❝親からもらった身体❞とTATTOO
自分の場合、肉体にとっては、この地球の自然が親だと感じるし、人間の精神とかはその淵源が親というかすべての源だと云うほうがしっくり来る。恵まれて家族愛の中で育つと❝肉親❞が全てと感じるのかも知れないし、殆どの日本人がこの言葉に違和感を抱かないというのはこの言葉が言い古されて久しいからだろうか。
私の親友が十代の頃、母親に対して、自分の視力の悪さや縮れ毛はお前のせいだと怒りを顕にしばしば激しい喧嘩を繰り返し、憎悪を向けていたのを思い出す。
これは逆の意味で、❝親からもらった❞と定義するのならば、そういう流れになって当然とも言える。
TATTOOに対する日本での評価は、現在若い世代を中心にようやく和らいできたようだが、未だに 入れ墨お断り の入浴施設のほうが多い事を見てもわかるように、TATTOOに対する偏見は根強いものがある。
海外などでは、警官でもTATTOOを入れていることは普通のことだ。刑務官などが大きなTATTOOを入れているので、裸になれば、収容者と刑務官の何方がどちらか全く判別がつかない。
流石にフェイスTATTOOの警官は稀だろうが、自分の体に何をしようが自由というのが常識と言ってもいい。
ところで、TATTOOには、ファッションや所属組織に関するものの他、皮膚上の消せない傷や母斑を誤魔化すためという理由もある。傷だと悲壮感があって、偏見の目で見られたり、誤解されたりする。それをTATTOOで覆ってしまえば、それをファッションに変えてしまえるというものだ。
この場合、精神、人間関係などに深く関係してくるため、謂わば、治療に近い様な役割がある。
だからこそ私は、TATTOOに対する偏見は大問題だと思うのだ。
TATTOOがファッションのうちであるという常識が全世界に広がり、入れ墨お断りの看板が差別として撤去される日が一日でも早く到来することを強く願うものである。