波止場で@SCOOL
アーバンベアとはどんな熊なのか、目撃情報や暗視カメラなどで情報を集めて分析する、雑食、町場育ちで車の走行音や人の声を恐れない。オレンジのベスト、銃をもった人、檻や罠、犬に警戒する、電気柵は穴を掘って回避、民家や倉庫、果樹園には食物があると認識………。
人間はどういう生き物なのか、言葉を話す、雑食、リーダーがいる群れで組織的に狩りをする、雌雄で社会的役割が分かれている傾向、強い群れには規律がある。他の群れの個体と接触したら警戒する、協力することもあるが、敵意の確認行動(挨拶、握手、ハグ、各種質問、宣誓書、契約書、人質、手付金)を行う。群れに同調しない個体、タブーを破った個体は排除される。
「on a docs 波止場で」@SCOOL スクールは実に手頃な空間で、近距離な感じの関係者がよく使っている空間で。毎月くらい来てる。
劇中にキアロスタミの映画を撮影中に加瀬亮がタクシーの運転手と握手をしてくれと言われて「日本人は握手をしない」と言った、というセリフがあった。劇を見ながら、私の脳の一部はアイドリングのようにアーバンベアのことを考えていた。
公演というよりは、演劇的時間を構築する実験みたいな90分、最近境界線上にある表現に突き当たることが多い傾向。村川拓也演出構成の「仕事と働くことことを演じる2」もそうだった。これは仕事の話をその仕事をしている本人に演じてもらうという企画で………(続きは後述)
メモを含めどうやって構築したかも展示。初期段階では複数いる作者が往復書簡をして、そこから要素を立ち上げていった。メモとか台本とか往復書簡とか、各種原材料が提示してある、最終到達点までの道のりまで提示するのが面白い。出演者全員が作者でもあり、誰かの脚本を上演する上流下流の関係性ではなく、全員が関わる創作をさぐっているちゅうことなのかな。
開演すぐ情報のインプットは、どこかを移動している映像と、室内を映した朗読する映像と生の俳優の朗読のトリプルで、そのどれも完璧には追えず、全部なんとなくになってしまう。敢えてなんとなくなのか。
おそらくは往復書簡でやり取りされた誰かの、重苦しい生独白、子ども時代のこととか、何かについての主観的な意見とか、感情とか、苦悩とか、パンの包装紙が遠目にはカニに見えるとかといった………。生きていて獲得したイメージ、ノイズ、反応、事件が、浮いたり沈んだりして現れる、書き手にとってどのくらいのインパクトだったのか、よくわからないがそれを見ている、川の流れを眺めるように。人が演劇を見たがるのは、どうせ凡百で相対的には退屈でがっかりな、でも唯一の自分の一生と、他人のそれを比較して、悲嘆したり安心したりするのが好きだからなのか。演劇的時間を作りたい人も、つまり人生に流れる時間の実態を知りたい人たちなのかもしれない。そういえばとある「人気者」に「時間は私の人生だからあなたに費やす義理はない」と立ち話を断られたことがあったな。人生は時間、ある意味。
往復書簡に描かれたことごとから、作者たちが気になったことを抜き出し、それの主語が「まさお」になった「まさおカード」も登場する。それは格言か、聖書の言葉のように、繰り返し読み上げられたり、ディスプレイ表示されたりする。80年代にはやったいがらしみきおのネクラトピアに出てきた茄子の名前が「まさお」だったなあ。
特別な言葉や主張があるわけじゃない。救世主の波乱にとんだ人生を追体験することで、自分の人生に意味を持たせる、というわけでもない。観客はむしろ、ますます迷い、他人なんて、世の中なんてなんだかわからないよねえ、という気持ちになる。
知人の葬式でカトリックの神父が言った「私たちの宗教では、全能の神を信じている人間の魂は肉体が滅びたあとも永遠に生きる、と信じられています」関係者はそうなのか。それで、あなたの神を信じていない人の魂は永遠じゃないが、こんな主体を永遠に継続することなんて、献金の根拠にはならないよ。
演劇は宗教じゃないんだから、じゃあ、なんなんだ?
この演劇的な時間ではお話は完結しない。モチーフになっていた、ハムレット、その辺の人の環境でもハムレット的なことあるね、実はインパクトあるよね、みたいな因果律があるにはある。がっつり納まりのいい流れは今や低レベルな解決なのか。何を観たかったんだろう、そもそも。どの段取りまでたどり着いたら劇は終わるのか、知りたいなあと思っていた。
段どりはあと3つ、16分後に終了です。
ところで、劇中に突如配達に来た宅配便は仕込み?当たり前のように出演者が対応して、宅配便の到着が劇中に巻き取られる感じは面白かった。リアルが作り物の時間の中に混入する、あの宅配が故意だったとしたら、なかなか興味深い。作り物の時間が堅牢だから、淡泊だから、なんとなく持ち直してしまったのか、現実が乱入する演劇っていうのは、コツがあるかもな。