曽水に生きて 成瀬正成 中
11 小吉の2人の息子
文禄2年、肥前名護屋の小吉の元に、京に残して来た鍋助が、人を殺めて徳川軍を出奔したと、正一からの書状が届いた。にわかに小吉は信じられなかったが、その事を家康公にすぐ報告した。しかし家康公は終始無言であられた。
家康公に小吉は、名護屋を離れて鍋助を探しに行きたいと申し出たが、その願いは聞き入れられなかった。
朝鮮征伐は当初、日本軍が優位であったが、日を追うごとに状況が悪化、春に小西行長と朝鮮奉行が日本に帰国、夏には中国の明との間で講和交渉が開始された。しかし家康公は、どうしたことか肥前名護屋を動かず、留まった。朝鮮征伐は休戦が決まり、とりあえず世にいう「文禄の役」は終わった。秋に江戸に戻った小吉は、家康公に再び休暇を願い出、鍋助の行方を探そうとしていた。それと妻の江戸下向の準備もしたいとも思っていた。その頃の駿府は、太閤の家臣である、中村一氏の領地となっていた。家康公の関東入封は急であったため、徳川軍の家族で、駿府に残った家族も多く、ちゃんとした手続きを踏めば、行き来が許される環境であった。久しぶりに自宅に戻った小吉を見て、最初妻は驚いた様子だったが、少し経つと、嬉しそうに近況を話した。
中村一氏の屋敷に家康公の親書を持参した小吉は、屋敷の奥の部屋に通され、主の一氏が来るのを待った。家康公の親書の内容は、駿府に残る家臣の家族の安堵が、主なものであった。
しばらくすると、一氏が部屋に入ってきた。一氏は小吉の顔を見た途端「そなたが太閤殿下の誘いを断り、徳川殿に頭を下げさせた若者だな」と笑った。小吉は恥ずかしくて、顔を赤くした。
親書を読んだ一氏は、事情がわかってるようで「徳川殿には安心して、おまかせくださいと伝えてくれ」と言ってくれた。また小吉に「そなたの妻も、この駿府にいると聞いた。人質のようには扱わぬ。安心して、この一氏に任せよ」と言われた。最後に「今度駿府に来るときには、事前に連絡をくれ。盃でも酌み交わそうぞ」と豊臣の家臣とは思えぬ、優しい言葉で締めくくったのである。およそ噂で聞いていた一氏の豪傑な性格を、小吉が感じることは、なかった。
小吉は、一氏の言葉を信じて、妻の江戸行きを急いで行うことを止めた。また間近に徳川軍の家族が多くいる、今の妻の生活環境を変えることが、気がかりでもあったからであった。
文禄3年、小吉はようやく嫡男小平次を授かることが出来た。その事は家康公も、父正一もすごく喜んでくれた。小吉は妻の産後が落ち着いたところで、妻を江戸に迎えようと思ったが、文禄5年は度重なる天変地異が起こり、年号まで「慶長」に代わるような有り様だった。そのうちに妻は2人目も、出産した。またも男子を産んでくれた。しかし今度は妻の産後の肥立ちが悪く、なかなか江戸に下向出来ずにいた。
こうしているうちに、主君家康公は内大臣に叙され、また翌年、くすぶっていた朝鮮征伐が再発し、妻の事が心配ではあったが、再び家康公と肥前名護屋に赴くことになった。しかし太閤秀吉の病が悪化し、世にいう「慶長の役」は中止を余儀なくされた。
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