サカエチカ
『誰か俺の代わりに俺をやってくれ』
そんなセリフをTwitterに投稿してしまった。
大学院入試の勉強と卒業研究の両立に疲れ、ふと冗談まじりにこんな言葉が出てしまったのだ。
みっともない弱音を吐いてしまった、しばらくしてそう思い直し、ツイートを削除しようとした。ちょうどそのときだった。
ピンポン
LINEの通知音が鳴って、画面上に見慣れない名前が表示された
『ネモ
ツイート見ました。院試勉強お疲れ様です。息抜きに久しぶりに会って少しお話ししませんか?』
「ネモ?誰だっけ」
ほぼ反射的に通知をタップし、トークルームを表示させた。
トーク履歴を見ると、そのアカウントがサークルの後輩のものであることがすぐにわかった。
しばらく連絡しないうちに、アカウント名とプロフィール画像を変更したらしい。
一時期親しくしていたが、サークルに顔を出さなくなってからはほとんど接点がない。
『どうしたの急に(笑)』
突然のお誘いに、何も考えずそう送信しようとした。しかし送る直前になってふと、彼女にまた会ってみたい自分に気づいた。
久しく会っていない人間に突然会おうと言われるなんて、普通ならマルチ商法や宗教を警戒するべきかもしれない。でもこの時の僕はコロナ自粛が続き、少々人恋しくなっていた。
それに院試勉強で疲れ、ちょっと小休止が欲しいと思っていたのも事実だ。
僕は打ち込んだ言葉を消し、了承の意を伝える返事を送った。
「お久しぶりです」
栄駅前で会った彼女は、シンプルな柄のシャツにジーンズというラフな格好で、約束の時間より少し早めにやって来た。
「久しぶり」
僕は手を上げて応え、2人並んで栄の地下街、サカエチカに降りて行った。
「急に連絡くれて、どうしたの?
ツイート見て連絡くれたみたいだけど?」
出来るだけさりげないふりをして尋ねた。
彼女がどういうつもりで誘ってきたのか―まさか壺を買わされるとは思っていないが―LINEの文面通り、本当にただ息抜きに付き合ってくれているだけと言うのは、あまりに都合の良い解釈だ。
何か頼み事があったり、伝えたいことがあるのかもしれないと思っていた。
「『誰か俺の代わりに俺をやってくれ』って、先輩がだいぶ参っているようだったので、サカエチカに来ていただこうと思ったんです」
彼女は前を向いたままそう答えた。
あくまでも僕のツイート内容が心配で遊びに誘ったという体で行くつもりのようだった。
「そう、ありがとう。心配してくれて
でもなんでサカエチカ?」
僕は正直、地下街があまり好きではなかった。名古屋に来たばかりの頃、駅の地下で迷って地上に出られなくなったことが度々あったからだ。
「サカエチカって無限に広くてなんでもあるので、先輩の悩みを解決してくれるんじゃないかなって思ったんです」
そう言って彼女は微笑んだ。
僕はその微笑みを見て、彼女は本当に僕のことを心配してくれているだけなのかもしれないと、そんな都合の良いことを思った。
サカエチカには多種多様な店舗が並んでいた。服屋に雑貨屋に飲食店、彼女とそれらを周りながら、僕は今まで地下街を敬遠していたことを少し後悔した。
2人で歩く地下街は、彼女が言うように、本当にどこまでも無限に続いているような気がした。
ベンチに並んで腰掛け、近くのお店で買ったクレープを食べていると、彼女が突然おかしな質問をした。
「先輩は日本で1日に人がどれくらい生まれるか知ってます?」
「?……えーと、2000人くらい?」
僕はクレープを食べながら、適当に答えた。
クレープの具の層が変わり、人工的なチョコレートの香りがした。
「それは1日に『この世に』生まれてくる人の数ですね」
「この世に?」
彼女の妙な言い回しが引っかかった
「ああ、死産とか堕胎とかの話?」
話の流れになんとなく不穏なものを感じながらも、僕は、ただの少し変わった話題の提示だと信じて会話を続けた。
「違います」
彼女はきっぱりと否定した。
「本当は、1日に日本に生まれる人の数は1000や2000じゃ足りないほどたくさんいるんです。でも、生まれるタイミングでちょうどお母さんが妊娠する人はほんの一握りだから、お母さんを通じて『この世に』生まれることができる人はとても少ないんですよ」
彼女はそう言って、いつの間にか食べ終わっていたクレープの包み紙を折りたたんだ。
「でも、先輩は『誰かに俺の代わりに俺をやってほしい』んですよね」
彼女の言葉には、もはや隠しようのない不穏さがあった。
「なんの話をしているんだ?」
今まで楽しく地下街を周っていた彼女が、突然遠い人間になってしまった気がした。
口の中には、チョコレートの甘味がしつこく残っていた。
「『この世に』生まれることができなかった人たちは、どこへいくと思います?」
「あの世?」
いや、違う。僕は答えながら、自分の解答が間違っていることに気づいた。そして本当の答えも、心の裡に浮かんでいた。
「……サカエチカ」
ぽつりと、僕の口から言葉がこぼれ出た。
『この世に』生まれなかった人は、皆サカエチカに生まれる。そして一生地上に出ることなく、この無限に広い地下街を彷徨い続けるのだ。
馬鹿げた話だが、なぜか、今の僕にはそれが当然の真理に思えた。
「そうです。だからサカエチカの人々は常に狙っているんですよ。地上に出るチャンスを。
誰かがこんなことを言うのを。
『誰か俺の代わりに俺をやってくれ』
って」
彼女がそう言った瞬間、サカエチカを歩く人々が一斉に僕を見た。
振り向いたその顔は、全部同じ顔だった。
僕の顔だ。
僕はクレープを放り出して駆け出した。僕の顔をした人々を押し除けて元来た道を走っていく。特に誰かが追ってくるわけではなかった。僕と同じ顔の人々は、押し除ければ迷惑そうな顔をして退くだけだった。しかし、走っても走っても、地上へ出る階段が見つからない。どれだけ走っても、そこには服屋と雑貨屋と飲食店が並ぶばかりだ。当然だ。サカエチカは無限に広いのだから。
「どこか、どこかに出口が」
バサッ
布団を押し除けて、僕の手が前に伸びた。
全身が汗でびしょ濡れで、心臓がバクバクと鳴っているのがわかった。
「夢か……よかった……」
時計を見ると、朝の7時だった。ちょうど目覚ましが鳴ろうとしていた。
僕は枕元からスマホを手に取り、Twitterを開いて『誰か俺の代わりに俺をやってくれ』という投稿を削除した。
今となってはなぜ自分がそんなツイートをしたのかわからない。
なぜなら、『この世に』生まれるという幸運を簡単に誰かに手渡そうとするなんて、そんな愚か者はサカエチカにしかいないのだから。
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