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曽水に生きて 上編を終えて

「曽水に生きて」 初代正成 上編は、元服までのくだりでした。中編は青年期から働きざかりの30代を描いていきます。
この小説の土台は、江戸時代中期に書かれたと言われ、成瀬家に伝わった「成瀬氏世譜国字伝」という書物と歴代の「御伝」という伝記が基になっています。
「国字伝」には初代の弟のことなど、本筋を離れたことも多く載っています。
だから私はこの書物が、ものすごく面白いと感じています。
今から10数年前に、この書物を読んだ私は、ここに書かれている成瀬家に関わる菩提寺を、めぐる旅をしました。大阪、金沢、船橋…そして結論として、さすがに私達はすべてのお墓の面倒は見れないなあと、悟った瞬間でもありました。しかし、それから数年後に起こった大阪の震災で、真っ二つに割れることになる正一のお墓の連絡を受けることが出来、修理をすることが叶いました。それはこの「国字伝」に書かれていた親子の絆のおかげかもしれません。
今、成瀬家は正成の末裔の私達しか残ってないように思いますが、私のような末裔がこのように、文章を書き残しておかなければ、思いが消えてしまうことも事実であると、感じています。
しかし、成瀬家に都合良く書かれてる「国字伝」が基になっていますので、皆様に史実と違うと、ご指摘をいただくことが、あるかもしれません。でもこういう事情があるからなので、どうかお許しください。
それから、世間一般で思われている三河武士の見方も、これを読んでいただけば、変わるかもしれないと思うと、私は嬉しく思います。
そして、こんな時代にこんなピュアな侍が居たんだと、知っていただけたら、幸いに存じます。
最後に「曽水」という言葉について、周りから、なぜ使ったのか、ご質問いただきました。「曽水」は、幕末の成瀬家当主であった9代目の成瀬正肥の雅号から取りました。
犬山城は、木曽川のほとりに立つ名城であると、私は思っています。「曽水」という言葉は、幕末に生まれましたが、その城と共に生きた成瀬家を示す言葉として、「曽水」という言葉の言い方は、当てはまるのではないかと私は思い、使わせていただきました。
これで「曽水」の言葉の意味を、お分かりいただけましたでしょうか?

では中編にご期待ください。頑張ります。

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