リスタに哲学科ができた意味
寒波ぁあああああああ!!!
ということでめちゃ寒い日々をお過ごしの皆様おはようこんにちはこんばんはおやすみ!!!
久しぶりにオープンにしたnoteをしたためてみようと思ったので見て行ってもらえると嬉しいかもしれんですけどまあ別に見なくてもという気持ちとせめぎあっているそんな午後(´-`).。oO
さて、昨年6月からスタートした「RE-STUDY」という犬に関わる人に贈るぼくたちからのせいいっぱいの贈り物。どうか楽しんでもらえてるといいなぁという想いと、まだまだ運営として未熟すぎるヨチヨチ運営でご期待に沿えない部分もありながら一歩一歩赤ちゃんから成長しようともがいている今日このごろです。
哲学科誕生の意図
これは運営全体の思想というよりも、ぼく個人としての見解と展望になってくるのでこの通りにやってくぞというわけでもなく、ただのいち「リスタ」受講者としての文章だと思ってもらえると嬉しいです!(とくに社内共有している思想ではないですしこれが正解だというきもさらさらのさらにない)
ぼくたちの世界は、まぁまぁ「答えのないもの」が多い。おそらく一般社会のそれよりも「複雑で、深くて、脆い」テーマがそこここにころがっている。
ひとつ解決すればそれでヨシともならず、黒と白との間に明確に線が引けるものもあればそうでないものもある。(線がひけるとしたらそれは法律だけかもしれない)
ぼくは仕事上、トリマーさんだけではなく動物看護師(仮)や獣医師やトレーナーさん、もちろん一般の飼い主様や犬に関わりのない人達との交流がある。その中で感じるのが近年は年齢や職域にまったく関係なく「自分で考え、判断する」という能力が著しく欠損していっている感触や手触り。
SNSを開くたびにざらざらとした感触が指から、背中からじわりじわりとぼくの感覚を奪っていく。
言い換えると「なんらかの正解が絶対にあって、その通りにしたいという欲求」に絡めとられ、自分で考えるという営みを放棄し、無自覚に、無責任に影響力を持とうとしている人たちが増えてしまったな、と感じている。
もっともらしい理由をここにつけるのであれば「SNSの発達によって今まで可視化されなかった情報に良くも悪くも"あてられて"しまっている」と見ていて思うのだ。もちろんここには”ハック”というカタチで各SNSの媒体にあった方法でみんなを”この方向に誘導したい”という個々人の思惑や企業の戦略があったりする。
ぼくはそれがとても嫌いだ。
なぜそれに嫌悪感をいだくのかというと「方法が先にあって、そこに無理矢理文脈を後付けしているものがとても多い」からだ。いい事をしていそうだったとしても、悪意をもってやっていたとしても。
こうすればバズりますよ、こうすればフォロワーが増えますよ、こうすれば稼げますよ。そういった方法論が先にあって、無理やり「自分たちはこういう崇高な思想があってこんなことがしたい」という文脈を後からのせていく。
本来、きちんと考え抜いて出されるはずの答えだったとしても「よそからさらってきた言葉をハメる」ことでしか自分を表現できないヒトや企業が非常に多い。(がこれは時代によるものは関係ないようにも思う)
どこの何を見ても”独自の色”が見当たらない。どこかで誰かが言っていたフレーズがリフレインしつづけていて、どこかの誰かの発言を「起点」にしなければ自分の話しすらできない。
使い古され、擦り続けられたその言葉たちはやがて意味を失う。
こういう文字を見て嫌悪感を抱くようになったのはいつからだろう。
意味を失ったどころか「使えない」言葉になってしまってはいないだろうか。それはいったい誰が使えなくしてしまったのか、それとも世間的に使っていて違和感を抱かれないけれど、ぼくが勝手に「この言葉を使うと詐欺師っぽいよね」と判断するようになってしまったのだろうか。
そうであるものも、そうでないものも、おそらくある。
そして嫌悪感を抱く単語は、おそらく今後も増えていく。
このnoteを読んでいる人たちは「これはそう思うけどこれはそうは思わないかもな」という感想を抱いているんじゃないだろうか。どう?一緒だった?それとも違った?
