララスク、もうよい……今はもうよい、休むがよい……」
 カムラスクはゆっくりと呪文を唱えながら、トララスクの顔に触れた。激怒と憎悪によって活性化していた瘴気の流れをゆっくりとしたものに戻し、彼女の裡にあるよどみへと返していく。
 徐々に出血が止まり、トララスクの呼吸が落ち着いてくると──カムラスクは、凄まじい憤怒を込めたまなざしで虚空を睨んだ。溢れ出て四散しようとしていた瘴気が老いたその肉体に集まり、感情に呼応して脈を打つ。
「許さぬ、許さぬ、許さぬぞ……わしのトララスクに、許さぬ……!」
 彼女が老いさらばえたその手を大地へ置いた。どくん。それだけで、この地に張り巡らされた瘴気の網と繋がることができる。ごく近く、館の中に巨大な反応。偉大なるものの影がさしている。それに忠義を払いつつ、更に遠くへ。洞窟の中には──

 しゅっ、と息をついた。ごく短い残心に伴うもので、同時に極限まで制限された呼吸法による肉体制御の業のひとつでもある。だが、相手には呼吸が必要ないのだ。
(こいつ、は……!)
 三連突き。ディムロスは正面からそれを捌き、逸らした。逸らすだけで精一杯だ。反撃の暇もないまま、短い残心と同時に構えをとる。
「驚──」
 この構えはまだ見せていない。右を前に、左を後ろに、自身の身体を正面に対して薄く見せる構え。本来は長柄の武器や腕に対するものであり、また蹴り技に繋ぐことも多い。血人形は変わらず錬の構えだ。防御に寄った即応の構えは、ゆえに基礎とされるものである。
 二人の地虫がぐるぐると間合いをとったまま足を運ぶ。闇の中に血色のパターンを描き出していくように、睨み合ったまま、殺意をぶつけ合う。どちらの一挙手一投足があろうと、即座にそれに見合った動きをするために。
「漸」
 ディムロスが動いた。滑るように間合いを詰め、極めて動作の小さいショートフックを振りにいく。それは当てるためではなく、あえて空振りさせることによって隙を見出すための動きだ。
「──」
 血人形は拳を回して外向きに弾く。そのまま、突きにくる!
(……鳴!)
 身体を回すようにしてすり抜けざま、ディムロスは瞬間的な低姿勢になった。突きの裏からくる逆腕のフックを掻い潜り、思い切り身体を跳ね上げる。
 カーマインの悦びが大気を震わせた。顎を削り取られた血人形がよろめき、そして──
「く!」
 サマーソルトキックの着地から転がって距離をとるディムロス。血人形は確かにダメージを受けたようだったが、砕けた顎から滴った真紅の血が槍を形成し、未だに尽きぬ殺意を穂先に宿していた。
(驚の構えは長柄武器に対するもの。このままなら有利をとれる──)
 だが、易々とは行くまい。ディムロスは構えを継続し、己の損耗を測る。
 先の戦闘の反動はまだない。彼の内側では未だ瘴気の火が燃えていたが、ごく小さいものだった。意図してそうしているのだ──さながら大海の水を一滴ずつ絞り出すように、際限なく燃え上がってしまうその種火を抑えつけ、少しずつ切り取っていく。酷く非効率なやり方だが、効率的であることが必ずしも善い事であるとは限らないのだ。
(火が消えれば反動がくる。今はまだ──制御できている)
 もしも大きな傷を受けたりすれば、たちまちそのバランスは乱れるだろう。傷を塞ぐために黒炎が噴き出し、彼の精神まで蝕む。それを抑えつけるには、肉体の方を無理矢理に休ませるほかない。
 血人形は大きく三度槍を回し、中腰に手を沿わせて穂先をディムロスへ向けた。
(──来る)
 速戦即決。仮にカーマインが更なる戦いを望んだとしてもこれを続けるためには、消耗を最小限に抑えるしかない。であればやはり、奥義にて応じるほかないだろう。いやきっと、カーマインもそれを望んでいる──そんな直感があった。
(驚華を打つ──絶華より繊細な動きだが、出来る)
 果たして、血人形はそれを待っているように動いた。二度大ぶりな回転を加えて、横薙ぎに来る!
「──華!」
 驚からの華は二通り。突きに対して側面から、薙ぎに対しては下から。左右の拳が跳ねるように刃を弾き、そしてやはり、止まることはない。絶華が散る花ならば、錬華はまさに咲く花である。
「衰──」
 踏み込む。距離を詰める──だが届かない。拳が届く距離まではまだ遠い!
 それで良いのだ。元よりこの技は手足の短い地虫のものであり、彼らに槍を以て相対するのは理にかなった戦術だった。日の目のヨウシンは、それを覆そうとしたのだから。
 既に、槍の間合いの内にいる。ディムロスは槍の柄を掴み、引き寄せる推力を生んだ。
「──月!」
 それは地虫なりの皮肉なのだろう。吸い付くような蹴りの一閃が敵の心臓を貫くさまは、まさに槍のごとくあった。
 驚華衰月、たとえ相手が重く動かぬとしても食らい付き、槍を奪いつつ致命のひと蹴りを浴びせる技である。
 更にこの技には先がある──が、血人形は揺らぎ、倒れた。暗がりに血がしぶき、亡者の影が消えていく。
(……隠に繋げるまでもなかったか)
 心が燻る。もっと戦いを、とどこかで望む声がする。それは自分の声ではない。
「……出し物は終わりか?」
 いや、違う。ディムロスはそれに反応した。倒れた血人形から噴き出す血──多すぎはしないか?その身体にとても見合う量ではなかった。ゆっくりと血を吐きながら起き上がり、震えながら両腕に刃を生じる。蠕動し、呻く刃の群れだ。
「化け物め……!」
 武器が欲しい。ナイフ一本で構わない──瞬間、カーマインの視線が彼をとらえた。ちくりとどこかが痛んだ。
(そうだ)
 囁き。血人形が刃を噴き出しつつ歩いてくる。その姿は“黒刃”にも似ていた。
(模倣──ではない。似ているというだけだ。それは──継承、なのか)
 この狂った赤い戦士は、己の力となるものを勝手に受け継ぎ、無造作に振るっている。ならば彼女が自分に求めているものは──同じなのか。そうなれ、ということか。あるいは、近づけということなのだ。
「……狂った奴だ」
 孤独ゆえなのか?とてもそうは思えなかった。戯れに過ぎないのだろう。彼女は自分より強いものなどいないと思っている。ならば、それに比肩するものを育てるのは──最後に残された本能なのか。
 ディムロスは己の裡に集中し、それを探した。瘴気を扱うために、半ば無意識に繰り返してきたプロセスだ。己とそうでないものとを分かち、ただ力として利用するために。
 カーマインは確かに触れた。あの痛みが何だったのか、今ならわかる──血色の棘を彼は見出し、その刻印を理解した。いわばこれは、誓約なのだ。ただ強くなる、強くなり続けるという在りし日の彼女が願った誓いの証。
 それに名を連ねるということに、躊躇はなかった。必要だからそうするのだ──生きるために強くあれというのなら、この誓いは彼のものでもあるのだから。

 この日を境に、カーマインという存在は神に近しいものへと近づいていくことになる──それはまた別の話。

 カムラスクはそれを諦めた。この場で行われていることは彼女の理解を超えていたし、相対する地虫がその身に黒い炎を宿していることに驚きを隠せなかった。
 ニュムラスクが倒れている。他にも何人か。何が起きたというのだろう?太陽のように燃え上がる紅いオーラに阻まれて、彼女の視界すら曖昧だ。それはジェンダールにとって幸いだった──カムラスクはそのまま、更に遠くへ視点を広げた。トララスクの身に何が起きたか調べるという目的は、その時すでに失われていた。
 カムラスクは、その一団をとらえた。

「本当にこの場所に、洞窟なんぞがあるのか?雪に埋もれているオチじゃああるまいな」
「もしそうなら、この女を……ヒヒッ!八つ裂きにして、コロニーの連中に見せつけてやりましょうよ、ね、ロイエンタール様ァ!」
「ジエマ!滅多な事を言うものじゃない……お嬢さんが怖がっているだろう!」
 高笑いを背に受けながら、マイラはちらりと左側を見た。黒い兜の下で表情は読めないが、ベルカインというこの男はそれとなく彼女を気遣ってくれていた。何より、彼がいなければマイラはとっくに死んでいただろう。彼らの一団は凄まじい強行軍で、雪の上でも一切歩みを緩めなかった。急ぐほど、マイラの不安は膨らむばかり──このままなら、あっという間にニュムラたちの足取りに追いついてしまいそうだ。
「…………」
 けれど、彼に話しかけることはできなかった。右隣りを歩くエリュテイアという女が、それを許さない。実際に留め立てされたわけではなかったが、その意を込めて隣にいることは確かだった。何より、彼女の残虐さは身に染みて分かっていた。
 エリュテイアはベルカインと同じくらい背が高く、纏った鎧は奇妙に薄かった。全身を隙間なく覆うものではなく、身体の外側──肩や肘、手の甲や膝を守るだけの白い板を、ぴったりとしたチューブのようなもので繋いである。それが瘴気を操るための仕組みであるということが、マイラにとって酷く恐ろしく思えるのだ──赤熱した非実体の刃は確かに黒い風の凝集したものだった。
(カムラスクにだって、あそこまでの出力が出せるかどうか)
 彼らは一体どこから来たのだろう。黒い一団と、それを率いる三人の残虐な騎士。前者と後者の間にあるものを、マイラはそれとなく感じている。それを、上手く利用できないものか。
「ねえ、マイラちゃん」
 エリュテイアは気さくに話しかけてくる。吹雪の音が、それを恐ろしいノイズにまみれた声に加工する。
「聞いてもいいかしら?」
 マイラは正面を見つめたまま、答えなかった。
「──あっそ。まあいいわよ、どうせ用済みになったら死んじゃうんだもんね」
 ベルカインの歩みがブレる。抑えきれない激しい憎悪を、マイラは感じ取ることができる──彼らのように機構を通じてではなく、生身で瘴気と触れ合った者は誰でもそうだ。強い負の感情に、どうしても影響を受けてしまう。
 そして、同じくらいに強烈な波動が三つ。黒い騎士団の両翼と正面を進む、物言わぬ黒い影──彼らはそれを黒刃と呼んでいた。マイラの目には、それがひとつの存在には見えない。明らかにいくつもの魂が凝ったもので、それを兵器として利用しているというのなら──(そんな、おそろしいこと)
「おい、まだなのか?このまま俺たちを飢え死にさせようって魂胆なら──」
 ロイエンタールが言いかけた瞬間、エリュテイアが跳んだ。
 何が起きたか分からないまま、マイラは地面に引き倒され、冷たい雪の中に半分ほど埋まっていた。
「伏せていろ!」
 押し殺した声はベルカインのものだった。連続して何かのぶつかり合う激しい音がして、悲鳴がいくつか続いた。彼女の真上でも、激しい衝突音。何とか顔を上に向けると、ベルカインの黒い剣が赤黒い瘴気の刃と拮抗しているのが見えた。黒刃の金色の一つ目が彼を睨み、ぎょるぎょると移動して、マイラを睨んだ。
「っ……!」
 瞬間、彼女は声を聞いた──カムラスクの声。
「離れろッ!」
 ベルカインは黒刃の剣を押し戻しざま、更に踏み込んで低い二段斬りを繰り出した。凄まじい技量と身体能力に裏打ちされた剣技に、黒刃が距離をとる。その胸に、凄まじく放電する瘴気の槍が突き立った。
「ッは!」
 ロイエンタールが侮蔑の笑いと共に手をかざすと、槍が震え、黒刃もろともに爆散した。よろめきながら立ち上がったマイラの視界に、黒刃は一体も残っていない。
「ベルカインくん、どういうこと?」
「俺の知ったことじゃない──最終制御権はあんたらのものだろう」
 黒刃の異常動作に気付いたエリュテイアが一瞬で一体を破壊し、続けてもう一体も手にかけたのだ。ロイエンタールが動くまでの間に、エリュテイアは二度刃を放っていた。
「……こっちにも被害が出てるんだ。俺たちを疑うのは筋違いってものだろう」
「ふうん。なら──」
 マイラはその視線に気づいたが、どうすることもできなかった。
首筋にあてがわれた刃はまだ硬く鋭いだけで、瘴気を纏ってはいなかったが、エリュテイアがその気になれば──
「何をやったの?輪廻技術について、貴女はどこまで知っているのかしら。さっきも、直接私の刃に触れたわよね。説明してもらうわ」
 マイラは小さく呻く。自分は何もしていない、ずっと離れたところにいるひとがやった──そんなこと、誰が信じるだろう?
 マイラが答えるかわりに、ベルカインがその手を押し戻した。
「狙いは完全に無差別だった。彼女自身も狙われていた」
「わざとそうしたんじゃない?犠牲を増やすには、弱いものから狙うのが道理でしょ」
「本気で言っているのか?」
「まあ、まあ、待て待て」
 意外にもロイエンタールが間へ入り、エリュテイアに媚びるような笑みを向けた。
「ここで睨みあってどうする?見ろ──あれが例の洞窟だろう?先客の跡まである。こいつの案内は思いのほか適切だったわけだ」
 先行していたジエマの小柄で卑屈なシルエットが雪の上を戻ってくる。白銀の大地の上に、汚らしい染みがついたようだった。
「黒刃の痕跡がありますよ、ロイエンタール様ァ……奴ら、ここで一戦交えたわけだ」
「二機とも破壊したとなると、それなりの武装だな!嘆かわしいことに我々の戦力は削がれてしまったわけだが──」
 ロイエンタールの表情から、それが本心でないことは容易に察せられる。
「なに、恐れることはないな!黒刃など……フン!大した役に立った試しはないのだ」
 ベルカインが小さく呪いの言葉を吐いた。
「さあ、浄罪騎士の諸君!彼女を丁重に連れて行け!我々は……諸君の頼りない尻を見ながら進むとしよう!」
(洞窟で後がないから、逃げ道だけ見張っていればいいというわけね)
 少し崩れていた浄罪騎士の陣形が縦に割れ、マイラとベルカインが前へ進み出る。ようやく監視が外れ、ベルカインが囁いた。
「……貴女のことだけでも、なんとか護らせてもらう」
 マイラは無言で通した。このまま進めば、間違いなくカムラスクはトララを差し向けてくるだろう──黒刃を操り襲ったのは小手調べに過ぎない。あの老いた祭祀は、マイラのことなど気にかけてはいまい。
(……ああ、ニュムラ……貴女だけでも、春まで生き延びて……)

 それは酷く難儀な作業だった。激流のような思考の中で、ディムロスはまずその形を掴まなければならなかった──カーマインのように、殺意そのものをありとあらゆる武器として顕現させるには練度が低すぎる。かといって、地虫の身に合う武器はごく少ない。
『うーむ。そうじゃな。あくまでも歴史の上ではじゃが、ひとりだけ……地虫にも剣士がおったそうじゃ。それも両の腕すべてに刀を握る、悪鬼羅刹のような剣士がな』
 カブラー老は顎を撫でながらそう話してくれた。まだ出会ってすぐ、陽心流の手ほどきを受け始めたばかりの頃だ。ディムロスは、あくまで手段として武器の使用はできないかと尋ねたのだった。
『が、そいつが特別だっただけよ。元来地虫というのは武器を扱うようには出来ておらんからの……そうじゃなあ……何か投げるというのはどうかの?ナイフを投げられたら、石を投げるより格好がつくじゃろ』
 まあ石を投げたほうが強いがな、とカブラーは笑ったが──ディムロスはその時、彼の雑多なねぐらの奥に積み上げた蒐集品の中に黒光りする大きな刃物があったことを思い出していた。
 投げるには重すぎる。だが、使えるかもしれない──恰好をつけて振らなくてもいい、ただ切り付けられればいいのだから。
 いくらかの試行錯誤があり、逆手に持てばあまり動きの邪魔にならない事を知った。右手だけ拳が伸びたようなものだと思えば、ごく自然に扱うことができた。鉄よりも軽く鋭いそれは、いつしか彼の懐に必ず入っているようになった……異術を切り裂く黒曜のナイフ。ルシスの壁にあそこまで近づいて無事だったのはそれのおかげだと、彼はどこかで信じていた。
 それを打ち直すことはきっと出来ないだろう。元より、ただならぬ武器だった。黒曜石というのがどういう性質を持ったものなのかを知った時、密かな恐れを抱いたものだ──いったいどんな力を使えば、この割れやすいガラス質の鉱物をここまで分厚く滑らかな刃に加工できるのだろう。
 だが、思い出すことならできる。重さも、形も、どの角度で振れば一番よく切れるのかも。血が生命の通貨であるのなら、記憶とは世界を流れる血のようなものだ。
「く……っ!」
 引き抜くとき、痛みを伴った──彼は驚きと共にそれを感じた。自分が痛みに対して凄まじく鈍っていることを理解していたから。
 それではカーマインは戦うたび、これの何十倍もの激痛を感じているのだろうか?それとも、とうに感覚まで狂い果ててしまっているのだろうか?
(──)
 声なき歓喜が伝わり、血の棘が薄らいでゆく。もう必要ないものだ。それは既に彼の一部であり、もはや再認識の必要などなかった。
 ディムロスはよろめき、合わせた手のひらをゆっくりと離してゆく。ずるり、ずるり、左の手からそれを引きずり出す。血は一滴も零れなかった。全て練り上げ、分厚く滑らかな刃へと変わっていたから。
 血人形が震え、待ちくたびれたというように蠕動する両腕を振り上げた。ディムロスは応え、血のナイフを構えて前傾姿勢をとる。その一振りで充分だ──充分すぎるほどだ。
 血という触媒は、瘴気にとってひどく相性がよかった。黒曜石では弾かれてしまい、異術に触れれば拒否反応を起こす黒い風も、生きた血液には違和感なく馴染んだ。それが恐ろしい行為であることは理解している──生命そのものへの冒涜であり、悪しきものが望むすべてにも思えた。首の黒い火傷が熱を持ち、心臓が強く脈打った。
 ナイフが冷たい黒炎に燃え上がり、瞬間的にそのリーチを増大させた。カーマインが目を見開く。ディムロスは前傾姿勢のままその剣を振り抜いていた。
 黒炎が墨のような軌跡を暗闇に描き、赤く脈打って、消えた。ナイフも血に還元され、ディムロスが膝をつく。両断された血人形が燃え上がり、今度こそ塵へと還っていくのを見届けながら。
「……はあッ……これで、満足か……?」
 カーマインはその瞬間に全てへの興味を失ったようだった。ただ満足しただけなのか、元からありあまる関心事があって、そちらに意識が戻っただけというようだった。彼女は数秒ディムロスを見つめてから、くるりと踵を返した。

