五十二話 漂流教室
西へ東へどんぶらこー、どんぶらこー。
葛西ら移民たち一家を乗せたぶえのすあいれす丸は、もう幾日も波に揺られている。
目指すは、遙かなる新天地・伯剌西爾。あまりの遠さや先が見えぬ不安から、お互いの不平不満が溜まりつつあった。
その最たるものは、暑い寒いの不満である。
内地を離れてからというもの、船は西南へ進む。当然、南へ行けば行くほど暑くなり、船内は蒸し風呂と化し、虫が湧いた。そうなると例え台風や豪雨に遭おうとも甲板に出て外気に触れたくなる。しかし、船上は893者が独占し、一般移民は上がりにくかった。ましてや、葛西らのように、893金融から逃亡中の者は、なおさらである。サウナ状態の中、ひたすら耐えるしかない。
一方、地獄のような暑さが続いたかと思うと、どういう風の吹き回しか、夜など急に冷え込む時があった。そういう時は、一時的に893者たちが上から降りてくるので、ガクブル状態で葛西らは甲板に出た。寒い上に、波が荒れた時など、海に放り出されそうになる。まだ、遙か先だが、英領南アフリカの喜望峰など、南極付近だ。
「伯剌西爾辿り着く前に確実死ぬ」
まったくもって生きた心地がしなかった。
そんなこんなで、移民たちの人心は荒み、船内の風紀は乱れに乱れた。
結果、ホモたちの不倫がおきた。あまりの寒暖差、波のアップダウンの激しさが、内面を揺り動かせたのだろう。己がホモやゲイであることを告白。スコールの後、海上に架かる虹を見ては、互いにLGBTであることを打ち明けた。
これら大人たちの不祥事は、後に遠山の金さんか大岡越前的な人が現れ、
衆道の名のもと裁かれた。秩序を乱した当該のホモとLGBTは、切腹させられることとなる。その後、供養のため、海に放りこまれ、鮫やお魚たちの餌になったらしい。
一方、子供たちはろくな遊び場もなく、野生化していた。誰よりも常識人であった葛西も例外ではない。船底にあった闘技場で、猪木少年やコンデ・コマ少年、嘉納収五郎少年や大山少年と遭い、無理矢理バリトゥード形式の対MANを張らされた。
最初は「やる気ねぇよ、、、」と困惑していた葛西であったが、893者が満座で見守り、賭けの対象にもなっていたためやるしかなく、しかもやってみたら「意外に強え」となって日々闘うこととなった。
立会人兼審判は、ティアドロップのサングラスかけ、赤茶けた錆びた帽子をかぶった三宅監督。南米のリトルリーグの監督で、元は荒川で自転車屋の親父をしていた。そのためか、暑気払いで行われる船上バーベキューの際、「オメーの焼いた肉は自転車のチューブみてーに固ぇぞ!」と餓鬼らを叱るのが常だった。
また、この時のちのビジネスパートナーとなる松井と出逢った。松井は元々石川でソフトボールをやっていたが、少年野球大会の際、三宅監督の目に止まり、「大リーグ(南米)行ける」の一言でスカウトされたらしい。野球しかしていなかったため、字が読めず、格闘経験もなかったが、ナチュラルパワーだけで闘い、闘技場で優勝してしまった。トーナメントの過程で、二、三人植物人間にして、大人たちを慌てさせたこともある。
葛西にとって船の長旅より、実はこっちの方がキツかった。猪木少年に人前でコブラツイストをくらったり、ときには負けてはならぬとバルコニーダイブを敢行したこともあった。
外部環境的にも内部環境的にも死と隣り合わせだったため、時間が過ぎるのが早く感じられた。
約一月半で伯剌西爾サントス港に着く。
当初、最低数年はかかると覚悟していただけに、拍子抜けした。呆気にとられたと言っていい。ただ、実際何年もかかったら、流石に命はなかっただろう。
物理的な熱気が充満する中、日々繰り返された船底闘技場での死闘や蛮行。肉体や骨がぶつかる音が木霊し、呻きや怒号が鳴り響く。
思い返すに、生きていることが奇跡だった。
一方、これらの経験が、今後の人生の荒波を乗り切る上で、大いに活きることとなる。南米アマゾネスとの死合、トムとのLGBT世界ヘビー級タイトルマッチ王座決定戦etc・・・。
なお、ぶえのすあいれす丸の中には、少数ではあるが知的な者もいた。
ブラジルで在日移民のために農教育を行おうとしていたクラーク先生は、寺小屋ならぬ船小屋を開き、農薬やコンバイン、人糞の扱い方を教えていた。将来の金の匂いを嗅ぎ取った大人たちが、それなりに真剣に学んでいた。
また、無学の子供たちを救おうと、読み書きやそろばん、修身などを教える元教諭もいた。まだ二十代で、何しにブラジルへ行くのか全くの謎だった。葛西も親に言われて一回だけ授業を受けたことがある。元新米教諭は、念仏のように九九を教え、こいつらに無駄だと悟った後、おもむろに「人間関係に疲れてここに来た」と語った。そして「ここは漂流教室だ」と言い、ブラジル移民は明治四十一(一九〇八)年四月に始まったこと、その時皇国殖民会社とサンパウロ州政府との契約でコーヒー耕地就労のため、七百八十一人が渡航したことを話した。
さらに「われわれ先輩の立派さ、優秀さもあり、ブラジルは日本移民を侵略者ではなく、協力者もとい共存者として迎えた。その期待に応え、先輩方は原生林を開拓し、コーヒーを一大産業とし、さらには街を興した。内地が関東大震災や昭和恐慌で苦しむ中、今我が國のブラジル移民は全盛期を迎えている。ともに新天地で花咲かせようではないか」と涙ながらに鼓舞した。壮大に高飛びする自分に酔っているようでもあった。
急な演説な戸惑いつつも、葛西を含む無知な少年たちは拍手した。なんとなく無事到着し、楽しくやっていけそうな気がしたからだ。
ブラジルまでに寄港した香港、西貢、新嘉玻、古倫母、アフリカ各地、また通った近くの国や島など、いずれもことごとく欧米の領土だった。ブラジルも一五〇〇年から約四百年に渡りポルトガルのものだったため、ポルトガル語が使われている。
大日本帝國の移民は、欧米とは次元が違う。八百万の神を尊重し、八紘一宇の理念に基づく移民政策であることが理解できた。
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