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経験ゼロから戯曲を書くまでのこと1

最初はおっかなびっくりだった


昨年度、美学校の講座を受講していた。どんな人でも受講はできるオルタナティブな学校だ。そのはずだが、講師は総じてイカツイ、現役アーティストなんて何も教えてくれなそう、受講生もハイブロウで仲間に入れなそう。受講した「劇のやめ方」講師の篠田千明氏は海外でも実績ある演出家で、初心者向きじゃない。うーん身の程知らずかも…しかしそれでも”芸術家”が見ている世界のあり様、想像ではリアルライフと劇的空間が二重写しになっているような…感覚を知りたかった。結果的には一年後、素人が一本戯曲を書き上げて、試演するところまで引っ張ってもらった…篠田氏は師匠だし、もうそれは感謝しかない。

講座は参考資料を交え、それぞれ抱えている人間関係や仕事、悪癖、我執や恐怖など”やめたい”のトピックスを語り合う場になっていた。ワークショップみたいなこともあった。私自身は方向性がわからず的外れなことばかり発言したが、案外核心を把握していたと思う。どんなケースでも人間関係の場=劇の場ということと仮定すると、急な放棄や離脱はリスクが高い。孤独は危険だし、経済的に困窮する可能性さえある。リスクヘッジをしながら、苦しい関係性だけに対処する方法をさがせればいい。現実に対しても、リハーサルなどの演劇の手法がライフハック的に還元できるのか、ということだ。
普段話さないような自分の感情や感覚について人に話すこと、モヤモヤした考えを言語化することは演劇的で、リアルライフでやめたい劇をやめることに有効じゃないか、ということにはなる。 

(試写会で中断 ラース・フォン・トリアーの新作「キングダム」319分って長っ!つづく)

350メートルの道を劇にする

最初に書いたものは、自宅から最寄り駅に向かう途中にある350メートルの直線道路に関する独白だった。

工場横にある道で、往路は右手、復路は左手に延々無機質な壁が続く。向かい側は広大な工場の駐車場と公共施設しかない。下は暗渠になっており、701枚のコンクリートの板でフタをされているので、自転車が通るとガタガタ、楽器のようになるのだ。仕事に行くとき、帰るとき、否応なしに歩くその道の通過所要時間は徒歩でおよそ6分。

あまりにも無機質な道なので、つい考え事をしてしまう。しかもあまり明るいトピックスを引き出さないので、反省っぽい思考に陥りがちだった。ただの生活道路なのだが、どこかに行くには通過しなくてはならない、逃れられない空間だ。そして目的地にはなりえない。視界をコンクリートに囲まれて退屈極まりない。毎日二度も歩くことは、何の罰なのかと考えてしまう。この試練を凌ぐことで私は何かを暗に期待しているんだろうか。この道をモチーフに考え始めたら、ここを毎日歩くこと、そう辛くはないが年月を重ねるうちに心に降り積もる苦しさ、薄ら試練の350メートル×2とはいったいなんなのだろうか…という疑問が生まれた。

ところで、毎日の往復ですれ違う人は、徒歩だったり自転車だったりするが、ハイライズのマンション群と倉庫街を繋ぐ道なので、外見も職業も所得も多様性に富んでいる。ひどく目立つ人もいる。記憶の中で醸成された彼らはみんな奇妙な印象だ。その人たちの心の声と、道を歩く主人公が道を描写する言葉が混在するような形で短い戯曲のようなものを書いた。

”工場横の道”は、自分ではすごく気に入っていて、上演こそしなかったけれど、こういうモノが書きたかったんだなと、思った。
発表する機会をもらったので、幹になる道の描写の部分を集団朗読してもらった。複数の人の声で読まれることで、書いた文字がコトバになって、空中に放たれることに感動した。 
(2へつづく…)