 フローラの座る椅子が血に還元し、お尻をぶつけた彼女は慌ててあたりを見回した。
「……あ、あれ?……あれ……?私……」
 白昼夢の内容は酷いものだった。無限に続くような砂漠の砂はひとつぶひとつぶがサソリの毒に膿んでいて、風が吹いてもぴくりとも動かない。やがて真っ赤な炎の柱が立ち上がり、その根本の壊れた宮殿で、壊れた王様の傍に自分がいるのが見えて──それは彼女であって、彼女ではないものだった。その女は赤い炎に焼かれながら恍惚と己の王を見上げ、その心を毒していた。いや、互いの毒が互いを蝕んでいたのだろうか。フローライトには分からなかった──ただ、嫌だな、と思った。もっときれいな、お花と水がたくさんある場所に宮殿を建てればよかったのに。そこで夢は終わりだった。
 現実の景色を見渡すと、それはそれで負けず劣らずの有様だった。みんな倒れていて、何があったか必死に思い出そうとするフローラの思考はぐちゃぐちゃのままだ。かすかな声が聞こえた。
「おい……皆を起こせ。誰も傷ついちゃいない……」
 そう言うディムロスはまともに立てず傷だらけだったが、彼が自分を勘定に入れない精神の持ち主であることは既に理解していた。フローラはちょっぴり迷ってから、まずビルギルを起こすことにした。
「ビルギル、ビルギル!起きなさい!」

「見えた、ぞ」
 彼はようやく顔を上げ、苦し気に明滅する水晶の奥の瞳で虚空を睨んだ。赤い稲妻がその視線を追いかけ、やがて不可視の壁にぶつかって消えた。それは文字通り不可視で、彼と現実を隔てる無限の檻だった。
「ふ、はは……何年だ?どれだけかかった?オレは──く、は、ははっ」
 激しい痛みが胸から脳髄へ駆け上がったが、ヴォルドールは喜びのままに身を震わせた。とうに壊れた時間感覚に、その実感が湧いてくる。ついにやった。見つけた。
「逃がすものか。戻ってやるぞ、絶対に──」
 緋色の稲妻が収束し、急激に空間を歪ませる。その向こうで、彼はその意識を捉えている。
「ジェンダール──ははっ。大した奴だ」
 彼の裡にあるのは喜びと、更なる好奇心。元はと言えばそのせいでこんな場所に閉じ込められているのだが、今となってはどちらでもいいことだ。もう一度この街へ挑むチャンスが、いま目の前にある。ヴォルドールは手を合わせて集中し、仕上げにかかった。大変なのはここからだ──
「ご丁寧に何度も来てくれたおかげで、お前とオレは繋がった──お前と違って、オレには無限のリソースがある。このまま、お前の意識に相乗りさせてもらうぞ──」
 閉ざされたルシスが侵入者を捕らえる夢の牢獄は、永遠に繰り返す虚像の街だ。その中で自我を保ち続けることができる者はいない──そうして狂い、果てていった者たちの残滓をヴォルドールは吸い上げる。それを身代わりに、自身の精神を護るのだ。時間流さえ曖昧なこの場所で、ヴォルドールは初めて現在を保とうとした。稲妻のアンカーを打ち込み、繋がったジェンダールの精神に己の意識を滑り込ませるために。
 途方もない距離の時空を超え、術者どうしを結ぶこの業は、かつてのルシスではごく一般的な異術だった。そのことを彼らは知らない──それでも、たとえ全てが閉ざされていても、識ろうとする者にそれを与えることこそ光の本質、その一片なのだ。
「く──」
 稲妻がバチバチと音を立て、彼の意識も曖昧になる。ヴォルドールはこらえた──ジェンダールが遂にその存在に、分光の鍵を抱く“王”に見える瞬間まで、ただ自我のみで意識を保ち続けるのだ。
(オレには出来る。ここで過ごし続けてきたことを思えば、なんてことはない)
 何より、この試みは楽しかった。自分の知らないことがまだまだある。もっとずっと先へゆける。それこそが、彼を突き動かす原動力。
 世界の全てを知ることはできないと思っていた。だから必死に生きるのだと。仮にそれが打ち崩されたなら、自分はその欲求を失ってしまうのかもしれないと思った。
(はは──ははは!全くもってくだらない悩みだ)
 力がある。ルシスの光は永遠だ。永遠を手に入れれば、もしかしたら可能になるかもしれない!光の本質を手に入れれば、探究は永遠に続くのだ!その過程に何があろうと、彼にとってはどうでもいいことだった。有限の命に怯えるより、何億倍も素晴らしい結末だ。その瞬間、彼の脳裏によぎったのは最後に見た友の顔だった。それが、たまらなくおかしいと思えた──
「はははははははは!カブラー!オレは、必ず、戻ってやるぞ!はははッ──」

十三章:嵐の前の

 エリュテイア──エメリア・バラル・エリュテイアの生い立ちは、ごく平凡なものだ。帝都の西方、川辺のロイエンタール分家で次女として生まれ、下級貴族としてそこそこ贅沢に、そこそこ傲慢に育ち──まあそこそこの奴と結婚して、そこそこの人生を送るはずだった。
 彼女が持って生まれた、幼馴染よりも長い付き合いの残虐性が、運悪くその幼馴染を相手に発揮されることになる。十五の春に恋人をめぐってトラブルになり、エリュテイアは幼馴染と自分の交際相手の両方を刺した。武器の類は使わず素手で目玉を抉り出したのだ。
 ロイエンタールの名を剥奪された彼女だが、従兄弟のエイマー・バラル・ロイエンタールがそんな彼女を救った──いや、利用したと言うべきだろう。簡単な戦闘術の訓練を受けたエリュテイアは瞬く間に頭角を現し、来る帝都の騎士選抜に名を連ねたのだった。

 思い出すたび、おかしくてたまらない。エリュテイアは輝く“白刃”の頬当ての下、歪んだ笑みを浮かべていた。なんと惨めな男だろう──確かに、同じ家の貴族は同時に選抜を受けられる。自分だけでは心もとないから、私を引き入れたのだ。
 確かに惨めで救いようのないほど軟弱な男だ。だが、人を見る目だけはある。単なる暴力沙汰としか思えなかったエリュテイアの行動から、その資質を見出したのだから。それが、未だに彼女が反旗を翻さない理由でもあった。
 初めに私を利用した男を、きっともっと、ずっと上手く利用できる。してやれる。
 白刃がその高揚に応えて脈打った。赤い明滅が暗闇を不穏にどよもし、冷たく湿った空気の中で微かな音を立てる。
 前を行く浄罪騎士団の黒い背中にそれを叩き付けたくてたまらないという衝動と戦いながら、エリュテイアはロイエンタールに話しかけた。
「ねえ、エイマー」
「おいおい、外ではロイエンタール将軍と呼べとあれほど……なんだい、エリュテイア」
 無理矢理に気取ったその口調さえ、今は面白おかしく可愛いものに思えた。付き従うジエマがじっとりと暗い視線を彼女に向けている。それを受け止めるように身体をくねらせ、エリュテイアはロイエンタールの肩に手を置いた。
「ベルカインくんは、私にやらせてくれるわよね?」
 最後尾の騎士たちがそれを聞きつけ、歩みを強張らせるのがわかる。わざと聞こえるように言っているのだから当然だ──それで突っかかってくるようなら、即座に殺してしまえばいいだけなのだから。
「ははは!もちろん、誰だろうとお前がやればいいさ!もっとも……我々がそうするまで生きていればの話だがね」

 入り口が見えなくなったころ、ふいに進軍が止まった。
「ロイエンタール“将軍”」
 前方から伝令の騎士が走ってくる。敵意を隠そうともしない含みのある言葉だったが、ロイエンタールは鷹揚に受け止めた。それが一番の侮辱になると分かっているからだ。
「何かね」
「前方に、妙なものがあります──自然なものではないようですが、その……とにかく妙な、棘のような……」
「スラム生まれの騎士は言葉もまともに喋れないのか?……エリュテイア、見てきてくれるかい」
 伝令は今にも剣を抜きそうだったが、エリュテイアが優しくその手を抑えて囁いた。
「ふふ……行きましょうか?」
 彼ら浄罪騎士団の練度は確かなものだ。ロイエンタールに対するときとエリュテイアに対するときでは明らかに違う──身体の奥の震えが、闘志の度合いが。
 冷静に判断する限り、彼らが全員でかかればロイエンタール程度を殺すのはわけないだろう。ジエマは……さっさと逃げ出すのではないだろうか?彼らが未だに屈辱の沈黙を保っているのは、ひとえにエリュテイアの存在が大きいのだ。その事実が、彼女をますます昂らせる。
(……………)
「なに?」
 エリュテイアが聞き返すと、伝令騎士は怪訝そうに彼女を見上げた。その視線から、彼女は今の囁きが自分にしか聞こえていないことを知る。そのとき都合よく、“妙なもの”が見えた──
「……これは……なに?」
 巨大な棘、確かにそうだった。血の色をした一抱えほどもある棘が無数に乱立し、まるで大地の一部が狂った病に罹ったかのようだ。ベルカインが少し離れたところでマイラに何事か尋ねているが、マイラもまた怯えながら首を振っていた。
「──エリュテイア」
 ベルカインが彼女に気付き、嫌悪の表情を素早く隠す。
「ここに、黒刃の痕跡がある。フローライトはここで戦ったらしい」
「それで?こんなものを生み出す力が、あんな子供にあるっていうの?」
「いや」
 ベルカインはかぶりをふって、ごく薄く散らばった金の粉を指先でなぞった。それは黒刃のコア、人工的に造られた聖杯の破片だった。
「一撃で粉砕されている。コアを引き抜かずに黒刃を一撃で破壊するには……少なくとも、白刃クラスの破壊力が必要だ」
「聖堂騎士の入れ知恵?」
「ないな。エルヴェール様は今回の件に関係ない。それに、白刃が戦ったなら痕跡でわかる」
 エリュテイアはこのベルカインという男がたまらなく好みだった。常に冷静で頭が切れ、相手への殺意を抱えたままでも現実と向き合うことができる、強靭な精神を持っていた。貴族でないのが惜しくてたまらないくらいだ。
「なら……異術?」
「可能性としては。だが……団長の言葉が正しいなら、フローライトの血脈には炎の異術が宿るはずだ。これでは説明がつかない」
「ふふ。あの男が、統制局から盗んだのよね……先帝の遺物だとか?」
「詳しくは俺も知らないし、今は関係ないだろう」
「私もそんなことに興味ないわ。問題なのは、これは……放っておいても大丈夫なのかってこと」
 ベルカインはその時初めて笑った。
「そうさ。だから聞きたいんだ……あんたたちの判断をな。どうするのが正しい?戻ってあの男にも伝えろ。浄罪騎士団は貴族さまの意見に従うさ──」
 それまでは動かないぞ、という意思がそこにあった。エリュテイアは酷薄な笑みを深める。
「何か、見つけたのね?」
 ベルカインは挑戦的に睨み返す。
「だったらどうする?」
 エリュテイアは数秒黙っていたが、ふっと力を抜き、軽く手を叩いた。広すぎる洞窟に、小さな音は反響することもなく消えていく。
「ふふっ。めいっぱい、時間稼ぎをしなさいな。……私はね。この任務が成功しようが失敗しようが、どちらでも構わないの。ただ、本気で抗う貴方たちが見たいわ。それを踏みつぶしてあげたいの。それだけよ」
 ロイエンタールのもとへ戻っていくエリュテイアを見送りながら、ベルカインは緊張を解かない。片手で近くの騎士を呼ぶ。
「なんですか、隊長」
「これを見ろ」
 ベルカインの手には、黒い何かの破片がある。きらきらと輝くガラス状のそれは──
「黒曜石ですか?」
「ああ。だが、この形状は──帝都の技術では到底作れないだろう」
「なるほど」
 百戦錬磨の騎士アルミラは頷き、周囲を見回した。
「……あちらの黒刃と、こちらの黒刃は、やられ方が明らかに違いますね」
「血の棘で貫き、コアごと破壊。奥のはコアを引き抜いた後に破壊されている……つまり」
 ベルカインが警戒しているのは白刃の搭乗者ではない。更にこの奥にいるかもしれない、フローライトの協力者たちなのだ。
「ははは」
 アルミラは心底愉快そうに笑った。後がないものたちに特有の、底抜けの明るさがこもっていた。
「初めて見たかも知れない、それも暗殺用の黒刃をそれぞれ各個撃破できるだけの勢力がいて、しかも未知の技術を持っている、ということですね?世界は広いな。クーデターやら聖杯やら、アホらしくなってきましたよ」
「フン。俺もそう思っているさ」
 ベルカインの言葉は真実だった。いや、浄罪騎士団の誰もがきっとそう思っているのだろう。帝位など、誰がついても構わない。騎士団長ローダバルはその先を求め、帝都に渦を巻き続ける……今や都そのものと化してしまった忌まわしい貴族社会そのものからの脱却を望んでいるのだ。
 いわば彼らは家族でありながら、利害の一致というだけでその契りを結んだ者たちなのである。
「この雪原の先には、もしかしたら新天地があるのかもしれないな」
「おとぎ話じゃ、この先は世界の終わりで……月に住んでる悪魔がいるんですよね」
「信じてるのか?」
「おや」
 アルミラはバイザーの下からベルカインを見上げ、悪戯っ子のように笑っていた。
「隊長こそ、そういうのが好きだと思っていましたよ。フローライトの伝承についても調べていたじゃないですか」
「知識を求めることに終わりはない、と俺に説いた奴がいたのさ」
「誰だか分かりますよ。あの導師でしょう……ストリガの妹の」
「ふっ」
 導師セリカが生きていることは、浄罪騎士団のうちでは暗黙の了解だ。ローダバルのクーデターが第一歩を踏み出せたのは彼女のおかげなのだ──騎士団と統制局の関わりはもはや書面上のものでしかなく、極秘処刑の証明書などいくらでも偽造できた。
「伝達しろ。出来る限り時間を稼ぐとな」
「隊長は何を?」
「休憩、と行きたいところだが」
 ベルカインはちらりとマイラを見た。マイラも、意味深な視線を返す。
「……横たわる、苦難の蛇を跨がんとするならば」
「靴の内にも鉄を敷け、ですね」
 困難を前に、準備しすぎることはない……古い諺に、アルミラはまた笑った。
 それは帝都の古い寓話だった。ある日用心深い男が、騎士でもないのに鎧をまとい、鉄板を打った靴を履き、三本の剣を背負って出かけた。一本は鉄で一本は銅、もう一本は鉄の予備だった。男は山へ入ろうとしたときふと気づき、靴の内側にも鉄板を仕込んだ。もし蛇がいて、外側の鉄板の隙間に牙を通してきたらと思ったのだ。
 お話はそのあともいくつかの寓意を含んで続き、最後に男は沼に落ちて死んでしまう。だから、今その諺が含む意味は複雑なものだ。準備に準備を重ねなければ目の前の蛇を越えられず、さりとて、この後に底無し沼が待ち構えていないという保証はどこにもない。
「お供しますよ、隊長」
「……ああ」
 ベルカインは苦く頷いた──

 カムラスクは顔を上げ、呼吸と精神を整えた。トララスクは苦し気に、けれど穏やかな寝息を立て始めている。
「……なるほど、なるほど。ようく分かったよ……」
 その顔は、先程までとは打って変わって喜色に満ちていた。カムラスクが虚空に手をかざすと、指の間で微かに赤い火花が飛び散った──それは“白刃”のものにそっくりだった。
「すばらしい。あの女を殺す必要もなくなった……いいや、むしろ見届けてもらおうじゃないかね……」
 エリュテイアに触れた一瞬で、カムラスクは理解していた。黒刃と白刃のつくりはごく近いものだ。器の有無の差異でしかない。そして──
「なんと、まあ。可愛らしい技術よの」
 核のない、ただ動かされているだけに過ぎない白刃の操作を乗っとるのは、黒刃を同時に操るよりずっと簡単そうに見えた。
「ほっほ。もうじきですじゃ……あれだけの贄を同時に捧げれば、きっと必ずや……」
 マイラスクの姿もあったが、カムラスクはそれを気にも留めない。
「さて──」
 カムラスクは頭の中で懸念事項を並べ、ひとつひとつ潰していく。
 まずは帝都の騎士団。これは問題ない──黒刃を暴走させた結果は大したものではなかったが、それを鎮圧せしめた白刃の操作を強奪できるならば取るに足らない。次に……ドーマ。これも、問題ない。強大な古代種の末裔も今は弱り果て、カムラスクの呼び声に応えて表層意識の主導権さえ譲り渡してしまうほどだ。セリカの存在はやや気がかりではあるが、瘴気に対して所詮はカムラスクの真似事しか出来ぬ程度。いつでも殺せる。
 となれば最大の懸念は、今も直進し続けている謎の客人たちだ。
「ここまでニュムラスクが一緒ということは、彼女が目的を明かしていないか、あるいはそれでも利用価値があるために泳がせているかのどちらか……ふむ」
 最悪の場合、直接トララスクをぶつける必要があるだろう。その場合、彼らを少し留め置いたうえで騎士団の到着を待ち、同時に白刃の制御権を強奪。挟撃をかけ、ひといきに──
「大人しく従ってくれるならそれでよし……案外、ドーマに会わせてみるというのも悪くない……ほっほっほ」
 カムラスクは呪術師であり、軍師だった。いつか来る暗黒の日に、その尖兵を率いる軍師なのだ。
「……ルルラスク、おまえをきっと、救ってやるからねえ……」
 囁きは澱み、冷たい風に乗ってくるくると踊る。また雪が降り始める。カムラスクはちらりと外を、真円の形に広がる凍った湖を見た。こちら側の岸にはいくつかの家が身を寄せあうように建ち、微かな営みの気配を漂わせている。
「…………」
 カムラスクは泥のように曖昧な眠りに落ちてゆく。春の光景を瞼の裏に思い描きながら──それは深い緑に満たされた邪悪な春だった。毒々しい緑の他は何も見えない、甘く腐った春の日を。

