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犬山市旧福祉会館に残された壁画を掘り下げてみた

犬山市福祉会館の取り壊しが決定したのは確か一昨年の事だった。表向きにはビルの老朽化と耐震基準の未達が取り壊しの決定理由に挙げられている。犬山市福祉会館は1970年(昭和45年)に開設。市民の様々な活動の場として利用されてきた。犬山市の福祉課もここに入っていたし、なにより400人ほどが楽に入るホールを持ち合わせていたため大変に便利な施設だ。

老朽化で取り壊しが決定したことは非常に残念に思えるが、ここに矢橋六郎が手掛けたモザイクアートが展示されていることは市民を含めてあまり知られていない。矢橋六郎とは何者か?という質問もあるくらい知られていないのだから、現代アートへのリスペクトがあまりにも薄すぎて困る。
では矢橋六郎とは何者か? そして福祉会館の壁画の作者は誰か?少し掘り下げてまとめてみた。

矢橋六郎とは?代表作は全国にあるぞ!

中日ビル

矢橋六郎とは何者か?まずはここから疑問が湧くのではなかろうか?

矢橋六郎は岐阜県不破郡出身の洋画家、1905年(明治38年)生まれの故人である。現代アートと言ってしまえば聞こえはいいが、1930年に東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業後、渡欧。ヨーロッパ滞在中にフォービズム(原色を多用した多様な色彩を用いた作品)やキュビズム(一つの対処を多角的な角度から見た映像を一つの画面に治める手法・代表作家としてピカソ)などの影響を受ける。矢橋の代表的な作品を見ていくと、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックに影響を受けていることが解る。

20世紀初頭の芸術家でヨーロッパの影響を受けている人の作品はキュビズムに大きく影響を受けていることがある。矢橋の作品を見ていくとピカソの作品に通じる作風を見て取れる。

太平洋戦争に従軍し、1946年に帰国。実家である矢橋大理石商店の取締役に就任している。終戦後の1950年に山口薫、村井正誠らとモダンアート協会を発足、モダンアーティストとして活動を開始する。

代表的な作品は絵画が多いのだが、モザイク作家として全国各地の巨大モザイクアートを次々と作成していく。

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現在残っているモザイク作品で大名古屋ビルヂングの「海」、名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」が有名だ。
中部地方だけでなく新大阪駅や東京にも作品が残されている。

晩年はステンドグラスの作成や美術教育にも尽力し、岐阜県の教育長を務めたりと郷里振興にも貢献した。また、1978年には東京セントラル美術館で個展「矢橋六郎画業50年展」も開催している。

最近では大垣市が矢橋六郎の遺構を後世に残すことを目的にした「矢橋六郎マーブルモザイク作品集制作プロジェクト」が実施されているようだ

犬山旧福祉会館の壁画は誰が手掛けたのか?

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さて、話は戻って…犬山の福祉会館の壁画である。作品は矢橋六郎にしては珍しく風景画だ。犬山城と犬山祭を描いている。これには諸説あるが、福祉会館の場所にはもともと犬山城の大手門があったとされ、その場所から犬山城を見た江戸後期~明治初期の風景ではなかろうか?とのことだ。
犬山城と犬山祭を題材にする辺り、つまり風景画を題材にし忠実に描いている作品は矢橋の作品の中でもあまり見たことがないと矢橋大理石商店の担当者は述べている。

またこれまでの取材から判明していることをまとめると…。

・作風から矢橋六郎が関わっていることは間違いない
・作品に落款がないため矢橋の作とする根拠がない
・風景画をモザイクアートにすることは珍しい
・作成年(福祉会館の開設年)は矢橋は晩年にあたる
・作画の原作者が他にいるのではないだろうか

すでに解体が決定していて、この壁画も解体が決まっている。矢橋の作品であるという根拠が薄いため、この壁画は美術品としてではなく文化的価値のある作品になってしまっている。
また、とある情報から福祉会館の開館事業の一環として地元の芸術愛好家が矢橋六郎を招き、当時の小中学生たちを集め壁画の作成を指揮したとの話も聞けた。しかしこの話も当時の新聞記事や議会の議事録の中にも無く、犬山市としての事業ではなかったことがわかっている。
想像でしかないが、犬山市内の芸術愛好家が自費でこの壁画を福祉会館に寄贈したのではなかろうか?

壁画から読み取る矢橋からのメッセージ

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改めて壁画を見てみよう。この壁画は犬山城と犬山祭に町衆が描かれている。つまりどこをどう切り取っても犬山である。また、大手門から犬山城が描かれていることから、江戸時代以降の犬山城下町であると推察できる。

ではなぜ矢橋六郎は自分の落款を入れなかったのか?

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※矢橋のモザイクアートには左下に自身の落款かサインが入っている。写真は静岡県立中央図書館の「天地創造」に入っているサイン。

原作者が犬山市内の誰かだとしてもこれだけ大掛かりな壁画を一日や2日で作成できるとはどう考えても無理がある。市民団体が壁画を寄付したとしても市の文献や市議会の議事録に何も載っていないのだ。

犬山の壁画には矢橋がなんらか関わった痕跡を消したいようにも見えやしないだろうか?抽象的な構図が多い矢橋の作品群のなかで、犬山だけ過去の風景画を採用しているのはどう考えても不自然だ。また、ピカソなどの美術的な思考の流れを組んでいるアーティストが子供っぽい人物描画を書いていることも不思議に思う一旦である。

大名古屋ビルヂングを含めた過去の巨大な壁画は今、取り壊されつつある。犬山福祉会館の壁画も同様に、2020年8月には跡形もなく消えてしまう。
ではこの壁画は誰の作品だったのか?という謎がこれから先残るのだ。

この作品を市民が矢橋の手を借りながら作成したならば、今、犬山市に住んでいたり務めたりする者たちが何らかの形として保存することがベストだと思う。

また、個人的な意見だがこの壁画は昭和の大開発で城下町の情緒を壊してしまった強烈なメッセージも感じ取れる。
「犬山の誇るべき史跡は~」とだいそれたことは言わない。犬山に何かしら関わっているならば、育った場所のことくらい十分に理解して、それから外の世界を見ろ!と言われているように感じ取れる。
詰まるところ「犬山にはなにもない」ではなくて、犬山で誇れるものを作り、出身地を誇れるだけのアイデンティティを持て!と強烈に諭されているような気がしてならないのだ。

このnoteを読むものが何をどう感じるかは私は知らないが、矢橋六郎は作ってきたすべての壁画が壊されることまで想像していたのではなかろうか?
でなければモザイクアートを一つ一つ、石に色を付けて作成なんかしないのだ。石ならば壊してしまえばもとに戻る(自然に帰る)。壊されてしまった後の後始末まで考えて作品を作っているのだとしたら、犬山の犬山城と犬山祭の壁画は何という皮肉だろうか。

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