媒体が最終形態となる
僕は常に最低限を求めている。
恥ずかしい人生も最低限必要であり、
誇らしい人生もまた最低限必要である。
人間を売る、
曲を売る、
人生を売る、
エンタメと芸術の垣根に必要な媒体。それは人間以外にも務まる。
道徳で関心を持つのは、共通した死への恐怖や協調された慈愛ばかりであって、
独自性を育てるには生きていることへの曖昧な感覚のみが必要になる。
それはもう既に記録する必要もなく、勝手に記憶として貯蔵されて、自分自身が自分を背負う。
だから愛情は理解であって、記憶の共有に慈愛はない。
僕は自信が無かった。
知的好奇心はあれど、それが記憶となり、直結して自己肯定へと結ばれる器官が発達していなかった。
だから多分これに関するイメージが形となることが僕の人生の終点になる。