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平成の音楽を振り返る⑤ ~小室ブーム~
2018年に引退を発表した小室哲哉。
天才と評された音楽家だけに、引退は、本当に惜しい。
DA PUMPの「U.S.A.」のような楽曲を日本人が制作するとしたら、今でも小室哲哉が第一人者だろうに。
1990年代中盤から後半にかけて、猛威を振るったのは小室哲哉のダンスミュージックであった。
小室哲哉は、1980年代に音楽業界にデジタル革命を起こし、1990年代にダンスミュージック革命を起こした。
それまで、日本ではマイナーであったダンスミュージックの楽曲で次々とヒットを飛ばしたのだ。
「平成の音楽を振り返る②」で特集したビーイングブームと小室ブームは極めて似ている。
1人のアーティストでなく、複数のアーティストがファミリーのように束になって巨大なブームを作りだしたからだ。
1993年6月28日にビーイングの楽曲がオリコンシングル週間チャート1位から6位を独占したように、1996年4月15日には、小室哲哉の楽曲が1位から5位までを独占した。
1位:「Don't wanna cry」安室奈美恵
2位:「I'm proud」華原朋美
3位:「FREEDOM」globe
4位:「Baby baby baby」dos
5位:「Love&Peace Forever」trf
データは、正直にブームのピークを反映して、記録として残してくれる。
1993年がビーイングブームのピークであったように、小室ブームのピークは、1996年だった。
200万枚以上を売り上げたglobeの「DEPERTURES」は、その象徴だ。
1997年には安室奈美恵最大のヒット曲「CAN YOU CELEBRATE?」も生み出す。
そんな2度も革命を起こした小室哲哉の音楽がなぜ2000年以降、日本の音楽業界に定着しなかったか。
時代の流れ、エイベックスやライジングプロダクションとの決別、小室自身のダンスミュージックからトランスへの傾倒。楽曲量産によるメロディーや詞の枯渇。宇多田ヒカルやGLAYら若いアーティストの台頭とモーニング娘や嵐ら若手アイドルの台頭。
きっと、あちこちで語られている様々な要因は、複雑に絡み合って、小室哲哉の音楽が世間から注目されなくなっていったのだろう。
テレビをはじめとするメディアと各芸能プロダクション、そして小室哲哉自身が音楽バブルの波に乗り過ぎた結果だと思う。
とはいえ、小室哲哉の音楽家としての功績は偉大だ。売上が突出している。
ダブルミリオン4曲を含むミリオンセラーは、実に20曲。
作曲家としての歴代売上枚数は、7000万枚を超え、筒美京平に次いで2位。
編曲家としての歴代売上枚数も、6000万枚を超え、ダントツの歴代1位。
ほとんどが1990年代後半だけで叩き出した数字である。
様々なアーティストを巻き込んで、ビッグヒットを連発したのは、小室ブームが今のところ最後である。
1990年代は、織田哲郎、小室哲哉という天才的なメロディーメーカーに恵まれ、前半はビーイング勢が、後半は小室ファミリーがヒット曲を連発し、若者がカラオケボックスに入り浸った。
もし、次に様々なアーティストを巻き込んだブームが訪れるとしたら、小室哲哉に匹敵するメロディーメーカーが世に現れたときだろう。