曽水に生きて 成瀬正成 中
13 嫡男
慶長12年に入り、安藤直次と小吉は従五位下の官位を授かった。これにともない、安藤直次は安藤帯刀に、小吉は成瀬隼人正と呼ばれることになったが、家康公は以前と変わらず「小吉」と呼び、それは生涯変わらなかったと記録されている。
この年家康公の次男、関ヶ原合戦以降松平姓になっていた結城秀康が、病没した。彼の生母は家康公の正室であった築山殿の奥女中であったと言われていて、そのため彼を家康公はあまり手元に置かず、豊臣家に養子に出したり、親子の縁は薄かった。しかし家康公は、結城姓に代わるころから、秀康の才覚や武勇を評価していて、頼りにしていた。だから秀康の病死に家康公は、相当に落胆した。小吉は何度か秀康に会ったことがあるが、いつも小吉に「そなたは、いつも父上の側にいて羨ましいのう」と寂しげに言っていた姿を思い出した。
家康公は秀忠公に将軍職を譲り、表向きは隠居した形になっていたが、実際は家康公が政のほとんどの実権を握り、江戸に指示を出していた。だから大御所付き老中の駿府年寄であった小吉は、相変わらず忙しく、多忙な日々が続き、屋敷にはほとんど戻れなかった。そのため、息子達のことは、以前同様安に任せっきりであった。
そんな息子達も、長子小平次が15歳、次子於竹は13歳となった。小吉は自身の職務の忙しさから、これからの息子達の行く末が後回しになってしまっていたことが気になり、彼らも良い年齢になってきたので、自分同様そろそろ城務めなどさせたいなあと考えていた。そんな折、城中において、息子小平次の気になる噂を耳にした。最近江戸や京の町で、流行っている「傾奇者」なる集団に、小平次が関与しているというのだ。小吉は、耳を疑った。急いで屋敷に戻ると、小平次の姿はなく、屋敷には安と於竹と娘の3人しか、居なかった。思わず小吉は「小平次は何処に行った?」と怒鳴った。安は困った顔をして「最近出来た友達のところに行ってます」と言った。小吉は「小平次はいつ帰る?」とぶっきらぼうに聞くと、安は更に困って、無言になった。なぜなら小平次は、この数日、屋敷に帰ってきていないのだ。
安は主人の並々ならぬ形相に、どうしたらよいかわからず、小平次が早く帰ってくることを祈った。そんな願いもむなしく、小平次はその日も、屋敷に戻らなかった。しかし小吉は一睡もせずに、小平次の帰りを待っていた。
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