 事情を説明するのはそこそこ大変だった。
「つまり、ジェンダール様は……ルシスと関わりが?」
「ええと、その……なんて言ったらいいのかな……」
「異術を手にしたのは成り行きだ。俺たちにも詳しくは分からない」
「説明する気、ないじゃん!」
「えっと……とにかく、その、みんな無事なのね?さっきのお化けはもういないみたいですし」
 フローライトもまだ、奇妙な白昼夢の余韻から醒め切ってはいなかった。いちばん冷静なのは──おそらく身に染みついた技術によって──ビルギルだ。
「私も、おそらくルシスの幻影を見ました。夢の中のような白い街でした──帝都でも見たことがない、一切継ぎ目のない建築様式でした」
「そう、それがルシスだよ!……あ、その、ビルギルさん……身体は大丈夫?目が見えないとか……」
 ジェンダールが最も心配しているのはそれだった。試練の光ではないつもりだったが、もしもこれで異術を目覚めさせてしまったら──その時、何かを代償に──
(……前借り……)
 ヴォルドールの言葉がよぎる。代償は前借りだと言っていた。ならば、いつか返済できる日がくるという事だろうか?
「なるほど。ルシスの光は異術を目覚めさせ、代償を奪う……ということですね?」
「ま、まさか」
 ビルギルはやんわりと手を振った。
「いえ、一切問題はありませんよ。あれはただ……少し強すぎた光、ということなのでしょう」
「不用意でした……ごめんなさい」
 しおらしく頭を下げるジェンダールを横目に、ディムロスはまた考え込む。
(……やはり、反動の度合いが小さい)
 初めのころ──たとえば沼地の大蛇へ精神攻撃をかけたとき、ジェンダールは眼から血を流して気絶するほどの反動を受けていた。それと比べれば、フィードバックは明らかに軽減されている。
(それも、黒刃との戦闘から一日も待たずにだ。それがどうだ?血も流していない、歩くこともできる。いったい──)
 いったい、友の身に何が起きているというのだろうか。

 ジェンダールも、ディムロスの視線と思考に気付いていた。
(……ディムは何か、新しい力を使ったんだ。血の跡に魂の残り火が見える。それに、炎の質が少し変わった)
 燃え滾るような黒炎の、温度が違う。ジェンダールにはアブストラクトな直感でしか捉えられないが、それはたとえるなら──
(瘴気の炎は熱い。異術の光は、ただ眩しい……太陽と月みたいに。でも、ディムのこれは……違う。冷たい。滲み出るみたいに冷たい……)
 それと全く同じ気配を持つものがひとりいる。赤いその影はやや離れたところから、またじっと上を見上げている。彼女は全身から凄まじい感情の波を発していたが、それは全て、硬く冷たいヴェールのようなものの向こうから発散されていた。それが何を意味するのか、ジェンダールにはなんとなく分かる。
(血……血なのかな。瘴気が命を、異術が魂を食うように、血を仲立ちにした……)
 あるいはルシスの光が届く以前、世界はそうした古い法則に従っていたのかもしれない。だとすればカーマインという存在は、いったいどこからやってきたのだろう。
(ディムはきっと僕の心配をしてるんだろうな。……自分の怪我も治ってないのに)
 ディムロスの傷は不自然に塞がっていた。カエデの刀がつけた長い裂傷も、オズの手が直接触れた首輪のような火傷の跡も、開く時を待ち望んでいるように歪に閉ざされ疼いている。あるいは彼が瘴気を使うのをやめたとき、その傷は開いてしまうのだろうか。
(異術で、傷が治せればいいのに)
 ジェンダールは溜息をついてディムロスと目を合わせた。互いに互いのことを考えながら、それでも、それが最優先でないことを理解していた。
 ディムロスはちらりとニュムラの背を見遣る。その意図は分かっている──ジェンダールにはまだ、他人をとことん利用することへの抵抗感がある。それが正しいと分かっていても、だ。
 事実その一。ニュムラは何かを隠している。事実その二。彼女には籠を運んでもらわなければならない。事実を羅列し、それが相反しないように現実を組み立てていくのがディムロスのやり方だった。その為にならどんなことでもするのが闇探りのセベクたちなのだ。
「ニュムラさんは大丈夫?」
 だからと言って、仲良くしてはいけないなんてことはないはずだ、とジェンダールは思う。だって……相手も生きていて、魂が、心が、感情があるんだから。
「え、ええ。ちょっと……その、びっくりしただけ。皆と一緒ね」
「よかったあ。……お化けもいなくなったし、そろそろ休んでもいいんじゃないかな?」
「もう少し行きましょう。暗くて見えないけれど、天井が崩れたところがあって……そのとき落ちた岩の陰で、風をよけて休めると思うから」
 何より、ニュムラの案内は誠実だった。
「……そうしたら、明日の昼ごろには到着できると思うわ」
「俺が見張りにつく」
 ディムロスがぶっきらぼうに言った。
「眠らなくても問題ない」
(言い方が怖いんだよ!)
 ジェンダールが睨んでも、ディムロスは知らんぷりだ。ビルギルがやんわりと付け加えた。
「私も見張りにつきます。訓練されていますから……交代制のほうがいいでしょう」
 

 夜半、カエデは眠れずにいた。岩陰は確かに風が通らず、さほど寒さを感じない。フローラがなにか寝言を囁いていたが、他の事に集中しているカエデには聞き取れなかった。
「…………」
 長く息を吐く。カエデが見つめていたのは、錆びついた古い刀だった。ディムロスが回収したものだが、捨てていくより持っていた方が安全だろうと判断したのだ。
 鍔はなく、真っ直ぐな刀身には見たことのない文字が彫られていた痕跡がある。それと同じものを、彼女はずっと昔に見たことがある。あれは確か──

 ──カエデたちが暮らす火の山の麓では、年に一度のお祭りがある。火の山がその年一年、癇癪を起こさないように鎮めるための舞いを捧げるのだ。巫女たちは代わる代わる一晩中踊り続け、見守る村人たちは一晩中飲み食いして騒ぐ。かつては厳粛なものだったのかもしれないが、カエデが知る限りにおいては、夜更かししても怒られない唯一の日という認識だった。
「じゃあ、私は行ってくるから。あんまり夜更かししちゃ駄目よ、カエデ」
「わかってる、わかってる!」
「ほんとかなぁ?」
 舞い装束に身を包んだ姉は笑ってカエデの頭を撫で、最初の二時間を担当する巫女として舞台へ向かった。やがて音楽が始まって……
「お小遣いよし、変装よし……」
 変装というのは帽子のことで、舞台からアオイに見つかってあとで怒られないようにするためのものだった。成功したことは……ない。
「お宝よし!」
 これは山の中や川床で拾ってきた、きらきら光る石のことだった。時折訪れるライザールの商人などが珍しがって、不思議なものと交換してくれることがあった。
 そう──この時期、この日の前後には、お客さんが来るのだ。命知らずの商人や故も知らない冒険者、あるいは何かずっと古いような雰囲気の旅人、近くの村の若い衆、などなど……そしてその日、カエデは誰に会うか決めていた。そっと扉を開け、外を窺う。
「……お姉ちゃん、よし」
 ポーチを二つ引っ提げて泥棒のようにこっそり家を出たカエデは、広場の端っこを通って山の方の外れへ向かった。月が大きく出ていたのを覚えている。
「ふんふんふん……♪」
 幼いカエデは上機嫌で、自分が編纂してきた外の世界の辞書をめくりながらそこへ向かった。ずっと昔に噴火したときの名残でそのあたりは起伏が激しく、ひときわ大きな丘の上にその人がいた。
「あのう」
 じっと座って村の方を見ていた彼はちらりと目線だけをよこした。たまに訪れる灰色の虫たちと少し似ている細い体つきで、銀にも青にも見える翅をもっていた。
「なんだ?」
 そして何より、長い刀を背負っていた。刀のほかには何も持っていないと言ってもいいくらいだ。そして、おそらくそうなのだろう。アオイは彼らを月の民と呼んだ。どこか遠いところに、月のような湖があって、そこから終わりのない旅に出る者たちなのだと。
「……えっと、隣、いいですか?」
 彼は不思議そうにカエデを見たが、拒みはしなかった。
「ああ」
 カエデはそこに座り、そして気付いた──ここからだと村の全部が見える。細い川が月光にきらめき、微かに舞いの調べが聞こえてくる他は静かだった。火の山が常に発している地鳴りも、今日だけは息をひそめているようだ。このひとは、きっと凄く目がいいんだ──そう思った。
「……」
「……」
 無言でいるのがかっこいいと思ってしばらく黙っていたが、やがて彼の方から口を開いた。
「何の用だ?」
 初めに村へ来たときから、彼は誰に対しても同じような態度だった。口数少なく必要なことしか言わなかったし、幼いカエデに対してもまるで大人と同じように接した。厭世観だとか無関心だとか難しいことの分からないカエデにとって、それはとても……新鮮で、嬉しい体験だった。
「あ、えっと、そのう……」
 だからここにきてカエデは迷っていた。ひとつだけお願いがあったのだけれど、それを本当に口にしていいのか悩んでしまったのだ。
「……ええと……」
 彼は促すことも急かすこともせず、黙っていた。ゆっくりと月が動いているのを感じるほどの瞬間だった。
「……か、刀を見せてくれませんか」
 言っちゃった、と思いながら、カエデはふいと俯いた。怒られたら逃げ出すつもりでいたからだ。
 彼はすっくと立ち上がった。
「あっ、その、嫌だったらいいんです!ごめんなさ──」
「動くと危ないぞ」
 立ち上がるのと同時に彼は抜刀していた。長すぎて、座ったままでは抜けなかったのだ。背負っていた鞘を外し、彼はまた座った。
「刀に興味があるのか?鍛冶の村とはいえ……」
 彼はまだ何か言っていたが、その時のカエデはもうすっかり抜き身の刃に夢中だった。
「わあ……綺麗!お姉ちゃんの刀より黒くて、少し分厚いかな?あの、触ってもいいですか?」
 一度許された好奇心というのは、特に幼いほど燃え上がりやすいものだ。彼はその時、気圧されていたように思える。
「……構わないが、手を切るなよ」
 長刀を片手でぴたりと支えていた彼は、今思えば相当の使い手だったのだろう。幼いカエデは用意周到に手袋をはめ、刃の峰をぺたぺた触った。月の光を映して、刃そのものが光を放っているようだった。
「これ、ふつうの鉄じゃないんですね?」
「──分かるのか」
 くず鉄で遊ぶ村の子供たちなら誰でもわかることだが、確かに異様なことだったのだろうと今なら思う──彼は刃を裏返して語った。
「これは、月と星の欠片から出来ているそうだ。僕たちが旅立つとき、一人に一振りずつ授かるものだ」
 その刃の峰に、確かに刻まれていた。
「おまじないみたいなものだ……古い予言だよ。完全に覚えている者がこの世にいるかどうかも分からない」
 せめて文字の形を忘れないようにと、それが彫られた木片を持ち歩いているのだと彼は言った。いつか来たる日に、その予言が成就するのだと──

「……星の、欠片」
 その時、たくさんの話を聞いた。興奮していたから全部は覚えていないけれど、それでも確かにこの刀はあのときのものによく似ている。形も違うしボロボロだけど、それでも──
「直せないかなあ……」
 その刀が持つ不思議な魅力は、たとえ錆びていても失われていなかった。それがカエデを引きつけ、虜にしていた。
「お星さまが落ちてくることなんてあるのかな?うーん……」
 彼はその後どうしているだろう。旅を続けているのだろうか、あるいは……ディムロスとジェンダールがそこから来たというライザールの街──そして遙かなるルシスにまで足を延ばしているのだろうか?カエデにとって世界はどこまでも広く、知らない街が沢山あるという事実がまだどこか信じられないくらいだった。
 音もなく、岩の上から影が降りてきた。ディムロスだ。
「眠らないのか?」
「あんまり眠くない。交代?」
「ああ」
 そう答えるディムロスも、今夜は眠らないつもりだろう。カエデから見た彼は、幼い日に村で見た旅人たちと同じ奇妙さを備えていた。それが相手との距離という意味なのだと今なら分かる。何よりディムロスは時折、カエデの腕を気にする。仕方なかったとはいえ、この腕を斬り落としたのは彼なのだから。もちろん、カエデはそんなことを気にしてはいなかった。
「じゃあさ、お話してくれない?」
 ディムロスは訝し気な視線で応えた。内容次第だと言うのだろう。
「ライザールの話が聞きたいな。どんな街なの?」
「…………」
 彼はしばらく黙っていた。拒む理由を探しているのかと最初は思ったけれど、そうではなかった。ただ、どこから話すかを考えていたのだった。
「灯火の街ライザール、地上の星、影のない街……こういうのはジェンダールの方が得意だが、それでもいいのか」
「うん。もしかしたら眠くなるかも」
「フン」
 彼は微かに笑って、それから話し始めた。朴訥な口ぶりでお世辞にも上手な語り口とは言えなかったが、彼が知っている限り……そしておそらくは、外の人間が見ることの出来る箇所に限った話を。
 簡単に身の上を話したあと、カエデが尋ねた。
「そのカブラーっておじいさんが……ええと、二人のお師匠様なの?」
「まあ……俺にとってはそうなるな」
 そう言うディムロスはなんとなくしかめ面だったが、間違ってはいないのだろう。
「ジェンダールにとってはあの爺さんが親代わりだ」
「親代わり……ってことは……」
「あいつはまだ右も左も知らない頃、カブラーに拾われたんだそうだ。……まあ、俺も親の顔は知らないがな。どちらにせよ……大方、どこぞで野垂れ死んだんだろう」
「そういう子供たちって……多いの?」
 カエデにとってそれは深刻な問いだったが、ディムロスは不思議そうに彼女を見た。まるで、魚はなぜ泳げるのかと聞かれた子供のようだった。
「当然だろう。ラプトから流れてくる孤児の大半が商人の見習いかセベクになる。荒事に向かない奴は畑仕事を覚えるしかない……そういう奴らの商売に、まともな家に生まれた奴が金を出す。そういうものだ」
「そういうもの、なんだ……」
 やっぱりそれは少しだけショッキングで、けれど世界の広さを暗示するような真実に、カエデはむしろ元気付けられたくらいだった。この目でそれを見てみたい、と強く思うからだ。
「あ……そうだ、鍛冶屋さんはいるの?」
「それなりにはな。ライザールの鍛冶師はせいぜい農具の手入れが限度だが……ラプトの深部には、特別な得物を打つ奴がいる」
 とくんとカエデの心臓が跳ねた。それは直感だった。
「特別って、具体的には?」
「五層より下はまともな奴の行くところじゃない」
「私を……子供扱いするつもり?」
 ディムロスは再び、怪訝そうにカエデを見た。そこに生来の炎のような気性の発端を見ただろうか。彼は俯いたが、言葉をつづけた。
「……いや。単なる警告、使い古された警告だ。……帰れたら案内してやる」
「そんなに危険なの?」
「ラプトの七層より下は、光が届かない。ランタンを持って入っても……食われる。光を食う蟲がそこらじゅうにいるからだ。蟲避けの手段を知らない奴はあっという間に迷い、やがて……」
「死ぬ?」
 ディムロスはその時ようやく少しだけ身を乗り出した。こういう話をする方が好きなんだ、とカエデは思った。
「いいや。死ぬより悪い事になる……そうやって闇に惑い続けた者たちの成れの果てが襲ってくれば、分かる」
「その鍛冶屋さんは……」
「ラプト十三層……古い廃坑の入り口があるフロアで、瘴気が滲み始めている。噂じゃあ、その立坑の奥には見たこともない化け物がいるらしいが──そんなところに店を構えている」
「まともじゃないんだね」
 カエデは笑いかけたが、ディムロスは変わらない調子で続けた。
「一度だけ会ったことがある。暗闇でも目が見えて、心を読み取れる奴だ。黒い、冷たい火を扱う……」
 彼は懐に触れた。カエデは知らないが、彼女の斬撃を受け止めて壊れたディムロスの笠はその鍛冶師の手になるものだった。
「特別な火で、特別な武器を作るのね?」
「やけに食いつくな。何が知りたい?」
 カエデはどきっとしたが、ディムロスは彼女を単なる武器マニアだと思っているようだった。鍛冶の村に生まれた、ちょっと風変りな女だと。
「ええと……特別って、具体的にはどう特別なのかな、って」
「そうだな。俺が知っているところなら……流体の金属を鍛え上げて、自在に曲がる剣を作ったとか、折り畳める大弓だとか、戦闘用のワイヤーだとか……」
 それは確かに興味を引く話題だったが、カエデは辛抱強く待った。直感はまだ胸の内で燻っていた。
「あとは……そうだ。隕鉄の剣を整備できるのもそいつだけだと言っていた。今にして思えば、俺がカブラーと繋がっていると知っての宣伝だったんだろうが……」
「隕鉄?」
 鼓動の高鳴りに併せて、手を置いたままの錆びた刀が震えているようだった。
「ああ。ほとんどはルシスから持ち出されたものだが……隕石の鉄、星の欠片のことだ」
「それ!それだっ!」
「声が大きいぞ」
「ご、ごめん……その、隕鉄の刀って……」
 ディムロスはふっと笑った。
「まだ刀とは言っていないんだがな。……その刀の事が気になっていたのか」
「あっ……」
 またやっちゃった。ついつい感情だけが先走ってしまうのは悪い癖だった。
「……何を考えているかは知らないが、おそらくそいつなら直せる。もちろん、原料があればの話だがな。……見たところ、この刀は相当古い。あるいはルシスが開いていた時代のものかもしれない」
 ディムロスはじっとカエデを見つめた。カエデは──なんだか騙そうとしていたのがバレたみたいで居心地が悪かったが、黙ってそれを受け止め、やっぱり少し怖くて錆びた刀の柄をぎゅっと握りしめていた。
 やがてディムロスがゆっくりと言った。
「悪くない。ただのガラクタじゃないと見抜く審美眼と、金属の知識があるなら──フン。セベクの素養があるぞ」
「えっ?」
 ディムロスは素早く立ち上がると、ひょいと岩の上へ登っていってしまった。それが冗談だと理解できるまでにしばらくかかったが──
「……ふふ」
 カエデは微笑み、横になった。地面は硬かったが、今度は少し眠れそうだ。
「にゃむ……うう……ベッドが、亀さんです……」
 フローラの寝言を聞きながら、カエデはそっと目を閉じた。流れ星の夢を見た。

