CHAGE and ASKA「NO PAIN NO GAIN」は比喩多すぎじゃね?
CHAGE and ASKAのサブスクが解禁になって1か月。
学生時代、「NO PAIN NO GAIN」は、散々聴いてきたはずなのに、サブスクが解禁になってから、再び散々聴くようになってしまった。
メロディー、歌詞、アレンジ、歌唱のどこをとっても魅力しかない名曲だから仕方ないと言えば仕方ないのだが、私が現在、魅了されているのは比喩表現の広がりである。
歌い出しからいきなり「小舟のように傾きながら」という直喩で始まる。
自らの立場がまだ小さな舟に乗っているようなもので、順調ではないことの比喩だ。
「君と揺れながら行く」は、実際に揺れているわけではなく、不安定な日々を何とかドロップアウトしないようにしのぎ続けている生活を暗喩している。
「イスとりゲームみたいな波」も直喩から始まり、さらに「波」も隠喩である。
イスとりゲームで人が渦巻いて動くように激しくうねるような波を表している。
さらに「波」も実際の波ではなく、周期的に起こるチャンスやピンチの例えだろう。
イスとりゲームは、よく出世競争の役職の奪い合いに例えられたりするから、主人公は、そうした俗世の競争に距離を置いているようだ。
組織上層部の考え方や時代の流れによって、価値観・常識は、完全に入れ替わったりすることもあるから、そこに意義を感じていないのだろう。
働き方改革前後やコロナ禍前後の価値観・常識の変遷を想像すると分かりやすい。
Bメロの「今までより ずっと早そうな時間」は、実際に時間が早く進むわけではなく、歳を重ねて様々な経験をしたがゆえに、物事を惰性でこなすようになって時間が経つのが早く感じるという比喩である。
「まだ僕はダメになりはしないさ」の「ダメ」は本来、囲碁用語で価値のない着点のことを指しており、現在では転じて、価値がないことを示す隠喩として定着している。
主人公は、資本主義社会の様々な競争にもまれながら、いくつかの挫折を味わい、惰性で生きていく楽さに身をゆだねそうになりながらも、自らを奮い立たせようとしているのだ。
サビでタイトルでもある「no pain no gain」は「痛みなくして得るものなし」という格言としてよく使われる。そもそもがこれも比喩で、スポーツや肉体労働で実際に体に感じる痛みだけを表現しているのではなく、人生の中での苦労や苦悩をも含有しており、提喩である。
「積み木のようなこの都会」は、文字通り遠くから見ればまるで積み木のようなビル群が聳え立つ都会を表す直喩だ。
さらに「この都会も動いている」は、都会を擬人化するともに、実際に動いているのは都会に住む人々や経済などなので、換喩ととらえられる。
「rising and falling」は、「昇ったり落ちたり」という直接的な行動を指すのではなく、人生の中で上手く行って有頂天になったり、失敗して落ち込んだり、という成否の隠喩だ。
「痛めた胸に手を当てたまま」は、実際に胸が痛いわけではなく、苦悩を抱えて挫折し、疲弊した主人公が再び挑戦できずにいる様子を表す隠喩である。
主人公は、そんな自らに不甲斐なさを感じて、何とか再び前進したいと考えているのだ。
このように1番だけ見てみても、「NO PAIN NO GAIN」は、ほとんどが比喩で成り立っていると言っても過言ではない。
通常であれば、ここまで大々的に比喩を多用してしまうと、意味が分からない歌になってしまいそうだが、「NO PAIN NO GAIN」は、聴衆に寄り添うように共感できる内容で伴走してくれる。
ぜひ解禁となったサブスクで多くの人々に聴いてほしい名曲である。
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