正成400回忌 名古屋白林寺編
初代正成の戒名を作ったのは、前にも書いたが天台宗の日光輪王寺住職であった天海大僧正だ。
今でも300回忌の時の写真が財団に残っているが、それは大正時代のことだ。その当時から正成の法事は、日光輪王寺で行なうことが基本だったようで、そこには祖父正勝が、学生服で写っている。だから父や祖母の存在すらない。
白林寺でこの正成の法事は、行われていたのだろうか?そして350回忌は、どうしたのか?など今いくつも疑問が残る。
正成の350回忌にあたる年は、私はまだ小学生であった。確かその前年の11月に、当時の当主であった祖父が亡くなり、成瀬家は喪中であった。350回忌も慶事にあたる。だから父は、一人で法事を行う質素なものに、してしまったのではないだろうか?
祖父が亡くなった時、現役の大学教授であったた。そのため世の中で有名だったのか、それとも成瀬家の伝統なのか、私の記憶だけでも3回の法事を行ったはずだ。亡き父も市民葬と合わせて3回は、行った。今思うと、時代にはまったくそぐわない。
自分のことを考えると複雑だ。もう私も、そういうことを考える年齢になった。だから出来れば私は、消えるように逝きたいと思っているのだが。
日光同様、白林寺のお経も、いつもより少し長いように感じた。しかし出席者が言うには、うちの経は、他の家よりすごく長いらしい。
私はその日、正成の位牌を初めて見たが、その位牌の存在自体に、胸が高鳴ってしまい、写真を撮ることに、必死になってしまっていた。そんな時、出席者の一人が「成瀬正成さんの戒名って、変わってるわね」と言い出したのだ。そう言われて位牌をじっくり見ると、私の知っている正成の戒名とは、少し違っていたのだ。私の知っている天海大僧正が付けた正成の戒名は確か「白林院直指宗心居士」のはずだ。しかし位牌には、白林寺殿となっている。これは間違いか?もしそうなら、位牌を作った者は、打ち首になったに違いない。それとも、間違いに気がつかなかったのか?成瀬家は、そんなたわけな家なのか?その場で、住職に聞いたが「わからない」という答えであった。
出席者一同、疑問を持ちながら、墓参に行ったのである。
正成の墓を中心とした「成瀬家墓石群」は、山の一番上にある。しかもこの日信じられないほど、寒かった。日光の暖かさとは雲泥の差だ。しかし空は青かった。
正成の墓碑の前に、灯籠が2つある。それを見て、参列者は正成の戒名が正しいと認識した。なんと灯籠にも、白林寺殿と刻まれていた。ということは、戒名が寺の名前になっているということだ。私が父から聞いていた通り、白林寺という寺は正真正銘尾張藩主初代義直公が、正成の菩提を弔うために建てたものなのだ。だから正成の戒名を寺の名前に付けるくらいだ。その寺自体が正成の墓に値する意味をもつものになるのだと思う。義直公のその時の気持ちに触れられたように感じて、更に私は胸を熱くした。
この法事の翌日は、正成の命日にあたった。また法事を行った日は曆にこだわって、大安吉日を選んだ。そして正成の命日の日は、400回忌にちなんで、犬山城では先着400名に記念品を配らせていただいた。
こうして長い長い初代正成の400回忌は、終わったのであった。次は50年後、きっと弟の子供が行うであろうが、どういう形で行えるかわからない。しかし成瀬家の持つしきたりは、出きる限り守って、でも無理をせず行ってほしいと、私は願っている。
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