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連続講座「面とはどんなアトリエか?」第一回 事前メモ② 発表メモ

2023年1月27日(金)に、映画監督の七里圭さんと、いぬのせなか座第一期メンバーの鈴木一平、そして私(山本浩貴)の3人で、連続講座「面とはどんなアトリエか?」というイベントをおこないます。
連続講座という名のとおり、今回が初回で、以降複数回つづいていく予定です。

前回の記事では、七里さんと共同で行なってきた仕事をまとめましたが、今回は、イベントで山本が行なう発表の概要を公開します。

あくまで現時点での仮のメモですが、おおまかな問題意識は共有できるかと思います。御覧ください。


「なぜ「面とはどんなアトリエか?」なのか?」と題し、まずは現状の確認として、GUIやタッチパネル、映画におけるゲームエンジンやデザイン・イラストの現状などを確認しつつ、水野勝仁さんの連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」を確認します。
「サーフェイスは外界からモノの内部=バルクを遮断するものから、バルクを透かし見ながら操作するものとして扱われるようになっている」

結局は「面」は二次元ではないか――とは言えない。「面」の持つ意味合いが変化したとき、「面」をもとに構築されてきた哲学・思想の議論も、「面」を自らを支える最大の形式のひとつとしてきた映画や詩歌も、みな内実を大きく変えているはず。

次いで東浩紀さんの「観光客の哲学の余白に  触視的平面の誕生」を確認しつつ、東さんが1997年から2000年に連載していた「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」の内容を概観します。
さらにそれを踏まえた同年代の議論として、福尾匠さん(「ポシブル、パサブル」)と、さらにそれを受けての大岩雄典さん(「ダンスホール」https://artresearchonline.com/issue-3a)の仕事を辿り、「面」から「空間」への展開を確認。

その上で、しかし「空間」にまで行く前に、使っても使わなくてもいい、ある局所的な実験場としての「面」について、けりをつけておきたい(というのがいぬのせなか座のやってきた立場)だと表明。
以降、「面」の変容にともなう思想的/芸術的変化を「面」そのものから記述しようとするラインを見る。

そこで焦点となるのが、リテラリズムの推移。 表層のリテラリズムから制作者のリテラリズム、そして喩のリテラリズムへ。

ドゥルーズ/蓮實重彦における、「表層」を「素朴」に見つめる観客/読者的立場から、平倉圭さんや保坂和志さん(+樫村晴香さん)における、表層とその手前側の肉体の相互発達的関係を見つめる制作者的立場への推移を確認していきます。

途中、ゼロ年代から十年代なかばの日本の小説をめぐり展開された、渡部直己/佐々木敦における産出性/再現論の議論も確認するかもです(佐々木さんが、パラフィクション含め、テクストとその手前側の肉体のあいだの相互関係に重点をずらしたことについて)。
保坂和志における小説=《余暇時間の利用法全般の問題》とする考え方の延長線上(順当な時代推移)に、テクストよりもその手前側の肉体の実存こそに価値を置く昨今の状況を位置づけるという話も、余裕があればする(ポストフォーディズム下における余暇時間の労働化、パーソナリティ消費)。
つまりは、「面」で完結する価値観から、「面」の手前側の肉体との相互関係を重視する価値観への移行が「制作者」の重視とともに生じたものの、それが単純な「肉体から面への自己投影」へと(資本主義の新たなスタイルとして)回帰しかねない状況を確認しておく(かも)、と。

以上を踏まえた上で、2015年のいぬのせなか座が立ち上げられたときにとられたスタンスを概観。
「制作者をめぐる情報の受け取り(の強いられ)や、それらのレイアウトから始まる、作品内部の統合と作品手前側の統合の相互発達/改変/解体について検討、実践する」というスタンス。

生態心理学や認知言語学の議論を経由し、「面」への私+環境の埋め込みをチェックした上で、その多重化の先に生じる、「面」における次元の問題を確認する。
「虚の透明性」「ポシェ」「アンフラマンス」……未来派、デュシャン、荒川……(「面」を制作者のリテラリズムから捉えた先駆者としての荒川)
次元の変換が生じるとき(あるいはある次元に個々が並ぶなかで個々では処理しきれないものが見つかったとき、別の次元が要請されるというよつなかたちで)発見される、複数のリテラリティを束ね輸送し強化する必然性としての抽象(それ抜きにリテラリティが成立しない奥行き)へ……

これを、肉体の側を巻き込んだ形で設定したい。抽象を、作者性や、肉体から自立した「作品」などと捉えると、話が元に戻ってしまう。「面」の中に肉体の操作可能性が投影として発見されてしまうという、そうした極古典的なレベルから、順に抽象まで積み上げていかなければならない。
ex.「かたち(は思考する)」(平倉圭)。
一方で私は、テクストと肉体の間の関係性をめぐる概念/装置としての抽象=喩を考える。これは言語表現から出発するからでもあるし、また、それゆえに人間から出発するということでもある。

ポール・ド・マンやブリュノ・クレマンにおける喩の議論を辿りつつ(いつものやつですね)、喩を仮定義する。そこでの喩は、単一にすべてを束ねるものではなく、レイアウトされ、かつ、入れ子状に積み上げられていく表現らが抱える距離とされる(そしてその距離も、レイアウトされる)。

「面とはどんなアトリエか?」
→肉体と情報の紐付き=喩が、日常的かつ多重的にレイアウトされる(ために使われる実験)場。
「喩のリテラリズム」(喩を尊重し、引き受け、応じる倫理)から成る、作品と私の相互変容の変容のプロセスが、「面=アトリエ」を支えている。

手前側の私らを発達/改変/解体させるための指示書/コレオグラフィめくアトリエとしての、作品=面(として、映画や絵画や詩歌を使う、といった価値観が、芸術の価値低下と「面」の技術発達があわさった結果として、生じている……?)


みたいな感じです。
さてここからどこまで詰められるかですが、金曜日、どうぞよろしくお願いいたします。


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