例えばぼくが事前に「この言葉はこういう理由でとてもひどくて本当に嫌すぎて」ということを書いていたら「あぁ、こういう解釈が正解なんだ」と思い込んでしまう人が一定数いる。
とはいえ全部に全部、全て反対というのもわりと天邪鬼さんだな~~~って思うし「前提条件が異なればその言葉は受け入れられる」というのもあるだろう。
では、こういう白とも黒とも(社会的に)判断の難しい事柄について「君はどういう判断をしていくの?しているの?」という問いに答えられる人間が本当に少なくなった。
自由という風潮
近年自由に生きようムーブメントみたいなものを観測している。ぼくもそれには概ね賛成だし、そうだよねと感じているのだけれど「自由」の定義が異なる人と遭遇することも少なくはない。
直接具体事象をここに書くと色々な軋轢が生まれるので少し引用しながら話そう。
ぼくが人生で好きなアニメを3本上げろと言われて確実にノミネートされるのが「SSSS.DYNAZENON」という作品だ。これは現代の哲学である。
オープニングの「インパーフェクト」から始まるストーリーだ。
あの頃 夢中で憧れたヒーローなんていない日々
道ゆく人たちもみんな
これが営みだと言い聞かすようにー--
SSSS.DYNAZENONでは作中に「怪獣優性思想」という"怪獣が必要な世の中を創る"という集団がいる。
そういう見せ方をされていると言ってもいいのかもしれないが、よくよく見ていくと「怪獣優性思想」のメンバー5人は「怪獣使い」という職業が一致しているだけで一枚岩でなく思想は個々人に異なり「ふんわり今の世界がまとっている自由思想」そのものであることが読み取れてくる。
OPでもそれぞれが見ているその「先」が違う事が描かれている。
作中で「怪獣優性思想」の捉え方は20世紀初頭に欧米諸国で盛んに唱えられていた命に優劣をつけ選別する「優性思想」とは異なると解釈できる。
彼、彼女らは「怪獣の命が絶対だ、人類より怪獣が生きながらえるべき」と考えているわけではなく、怪獣を使う事によって人類は幸せになるのだという思想を抱いている。
彼、彼女らの思想は怪獣の出現は”何かに縛られている人々を開放する”ことに繋がると考えられており、それが人類の幸福に寄与するはずだと信じている。怪獣は「多くの人の意思」によって作り出されるものであり、怪獣優性思想がつくっているものではないのだ。
あくまで怪獣使いは「人の作り出した怪獣を使役する役割」だ。
つまり人類にとって自らを律する態度を”縛り”として解釈し、そんな縛りなど(怪獣が)とっぱらうから”自由に”生きたほうがいいに決まってるんだ。そう主張していくのである。
物語でポイントとなるのは(とても多く紹介しきれないが)怪獣優性思想の「シズム」と主人公である「麻中蓬」との掛け合いにある。
序盤から終盤にかけてこの二人の関係は「自由」と「不自由」の対立でありながら相互理解をしていく過程も描かれている。
「不自由」を選び取って行く主人公
「誰かの手を握ろうとしてつかんだ"不安の種"」
自由を提唱する怪獣優性思想「シズム」
「街中にバラ撒かれている窮屈で不安定な感情は人からのSOSだ」
この二人の後半の掛け合いに次のようなものがある。
最後の最後まで、2人は互いを理解しようとしていた。しかし、結果的に、わからないまま終わる。
”わからないまま終わった”からといって、ぼくはこの二人の営みが意味のなかったものとは決して思わない。蓬は今までになかった視点に触れる事で不自由を自由であるという解釈に至ったのだ。
逆にシズムにとって自由であると思っていた行為が不自由を内包している事にも視聴者は気づいたはずだ。(人が怪獣を産み出さなかれば怪獣使いの出番がないのだ)
「他の誰からの命令を受けたわけでもなく、また見返りを求めることでもなく、ただそうあるべきだと自ら行うことこそが道徳的であり、人としてあるべき姿だ」というのが、哲学者カントの教えである。
カントが唱えた『実践理性批判』からこの二人の道徳と倫理観は自由と不自由の対立ではなく「自律した自由」と「自律していない自由」の対比であるとぼくは読み取っている。
主人公の発した”かけがえのない不自由”は”自立した自由”と言い換えることが可能だし、シズムの目指した自由は”自律していない自由”という解釈ができる。
カントはある講義の中で「自ら考え、自ら誤りを発見することの気高い自尊心」について語ったとされることから、ぼくたちは出来上がったものを真似るのではなく今目の前の現在進行形の事象に対して本当のことを知るために「哲学」をしていく必要があるのではないだろうか。
「自由」に生きるべきだとぼくも思う。
しかし、しばしばトリマーの中に散見されるルールや法律や道徳、倫理を無視して「自由」という言葉を盾に自身の行いや、仲間の非道徳な行いに寛容であることはぼくの思う自由ではないし、わかりたくもないし永遠にわかることはない。