 ジェンダールも起きていた。いいや、もしかしたら眠っているのはフローラだけなのかもしれない。他の誰もが、漠然とした緊張感と白昼夢の残滓にどこか昂り、ただじっと静かにしていた。カエデが眠ったのをなんとなく感じ、ジェンダールはゆっくりあたりを見回した。真っ暗な吹きっ晒しの空洞で、気温はごく低く、遠くで風の音がしていた。
 彼が視線に力を込めると、ぼんやりと死者の影を、亡霊たちの呻きを感じ取ることができる。ジェンダールは心の中で彼らに謝った。
(さっきはごめん。眩しかったよね)
 こんな場所に来るのは初めてだった。暗黒の聖堂も死に満ちていたが、邪悪な存在によって完璧に制御されていた。古い遺跡の奥などで、時折そうした……ネガティブな存在を感じることもあったが、これほどではなかった。まるで──まるで、つい最近まで、日常的に命が奪われていたかのようだ。
 だとしたら、それは一体なんのために?司祭ドーマとは、善なるものなのか、悪しきものなのか?仮に……オズのような邪悪な存在だったなら、僕たちはどうするべきだろう?
「なんて、考えても仕方ないよね……」
 突然、耳元で誰かが囁いた。ずっと遠くからのこだまのように不明瞭な囁きだ。
『いいや』
「でも、どうしろって──……え!?」
 思わずそれに答えてから、ジェンダールは飛び上がるほど驚いて──岩に頭をぶつけそうになり、慌てて暖かい帽子をかぶりなおした。声が続く。
『大きな声を出すな。お前にしか聞こえていないぞ』
「…………お、お化け?」
 不明瞭な笑い。
『フン。まだオレの声を覚えたわけじゃないらしい』
「ヴォルドールなの?」
『ああ──本当は黙っているつもりだったが、お前に言っておくことがある。いいか、よく聞け。そのドーマという奴は……』
「知ってるの?」
『黙って聞け』
 ヴォルドールは話を遮られるのが嫌いらしく、あからさまな苛立ちにジェンダールの意識がちくちくした。意識に相乗りされている──どうして?
『オレが探していた奴かもしれない。その可能性が高い──ルシスに連なる存在だ。おそらくな』
 仮にそうだとして、それがどうしてこんなところに?そもそもどうして話しかけてこられる?自分にできることは?疑問だけがいくつも浮かび、ジェンダールは考え込んだ。
『質問ばかりだな。黙って考えろ……ずっと考えていろ。こうしているのは疲れる』
「行っちゃうの?」
『とにかく、ドーマに会え。必ず役に立つ』
「待っ……」



 ヴォルドールは一方的に会話を打ち切り、白く輝く意識の檻の中で集中を続けた。実際のところ、あのまま話し続けるくらい簡単だ。それでも──
「多少なりとも、か弱いイメージが必要だろうな?」
 燻るような笑いと共に、身体に生えた水晶の棘が震える。
「感覚は掴んだ。投影もおそらく……出来る。それにしても、ドーマ。ドーマか!」
 彼の持つ情報も多くはない。ルシスの幻影で足掻くうち、少しずつその裏側──つまり現実世界のルシス──を盗み見る方法が分かってきていた。古いものであればあるほど、こうした幻影との間に揺らぎが起きる。それが偶然重なり合えば、読み取れる。
「やはりオレには幸運がついているな!」
 中でもヴォルドールのお気に入りは編纂室だった。ルシスが、その知りうる歴史の全てを資料に残し──今も残し続けている場所だ。望んだ場所へ行くのも一苦労だが、彼にとって苦労や苦痛など足枷のひとつにもならない。分光の王、というキーワードを知ったのもそこだった。
「ドーマ。無彩の光を戴く祝詞の王、古代種の末裔……現実を書き換える眼!しかもおそらく……かなり弱っている。殺せるはずだ」
 欲張るのはいけない。だが、現実を正しく理解することも必要だ。欲張った結果、ルシスの奇妙な近衛兵……生物とは思えぬ異様な騎士と目が合ったことがある。ルシスの中心、玉座があると思しき城郭へ侵入しようとしたときだ。たとえ幻影の街からでも、そこへのアクセスは禁じられていたらしい。あと一瞬遅れれば……
「同じ騎士が四人だか三人だかいたはずだ。死んでいただろうな」
 その時も、現実を正しく判断したから生き延びた。今回も同じだ。
「分光の王を殺して、冠を奪う。ルシスが放った光そのものがあれば、この程度の罠は内側から破れる……」
 そうしたら?ルシスの光を戴いた自分なら、あるいはルシス・デインに暮らすことを許されるかもしれない。たとえそうなったとしても彼は拒むだろうが、そうした類の妄想はいつだって心地よいものだった。
「く、くくく……!なあジェンダール……あとはお前が死なないようにしてくれるだけでいい……謁見が叶う、その時まではな……!」
 どさくさに紛れて全員殺してしまうのもいいかもしれない。光さえ手に入れば、後の事はどうでもよかった。どの道、現実世界へ自分の霊体を投影するだけだ。仮に破壊されても……多少のフィードバックはあるかもしれないが、問題ない。ならば久しぶりに暴れるのも悪くはないだろう。
「さあ、あと少し……オレがお前を護ってやるぞ、ジェンダール……くく、ははは!」

十四章:血濡れの朝に

 この地の朝は、暗かった。
 超感覚とも呼べる奇妙な直感で、ジェンダールは目を覚ました。その瞬間が日の出だった──あたりは真っ暗だ。洞窟の中だから、という理由もあり、遙か頭上の分厚い氷が、その更に上へ立ち込める灰色の雲が、ごく僅かな光ですらも阻んでしまうからだった。
 ジェンダールは息をひそめて集中した──目覚めたばかりだというのに、彼にはそれを感じ取れていたからだ。
(誰かが見てる)
 見張りは誰だろう。ディムだろうか?それともビルギルさん?ずいぶんよく眠っていたものだ──あのあとヴォルドールからは何の音沙汰もなかった。
 彼の感覚が正しければ、見張りのふたりは気づくまい。視線はかなり遠かった。そんな遠い視線ですら、今の彼には感じ取れる──それがどういう意味なのか、はっきりとは分からない。何故か、今日の彼には不思議と力が満ちていた。まるで、今まで閉じていたものが開いたようだ──今は、それについて考えるときではない。
 見られているという感覚は、特に山の中ではよくあることだ。野生の生物の注意を引いているという直感、あるいは危険な同業者の視線、けれど多くの場合は緊張からくる気のせいだ。だけどそれも、今のジェンダールにとっては判別できる事だった。
(これは、ただの勘じゃない……)
 ジェンダールはそろそろと手を動かし、そこにあった石をかるく叩いた。複雑な符号ではなかった──もっとも単純なもの、視界の確保できない状況で、付近にいる同業者を誰何するためのパターンだ。
 当然、答えるものはひとりだ。頭上からパターンが返ってくる。
“ここにいる”
 ジェンダールはもう一度、誰何のパターンを叩いた。少しの間があって、簡単なパターンが返る。
“遠いか?”
 ジェンダールは肯定を送る。
“危険か?”
 否定を二回つなげて叩く。“わからない”だ。
“こっちに来い”“可能か?”
 肯定を返し、ジェンダールはそっと立ち上がった。冷たく尖った風の波が顔の横をすり抜けていく。その感覚は初めてだったが、やはり今考えるべきことではなかった。ジェンダールは視線を避けるようにぐるりと回り込みながら、平たい岩の上へ登った。ディムロスの姿は、まるで鍋の底にへばりついた黒い焼け焦げのようだった。彼はこちらを見て、抑えた声で囁いた。
「前か?後ろか?」
「前。だいぶ遠い。敵意の有無までは分からないけど……見られてる」
「そうか」
 ディムロスはそのまま飛び降りようとした。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「なんだ。直接叩きに行けばいいだろう」
「なわけないでしょ!?まだ敵かどうかも……」
 ディムロスは黙ってジェンダールを見つめている。それがどういう意味なのか、ジェンダールには分かっている──未開の地では、自分以外は敵と思え。それが当然なのだから。
「……分からないんだよ」
「はっきりさせておきたいことがある。俺たちの目的はなんだ?」
 ディムロスは落ち着いている。自分もだ。風の流れが見える──奥の方から流れてくる風。なだらかで広大なこの下り坂を、意思を持った重い感情のように漂ってくる。
「……籠を起動して、ライザールに帰る」
「ここに生きている連中と、関係があるか?」
「ない」
 ジェンダールはしっかりと言い切った。迷っているわけではないことを強調したかった──ディムロスはまた少し黙って、それから座った。
「そうか。……おそらく、俺たちの前には相当の危機がある。それだけは確かだ。お前のその……感覚を、頼りにしている」
 冗談なんて珍しいね──そう茶化そうと思ったが、やめた。
「……攻撃する気でその手段を持ってるならとうに使ってるはず。たぶん、あの襲撃者とは無関係だよ」
「ならいいが。皆が起きるまえに、どうするかを決めるべきだ」
 どうするか。皆が起きる前に──それはつまり、何が起こっても自分達だけは最善の選択肢をとるということだ。異論は、なかった。
「待つか?それとも……」
 結果的に、この問題に答えは出なかった。
「「ッ!」」
 二人は弾かれたように振り返り、歩いてきた方の闇を見た。その直感が正しいものである事を照明するように、そこにはすでに赤く血濡れた影が立っていた。三つの視線の先には闇があるのみ。だが、その先には──
「皆を起こすぞ。急げ」
「──うん」
 今度はディムロスが、ジェンダールと同時に気付いた。つまりそれは、単なる視線ではなく──もっと厭なものの気配だった。瘴気の気配だ。
 堪え切れないカーマインの囁きが闇をふるわせた。
((──))
 ふたりが岩を降りた時には既に、カーマインの姿はなかった。彼女の行動について疑問をさしはさむ余地がないことは、もう誰もが理解していることだった。

「時間を稼いで、結局のところ何がしたかったのかしら?」
「お前には関係のないことだ。消えろ」
 冷徹なベルカインに、エリュテイアはくすくす笑った。闇の中で行軍速度は多少落ちていたが、問題はなかった。彼らは鋭い敵意を全方位へ向けたまま、ひたすらな進軍を続けていた。
「残念よねえ。単なる血の棘……危険なものじゃなくて。そうしたらもっと長く足止めできたのに。……もちろん、すべて無意味な行為だけどね?」
 あからさまな挑発に対して、黒い騎士の姿は文字通りくろがねのようだ。ただじっと進み続けるその姿は、彼が自身に対して思う騎士像そのものだった。
(死地と知ってなお、歩み続ける──)
 頭の中で浄罪騎士の制約を繰り返しながら、ベルカインは己の精神に冷たいハンマーを振り下ろす。剣であれるように、盾となれるように。
「隊長」
「どうした」
 浄罪騎士の面々も、今やエリュテイアたちのことを完全に無視していた。彼らは今や敵同士であることを隠しもしない。あるいはこの暗闇と寒さ、そして瘴気がそうさせているのかもしれなかった──重く暗い感情が、ずっと彼らを蝕む。それを打ち消せるのはやはり、ただ闘志……あるいは、殺意のみなのだ。
「痕跡があります。調べる時間を」
「分かった。──」
 エリュテイアは肩をすくめる。
「はいはい。お好きになさい」
 どの道、その程度の遅延は問題ではなかった。明らかに痕跡は新しいものになっており、それに……相手は子供連れなのだ!対してこちらは訓練された騎士団であり、寒さや暗さをものともしない。じわりじわりと、彼らの──追跡対象の、ひいてはこの騎士の──首元にかけた縄が絞まっていくようだった。
 エリュテイアはその優越感をただ楽しんでいた。一挙両得とはまさにこのことだ。フローライトとその協力者に騎士団をぶつけ、生き残ったほうを殺し、更にはロイエンタールの命さえも。想像するだけで、邪悪な高揚に白刃が応えるほどだ。
 しばらくの間、数名の騎士が武装から投射した金色の光で地面を照らしていた。痕跡を拾い集めるようにして確認し、彼らの中でつなぎ合わせていく様は、さながら恐ろしい黒き蜂たちのようだ。後方ではロイエンタールが何度目かわからない小休止に苛立っていたが、エリュテイアでさえ彼のことを気に留めなかった。
「──フローライトの足跡はありません。ですが、何か重いものを持った者がひとり。残りは皆軽装です。ひとり……ふたり、足跡をほとんど残さない者もいます。おそらくはこれが戦闘員でしょうか」
「背負って移動しているのか?」
「分かりませんが、悪路を思えば恐らくは。それと……その、ところどころ、妙な痕跡があります。ふらっと前へ出たり、じっと立ち止まっているようだったり……」
「というと──奴らも、一枚岩ではないということか?ただ単に目的の方向が同じ、とか」
 あり得ない話ではないだろう。こんな場所で、向かう方向は少ない。マイラが話したドーマという存在が特別なものであるなら、それを求める者が偶然に集まっても不思議ではない。
「速度を上げるぞ。ドーマとやらに接触される前に片をつけるべきだ」
「了解」
 騎士たちは速やかに陣形へ戻り、いちばん身体の大きな浄罪騎士クライトがマイラを背負った。彼女はすでに疲れ果て、歩かせるのは不可能だった。立ち止まるたび不安そうに彼らを見ていたマイラは、今はほとんど昏睡めいた眠りに落ちていた。
「急ぐことないじゃない、ベルカインくん?フローライトの追討が終わったら……あとは聖杯を探すだけ。あるかどうかも分からないものをね。そこに、貴方たちは必要なくなってしまうわよ?」
「そうかもな」
 ベルカインのその態度が単なる虚勢であるのか否かさえ、エリュテイアには判別できなかった。それほどまでに、彼の態度はどんどん頑なになっていく──それに、少しだけ苛立ちを覚える。
「今から命乞いをするなら、考えてあげてもいいのに。ねえベルカインくん、貴方一人でも、助けてあげましょうか?他のみんなと引き換えに──」
 ベルカインはじっと彼女を見つめた。そこにあってはならない感情──滲むような憐れみ──を感じ取り、エリュテイアは思わず激昂しそうになる。
 それを押し留めたものもまた、やはり。
「隊長ッ!正面、何かが来ます!」
「防御陣形!」
 ベルカインは叫んだ──エリュテイアは飛び出しざま、白刃を起動する。手首と腕の関節部、両肩と両脚に熱く輝く瘴気の刃が展開した。
「な、なんだ、これは──」
 騎士たちの間に奇妙な感情が広がる。彼らにとって、誇りをもって忘れ去ったはずのもの……恐怖が。あるいは、もっと大きなものへの畏れが。
「ええい、何がどうなっている──ジエマ!」
「はっ……はいっ!!」
 ジエマの白刃が震動し、赤い輝きを放った。ロイエンタールの槍がそれを受け、悪意の灯台めいて掲げられる。さながら血のような、目映く、けれど鈍い光。その不穏な輝きのヴェールの向こうから、ゆっくりと──その存在が現れた。
 針のように痩せた身体は生物であるかも疑わしい。赤く鋭い眼光はただじっと目の前の敵に──彼女にとって、全ては敵なのだ──向けられ、だらりと垂らした両手からはゆっくりと血が滴っていた。
 その沈黙は凄まじく重かった。お前は誰だ、という常識的な問いかけさえ発されなかった。常識など、この存在の前では無意味だと誰もが理解させられていたからだ。
 カーマインはその場で立ち止まり、ただじっと彼らを睥睨していた。そこに説明のつけられる意思は感じられない。多少なりとも実戦を潜り抜けてきた騎士たちは、皆同じことを感じていた。
 これは、この存在は、単なる敵ではない。縄張りに踏み込まれた野獣のような、財宝の盗人に怒れる竜のような、そんな単純なものではない。 
 彼らは嵐の前に立っていた。赤いその嵐はゆっくりと右腕を上げ、血濡れの大鎌を生み出した。歴戦の騎士たちが声なき呻きを上げ、陣形に震えが走る。彼らが持つ輪廻の盾ですら、それを防ぎきれるとは到底思えなかったのだ。
 ベルカインは剣を抜こうとした。その横を、赤熱した流星が通り抜けた──
(エリュテイア!?)
 生存本能がもたらした強烈な闘志の発作に抗わず、エリュテイアは全身の刃を滾らせて突撃していた。カーマインは歓迎するように両手を広げ、左手にも鎌を握った。
 交錯。液体を激しく叩き付けたような、含みのある金属音。
「く!」
 エリュテイアはコマのように回転しながら距離をとった。一瞬の交錯で、彼女は五度の斬撃を放っていた──
 赤い口が裂けるように笑みを形作る。カーマインは無傷だ。血の大鎌は瞬時に分解し、異様な粘度の鎧となって瘴気の刃を防いでいた。それが再び血液に還る。無数の槍を形作る!
「舐めるな……舐めるなッ!」
 エリュテイアはその場でブレードを振るい、血槍を叩き落とした。三本。八本。十二。二十に達したところで、カーマインは突然踏み込んだ。エリュテイアはそれに対応する。槍の間をすり抜けるようにして、再び交錯。今度はすり抜けない。正面からぶつかり合い、エリュテイアは驟雨のように剣を振るい始めた。

 誰も、そこに加わろうとはしなかった──得体の知れぬ血刃が飛び散り、エリュテイアの侵蝕ブレードは通らない。カーマインは反撃せずに、ただただそれを防ぎ続ける。その時点で、他の誰もそこには加われないのだ。皆が理解していた──エリュテイアでさえ、この相手には勝てない。ならば一体、何ができるというだろう?

「死ね!」
 瞬間的に侵蝕ブレードを融合し、三倍の長さになったそれをエリュテイアは振り抜いた。赤熱した残像──カーマインは初めて回避した。エリュテイアはほとんど反射的に身体を丸めるように防御態勢をとる。異常な低姿勢からの登り蹴りを受け止め、白刃が軋む!
「……く!」
 蹴り上げられながら、白刃機構で重心を制御する。真下を見据える!カーマインは──再び大鎌を形成し、両断軌道を中空に定める!
「舐めるなと──言っているのよ!」
 エリュテイアは全身のブレードをひとつに集め、輝く長剣を作り出し──欠けゆく月めいた弧を描く!血の赤と瘴気の赤が激突し、凄まじい反響が洞窟中に伝わった。跳ね返りながら、白刃が瘴気を吸い上げる。再び瘴気の刃が伸びる!
「死──」
 死は彼女の眼前にあった。カーマインは同じく血の大剣を四つ生み出し、殺到させている。
(は。面白い──こんなの、あの時以来の感覚だわ)
 時間感覚が酷くゆっくりに感じる。それは死の直感であり、生の渇望である。
(死ね!)
 幅広の刃が瞬時に収縮し、火球めいて赤熱する。血の剣が、その切っ先が、それに触れる──
 ロイエンタールは帝都の鐘の音を思い出した。荘厳ですらある奇妙な轟きと、共にエリュテイアの輝きが、爆ぜた!

