批判的であるということ
こんばんは。
先ほど成人発達理論マスターコースの第2回セッションが終了しました。
批判理論(クリティカルセオリー)
批判理論とは、フランクフルト学派の社会哲学における言葉です。
社会や人間的事象を自然科学的に把握しようとする実証主義に対して,現実の社会的過程のコンテクストのなかで理性の自己反省という方法をたよりに理論と実践の統合を弁証法的に達成しようとする方法。
めちゃくちゃ簡単にいえば、啓蒙的な伝統的哲学だけでなく、事実や目に見えるものだけの実証主義でもなく。
自分達が今この時代の社会に属していることを自覚し、理論や思想が常に現実社会に即しているか、社会の中でどういった影響をもたらしているか、そしてどんな社会なのかを批判的に捉えながら実行していこうというものです。(超要約なので詳しくは書籍などを各自お読みください)
現代社会は多くの刷り込み、情報支配の中にいるといえます。
まさにポストトゥルースの時代。
色々なモノにマインドセットされている社会である。
(この辺りは、近年一般書として有名になったユヴァル・ノア・ハラリの本などが優しい)
そういった時代を自分として生きていくには、常に自己にも社会にも時代にも批判的であることを求められると、僕は考えます。
批判と否定
そもそも、批判という言葉自体が未だに否定と混同している人もいるのではないでしょうか。
Critical Thinkingが日本語では批判的思考となっていることで、聞いた事はある人も多いでしょう。
〇批判
批評(事物の美点や欠点をあげて、その価値を検討、評価すること)して判断すること。物事を判定・評価すること。
〇否定
そうではないと打ち消すこと。また、非として認めないこと。「うわさを否定する」「暴力を否定する」⇔肯定。
つまり、批判には「検討して判定・評価する」という客観的な視点や検討が含まれています。
一方で否定には客観的な視点や検討ではなく、主観だけで対象を拒絶し認めないという意味合いが強いです。
そういった意味で、我々は物事に対して常に批判的である必要があると考えます。
様々な理論や研究にも同様に。
自分に批判的である
古代ギリシアから、ライティング(書くという行為)は自己変容に対する不可避のアプローチであるとされていると、加藤さんは話します。
自分に批判的であるということは、自分の行為、思考などを検討して判定・評価するという客観的な視点や検討が必要です。
自分を客観視する。
様々な所で登場する言葉ですが、本質的には完全に客観視することは難しいでしょう。(我々は自分の目、世界から完全に脱出することは難しい)
しかし、自分の思考を文字にし、それを自分で客観的に眺め、批判するという行為はある程度の成果をもたらしてくれるのではないでしょうか。
主体と客体の行き来が可能になります。
これは、やってみれば分かりますが結構疲れますし、慣れるまでしんどいです(笑)
僕自身、経験値も少なければスキルもありません。
普通の中学生・高校生・大学生、そして社会人では営業職を経由し、誰かに見せるための文章など全く書いて来ませんでした。
このnoteを書き始めるのも、最初は1記事書くのに数時間や半日、長い時は1日かかっていました。
しかし、やってみると気付けること学べることは思ったよりも多かったです。
本当に思考がクリアになり、自分の中の理論や考えが明確になり、パーツとしてバラバラに存在していた理論や学び、気付きや感覚、経験や意見が、1つの構築物となって表現することが出来るようになってくるのです。
あたかもレゴブロックから恐竜が出来上がるように。
(昨日娘につくってあげてました)
ついでに、文字を書くというスキルもついてきました。
(もうすぐ100記事になろうかとしていますが、自分とテーマ決めから構成、アウトプットまで随分と早くなってきたと思います)
批判の練習
繰り返しになりますが、自分に批判的であるのは最初は疲れます。
焦らず、少しずつやってみてください。
そして、可能ならば一人ではなく、仲間やパートナーやコーチなどと一緒にやってみることを強くオススメします。