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額のメガネ

こんにちは。 強み診断士のツヨミンです。

今日はちょっと昔の言葉から。

探春

戴益の探春という詩があります。

盡日尋春不見春
芒鞵踏遍隴頭雲
歸來適過梅花下
春在枝頭已十分

漢詩鑑賞より

これをもうちょっと読みやすく分かりやすくするとこんなカンジ。

尽日春を尋ねて春を得ず。茫鞋ぼうあい踏み遍あまねし隴頭ろうとうの雲。還り来って却かえって梅花の下を過ぐれば、春は枝頭に在って既すでに十分

般若心経講義より

もっと分かりやすくすると

咲いた咲いたに、ついうかされて、花を尋ねて西また東、草鞋わらじ切らして帰って見れば、家じゃ梅めが笑ってる。

という詩になります。

足元にある

どっかに「春はないか」と色々遠くまで歩いて探し回ったけど、見つからなかった。
疲れて家に帰ってみたら梅のつぼみがあって「もう春の気配来てますやん」となったという話。

これを単純に季節の詩と感じることも出来るでしょうが、大切なものは足元にあるという教えとして読むことも出来る。

自分が追い求めているものや欲しているものは、案外身近にある。

僕は、常にこの詩を「答えは自分の中にある」という意味で味わうことが多いです。
色んな人の話を聞いたり、勉強したりしても、結局全ての答えは自分の中にある。決して外を色々と探した所で見つからない。

あたかも、額にあるメガネを探してまわる人の様に見つからない。

ちなみに、僕はスマホを握りしめたままカフェで店員さんに「スマホ忘れてなかったですか?」と聞いて「お持ちですが」と言われて大恥をかいたことがあります。(意味不明)

ヒントは外にある

なので、自分の中に問うことが何にしても大切。
ですが、その問いをたてるヒントは外にあると思うのです。

色んなことを見聞きして、経験して、やってみて、その事から何かを自分なりに考えて気づく。

だから、やっぱり春を探して西へ東へ行くことも大事なことだと。

お釈迦さんは、29歳から35歳まで苦行と呼ばれる厳しい辛い修行を重ねた結果、スジャータに乳粥を貰って「あ、これ過度の苦行は意味ないわ」と気づいてやめた。

だからといって「苦行に意味はないよ。やっても無駄だよ」というのは少し乱暴だと。

それってやっぱり1回やってみたから分かることだと思うんですよね。

その経験から何も学ばず、考えず、気づかず、問いを立てず、同じことを繰り返すのはちょっともったいないとは思いますが。

まぁこれはFeelingの人間の事例なんで、Thinkingのタイプの人からすればまた違った捉え方になるでしょう。

みなさんはどう思いますか?


今年も色んなことに自分の心に従って試しながら、人間について何かに気付いていきます。


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西村太嘉
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