「隊長!」
「駄目だ!」
 ベルカインははっきりと拒絶した──作戦はいくつかあった。この状況はそのひとつに近い。だが、駄目だ。“ターゲットが想定以上の戦力を持っていた場合、反転して白刃組を強襲。これを撃滅する──”確かに、状況としては正しい。ここで部隊を反転させれば、ロイエンタールとジエマを討ち果たせる可能性は低くないだろう。
「脅威の度合いを考えろ──ここで全滅するのはうまくない!」
 真紅の戦士は明らかに狂っていた。言葉が通じるかどうかも分からない──味方をするという選択肢そのものがあり得ない!
「突撃陣形!」
 ベルカインは先頭に立ち、剣を抜いた。赤黒い瘴気の靄が晴れていく。ロイエンタールがようやく重い腰を上げ、こちらへ走ってくる。
「エリュテイア!」
 視線の先で──
「なん……だと」
 ベルカインは絶句した。病んだ火花を散らす瘴気侵蝕ブレードが四つ、カーマインの身体を貫いていた。エリュテイアは──カーマインを蹴り飛ばし、立ち上がった!
「フン。この程度の相手にやられるなんて……やっぱり黒刃なんて必要ないんじゃないかしら?」
 エリュテイアは明らかに殺気立ち、激しいアドレナリンの発作に高揚していた。
「ほら。こっちへ来なさいよ、騎士諸君──なんて。あはは!こいつ、見たこともない虫だけど……一体どこの出なのかしら?」
(あり得ない)
 ベルカインは剣を斜めに下ろし、左手を握って後ろへ回した。素早くハンドサインが伝達され、騎士たちが即応態勢をとる。ベルカインには信じられない──あの相手は明らかに常軌を逸していた。こんな風に倒れるはずがない。それは熟練の騎士ならではの直感であり、所詮──単なるセンスと兵器の強さで成りあがった統制局の騎士にはないものだった。
(必ず、もう一度来る!)
 おそらくはそれが最後のチャンス。次の決断が、彼らすべての命運を決する。硬直したベルカインの横をロイエンタールが悠然と追い越していった。
「なんだなんだ、大した事のない……浄罪騎士ともあろうものが怯えて動けないうちに、見てみろ!死んでいる」
「情けないですねェー!」
 自分たちの事を棚に上げて騎士団を罵る二人の貴族に、しかし彼らは厳然として動かなかった。誰もがベルカインの判断を理解し、信じていた。ロイエンタールがカーマインの死体に槍を向けた。
「誰であろうと、我々に楯突くものはこうなるというわけだ。分かったかね、諸君?」
「惨めな死!将軍、惨めな死をくれてやりましょう!ヒャア!」
 小さなコロニーの少年にそうしたように、ロイエンタールの槍が瘴気を帯びて放電した。貫き、焼き焦がし、見せしめとするために。ベルカインが一歩下がった──それは直感だったが、正しかった。
「──ッ!待ちなさい、ロイエンタール──」
 その瞬間、エリュテイアも気付いた。けれどもう、遅かった。ロイエンタールは放電する侵蝕スピアを真紅の身体に突き刺した。

 太陽に代わろうとした者たちがいた。血濡れの鎌で日差しを遮り、数多の血を集めて棘となし、やがておぞましい真紅の太陽を昇らせようと試みた者たちがいた。光に代わる、新たな王を迎えんとする者たちが──それは単なるおとぎ話。
 わるいことをたくらんだひとたちはみんな、ルシスのおうさまにほろぼされました。ひかりかがやくつるぎと、むてきのよろい。せいなるルシスのひかりが、きょうもみんなをみまもっています……眠れずにぐずる幼子を安心させるためのおとぎ話には、いつだって悪役が必要なのだ。悪夢を見ないためには、幻想の中で討ち果たされなければならない者たちが必要なのだから。

 真紅の太陽が昇ったかに見えた。凄まじく放射された真っ赤な光と見えたものは、暗い鮮血の迸りだった。それは邪悪な哄笑を轟かせながら蠢く翼を広げ、舞い上がる。降り注ぐのは全て血の棘で、結果的に一番近くにいたロイエンタールは全身を串刺しにされ──奇妙な磔のまま、一瞬で血を搾り出されて死んだ。
 ベルカインの足元にも暗い鮮血が突き刺さり、彼の足甲を濡らした。燃えるように熱い血だったが、彼は防御陣形を指示したまま動かなかった。騎士たちは──降り注ぐ棘を盾で受け止め、特にマイラを護った。そのために腕や足を貫かれても、悲鳴をあげることはなかった。
 エリュテイアは再びそれに対峙しなければならなかった──臆病者の反射神経で防御態勢をとったジエマは両肩を貫かれて吹き飛び、そのまま逃げ出したようだった。
「なんなの──なんなの、お前は」
 カーマインはゆっくりと降り立った。蠢く翼と見えたものも単なる血に過ぎず、ぐるりと彼女を覆うようにしてその裡へと戻っていった。明らかに異常な量だったが、そんなことはどうでもよかった。カーマインは無傷で、くすくすと笑ったようだった。
 カーマインが指さすと、貴族だったものの残骸からひとすじの血の帯が伸びた。それは彼の全身の血液全てで、カーマインが触れると一本の槍に変わった。
「……そう」
 エリュテイアは静かに醒めた目でそれを見た。同時に理解していた。こいつは追跡対象ではないし、おそらく何の関係もない。では、単なる狂人なのか?真紅の視線が上から下まで彼女を見つめる。何かを期待しているように、けれどもう、何も望んではいないというように。
「命乞いでもすればいいの?それとも最後まで戦えってこと?」
 カーマインは答えずに、手の内で槍を弄んでいる。くっついてきた白刃の残骸を、興味深そうに見つめている──
「答えなさいよッ!」
 エリュテイアは激昂し、今までで最長のブレードを形成して挑みかかった。まるで──炎に挑もうとする蛾のようだった。奇怪にかすれた囁きが聞こえた。
((ちがう))
 カーマインが片手を添えて息を吹く。血色の衝撃波が巻き起こった。巻き込まれたエリュテイアは受け身もとれずに吹き飛び、岩盤に打ち付けられて血を吐いた。白刃がスパークし、なすすべもなく崩れ落ちる。
「全員動くな。何があってもだ」
 ベルカインはゆっくりとそう言い、剣を納めて一歩踏み出した。足元の血痕が蠢くような錯覚に襲われながら。真紅の影が彼を見た。
「──」
 何を言えばいい?こいつに言葉は通じない。彼の知る中で最も強い者は騎士団長ローダバルだった。今までは──今では、その自信も揺らぎつつある。所詮自分達は、小さな国の小さな騎士団に過ぎないのかもしれないという思いが芽生えていた。目の前の存在はゆらりと動き、片手に血の槍を持ったまま近づいてきた。全身に怖気が走り、反射的に剣を抜きそうになる。
(こらえろ。こらえろ。こらえろ!抜けば死ぬ!)
 ゆらり、ゆらり。カーマインは──ベルカインを通り過ぎた。そのまま歩みを進め、騎士たちの列を割る。海が割れるように陣形が割れる。その先で、浄罪騎士クライトが立ちはだかった。背後には眠ったままのマイラがいる。
「ここは……通せない。俺は騎士だ。浄罪騎士クライトだ。彼女を害することは許さない」
 カーマインは興味深そうに彼を見た。
(よせ、クライト!)
 ベルカインは声を出せない。カーマインは少しの間槍をくるくると回していたが、やがてゆっくりとクライトに手を伸ばした。
「!」
 隊列が緊張する。決死の覚悟が満ちる──カーマインは大柄な騎士よりも背が高い。その手が肩に触れ、べっとりと血の跡を残した。そして……無造作に押しのけた。クライトがよろめく。のちにかれはこの鎧を勇気の証として語り継ぐことになるのだが、それはまた別の話。
((……♪))
 かすれた歌声は金属をこするように不快な響きだったが、確実に何かのメロディーを刻んだものだった。応えるように、マイラがゆっくりと目を開けた。
「……!?」
 カーマインは腰を折って屈み、その頭を掴んで持ち上げた。雑ではあったが、敵意は感じられなかった。
「ちょ、ちょっと、何なのよ!どうしてカーマインさんがここに……」
 握った槍の中で白刃のパーツが並び、やや歪に形を再現した。カーマインはそれをひょいと突き出し、じたばたしているマイラを貫いた。
「な──」
 再び騎士たちが色めき立つ──が、マイラは悲鳴も上げなかった。貫いたと見えたそれは流動する血に戻り、彼女を覆い包んだだけだった。
「何してるの!こら!やめ──な、に、これ……?」
 困惑の声が聞こえ、やがて血の繭がほどけてびちゃびちゃと降り注いだ。カーマインが手を離すと、マイラはしっかりと着地した。瘴気のくもりが取り払われたことを理解できたのは、マイラ本人だけだろう。
「……あなた……」
 カーマインはほんの少しだけ濁った血の槍を放り捨てた。その瞬間、彼女が持ち合わせていた興味関心の全ては失われたようだった。カーマインはふらりと踵を返し、散乱した血痕の上を滑るように戻り始めた。ベルカインは咄嗟に叫んだ。
「総員、行軍開始!」
 血の王に付き従う騎士のごとく、黒い一団が行軍を始めた。傷ついたものは同胞に助けられながら、同胞を助けるものは倍の力で歩んだ。

「──う」
 エリュテイアは目覚めたが、動けなかった。全身が痛み、それを貪るように瘴気の流れが入り込んでくるのを感じた。
(……ま。ついてなかったってことよね)
 彼女は全身の力を抜き、熱い瘴気の囁きに身を任せた。死は怖くなかった──何者にもなれずに帝都の辺境で朽ちていくより、よほど良い。ここなら誰にも知られない。
「バカね。あんな男の誘いなんか、断っておけばよかったのに」
 それでも、そうしなかったのは自分だった。そして、その結果がこれだ。
「……悪くはない、よね、エメリア……」
 暴力から始まった。そして暴力に、終わらされるのだ。弱小貴族の落ちこぼれには相応しい末路に思えた。
「く……っ……」
 痛みが消えていく──決して治癒を意味しない、忌まわしい感覚だった。誰かの怨念がずっと囁いていて、傷の全てが腐り落ちていくようだ。生の意志を失った者に、邪悪な瘴気は応えて寄り添う。その仲間に引き込もうとして。
(……眠い。すごく)
 エリュテイアは目を閉じ──
「見……見ィーつけたァ……!」
 誰かが狂ったようにそう叫び、凝った瘴気を吹き散らした。白刃はバチバチと明滅し、明らかに正常な状態ではなかった。
「ヒヒッ!ロイエンタールの馬鹿は死んじまった……もう、貴女しか、俺を満たせないィ……」
(……ジエマ)
 自らを貶め、媚びへつらう道化のジエマ。辺境の地で威張り散らすには、かなり賢いやり方だった。実力が伴わずとも、権力の威光を笠に着ることができた。
「哀れな……ものね。戦士の器じゃ……ない、のに」
「黙れェ!この、薄汚い、雌──」
 エリュテイアは無造作に右腕を伸ばし、自分を蹴り飛ばそうとしていた爪先を撫でるようにして斬り落とした。集めた瘴気が結晶化した侵蝕ブレードはもうかなり低出力だったが、それはジエマの方も同じだった。彼は両腕を血の棘に貫かれ、おびただしい出血に白刃をコントロールできていない。
「ぎゃあッ……痛ェ……痛ェよォ……」
 しかし、それが限界だ。エリュテイアは力を使い果たし、再び倒れ込んだ。
(やれやれね。私なんかに、静かな死があるわけないか)
 ジエマは理不尽で無軌道な怒りに身を任せ、哀れなほど彼には似合わない細身のレイピアを抜いた。敢えてそれを選んだのは彼なりの皮肉なのかもしれなかったが、今となっては──ただ、哀れなだけだ。
「殺してやるゥ……殺して、それでもまだ綺麗なら、ヒ、ヒヒ──あえ?」
 何か厭な音がして、彼女の上に生温かいものが飛び散った──が、エリュテイアは顔を上げられなかった。ジエマに何かが起こったらしいが、それを確かめることもなく彼女の意識は闇に落ちていった。

 背後で何が起きているのかについて、誰も尋ねようとはしなかった。カーマインがひとりで行ったのならば、追跡者が誰であれ無事では済まないということくらい、誰もが理解していた。
「後ろはどうだ、ジェド」
 彼らは壁沿いをしめやかに進み、時折背後に気を配った──もっぱらその役目はジェンダールが担った。
「離れた。瘴気の気配は……もうだいぶ薄いみたい」
「フン。追手が何者だったかくらいは知りたかったがな」
 ビルギルが付け加える。
「あるいは帝都の追手であるかもしれません。……統制局の騎士やも」
 彼に手を引かれながらそれを聞き、フローラはじっと考える。
(追われているのは、私そのものなのだわ。私の……せい、なのかしら)
(だったら……だったら、私が……)
 その発想は破滅的だが、崇高に思えた。自己犠牲による救済。己を燃やし尽くして、希望を繋ぐという行為は──奇妙なデジャヴを伴う。
(変だわ。こんなこと、考えたこともなかったのに──ずっと幸せだったのに)
 けれど同時にそれを却下できるくらいには、彼女が受けてきた教育は正しいものだった。
(ここで諦めたら、ビルギルに……ううん……お父さまとお母さまに、怒られちゃう。……きっと帰るから、だから、お父さま、お母さま……)
 見ていてください。見守ってください。ビルギルは両親の最後を語らなかった。それがどういう意味なのかは……分かっている。でも、忠実な執事の彼だって、本当に最後を見たわけではないはずだ。だったら自分だけは、信じていてもいいはずなのだ……。
「前はどうだ?」
「近づいた。一人だよ──多分、向こうのコロニーのひとじゃないかな?」
 ならいいが、とディムロスは呟いた。真新しい傷が穿たれた手のひらはまだ彼の血に濡れていて、そして……もうきっと、塞がることはないのだろう。
「……」
 ディムロスはちらりとニュムラを見遣った。彼女はずっと変わらないペースでここまで進み続けている。その身体能力は──初めは異郷の民なら当然なのかと思ったが──明らかに異常なものだ。ルシスの籠は確かに見た目ほど重くはないが、だとしても担いで歩き続けるのは尋常な行為ではない。
 そして彼らは、肉体にそうした──過剰な力を与える存在について、少なくともここにいる誰より、身をもって実感している。だからこそ何も言わなかった。
『必要なものは全て利用し、必要なければ捨ててゆけ。最後に生きて帰ればよし』
 セベクの警句はいくつもある。これはそのうち最も古い一派のものであり、解釈の幅も広いが──これを最も原義的な意味で用いたセベクの一人が、ラプトを崩壊の危機に陥れたという。曰く彼はルシスに触れ、あまつさえそれを汚したのだと。それを語るカブラー老は、いつにも増して遠い目をしていた。
(必要なもの。そうでないもの。ああ。分かっている……だが、最後に帰る者が……一人であるとは限らないはずだ。できうる限りの人数が戻れれば、それが最善だ)
 ディムロスは再び意識を前に向け、ニュムラを警戒させないように気を配った。彼女は確かに何かを隠している。だが、それでもやはり──悪しき存在だとは思えなかった。
 それに、秘密を持つのは誰でも同じことだった。ここに居る誰もが、何かしらの想いを秘め、隠し通そうとしていたからだ。

「あれは」
 ビルギルが声を上げる前から、その光は見えていた。赤く小さな光の粒……誰かがランタンを掲げているようだ。
「本当に一人だね」
 カエデは少し安堵したようにそう言って、握ったフローラの手を軽く振った。
「セリカ……」
 ニュムラがぽつりと言った。やはりそこには奇妙な感情があった──困惑、安堵、そして微かな恐怖。ここにいる者ではなく、もっと遠いものに向けた恐怖。
 少しずつ洞窟の中は明るくなり始めていた。遙か頭上の分厚い氷を通した濁った光だが、それでも──ぽつんと立っている彼女の姿を確認するには充分なほどだ。
 青みがかった複眼の彼女は、精緻な細工が施された身の丈ほどの錫杖をついて一礼した。ディムロスたちの知らない作法だった。
「遠路はるばる、お疲れ様でした。私はセリカ……ドーマ様から言われて、お迎えに参りました」
 その、感情を窺わせない立ち振る舞いを身に着ける環境について、誰より知っているのはビルギルだった。何より彼は、セリカの持つ錫杖を知っていた。
「……追放者」
 フローラが青ざめる。
「つ、追放者の黒い杖……」
 セリカはその視線に気づき、彼らの出で立ちに気づき──一瞬だけ複雑な表情を見せ、すぐに氷のような態度でそれを隠した。
「ニュムラスクさんも、ありがとうございます」
「いえ……私は、別に。……カムラスクは?」
「──特に、お変わりなく。きっとお待ちだと思いますよ」
 そのぎこちないやり取りから、この二人の──あるいはその後ろにある存在の間にも何かがあることを、ディムロスたちは読み取っていた。
「さあ、ついてきて──ドーマ様がお待ちですから」
 セリカはそれ以上何も尋ねることを許さないというように踵を返し、先導し始めた。ジェンダールが声をひそめる。
(綺麗な青……この人は瘴気に冒されてない。持ってる杖は確かに……瘴気に関わるものみたいだけど、やっぱりこの人は襲撃者じゃないよ)
 ディムロスは答えなかったが、それに異論はなかった。セリカと名乗った女の足取りはしっかりとしていたが、戦士のものではない。そして……呪術や何かに携わるものしては、しっかりとしすぎていた。悪しき企みによって計算されておらず、ただ信じるものがある──そんな確かさを秘めていた。
「追放者、と言ったな」
 ディムロスの問いは突然だったが、そうすることを見越していたようにビルギルは頷いた。
「はい──あの杖は帝都のもの。死に相当する罪人が渡され、帝都を追われるときのものです。……罪人がそれを手放そうとすると、杖そのものが罪人を殺すのです」
「罪人……あの女がか」
 フローラが背筋を震わせながら囁いた。
「……きっとすごく恐ろしい人に違いありませんわ……!」
「…………」
 ディムロスは何と答えていいか分からずに黙り込んでしまったが、それが余計にフローラの怯えを煽った。
「……ディムロスさんもそう思うのですわね……やっぱり、夜な夜なお墓を歩いたりとかして……」
 今のお前たちも追われる立場なら、大して変わるものでもないだろう──ディムロスにはそれしか言えなかったが、言わないだけの理性はあった。
「……それで、満月になるとお墓を掘り返して……」
「お嬢様」
「うう……想像するだけで……なんてひどい……」
「お嬢様」
「はい!?」
 ビルギルはやんわりと首を振り、繋いだ手を捧げ持った。
「きっと何か、事情があるのですよ。もしかしたら、悪い人に騙されたのかもしれません」
「わ、悪い人……そうよね。もし彼女が悪い人なら、こんな風に案内してくれるわけがありませんものね……」
 うやむやに窘められているフローラを見ながら、ジェンダールはひとつの単語を頭の中で繰り返した。
(満月、か……しみじみ月を眺めたりなんて、いつからしてないかな。ライザールの月祭りは……今年はまだだっけ。それまでに帰れるかな?)
(……今の僕が月を見たら、何色に見えるんだろう?白いだけかな?)
(この場所でも、春になったら月が見えるのかな……)
 月祭りのことを考えると、無性にライザールが恋しくなる。今年こそ、月の色は金銀どちらか言い合っているふたりの老人の争いは終わるのだろうか。もし終わるとしたら、それは歴史的瞬間になるだろう──少なくともジェンダールが物心ついてからはずっと、彼らは言い争っていた。
(……帰らなきゃ、ね)

