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百十五話 黄河渡河

 第一期検閲を終えた日の夜半、突如、敵前渡河の命令が下った。
 河川は、かつて寺尾兵長も同様に渡ったいう、黄河である。
 そして、翌日の払暁を待ち、対岸にある國府軍の陣地に乗り込むのだ。

 一般兵、特に新兵にとっては青天の霹靂以外何物でもなかったが、何を隠そう連隊は、第一号作戦の序章「河南作戦」に突入していた。
 すでに、黄河には、鉄道隊と工兵隊が夜影に乗じて潜入し、橋を架けてあるらしい。橋は、丸太を組んで作られたもので、何個師団でも渡れるという。

 連隊が出動して以来、各部隊は移動や演習を繰り返していた。それが、黄河対岸にいる國府軍を眩惑する陽動作戦だったとわかり、どよめきが起きる。特に、これまでわけもわからず彷徨さまよい、露営を重ねた来た歩兵の士気は大いに盛り上がり、中には雄叫びを上げる者もいた。
 初陣が目前となった浅井もけだし同様。意気昂揚ハンパない。小心者ゆえ、心の中で雄叫びを上るに留めたが、何せあの悠久の大黄河を敵前渡河するというのだから無理もなかった。
 「これぞ男子の本懐。これで痺れず、何で痺れるというのだ」
 浅井は、目に泪を浮かべていた。

 また、これにより、昨日の第一期検閲の検証も忘れられるのではないか・・・とも思う。そう考えると一石二鳥。なおさら好都合でタイミングがいい。
 但し、下手したら明朝死ぬ可能性も大なのだが、浅井は調子よく忘れていた。
 
 翌早暁、浅井の属する第一連隊と第二、第三連隊の二十七師団下、総勢約一万名の将兵は、黄河に面して並列待機した。
 組まれた丸太は想像以上に細い。その一本一本で作られた橋の上に、奔流の飛沫が撥ね上がっている。流れが速いのだ。
 
 「工兵隊はどうやって作ったのだろう・・・。それも一夜で」
 浅井は固まった。何もかも驚きを隠せなかった。
 この細木で組まれた橋の上を浅井ら歩兵は征くのだ。

 正直心許ない。しかし、道は行く一択。
 前を征く歩兵に続き、浅井は歩を進める。
 橋は、三階建ての建物くらいの高さ。
 兵が渡っているので当然だが、渡ってなくとも、ゆらゆら揺れる。

 不意に下を見る。
 何百本もの杭。十艘以上の焼玉船が、流れに逆らい支柱を支えていた。
 船は、金で雇われた労力クーリーの支那船で、彼らも工兵隊と橋ゲタを支えている。兵が渡り終えれば、共に橋を壊すのだ。

 「嗚呼ああァーーーーー!」
 動物的な野太い悲鳴。断末魔のような叫び声が聞こえた。
 一寸先はまさに闇だ。
 先の征く兵が、板の上から落ちている。
 浅井は驚き、視線を凝らすと、落ちては闇に呑まれ、濁流に水飛沫を盾ながら消えて逝く。

 足がすくんだ。
 魔が差した。
 兎に角、前の兵に離れるぬようついて行かねば――渡河直前、その一念のみを心に誓ったが、ここに来て「前の兵が落ちたらどうしよう・・・」という新たな不安が頭を過る。
 しかし、一寸たりとも歩を止めるはない。浅井だけでなく、誰もが心のふんどしを締め直している。
 撥ね上がる奔流に足を掬われぬよう、一歩一歩歯を食いしばり、懸命に歩を進める。
 何もかもが想定外の中、敵襲がないことだけが幸いだった。

 「頑張れよォーーー!!!」
 下の方から、工兵隊の声がした。
 戦闘に向かう歩兵への声援だ。
 「おおーーーー!!」「任せとけーーー!」
 古兵が、応じている。
 思わず新兵たちも「有難う!」と叫んだ。
 なお、浅井に至っては、この状況下どこにそんな余裕があったのか、感極まって泪まで流していた。

 最後の一歩が、地を踏んだ。
 浅井は、無事渡り切った。
 放心。 
 「後方だったから上手く渡れました」
 安堵感から、浅井は傍にいた兵に声を掛けた。兵も我に返り苦笑いしていた。

 前日、あれほどの大失態を犯したにもかかわらず、第一期検閲を終え、本日付で昇進していた浅井。星二つの襟章を付け、黄河を敵前渡河したことで、名実ともに「のらくろ一等兵」になったと自画自賛&誰ふり構わず自慢したい気持ちで一杯になっていた。

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