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霊験 2 娘の恋34

 多分うまい具合に亭主の耳に届いたのだろう。狭い長屋のことだ。
 身重の女房と年増女二人のいる部屋の隣の戸が空いて、お、と、声がするから、多分金子を見つけたのだろう、また、ぴしゃりと閉まると、隣を覗く様子もなく、足音は軽やかに木戸を目指して遠ざかった。
 女二人は目を見合わせて笑った。
 これで、あんたのご亭主は四、五日は帰って来ないね、と、大した策士だ、と、笑いながら年増女が感心した。
 壁にもたれて、手拭いを咥えて、息んで、苦しんで、息んで。蝋燭が必要かと思っていたが、入り口の戸に貼った唐紙からも薄く光が漏れるような明るい満月で、湯を沸かす薪の火も少し手伝って、動くくらいなら夜目がきいた。いい日を選んで生まれてくれるね、親孝行な子だよ、と、手拭いを噛んで痛みを逃そうとする娘に励ますように話しかけながら、女はたらいにお湯を張る。
 お産は日没から真夜中までかかり、無事に生まれた女の子は、びえと元気泣いたものの、産湯で落ち着き、母親のおっぱいで静かになった。
 年増女はほっとした様子で、がんばったね、あんた、がんばったよ、と、娘を労った。
 そんな、おばさんこそ、ありがとう。娘はおっぱいに吸い付く小さな命を抱きしめた。

 準備して、手助けして、心配して、片付けて、ほっとしたんだろう、少し横になるね、と言ったまま、年増女は軽くいびきをかいている。
 娘に抱かれた赤ん坊もすやすやと眠っている。赤ん坊のおくるみは、ただ一つ売らずに手元に残した父親の羽織だった。娘は抱いていた赤ん坊を床に寝かせ、隣んちの掛け布団を年増女にかけて、鉛のような身体で身支度をする。その胸にしっかりと赤ん坊を抱いて、音を立てないように静かに面に出た。
 出産で痛む身体に実家への道は遠い。けれど近ければ、それだけ早くこの子と別れなければならない。遠くて苦しい。苦しいけれど、ありがたい。若い母親は生まれたばかりの娘に頬をすり寄せ、抱きしめて、限られた道行で、温もりを心に刻もうとした。
 長屋暮らしがいつの間にか染み付いて、実家のら大きさに圧倒される。赤ん坊を抱いたまま、いくつか小石を拾い、両親の部屋の近くに回って、狙いをつけて雨戸にぶつける。父親は眠りが深いが母親は浅い。うまくいけば聞きつけて裏木戸まで様子を見にくるからもしれない。だめだったら明るくなるのを待って、雇い人に託そうと、娘は決めていた。
 こん こん、と石を投げ続けていると、反対の部屋の襖が開く音が遠くに聞こえた。
 母親が気づいて起きてきたのかもしれない。そうしたら、様子を見に裏木戸に来るだろう、娘は慌ててそちらに向かった。裏木戸の横の植え込みの上から、母親の訝しげな顔がひょっこり覗く。懐かしい母親の姿に娘は涙が出そうだった。
おっかさん、と、小声で囁く。母親がはっとしてこちらを向く、おっかさん、と、もう一度母親呼んで、娘は駆け寄る。植え込み越しの久方ぶりの母子の対面だった。
 母親が娘の名前を最後まで口にする間も与えず、娘は赤ん坊を無理矢理母親に押し付ける。
 おっかさんの孫よ、と、娘は言った。お願いだから、お願いだから、この子を幸せにしてあげてね、と、娘は祈るように頼んだ。
 あたしみたいなだめな娘にしないでね。おっかさん、お元気で。
 そう言って、娘は母親を、赤ん坊を離れ難く思う愛しさに溢れた眼差しで見つめたまま、二歩、三歩下がると、未練を断ち切るようにくるりと背を向けて姿を消した。
 叫べばよかった、と、母親は、今更思った。人を呼べば、あの子を行かせずにすんだんじゃなかろうか。
 あまりにいきなりで、急にあの子の顔が見れて、腕の中に赤ん坊が来て、声を出すことさえできなかった。
 ぐ、ぐ、と、目を覚ましかけた赤子がむずがる。よしよし、よしよし、と、見覚えのある羽織に包まれただけの赤ん坊は裸で、まだ臍の緒さえ切られていない。
 いったいあんたのおっかさんは、どこに行っちまったんだろうね、と、何年振りかで抱く赤ん坊に、娘の母親も泣きたい気持ちで問いかけた

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