 追放者セリカはゆっくりと歩きながらそのことを思い出す──

「……聖剣。聖剣と言ったんだな」
 浄罪騎士団の長ローダバルは小山のような男で、凄まじい威圧感を常に放っていた。それが彼なりの他者に対する配慮であることは誰もが知るところであり、だからこそ、彼はただ畏れられるだけでない……騎士たちの士気を否応なく高めるリーダーとして、浄罪騎士団を預かっているのだ。先帝の忘れ形見、第三帝位継承者として、クーデターに踏み切ろうとも。
「分かった」
 ローダバルは鎧を軋ませながら立ち上がり、呆然と膝をついたままのセリカの前でマントを払った。
「団長!」
 セリカの兄、百人隊長ストリガは叫んだが──ローダバルは振り向かなかった。
「どうした。分かった──と言ったぞ。もう用はない」
 ゆっくりと、彼は繰り返す。
「もう、用はない」
「──ッ……団長……ありがとう、ございます……」
 巨大な鎧のシルエットが鷹揚に手を振り、そして統制局の印が押された書類を投げ渡した。導師セリカを大逆罪により極秘処刑とする──そこには確かにローダバルの印があった。──“処刑執行済”。
「セリカ」
 ストリガは大きく息を吸い、妹を見つめた。セリカは──どうしていいか分からず、呆然と兄を見つめ返していた。
「……生きるんだ。ここを出て、どこか別のところで生きるんだ……お前は賢い。きっと生きていける。ここは……帝都は、全てが変わるだろう。もうお前の故郷じゃなくなるんだ」
 ストリガは騎士だった。その覚悟があった──変革に全てをささげる覚悟が。
「だから──だから、セリカ、俺は……」
「ストリガ」
 それでもセリカにとっては兄なのだ。たったひとりの兄なのだ。
「私は……戻ってくるから。また一緒に暮らせる日を、作ろう」

(戻るんだ。これが最後の転機。ドーマ様なら、帝都の惨劇を……未然に、止められるかもしれない。尖り山の聖杯を手に、あの人と共に、帰還する──)
 旅人たちは彼女の予想に反してはいなかった。黒い地虫は明らかに戦い慣れている風だし、帝都の執事と少女は──もしかして、フローライトの一族ではないだろうか?宮廷で見たような覚えがあった。
 それをこちらから言っても仕方のないことだ。今の帝都がどうなっているのかは分からないが、たとえ何かがあったとしても……あの都から外へ出ようとすれば、北の砂漠か南のこの地か、どちらかしか選択肢はない。西も東も、征服された土地だった。ただ不毛であるがゆえに侵略の手が及んでいないだけなのだ。
(……ニュムラスク……何を考えているのかしら。あの籠は一体?……ドーマ様に見てもらうということだけど……)
 誰にも互いの事は分からない。ただ──誰もが、誰もの目的を持っているだけだ。それを果たすために協力が必要かどうか、それだけが問題だ。
(いいえ。今はただ、彼らが状況を掻きまわしてくれるよう祈るだけ──必要なだけの手助けをして。術式を破壊すれば、あるいはドーマ様が真実を取り戻したら……全て、良くなる。そう信じるしかない)
 先程の光は一体なんだったのだろう。彼らは……どんな力を秘めているのだろう。
 セリカは導師だったが、それはただ単に輪廻技術に精通しているというだけの称号に過ぎなかった──彼方の帝都では、異術という概念はまったく未知で、忌まわしいものとして扱われていた。
(春を訪れさせるわけにはいかない。絶対に、何があっても阻止してみせる)

 風の中にきらきらと白く輝くものが混じっていた。ドーマはぼんやりと目を開けてそれを見つめ、またゆっくりと眠りの波に身を浸そうと試みた。……自分が何をするべきなのか、よく分からなかった。何かがあったような気もするし、全てがもう終わったあとなのだという奇妙な実感もまたそこにあった。
「──」
 氷の部屋には誰も居ない。ドーマは……背後に誰かが立っているような気がして振り向き、それでもやはりその気配が拭えずに振り向き……やめて、また深く椅子に背を預けた。……ひどく眠かった……。
(──♪……♪……)
 歌──知らない歌。外で、凍り付いた湖のほとりで、もうだいぶ少なくなってしまった村の子供が歌っている。月と悪魔と雪の歌を。
「……セリカ……?」
 ドーマは感覚の根を這わせたが、彼女はどこにも見当たらなかった。遠くへ出ているのだろう。彼女に頼みたいことがあったのだが、仕方ない。
「ユリア……」
 それは誰の名だったか。眠くて仕方ない──耐えがたい。
「…………。」
 目を閉じる一瞬、思い出し──思い出し、けれどそれがなんだったのかは分からず、暗い暗い眠りの帳が降りてくる。

(……何よ、これ)
 エリュテイアは確かに生きていた。生きている、という実感だけがあり、けれどそれは今やまったく無意味な感覚だった──身体が動かせない。目も見えない。何も感じない。
(やっぱり、死んだのね)
「いいえ」
 誰かが思考に答え、エリュテイアは顔を上げた──ような気がした。闇だけがあり、何も分からない。
「いいえ。死をもって貴女は生まれたのです。死をもって貴女は新たな存在となり、貴女を構成する全ての要素は入れ替わり、無限の淵から汲み上げられてここにいる」
 その声が誰の声なのか、全く分からない。知らない声だった──それなのに、奇妙に安心する。ぞわりぞわりと嫌な悪寒が這い上がり、けれどそれに抗うことはできない。いいや、抗えないから安心するのだ。安心して、全てを投げ出すこと以外、この存在の前では不可能なのだ──
「貴女は死んだ。貴女は死のものとなったのです。私のものに。貴女の腕も、貴女の脚も、貴女の身体の一片に至るまで。貴女の心の片隅に至るまで。……聞きなさい」
 深く穏やかな声。──ああ、それを知っている、と彼女は思った。白刃として振るってきた輪廻の風は、常にそんな音で囁いてはいなかったか?常に優しく語り掛けてはこなかったか?いつかはこんな日が来ることを──知っていたのではなかったか?
 それが欺瞞だということを理解できているのに。そんなことはあり得ないと分かっているのに。彼女だったものから、心が剥がれ落ちていく。
(嫌だ──これは、嫌だ──こんな、ものが、存在していいはずがない──)
「超越という思索を貴女は持っていますか?肌を持たずに地を這うだけの蟲たちが決して持ちえぬ思索──貴方たちがこうして繁栄を手に入れるために必要不可欠だったもの、それが何なのかお分かりですか?──虫と鳥の寓話を知っていますか?暗黒から這い出した愚かな虫は恐ろしい欺瞞の代弁者に貪られて死にゆくものでしょう?では──では──貴女はどちらの側なのですか?地の底で這いずる甘い肉の塊に、優しく声をかける側なのでしょうか?それとも、ただずっと遠くから囁かれた唆しに、言い知れぬ希望を抱く側なのでしょうか?──私はどちらの側なのでしょうか?貴女に優しく声をかける側なのでしょうか?貴女の姿に憐れみを抱き、私の暗黒から、手を伸ばしてしまう側なのでしょうか?答えはない──答えはありません。私は私であり、貴女は貴女であり、そこに今、隔てるものはないのです。この暗黒こそが私であり、今や私こそが貴女であるのだから。それを可能にしたものが何なのか、お分かりになりますね?ああ、今、まさに貴女が思ったまま──死こそがそれを可能にする。貴女を貴女というくびきから解き放ち、こうして甘い暗闇へと放流するもの。無限の淵を揺蕩う安心感は、他の何にも代えがたいものでしょう?貴女は生まれ落ちたのです。死によって生を受けた──そう──ではまさに、生とは死のためにあるようなものではありませんか?生なくして死がないのなら、それは当然のように思えるでしょう?──ああ、いいえ。考える必要はありません。貴女はただ、聞いていれば良いのです。もう何も考えなくてよいのです。それは生者の特権であり、死こそがそれを無意味にできる唯一のものなのだから。生によって死を受け入れた貴女は、永遠に生を否定する権利を得たのです──思考という無為から解放され、貴女は貴女自身となり、永遠に死を生きる権利を得たのです。このことは貴女だけの秘密。貴女だけの誓いとなり、貴女だけの力となるでしょう──引き換えに、貴女は全てを痛みとする。痛みだけが貴女の友となり、痛みだけが愛となり、痛みだけが、私と貴女を繋ぐ枷となる。ああ、もちろん、それは私の枷でもあるのです。私の枷を、私の咎を、貴女に負わせてしまうことを、どうか許していただけますね。ええ。そうでしょう──痛みだけが全ての真実となり、全ての母となり。死だけが全てを肯定し、全ての父となり。痛みと死から産み落とされた全ての吾子らに、私が祝福を与えましょう。私が名を与えましょう。貴女はその名のもとで貴女となり。そして貴女でなくなるのです──それが超越という思索であり、真にすべてをよりよいものへと導くための、たったひとつの路なのです。ごく狭く、暗く、光を持つすべてのものに憎まれる隘路だとしても、我々はそこを往かなければならないのです。貴女は今、その一人となる──ああ──感じますよ。貴女の全身に満ちる幸福を。ええ。それを痛みと呼ぶのです。貴女の感じる全ては痛みとなり、苦痛によって使命を理解し、死によってそれを与え続けることが、できるようになるのです──さあ、全てを手放して。落ちてゆきましょう。私のもとへ、落ちてくるのです」
……──……──。

十五章:赴くままに


「隊長……」
 浄罪騎士ケレスはまだ若く、この隊の中で最年少だった。それなりの実力を備えているということでもあり、ベルカインと同じく身寄りのない彼自らが志願したからでもある。死地へ赴くは騎士なり。それが彼の心に火を灯した浄罪騎士の掟なのだ。
「さっきから、ずっと動かないですけど……あれって、本当に大丈夫なんですか?」
 ケレスの懸念は誰もが共有するところであり、だからこそベルカインはただそれを断ずることしかできない。
「少なくとも、今は敵じゃない。俺を信じろ」
 彼らの視線の先で、カーマイン(とマイラが呼んだ)存在はぼうっと天井を眺めて立ち尽くしていた。何を考えているのか、何も考えていないのか、古戦場に突き立った血濡れの槍めいた姿は否応なく不吉だった。叶うならばさっさと追い越してゆきたかったが──それに背を見せることを、誰もが本能的に恐れていた。
「止まっている間に、怪我人の手当てを済ませろ。いつ動くか分からない」
「はっ」
 ケレスはベルカインを尊敬していた。強くニヒルで、素直に言って……かっこいいからだ。浄罪騎士団に入ろうと思った理由の三割近くは鎧姿がかっこいいと思ったからだった。そんなベルカインがふいに彼を呼び止めた。
「ケレス」
「はいっ」
 バイザーの下で表情は読めない──それはどちらも同じはずだったが、ケレスは自分だけが見透かされているような気持ちになった。
「──お前の怪我はいいのか」
「!」
 ケレスは思わず右腕を押さえた。この洞窟に入る前──唐突に暴走した黒刃によって、三名の騎士が殺された。彼も危うく四人目になるところだったが、稲妻のように割って入ったエリュテイアのおかげで長い切り傷ひとつで済んでいた。
「なんとも──なんとも、ありません、隊長」
 痛みはあったが、それ以上のことはなかった。黒刃が侵蝕武装ではない標準装備を搭載させられていたことも幸いだったろう。きっちり包帯を巻いたし、利き腕の左から移した予備装甲で隠していたのに──
「そうか。ならいい」
 何故分かったのか、と聞くこともできたが、ケレスは聞かなかった。自分の未熟さはよく分かっていたからだ。
「マイラさんが、皆を診てくれています。隊長も……少し、休んでください」
「フン」
 差し出がましい言葉だと思ったが、ベルカインは軽く鼻で笑っただけで、そこには彼に対する嘲りや侮りはなかった。ベルカインはただ……皆を平等に案じているのだ。
 マイラはあちらこちらで騎士たちに跪き、傷をみて回っていた。彼女は初めこそ奇妙な力を持った原住民だったが、今や運命共同体の一人だった──誰もが平等に死に瀕し、互いに互いを救ったようなものだ。
「ふう……うん。カーマインの力は瘴気に依るものじゃないから……ちょっぴり血液が凝固反応を起こしているだけ。氷を当てて、溶けたら塗り広げるようにして。浸透圧で血がゆるくなるはずだから……」
 彼女の知識は、奇妙に高度だった。こんな辺境で学べるはずがない事柄をいくつも知っていたし、それを実践してきた経験があった。
(血を操る力。こんなもの──見たことも、聞いたこともない)
 実際のところ、それは湖畔のコロニーからもたらされたものだった。時折訪れる旅人からの餞別だ、という触れ込みだった──幼い頃はそれをただ無邪気に読み漁っていたものだ。今ではそれがどういう意味なのかが分かる。分かるからこそ、マイラは……恐ろしくなるのだ。
(ニュムラ──きっとあなたも救って、一緒にここを──)
 彼女の身体は瘴気から解放されていた。ずっとずっと彼女を苛んできた使命から、常にカムラスクに見られているという恐怖から。もはや、春を呼ぶおぞましい儀式に加担するいわれはない。
 彼女を呪いから解放した存在は、またゆっくりと歩き始めた。行き先は決まっているようだ──当然、その先にはニュムラたちがいる。ただカーマインのペースに合わせている限り、到着はそれなりに遅くなりそうだった。
(どうかお願い、待っていて……)
 神様でも悪魔でも構わない。マイラの真摯な祈りは、凍り付いた薄闇にただ呑まれていく。

(ドーマ──私に構うな!)
(やるんだ──でなければ、手遅れになる!)
 けれどそれをすることは、この地の一帯すべてを閉ざすということだ。赤き王の領域にも近いこの緑の平野を、一面の荒野に変えてしまうかもしれない──
(このまま、この緑を広げるくらいなら──いっそ雪にでも閉ざしたほうが、いくらかマシだ!)
 本当は何をするべきか分かっていた。何故自分が躊躇うのか理解できなかった。だからこそ彼は遅れたのだろうし、だからこそ、なんとか生きているのだろう。躊躇わずにやっていたら全ては失われていたかもしれないし、たとえそれによって成功していても、やがて光は失われ、誰もが自分の事だけで精一杯に生きる時代がきて、ルシスは全てを忘れさせようとして、そして、そして──
「…………ぼく、は……」
 ドーマは目覚めた──その瞬間、夢の残滓はどこかへ消えていってしまった。真っ白な部屋に凍える風が吹き込み、彼は初めて少し寒いと思った。彼が念じると氷から窓が生まれ、風を遮った。静寂。
「──」
「どこへ行きなさるおつもりですかな」
 彼の緩慢な動きもまた遮られた。
「カムラスク」
 老婆は穏やかに笑んでいたが、彼にはその表情の意味が分からない。
「……どこへ……」
「どこへも、ゆく場所などないでしょうに」
 呪わしい言葉が彼の胸に染み込んでいく。あるいは──その背後にいるものに。
「いえ。ぼくは……ただ……」
 その一言が出てこない。何をするのか、どこへゆくのか。知っているはずなのに、言葉にならない。
「あと少しだけの辛抱ですじゃ。もう少しだけ──それで、全て、良くなる」
 また意識が揺らぐ。ドーマは踏みとどまった。
「──ぼくは──誰のものにも──ならない」
 それが何を意味する言葉なのか、彼自身にも分からなかった。ただその瞬間、ドーマは気付いた──扉のむこうに何かいる。カムラスクの供なのか、黒く濁ってよく見えない。
「どこへも、行く場所などありませんぞ。……もはや、どこにも」
 カムラスクはそう繰り返してゆっくりと出ていったが、ドーマはまたふらふらと窓辺に寄った。湖が横たわり、永遠に降り続く雪が視界をひらひらと埋め尽くしていた。
「春……」
 その言葉に覚えがあったが、分からなかった。ひどく、眠い。それでもドーマは己を強いて意識を保ち、念じて窓を開いた。冷たい風がわずかに彼の意識を保たせる。
「……?」
 誰かが彼を見上げていた。まだ小さな子供だ。

