五十九話 謀反
九五年一月六日、ついに謀反が起きた。ワイキキでの小さな衝突が発端となり、王政復古を目指す先住布哇人の怒りが爆発したのだ。
徒手空拳、下剋上、武装蜂起。
政府軍にも死者が出る程の勢い。
リリウオカラニ女王は期待の反面、焦り狂った。
「政府軍は実質アメリカ軍。勝てるわけない。最悪、私のせいにされる・・・」
布哇八十五年の歴史が今途絶えようとしていることに、恐れ慄く。
今となっては、謀反者のリーダー、ロバート・ウィリアム・ウィルコックスの奇跡の勝利を願うしかないが、「例え、ミラクルが起きて勝ったとしても、アメリカが黙っているだろうか」という不安が頭を離れない。
自らが作詞・作曲した『アロハ・オエ』と対極の情景が浮かぶ。例えるなら、業火に見舞われ、最期を迎える織田信長であり、本能寺でその時舞った楽曲こそが、適切なBGMだった。
二週間後、先住布哇人ロバート・ウィリアム・ウィルコックス一派は、奮戦虚しく取り押さえられ、鎮圧された。
そして、恐れていたことが現実に。
反乱を知りながら黙っていたことを問題視され、リリウオカラニ女王は反逆罪で捕まる。また、この謀反により、多くの先住ハワイ人が虐殺されたという。
二十二日、リリウオカラニ女王は約二百人の命と引き換えに王位請求を断念。今後は布哇王国ではなく布哇共和国への忠誠心を示し、一般人として余生を送る旨、宣言書に署名した。
カメハメハ大王によって起こった布哇王国は、この時点で事実上消滅し、布哇共和国となる。また、最後の布哇王となったリリウオカラニ女王は二月二七日、反乱に加担した罪で五千ドルの罰金と五年間の重労働の判決を受けたが、九月六日に釈放された。
当時の日本は、日清戦争には勝利したものの露西亜帝国の脅威にさらされ、布哇同様の国の独立そのものが危ぶまれる状態が続いていた。
それでも、九七年四月七日、島村久駐布哇公使は、大隈重信外相に軍艦派遣を要請し、二十日、軍艦「浪速」を派遣。 五月十一日、島村公使は布哇外相へ日本移民上陸拒絶に関して抗議し、翌年七月二七日、賠償金七万五千ドルで解決している。
また、 六月十七日、星亨駐米公使が、アメリカによる布哇併合阻止のため、移民問題を名目にハワイ占領の意見を具申し、二十一日には、大隈外相が抗議。米・マッキンリー大統領に「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」と言わしめる。この結果、二十五日、米国務長官が、星公使に、日本の正当な権益は阻害されないと回答した。
これら日本の抵抗は、隈板内閣の早い瓦解もあり大事には至らなかった。しかし、布哇王国自体の瓦解はどうしようもなく、一九〇八年の高平・ルート協定で日本はアメリカの布哇併合を承認することとなる。
布哇併合の煽りを喰らったのは支那人だった。併合の弊害により、布哇出禁となる。理由は、米本土の支那人排斥法が適用されためだった。
一方、日本人は、既存の労働契約が併合により無効化され、過酷な派遣契約から解放される。その結果、一九〇八年までに三人以上が米本土へ移住。これが米本土で、日本人排斥運動につながり、一九〇六年にはサンフランシスコで日本人学童隔離問題が起きた。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領によって翌年撤回されたが、その条件として布哇経由での米本土移民が禁止になった。
逆に、アメリカからの布哇移住は加速する。これを機に、新たなフロンティアを布哇他、太平洋の島々に求めることになる。シーパワー国家として、広大な海洋帝国建設の足掛かりを掴んだのだ。