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「考える」って生きるってこと。

つよみーラジオの4回目はこちら。

僕は、考えるのが好きです。四六時中何かを考えています。
人間のこと、世界のこと、強みのこと、自分のこと。
考えるとは何なのかと考えるぐらい。

そもそも「考える」とは、なんでしょうか。
このテーマの議論は専門家の方々の大好物なので、学術的なことではなく『西村にとっての考える』とは何かを書き記してみます。

脳みそを使う

世の中には色んな考えるがあります。

単純に記憶を辿り思い出すことも考えるでしょうし、限られた情報から回答を導くことも考えるです。
何らかのインプット(例えば授業を受ける、セミナーを聴く、本を読む等)を咀嚼して、理解することも考えるといえるかもしれません。


考える

与えられた情報に対して、単純な情報の取得ではなくて何らかの解釈や咀嚼を必要とする場合に、その意味や発信者の意図を「考える」必要がある。

多くの場合、これを「考える」という言葉で使っていることが多いのではないでしょうか。

お母さんがこどもに「ちゃんと考えなさい」という発言や、先生が生徒に「考えてください」というのは、発信者(お母さんや先生)の意図を汲み取り、何を言われているのか理解しなさいという事です。

だからこそ、僕が「考えてみて下さい」と誰かに言うと、その人は「正解は何なのだろう?」と僕が望んでいる答えを探し始めることがあります。

ただ、僕はほとんどこの意味で考えるを使うことはないです。



自問自答する

僕が「考えてみて下さい」という言葉を発する時は、基本的に「自問自答してみてください」という意味です。

僕にとって考えるとは、何らかの問いかけに対して自分にとっての答えを探し出す行為。
「理解する」は答えが外部にあるのに対して「自問自答する」は内部にあります。

この「考える」という行為には、そもそも明確な正解がありません。

自分と向き合い、自分の中にある自分なりの答えを探し出す行為。

明確な正解がないので、どこまで考えるか「思考の体力」が問われる行為でもあります。

なぜ?なぜ?なぜ?本当に?いつから?誰が?どうやって?自分なりの答えに辿り着くまで、延々と掘り下げ続けます。


かんじえる

これは「自分自身がある事柄・事情・体験などを受け取り、それを感じ、それを考え、それを飲み込む」という行為です。

僕はそれを一言で「考える」という言葉で伝えるのですが、一般的な考えると解釈が違いすぎて伝わらないかもしれません。

なので、僕はそれを「かんじえる」という言葉で伝えるようにしました。

みなさん、日々色々なことをかんじえてみてください。


マラソンの伴走者

正解がない事について「自分なりの答え」を探し出すのはゴールのないマラソンを走っている様なものなので、人によっては結構しんどいです。

しかしこれをやらない限りは、自分のことを理解したり、本当の想いに気付いたり、進みたい方向が見えたりと、自分に気付くのは難しいかもしれません。
僕は内省という才能を持っているので、この行為がただただ好きです。
誰に強制されるでもなく、勝手にやっています。

だからこそ、誰かの「自問自答」を支え、一緒に楽しく諦めずに考え続けることをサポートすることができます。

もしお困りの方がいれば、いつでもご相談ください。

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西村太嘉
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