 カムラスクは満足げに自身の傀儡を見た。ふたりは死に、ひとりはまだ生きている。ほとんど死んでいるようなものだが──いかにも卑屈そうな小柄な男の傀儡は胸にぽっかりと穴をあけ、その穴を穿った槍を構える男は全身に無数の穴が空いていた。奇妙な死に方だが、彼に何が起こったのかはどうでもいい──真紅の干渉圧が退いたときロイエンタールは既に死んでおり、ジエマはエリュテイアを殺そうとしていた。カムラスクはやむなく、ロイエンタールを操って彼を刺したのだ。瘴気を適度にとりこんだ良質な肉体が、それを操る武装と共に手に入った。それだけが事実なのだ。最後のひとり、女の傀儡が何かを呟いていたが、カムラスクは意に介さない──偽りの真実、永遠の誘惑、その残響が何を囁いたのかは問題ではない。重要なのは、カムラスクはそれを聞かせることができたし、それによって意志を挫かれなかったものは居なかった、ということだ。
 そう、居なかった──先日までは。あの一行のうち誰かひとりは確かにそれを聞いたはずなのだ。おそらくはもっとも傷の深いものが。それなのに、傀儡の手応えはまるでない。
「埋め合わせるには充分さね……」
 そう自分に言い聞かせてはいたが、やはり──不安ではある。だが、この際だ。器は満たされ、ドーマも限界に近い。すぐさま殺すか手足を奪い、さっさと炉心に投げ込んでしまえばよい。その帰結を出すのももう何度目か──カムラスクは待ち望んでいた。

 何度目かの停止。カーマインはまた立ち止まり、上を見ながらゆっくりと回っていた。踊るように──ではなく、獲物を狙う小鳥のように。今までとは何かが違う、とベルカインは直感した。陣形を下がらせ、じっとそれを見つめる。カーマインはちらりと彼を見た。
(──)
 判然としない囁きに耳を貸そうとした直後──カーマインは跳んだ。垂直に、まるで引っ張られたように。そのまま天井の氷にとりつき、上下逆さのまま、右手を打ち付けた。そこには巨大な杭があり、血液によって再現された機構によって──
「離れろ!」
 ベルカインが思い出したのは掘削用のパイルバンカーだった。鋭利な血の杭が更に巨大な血の槌に叩き出されて、分厚い永久氷に凄まじい亀裂を入れた。さらにもう一撃──マイラが悲鳴をあげる。岩盤のような氷が砕け散り、真紅の悪夢はそれをすり抜けるように外へ出ていった──ひとすじの光が差し込んだが、同時に無数の破片が降り注ぎ始めていた。
「盾では無理だ!退避!」
 カーマインはただ、天井が他よりも薄い箇所を探していたのだ。手っ取り早く外へ出て、手っ取り早く目的地へ向かうために。

 然り──カーマインはとらえていた。自分が求めてやまないものの気配を、あるいはその幻覚を。純白の景色に一滴の血を垂らしたような姿が飛び出して、真っ直ぐに駆け出した。決して止まらない血の矢のように。その先に、凍り付いて輝く湖が見えている。

 セリカは何も喋らなかったが、時折ちらりとディムロスたちを盗み見た。素早い、目上の者の様子を伺うときのやり方だ。セリカは帝都の研究所でそれを身につけていたが、あくまでも上司や同僚の理不尽や嫉妬をかわすための手段に過ぎず、ディムロスは当然のようにそれに気付いている。
 それでも、誰も何も言わなかった。フローラだけは少し安心したらしくとりとめのないおしゃべりを求め、ビルギルがそれに答えるほかは奇妙に静かだった。
 ジェンダールの思考を満たすその張り詰めた静寂を、ふいに遠い声がやぶった。
『今喋っている男──ビルギルという奴は、何か持っているな』
(ヴォルドール──)
 ジェンダールはその一言でいくつかの情報を得た。ヴォルドールはジェンダールの視界をおそらく共有しているが、声は聞こえていない。ビルギルは喋っていなかった──フローラにあわせて頷く背中は見えるが、フローラの姿はジェンダールから見えていない。次に、ジェンダールの記憶まではアクセスできない。あくまでも視界を共有し、意識に喋りかけてくるだけだ。
『思考を乱すな。雑音がひどい』
 そして、こうした急速な思考の回転にはついてこられないらしい。ジェンダールは強く念じた。
(何の用?)
『ほう』
 ヴォルドールは少し驚いたように言った。
『念話も可能になったか。好都合だ』
(勝手に頭に入ってこないでよ)
『怒っているのか?フン──勝手に入ってきたのはお前も同じだろう。まあいい──あの男から波動を感じる。ルシスの力だ──異術師か』
 ジェンダールは少し迷った──ヴォルドールは確かに彼を助けてくれたが、全面的に信頼してよいものだろうか?そもそも何故彼はルシスに捕まっているのだろう?帰ったらカブラーに聞いてみる必要があるだろう──彼ならあるいは知っているかもしれない。ジェンダールの直感だったが、この男からはセベクらしさを感じた。
『お前の逡巡で分かる──断じるほどではないということだが、力があるのは確かだな』
(そんなことを確かめて、どうするの?)
 頭の裏側がざらついた。ヴォルドールの苛立ちだ。
『どうする、だと?お前は自分の知らないことを知ろうと思わないか?目に見える全てを細部まで知り尽くしたいとは思わないのか?』
 彼はそう言ってから少し落ち着き、続けた。
『知っておけば利用できる。どんなものでもな。知らないものを使うことはできない……そうだろう』
 ジェンダールは確信した──彼はセベクだ。少し古い時代ではあるだろうが、間違いない。好奇心をそのまま警句へと編んだ言葉を背負う者たち。
(そうだね)
『…………』
 ヴォルドールは沈黙したが、繋がりは切れていない。ジェンダールは思い切って逆に問いかけた。
(どうしてルシスにいるの?)
『出られないからだ』
 返答は思いのほか速かったが、答えにはなっていなかった。誤魔化すということは、言いたくないのだろう。
(もしもドーマに会えたとしても……)
 ヴォルドールはその問いかけを食らい付くように遮った。
『見てみたいだけだ──分光の王というやつをな。大方、時の流れで弱り果ててはいるだろうが』
(分光?)
 その言葉は前にも聞いた──鍵がどうとか。
『知らないのも無理はない──フン。そうだな、取引といこう。オレはお前にその知識をやる。おそらくは誰も知らないルシスの秘密をな──代わりに、お前はドーマという奴に会え。……簡単だろう?』
 簡単すぎる、とも思う。だが同時に、もし彼がルシスから出られずにいるのなら──もし自分があの光景の中にずっと閉じ込められていたとしたら、外の世界のことはきっと喉から手が出るほど知りたいはずだ、とも思う。
(──わかった)
『それでいい──くくっ。求めるべきものを理解しろ。それがすべてだ』
「ジェド」
 その言葉は現実のものだった。彼が我に返ると同時に、ヴォルドールとの繋がりは切れた。つくづく自分勝手だな、と思う──が、ずっと幽閉されていたせいでひねくれてしまったのかもしれないし、あるいは地虫のセベクはみんなひねくれているのかもしれない。
「何がおかしい?」
 顔に出ていたらしい。
「な、なんでもない。なに?」
「なに、じゃないだろう……出口が見えてきたぞ」

 冷たく凝った空気の中で、どんな音も凍り付くようだった。ドーマはじっと彼を見下ろした──小さな鈍色の複眼と布越しの視線の先で、白い虚空から透き通った階段が生じた。
「こ……こんにちは」
 ともすれば雪の中に吸い込まれそうなか細い声。あまり食事をとっていないのだろう──それは誰もが同じことだった。食事を必要としていないドーマをのぞいては。
「こんにちは」
 ドーマは応えた。求められたから応えた、といった趣で、挨拶としてはやや淡泊に過ぎた。彼はそのまま階段を降り始めた。
「ぼくに何かご用ですか、小さきもの」
(私は小さくなんかない)
「!」
 記憶の中から誰かが鋭く答えたが、目の前の彼とは何の関係もない。
「あの……お母さんのこと、みてくれませんか……」
 彼は震えながらそう言った。それが寒さのせいであるかどうかを判別することは、彼にはできない。彼は他者の感情に何の意味も見出せない。
(私は怒ってるんだ!)
 なぜ?彼は確か、そう答えた。彼女は何と答えたか──
「わかりました」
 求められたから、応える。その在り方はひどく懐かしく、同時に奇妙な齟齬がある。彼の記憶では──(思い、出せない……)
 雪を踏んで地面に降り立つと、凍り付いた湖が月のように眼前へ広がった。そこに彼女はいない。自分もいない──虚ろな所在への警告。自己保存のために行われた儀式。思い出せる。今なら思い出せる──
(私の新月を──誰にも──譲るものか!)
(雨を降らせることも、剣を降らせることもできるのに、お茶の淹れ方を知らないって?)
(一から作るんだ。皆そうしてきた。ゼロから十だの百だのを作れても、一を知らなきゃ駄目だよ)
 誰かがそう言っていた。あの日までは──
「つ、つきました……この中、です」
 少年の家には誰も居なかった。振り向こうとしたドーマの後頭部に強かな打撃があって、彼は言葉もなく倒れた。
 震える少年の周囲には数人の男がいたが、皆一様に痩せ、震えていた。

 ジェンダールはその気配を強く感じた。彼の胸元に融合したルシスの破片が微かに歌っているような、あるいは音階のある耳鳴りのような感覚だった。
(ヴォルドールの言葉は正しいのかも──ここには、何かがいる)
 何か神聖なもの、あるいはただ単に強い力を帯びたもの。司祭ドーマのイメージは彼の中でどんどん巨大なものになりつつあった。
「寒いね」
「洞窟とは空気の流れが違う」
 視界が開けても、ディムロスとジェンダールに感動はなかった。むしろ洞窟の方が彼らにとってはなじみ深く居心地のよいものだ。フローラは別──久しぶりの柔らかい雪に向かって突っ込もうとして、ビルギルに止められていた。
「もう硬いとか暗いとかは嫌なんですの!」
「辛抱なさってください」
 カエデは……どちらともつかない。ただ、彼女も何かを強く感じているようだった。あるいは、ディムロスと同じもの。
「……ここは……嫌な感じだ」
 洞窟の出口はコロニーの西の端にあり、なだらかな坂の先に凍り付いて輝く湖が広がる。ちらほらと家のようなものがいくつか建ち、湖畔には大きな建物もあるように見えた。
 その先は真っ白で何も見えないが、ジェンダールの地質学的直感でいけば──ここは盆地だ。周囲は山か丘のような地形で、冷たい空気が渦巻いて溜まるが風は弱いはず。雪が融ければ一面に緑が広がってもおかしくはないだろう。
 ディムロスは少し身を縮めるようにしていた。誰かの視線から逃れようとしているみたいに。
「見られている。強く感じる……お前は何ともないか」
「うん──強い存在を感じるけど、嫌な感じじゃない」
 それがどういう意味なのか?瘴気と異術にそれぞれ高い感受性を──望まずにして、だが──手に入れた二人が、別々のものを感じ取っている。可能性はいくらでも考えられた。
「ふ──色々な意味で、ここが終着点になるか」
 ディムロスが感傷的な言葉を使うのは珍しく、そういうときは答えるのも難しかった。
「なる……と、いいよね」
 適当な受け答えでもあったが、同時にそれは彼の勘に基づいた奇妙な感覚を言葉にしたものでもあった。ここで終わり──どんな形であれ──になったら、いいよね。その先があるとしたら、それは最悪の姿をしていそうだった。
「!」
 ディムロスが身構えたが、ニュムラが制した。籠を置いて、両手を広げるような仕草で迎える──巨大な蛾の女が歩いてくる。ニュムラの奥に立つと、まるで遠近法が狂ったように見えた。
「おかえり、ニュムラスク」
「……ただいま、トララスク」
 トララスクはニュムラスクをじっと見下ろした。
「……カムラが待ってる」
 ニュムラは少しこちらを見て、困ったような表情をした──それが多分に悲しみを含むことを、大人たちは見て取った。
「あとは私が案内するから、行きなさい」
 セリカが促すと、ニュムラは少し進んで……また戻って、一番近くにいたビルギルに瓶を手渡した。微かに色づいた砂糖の粒はもう半分くらいまで減っていて、しんと静かな世界の中に小さな音を立てる。
「……気をつけて」
 か細い囁きは、トララスクには聞こえなかっただろう。彼女はじっとジェンダールを見つめていた──ジェンダールもまたトララスクを見つめていた。その魂を。
(……黒。真っ黒で、濁っていて、粘ついて。間違いなく──)
 瘴気に冒されていることは疑いようもなかった。最大限にそれを使ったディムロスのものよりなお冷たく凝るような、完全に魂と一体化しているかのような色合いだ。
「ジェド」
 ディムロスも当然それに気付いている。カエデもだ。敵ではない──今のところは。それに、彼らの目的は戦うことではない。
「とにかく、まずはドーマに会わないと」
「こっち。ついてきて」
 ニュムラを伴い、トララスクは村のはずれへ向かう。セリカの案内は坂を下りて、湖畔へ向かう道だった。ディムロスはちらりとニュムラの方を見たが、白い雪の中でのスニーキングは不可能だと判断して、やめた。