自由というのは法律を守り、ルールを守り、道徳で倫理的である態度であるからこそ”真に自由”なのだと考えている。
これが蓬のいう「かけがえのない不自由」の正体なのではないだろうか。
「科学」は重要であるし「哲学」がなければいつまでも”誰かが言ってたから”を抜け出せないし倫理のバランスがおかしければそれまでなのだ。
自分自身の今現在の環境ごとになにもかもの判断は変わっていい。本当の意味でみんながもとめている「答え」が個々に出せるようになれば、誰が何をしていたってその都度に不安になる事もない。
プロである以上経験年数にかかわらず「他者をみくだしていないからこそ批判をする姿勢も重要。」だと感じる。
哲学をしよう
繰り返しになるが、ぼくたちの世界は、まぁまぁ「答えのないもの」が多い。おそらく一般社会のそれよりも「複雑で、深くて、脆い」テーマがそこここにころがっている。
だからこそ、一人ひとりが「個人として」どう感じ、どう考え、どうやって他者とすれちがい、わかちあい、分かり合えず、それでもなお”自由に”学び、仕事をしていけるのかという「答え」を自分自身で見つけだす営みが必要なのだと思う。
過去「リスタ」が創られていく過程でオペレーション”クオリア”と名付けられていた。クオリアとは感覚的/主観的な経験にもとづく独特の質感のことである。
クオリアは客観的な科学で説明ができない「経験にもとづく」個人にしかわからないものだ。
例えばコウモリは超音波でものを感じ、獲物を捕らえる。それを我々人間は客観的な説明はできても「実際に超音波を飛ばしモノを把握するということはどいうことなのか」つまりコウモリのクオリアを体感することができない。
このように、科学も重要であるし個人の経験や体感、質感や肌触りというのも同時にとても重要だから尊重していきたいよね、という想いを込めて「クオリア」という作戦名にした。
科学はとても重要である、というのは間違いのないことである。それと同時に”リスタの質感”や”みんなの質感”をだいじにしていきたいと考えている。
かけがえのない不自由=自律した自由を「リスタ」で叶えるには”ぼくだけ”でも”あなただけ”でも不可能だ。
本当の意味での哲学とは「対立をしても、批判をしても、それは許容されるし受容されていく。」だけど「完全にわかり合う必要はない」そんな関係値が重要なのだと思う。
チームダイナゼノンは結構みんなバラバラな性格だし、境遇も別々なんだけれど同じ方向は向いてるんだよな。
リスタでみんなが向く方向は「まっとうな人たちがせめて損をしない世界を創り上げていくこと」と定義できる。今も過去もこれが達成された事はないと思う。
本質部分を話しあうにはぼくを含めてまだ全員に”作法”が足りない。
哲学として話しあうには最低限の”ルール”が存在するから。
SNSでは本当の意味での話し合いはぼくは不可能だと思っている。
対面だったとしても話しあいをするためのルールを共有していない人と話しあいができるとも思わない。
科学者としての話しあいは基礎的な科学の知識を有していていなければ難しく、全員にその作法を学んでくださいっていうのはかなり難易度が高い。
学会で質疑応答のルールにのっとってやればいいし(しばしばこれができない人もみかけるけれど)謎の講演会で自論を展開するつもりも毛頭ない。
とはいえ、ルールを把握したからすぐに哲学対話ができるぞ~~~ってかんじでもなくて何度も”経験”しないとわからない事が多いのでもし次の機会があれば積極的におしゃべりしようね!初回はぼくもびびって全然話せなかったんだけどぼくよりたくさん話してくれる人たちがいて素敵すぎた。。。
最後に
どうしてSSSS.DYNAZENONが哲学なの?っていう疑問をもったきみ!マジで1回見て!というか一回じゃわからんと思うから5回みて!!!(布教)
アニメのタイトルを全話並べてみるとわかるかもしれない。。。
答えを出さないアニメぇえええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!自分で考えろってやつううううううううううううううううううううう!!!!!全て問い~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!
タイトルがすでに哲学ぅううううううううううううう!!!!!!!!!!
というめっちゃぼくに刺さるやつでした。はい。
いまだに見てます。今度映画あるんで誰か一緒にみにいこう!!!!
最後にSSSS.DYNAZENONのエンディングテーマ「ストロボメモリー」の歌詞を紹介して終わろうと思います。
ほいじゃ~~~またね~~~っ!!!!
気になった人はぜひアニメみてみてね!
参照:リスタ
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