水と同意のない契約のはなし。

歯医者に行った。
十六時半から予定があったが、歯医者が思ったより早く終わり、三十分ほど身体が空いてしまった。
どうしようかと考え、ヒラキへ行こうと思った。梅雨入りする前に雨用の靴が欲しかったから。
うちの近所のヒラキは小さな商業施設の二階にある。
自動ドアをくぐった先にある階段に続く道は、左がマクドナルド、右がたまに何かの勧誘をしているイベントスペースになっている。
私はいつも気まずいのでマクドナルドを見ずに右を見ながら歩くのだが、その時はイベントスペースで催しをやっていた。
男が二人いる。ポケットティッシュを持っている。これは貰ったらおしまいだ。イベントが発生する。多分顔の前に出されるポケットティッシュは『大丈夫です〜』とか言ってやり過ごそう。
とにかく前だけを見てそこを通り過ぎようとするが、人が私しか通っていないので当然のごとく声を掛けられる。ティッシュ。ほら、きた。ティッシュな〜。顔の前すぎるって。
私はなるたけ頭の中で数秒シミュレーションした通りに、『大丈夫です〜』と顔を見ずに過ぎようとする。
しかし男は一枚上手だった。
「ティッシュ!ティッシュだけ貰ってくれたらいいんで!」
そう言われたらティッシュ貰うやん。
すごく低姿勢に渡されるティッシュを断る胆力は私には無い。男が着ている分厚いTシャツもやけに白く見える。
私は、「あ、あー」とか言いながらティッシュを受け取る。トイレがしたくなって来た。これも過度の緊張か?
やっと通り過ぎようとした時、また止められた。
「すみませんお姉さん!ティッシュに付いてるシールだけ貰っていいですか!」
は?
シール?
なに?シール?
ティッシュにシールついてんの?
仕方なく受け取ったティッシュを見ると確かに丸い金ピカのシールが一枚貼られている。
男はすかさずアンケート用のバインダーを取り出し、「お姉さんウォーターサーバー使ってますか?」と聞いてきた。咄嗟に聞かれたので正直に、「え?はい。」と答えてしまう。
男はバインダーを見せながら、「この中のやつ、使ってます?」と聞く。
三種類のウォーターサーバーの画像が横並びになっており、その画像の下にシールがまばらに貼ってある。
やけに真ん中のウォーターサーバーのシール数多いな。そうか、そういう手口か。と思いながら、あれよあれよという間に私はパイプ椅子に座らされていた。
家で使用しているウォーターサーバーについていくつか質問をされたあと、そいつらが勧めたいウォーターサーバーの説明をされた。
口からは、「へえ、そうなんですか、はあー、最高っすね。」と適当な相槌を打っている。心のどこかでそう思っているので口をつくのだろうが、八割方、あ〜完全にカモられてる〜と悲しくなっていた。同時にトイレ行きてぇ〜とも思っていた。
男はずんずんと話を進めて、名前と住所と電話番号を聞かれた。昨今のこういった手口は、書くのではなく相手がスマホで入力するものらしい。
口頭で住所を言うのは憚られるので躊躇していたのだが、男はそれを見越してか、「言うのアレだったら入力されます?」と聞いてきた。
はい。言うの、アレです。
心の中で頷き、リアルでは、「あ、はい。」としか言っていない。
ねぇ〜、もうこれは契約じゃん。同意のない契約じゃん。同意のない契約ってだめなんじゃなかったっけ?私こういった同意のない契約何度か経験してるから、こういうことしたらだめなんだよって言ってあげたい。私がここで帰りますと声を上げ、今すぐ立ち去れば、この人たちも詐欺まがいのことに手を染めずに済むのにな…と考えながら、それでも私はその場を立ち去れずに居た。
今こうして考えると愚かさ百パーセント、千パーセントすぎて怖いが、あの時の私はトイレとヒラキと自分がカモられているということを考えていたがために、もうこれ後でクーリングオフでもキャンセルでもすればいっか…と諦めの境地で話を聞いていた。いつの間にかサインもしちゃってるし。
でもこれ本当にだめだよなと思い留まって、目の前の男にどうにか
「すみません、私主人にこういうの一人で決めるの止められているので契約出来ません。」
と伝えたのだが、男は笑いながら、
「いやそうですよね!僕も結婚してるんですけど、嫁に一人で決めると怒られますもん!なので旦那さんとはよく話し合ってください!あ、ここに今日の日付お願いします。」と、矢継ぎ早に言われた。
お前、結婚してんか。指輪してないのに本当かな。よく見たらお前のTシャツ、白じゃなくて黄ばんでんな。本当に結婚してんのか。と私の抵抗はあえなく失敗に終わった。
こうしていつの間にか契約が完了しており、なんなら公式LINEも登録完了していた。
「本当にありがとうございましたァっ!旦那さんと良くお話しして決めてくださいっ!」と顔をあげたまま深々とお辞儀をされながら見送られた。

私はぼーっとした頭で自己嫌悪に陥りながらトイレに向かい、用を足した。
手を洗う時、鏡に映った自分を見て、うわ…唇の色死んでる…と思った。
リップを取り出そうと鞄を開ける。スマホが目に入る。あれ、そう言えば今何時だ。
時計を見ると十六時十分だった。
この死んだ唇で十分間も対面していたと思うとゾッとした。
ヒラキには行けず、リップを塗ることも出来ず、鞄には契約書が鎮座している。大変悲しい事実だ。
ここで打ちひしがれていてもどうにもならないこと、思ったより時間も迫っていた事もあり、移動してしまうことにした。
何も後ろめたいことがないのにあの男の顔が見たくないだけの理由で、迂回ルートで商業施設を出て予定の場所に向かった。

夜。主人に事の顛末を話した。
言い訳をちょいちょい入れながら私は悪くないのだと言い張って、いじけながら契約書を渡した。最初はいじけてはいたものの、話している内にやっぱり自分が屑すぎる事を自覚して、段階に分けて何度かごめんなさいもした。
主人は私がカモられたことに憤怒し、また、私が主人と話して決めますと主張した際の流れに、
「そいつ犬のこと完全にナメとるでな。」と静かに切れた。
「一緒に僕のこともナメとんだわ。」と切れていた。 愛知弁が出ていた。
私はとても後悔していた。ごめんなさいと言いながらも顔を見ることが出来ず、取り繕うようにチーズケーキを作っていた。
主人に残り少ないポッカのレモン汁を握らせて、大匙二杯分を力に任せて搾り入れてもらった。

色々検討した結果、家にあるウォーターサーバーの方が水が美味しいという結論に達しクーリングオフをすることになった。
今後は絶対に一人で契約をしないと指切りをして、その日は寝た。
チーズケーキは一晩冷やすのでこの日は食べられないと伝えると、主人はしゅんとしていた。

次の日、クーリングオフをしますとLINEで送信した。既読は付いたが返信はなかった。
「営業時間内に送ってくれたらなんでもすぐに返信しますんで!」と宣っていたのを私は覚えていたので、ちゃんと営業時間内にお送りしたのに…。
その夜LINEにメールでクーリングオフをした旨を送信すると、ようやく翌日に「了解しました!またご利用ください!」と返信が来ていた。
即座にブロックをして削除した。LINEにブロ解フォロー解除機能ついて欲しいな。

ポケットティッシュは腹が立つので使っていない。
忘れた頃に使う。

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