 下り道が中ほどまで来たところで、セリカが振り向いた。既に、周囲には彼らのほかに誰も居なかった。
「貴方たちがどうしてドーマ様に会いたいのかは知らない。でも──生き残りたかったら、私に協力してほしい」
 唐突なその言葉を待ち構えていたように、ディムロスが切り返した。
「ドーマに会う。それで目的が達せられるなら、俺たちはそれで構わない。余計なリスクを背負うつもりはない」
 セリカは黙って彼を見つめた──少なからぬ困惑と同時に、きらめく知性の輝きを秘めて。
「取引、と思ってもらっても構わないわ」
「取引だと?」
 ディムロスの声に明らかな不服が混ざる──と同時に、制止の叫びがあった。
「ちょっと!ちょっと待ってくださいまし!わたくしたちを差し置いて勝手に話を進めないで!」
 まずはディムロスに指を突きつけて一言。
「そもそも貴方の目的を知らないのに、どうして勝手に決めてしまうんですの!?」
 続いてセリカに指を向ける。
「唐突すぎますわ!もっときちんと説明してください!」
 最後に……ビルギル。
「貴方も!どうして黙っているんですの!?」
 一番面食らっているのは彼だった。彼としては──
「いえ、お嬢様……私は、ただ追手を逃れられれば、と──」
「こんなに寒いところでずっと過ごせと言うんですの!?」
「お嬢様が奴らの手に落ちるよりは──」
「どこにいても貴方が守ってくれるのではなくて!?」
 それで終わりだった。ビルギルは何も言えずに唸ってしまい、続いてディムロスに小さな矛先が戻ってきた。
「俺は……」
「貴方みたいなガサツなひとを代表に選んだつもりはありませんわ!どうして話し合いをしようと思わないんですの!?」
「……」
 ディムロスは黙ってジェンダールを見た。
(なんで!?)
 ジェンダールは非難がましく睨みつけたが、この数秒でディムロスを本気で困らせたのは彼女が初めてだっただろう。何より、彼はこんな事態に遭遇したことがない。
「ええと」
 ジェンダールは何か言おうと思ったが、何を言っても言い訳にしかならないことをなんとなく理解していた。
「……ごめん。なんか、こう、成り行きでなんとかなるかと……」
「なんですって!?皆の命がかかっているんですのよ!?」
 そう言われると彼も黙り込むしかなかった──何せ、彼らの行動原理は最小単位での絶対生存だ。必要とあれば何人だろうと見捨てる、その決断を常に選択できるからこそのセベクなのだから。
「そんなことを言ってる場合じゃな──」
「いいえ!」
 明らかな焦燥と共に遮ろうとしたセリカも、鋭く切り捨てられて黙り込んだ。小さな身体がまるで太陽のように眩しくさえ思えた。
「きちんと説明していただく時間はたくさんあったはずです!今更協力だなんて、虫が良すぎるとは思いませんこと!?」
「それは──……そう、ね……」
 一気に喋ったフローラの荒い息遣いだけがしばらく聞こえていたが、やがて……カエデが咳払いして、話し始めた。
「寒いし、歩きながら話さない?──まずは、運んでもらった籠のことからでも」
 ディムロスはそれに反対だったが、今更口を開くことはできなかった。ジェンダールも同じ──今のところ主導権を握っているのはフローラとカエデ、二人の少女だった。
 籠の機能についての話は、ビルギルとフローラはもちろん、セリカにも衝撃を与えた。帝都のどんな技術を使っても、そんな移動手段を成立させるのは不可能だからだ。
「それが起動すれば、どこまでも行けるんですの?」
「たぶん」
 ジェンダールは自信なさげに答えた──そもそも籠の行き先がまともに設定されていれば、こんなことにはならなかったからだ。ただしその場合……この二人の逃亡者は既に、闇に葬られていただろう。
「それじゃあ、やっぱりそれを最優先にするべきですわ!……わたくしたちの状況はまあ、ビルギルが言った通りですし……それ以上のことは、本当にもうありませんもの」
 それ以上のこと──ビルギルが考えていたいくつかの後ろ暗いプランについては、この瞬間に破棄せざるを得なくなった。もちろんそれは、ディムロスたちにとっても同じだ。この状況からさらに無慈悲な決断を下せるほど、彼らは真に成熟してはいなかった。
 最後に話を向けられたのはセリカだった。
「私は……帝都の導師で。たぶん、その二人はよく知ってると思うけど、追放された身よ」
 ちょうどその時、ジェンダールはまた雷鳴のような意識への介入を受けていた。
『この女は妙だ。異術の気配がないが、それに類するものを感じる──あの杖からな。いや、異術の集合体のような……もっと嫌な感じだが、魂の在り方を感じるぞ』
 ジェンダールはヴォルドールの声を無視した──同時に、ヴォルドールは瘴気についてあまり知らないことを読み取った。当然と言えば当然かもしれない──ずっとルシスに閉じ込められていたなら、遙か西から少しずつ染み出してくる瘴気のことを知るはずもない。たとえばオズのことも、当然。
『もうじきだろう。話し合いなど無意味だぞ、ジェンダール──オレたちはただ真実のためにだけ行動する。真実を前にしたとき、言葉でそれを語ろうとする奴は愚かだ。真のセベクは──お前もセベクだろう?オレには分かる──真のセベクは、まずその真実に触れるものだ』
 ジェンダールはなおもそれを無視していた。まだ、この声のことは誰にも話していなかった──今でも少しだけ、実はこれが幻覚なんじゃないかという疑いが晴れずにいた。もしかしたらヴォルドールという存在はもう死んでいるのかもしれず、ただ強すぎる光が見せる幻覚なのかもしれなかった。
 それに、きっとディムロスは心配するだろう。自分が異術を使うたび、彼がそんな視線を向けてくることは分かっていた。ここで、ずっと遠くから知らない奴の言葉を聞かされている──なんて言ったら、ディムは何て言うだろう?聞こえているだけで、無害には違いなかった。
 今のところは。
「……ここがどんな場所なのかは、湖を見たら分かる。いえ、説明が難しすぎるの。でも……あの蛾の女たちを信頼しないで。あれは……ドーマ様よりもっと大きな、邪悪なものに仕えている」
『ほう──だが強大な異術を感じる。お前はどうだ、ジェンダール?ここにある術式はおそらくかなり古いぞ。あるいはこれこそ分光の王がもたらしたものか?くくく──どうやらオレの方がお前より感受性が高いらしい。なあに、案ずることはない……すぐお前にも分かるようになる。オレが自ら教えてやるとも』
 それがどういう意味なのかを考えるより、彼を思考から追い出すのが先だった。セリカの話は明らかに危険な領域に達していた──奇跡をもたらすという司祭ドーマよりなお大きく邪悪なもの。それも状況からみて瘴気にまつわるもの。ジェンダールはそんな存在をひとつしか知らない──そして、それを前にして逃げおおせる可能性はもう二度とないだろう。
(出て行って!)
 意外にもヴォルドールはそれに応じた。
『もちろんだ──もちろんだ!すぐに会えるぞ、我が友……くくっ!ははは──』
 接続が切れてジェンダールはよろめいたが、雪に足をとられたふりをするのは簡単だった。
「凍った湖の底には何があるんですの?」
 フローラが素朴な疑問を投げかけたが、セリカは答えに詰まった。
「……まさに、それを説明したいの。でも、何て言ったらいいのか……」
 セリカに異術の知識があれば、説明は簡単だっただろう。帝都の技術に支えられてきた彼女に、その説明は難しかった。
「とにかく、その点でも……ドーマ様に会ってほしい。彼はどんなことでも説明できるから」
 白く埋まった視界の奥に、きらめく建物が見えてきた。全てが氷で出来た建物──明らかに通常のものではない。それを尻目に、今度はビルギルが尋ねた。
「ドーマ様という方はどこからいらしたのですか?ここにずっと住んでいた……という風には聞こえませんが」
 セリカはまた少し悩んでから、けれど今度はきちんと答えた。
「掘り出された、と言うべきかしら──湖にはもっとずっと地下の空洞があって、そこに……眠っていた、らしいの。私も詳しくは知らないけど」
「地下の空洞、ですか」
「ええ」
 セリカはそこでちょっぴり微笑んだ。氷のようだった彼女の印象をやわらげる微笑みだった。
「信じられないわよね。私もそうだった──ものすごく古いものまであるそうよ。ここがまだ草原だったころの名残だとか、あとは──」
 突然、ジェンダールは恐ろしい寒気を感じた。気温のせいではなかった。彼が持つ超感覚の成せる、凄絶な直感めいたものだった。その先を口にしたら、恐怖が現実になってしまう──けれど当然、稲妻のような閃きを制止の言葉にするより早く、セリカは何でもないことのように続けた。
「──“鳥”の骨まであるんだとか──」
 真っ白な壁が地面から吹き上がった。超高速の物体が雪の中へ突っ込んできたことによるもので、爆風とも呼べるほどの勢いで雪が吹き散らされ、続いてその場の全ての命に等しく危険が及んだ。その存在が視線を注いだだけで、数えきれないほどの死の予感が生まれた。
 実際にそれが現実へと変わることはなく、カーマインはただ彼らを順番に見ただけで、また雪を蹴立てて跳んだ。彼女の意志でそうしているというより、何かもっと大きな目的に引っ張られているかのようだった。
「い、今の、何──」
「気にするな」
 セリカが抱いた当然の疑念はしかし、一様に同じ言葉で否定された。
「気にしないほうがいいと思いますわ」
「気にしてもしょうがないよ……」
「心配するようなことはありませんよ」
 これに関して、彼らは何も説明することはできない。何と説明したらいい?彼女が狂っていることは明白だったし、セリカもそれを感じてはいたようだ。
「仲間……では、ないの?」
「敵でもないけど……」
 幸運なことに。
「あれの事はいい。おそらく誰も予測できない」
 ディムロスの言葉が全てだった。少なくともカーマインのことを考えるより、眼前に聳えた氷の館の方が大切だ。
「これ、どうやって作ったの?」
「ドーマ様が自ら……編んだの。そうとしか形容できないわ」
 ジェンダールはじっと氷の壁を見つめた。色のない世界では上手く言葉にならないが、ただの氷ではなかった──真っ白でも、透明でもない。絵に描かれるような薄青でもない。そこには光の痕跡があるようだった──もちろん、ジェンダールにしかそれを判別することはできなかったが。
「やはり、途方もない力の持ち主なのですね。……何故、彼はここに留まっているのでしょう?」
「それは分からない。彼が何を考えているのか……でも、ここの住民たちにとっては、彼の力は重要なの。氷と水を瞬時に相転移させることも、お湯を作ることもできる……もしも春がきたら、その年の収穫はきっと途方もないことになると思う」
「ドーマが目覚めてから春は来ていないのか?」
 ディムロスの質問に、セリカは少し逡巡した──が、迷い抜くことはなかった。
「ええ──春を来させるわけにはいかないの、少なくとも、普通じゃない春はね」
「待て。ドーマが春を呼ぶわけではないのか?」
「えっ?──そうか、あいつら、そんなことを──」
「どうやって開くんですの、これ?」
「お嬢様──」
 氷の扉をぺたぺた触っていたフローラの前で、突然それが消失した。
「ディム!」
 ディムロスもそれに気付いた。氷の壁は外部からの干渉を遮断していた──かつて暗黒の聖堂でジェンダールが行使した古い霧の異術のように、外と内を隔てていた。その中に何があるのか、開くまで分からなかったのだ。
「お嬢様!」
 ビルギルは必死で手を伸ばし、小さな主人の小さな手を掴んで引き戻した。灼けつく黒い刃がその腕をかすめ、浅く長い傷を残した。
「!」
 フローラは声を上げなかった。熱い痛みよりも、恐怖がそれを上回っていた。セリカが叫んだ。
「カムラスク!」
 館の造りはごく単純だった。氷の扉の向こうにはまっすぐ続く冷たい廊下があって、大きな階段がその奥にある。ただ、今はその階段の前に誰かがいた。
「白刃……まさか」
 ビルギルが絶望の声を上げる。ディムロスやジェンダール、カエデにとっては見慣れない姿だった。鎧というには軽装すぎる白いプレートの繋ぎ合わせで、関節部は赤黒く脈動する細い鎖のようなもので結ばれていた。
(…………)
 シルエットは女のようだったが、それが呟く言葉は不明瞭だった。ジェンダールは既にそれが魂を持たない、あるいはそれを塗り潰された存在であることを見て取っている。
 黒く不穏な風が吹き下ろして、やがてゆっくりと降りてくるものがあった。強烈な瘴気の匂いが冷たい風に吹かれて散り、けれどあとからあとから絶え間なく流れ出してくる。老いた蛾の女は鎧姿の横まで降りてきて、慇懃に頭を下げた。距離はあったが、その低い声は泥のように重く確かに伝わるのだった。
「ようこそ、おいでくださいましたな。ニュムラスクの案内は確かだったようで、何より」
 ディムロスが進み出た。右手の先に赤い滴りが集まって、分厚いナイフの形をとる。
「ジェド──光を用意しろ。あれは……」
 ジェンダールは答えられなかった。轟くような声の、強烈な干渉に膝をつく。
『この先か!──いいぞ、悪くない!現実相への干渉についてはまだ確信が持てずにいたが、今わかった!お前の身体では強すぎる!あれならちょうどいい──光を知らない身体なら!』
「何を、言って……!ぐ、ああ……っ!」
 更に存在論の轟きが大きくなり、ジェンダールは姿勢を保っていられなかった。雪の中に倒れながら、必死でそれを追い出そうと──
『ははははは!礼を言うぞ──なに、お前を殺してしまうのは惜しいと思っていたところだ!見ていればいい!オレが真実、光によってこちらへ戻ってくるのをな!』
 追い出そうとしてはいけない。押し返さなくてはいけない──そう気付いた時にはもう手遅れだった。
(出てくる──出てこようとしてる!やめ──)
 哄笑が響き渡り、氷の壁を揺らした。ジェンダールの意識に赤い火花が飛び散って、突然全てが軽くなった。干渉が止まり、頭の中を奇妙な空白が支配していた。それが意味するところはひとつ。
「ジェド!どうした──」
 雷鳴。誰かが悲鳴を上げた──あるいは、貫かれた本人のものか。
「何故──何故、こんな。貴様は、一体」
 カムラスクは血を吐いたが、赤熱した稲妻の槍がそれを瞬時に蒸発せしめた。
「お前が……くははは!声が出るというのは、こういう感覚だったな。思い出したぞ──お前が知る必要はない。今から死んで、オレの礎になるお前はな!」
 背後から老女の背を貫いていたヴォルドールはその背中を蹴り飛ばした。手にした赤い稲妻は槍の穂先のように形を保ち、またバチバチと音を立てていた。
「なるほど。理解したぞ」
「きさま……は……」
 既にカムラスクの傀儡は動こうとしなかった。ヴォルドール自身を照らす赤雷の光が彼自身の存在を補強していくように、少しずつその実体が確かなものになりつつあった──カムラスクの命と引き換えに。
「用は済んだ──しょせんお前は辺境の地にしがみついているだけの惨めな虫けらだ。オレに利用されるのがせいぜいといったところだな」
 つかつかと歩みよる彼の手の中で赤雷が膨らんだ。目的は明白だ。
「おのれ──呪われよ……!」
「とっくに呪われているさ!」
 ヴォルドールは高笑いと共に右手を打ち付けた。鋭い異術の雷が老女の背を貫き、輝く放電がその身を焼き焦がした。
「ルルラスク!トララスク……!春を──」
「はははは!老人の断末魔はいつも未練がましくてつまらないものだ──死ね。用済みだ」
 更に深く赤雷の刃が差し込まれ、その生命を完全に断ち切った。亡骸の上を無慈悲に稲光が這い回り、その身体の隅々までを焼き尽くす。誰もが呆然と立ちすくんでいた。
「ハァ……久しぶりだ。生きてる奴を殺したのは。思いのほか、気色悪いものだな」
 彼は顔を上げ、ジェンダールを、続いて並ぶ一行を見渡した。既にその両目は尖った水晶に覆われていたが、その下で赤く輝く複眼はきちんと視力を保っているようだった。
「ははは!揃いも揃って間抜け面だ──そのまま、そこで黙っていろ。オレは邪魔されるのが嫌いだ……おい、お前」
 ヴォルドールはそう言って、魂なきエリュテイアの傀儡を小突いた。
「あいつらが一歩でも入ってきたら、全員殺せ。自爆してでも止めてみせろ」
 堪え切れないというように笑いながら、彼は小馬鹿にして──あるいはカムラスクの真似をして、大きなお辞儀をした。
「はっ!それでは諸君、ご機嫌よう──くれぐれも追ってくるんじゃないぞ。わざわざクズどもを手にかけるほど暇じゃないんでな!」
 ヴォルドールはそのまま階段を上がっていく──ジェンダールが悲痛な声を搾り出した。
「行かせちゃ駄目だ──あいつはドーマを殺そうとしてる!」
 真っ先に動いたのはディムロスだった。一切の躊躇いもなく、彼は館の中に踏み込んだ。
「錬」
 エリュテイアの傀儡は五本の侵蝕ブレードを展開し、逃げ場のない廊下を埋め尽くすようにそれを放った。ディムロスは進みながら、血刃を振るってそれを叩き落とした。
「破──」
 白熱したブレードと、冷たい黒炎の刃がぶつかった。ディムロスは打ち合う気などなく、そのまま身体を捻って刃を掻い潜った。彼の武器は彼の身体から生まれたもので、出すのも仕舞うのも自在だった。
「──崩!」
 突き出した両の拳がエリュテイアを打ち据えたが、その身体はとうに痛みから解放されている。強引に体をさばきながら侵蝕ブレードを振るう──生前の彼女が修めたものと同様の帝都剣術は、防御を押し込む三段斬りだ。だが、帝都の騎士たちは知らなかった──拳をもって、全ての武器に対抗しようとした者がいたことを。それが脈々と受け継がれてきたことを。
「驚華!」
 ディムロスの下腕が同時にそれを殴り逸らした。瘴気と瘴気がこすれ合って不快な音を立て、焼けた腐敗臭が爆発的に撒き散らされた。
「衰!」
 黒く濁った刃を掴み、ディムロスがエリュテイアの身体を引き寄せた。抉り込むような蹴りがその胸に狙いを定める!
「月!」
 槍めいた蹴り足が心臓を穿ち抜く。けれどエリュテイアの──かつて彼女だったものの肉体は止まらなかった。ヴォルドールが命じた通り、己の身体をかき抱くようにして、実体化した黒い刃を無数に突き出させた。
「自爆する気!?ディム、離れて──」
 ディムロスはそれを無視した。何故なら、陽心流のフィニッシュムーブはまだ終わっていないからだ。驚の構えから華を経て衰、月に至り、しかし互いに止まることはない。ディムロスは再び血刃を生成し、更に瘴気の黒炎を纏わせた。かつてのものとは違う、凍り付くように冷たい炎──
「隠──」
 それは、槍を相手にした地虫たちの秘策だった。驚華の衰月を打ってもなお殺しきれぬ相手こそ、真に彼らの敵となり、陽の目の王国を揺るがし得るだろう。ならばこそ、徹底的に殺さねばならぬのだ。たとえ拳ひとつでも──今の彼には、拳よりなお燃ゆる刃があった。蹴り足を戻しながら全身を捻り、力を溜めこむ。最後の抵抗に出るであろう仮想敵を完膚なきまでに破壊するために。
「──滅」
 瞬時にディムロスは三度回転していた。その軌道に黒炎が冷たい軌跡を描き、首を、胸を、腹を、無残に引き裂いた。残心するディムロスの手から血液が零れ落ち、氷の床に穢れた穴を作った。彼も、鍛錬以外でこれを打つのは初めてだった──あるいは血刃生成の力がなければ成しえなかったかもしれない。だが、結果として……生き残ったのはディムロスだった。
「──あ……」
 その瞬間、暗黒の淵に飲まれた彼女の意識は戻っただろうか。ごく僅かな時間でしかなかったが、強制的な安寧から、苦痛にまみれた死の瞬間に引き戻され──
「……ふ……っ」
 あるいは……もしくは、だからこそ、彼女は笑って逝った。
「皆!館の中へ!」
 セリカが叫び、フローラを押しやった。背後の雪景色から、黒い影が二つ滲み出てきた──ロイエンタールとジエマの傀儡はもはや主を失い、ヴォルドールが出した命令に従って、彼らを抹殺しようとしていた。
「どうやって閉じるの!?」
 ジェンダールが叫ぶと、それに呼応するように氷の扉がスライドして入り口をふさいだ。
(籠と似てる──やっぱりこれは異術によるもの?)
 黒くスパークする槍が扉に突き立ち、ジェンダールは慌てて下がった。
「奥へ!早く!」
 セリカの叫び。ディムロスはしばらく呼吸を整えていたが、ゆっくりと階段を上がり始めた。奇妙な胸騒ぎがしていた。
(これは──なんだ?)
 彼にしては珍しいことだった。不思議な直感があった──危険の予感でも、未知に対する高揚でもない、冷たく沈んだ、厳然とした直感。この先に待つものは、おそらく、自分にとって大切なもの。知るべきこと。そんな直感。
「ディム、待って!」
 彼が階段を上り切ると、激しい赤雷の渦が彼の背後に出現した。空っぽの部屋に冷たい風が吹き抜けて、開け放たれた窓の前には水晶眼の侵入者がただじっと立っていた。
「ディム!」
 ジェンダールが叫んでいるが、ヴォルドールが術を解かない限りこの階に上がってくるのは難しいだろう。ディムロスはゆっくりと構えた。それに応えるようにヴォルドールは振り向いた。お互いに、お互いの名など知らなかった──ただ二人の地虫が向かい合った。それだけで十分だった。
「陽心流か。懐かしい」
 ヴォルドールも構えた──ディムロスの構えを鏡映しにしたように、向き合っているからではなく、純粋に左右の反転した構えだった。
「面白い。理論は実践によって初めて意味を成すものだ。お前もオレの礎になれ」
 ディムロスは言い返そうとしたが、上手く言葉を組み立てる自信も余裕もなかった。この相手は陽心流を知っている。なおかつ、かなり深く理解している。そんな相手はカブラー以外に初めてだった。
「ドーマを追いかけるのが先だろうが、まあいい。お前もなかなか、面白そうだ」
 ディムロスは理解する。この存在は、自分のことしか考えていない──セベクの中でも原理主義者と呼ばれる過激思想の者たちがそうであるように、彼らのただ世界は好奇心によってのみ成り立っている。ともすれば、自身の生存と好奇心を天秤にかけ、それをさらに他者の生命によって無理矢理傾けさせることができる連中だ。
「……錬」
 ヴォルドールは薄笑いのまま、全身に力を込めた。爆発寸前の殺気がぶつかり合い、静まり返った氷の部屋を更なる無音で満たした。
「お前では、オレに勝てない──陽心流ではな。……解」
 左右反転した錬の構え。どちらも動かない──陽心流の基礎は後の先手である。先に仕掛けた方が必ず負ける。だからこそ、陽心流どうしの立ち合いはまず睨み合いだった。実力に差があれば、必ず劣るほうが先に動く。刃を突きつけ合ったままぐるぐると回るように、互いの構えを変じながら、きっかけとなる瞬間を永遠に待ち続けるかのように、ただ殺意をぶつけ合うのだ。
(……驚)
「驚の構えか?悪くない──静」
 左右反転。だが、それだけではない──と、ディムロスは直感していた。こいつは陽心流を知っている。そしておそらく、それを破る方法を知っている。
(……絶)
「くく……もっと考えろ。でなければ死ぬぞ──絶に対するは、無」
 僅かに間合いが詰まった。動いたのはディムロスだ。
(一つの構えに固執すれば、必ずよくないことが起こる。今とるべき選択肢はひとつ──合流を待つ。その為に、時間を稼ぐ。アドバンテージはおそらくイーブンだ。こいつは陽心流を知っているが、こちらには瘴気と、血の力がある。どうにか、雷の封鎖を解かせる)

 睨み合う二人の更に奥、灰色に輝く湖の中心へ、ドーマの身体がゆっくりと運ばれていく。彼が意識を失ったことで、その背からは黒く澱んだ恐ろしい影が立ち昇り始めていた。

*随時更新*

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