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時間は命なのか、決闘なのか

時間は命と同義だからあなたのために割く気はない…そうまで過剰な言葉で5分の面談を断られるなんて…心外にもほどがある。喧嘩売ってんだろうが、買う暇もない。賢ければ言われる前に自粛して「時間をくれ」なんて言わないんだろう。向こうは失念しているが、対面であるべき至極真っ当な理由があったのだ。

あろうことかそいつは「ビックマン」に憧れている。マレーシアの森の民「プナン」のリーダーを示す名称で、プナンでは無欲でひたすら与える人が尊敬される。21世紀の社会では徹底したギバーであることが、真の豊かさへの近道だと…成功への?ビックマンは尊敬を集めるが清貧を極めるという。究極の選択、人気と素寒貧がセット。

先日、現代美術の作家大岩雄典さんのインスタレーションに行ってみた。それは訪問者と「決闘」をするという内容で、鑑賞者の心を揺らす装置が用意されていた。ある契約があり、それを締結すると、アーティストとちょっとだけリスクがある勝負をすることになる。さて、するかしないか、つまり鑑賞者の立場から一歩出て、行動し、アーティストと関わって作品の一部になるのかどうか。その場に対してどう「ある」べきかを鑑賞者は自分で決める。傍観者から当事者へのジャンプ…演劇的と言われるゆえん。

ミソは表現の要素がなかったことで、行動すれば作品に参加できるというシンプルさにあると思った。ここで絵を描くとか、何か作るという要素が入ると、美術の素養がない場合に参加者に優劣が出てくる。丸ひとつ満足に描けない人間でも社会に挑戦するちょっと危険な冒険にフェアに参加できうる。同じ空間にいて、行動して仲間に入ればVRのグリットみたいに社会のへりを実感できる仕掛け、且つ仲間に入らなければこの場での疎外感が味わえる、両義的なへりが存在する設計で…へえ…すご、面白かった。

朝いちに開廊前待機という荒業に出たんだけど、まだ他に誰もいなかったので、アーティストと全然焦点の定まらない話をした。芸術家の尊い時間を幼稚なぬるい会話で無駄遣い。大岩さんは気さくに説明してくれました。でも、ああ…御免なさいよう…私ごときが申し訳ないのは知っているのよう、でも質問したいことが多々あって。

なんか人の時間を使うことに罪悪感しかない。仕事がらみなら、媒体があるなら、私の価値はあんまり関係ないけど。私用で人と会うのが怖い。あの時に私の自己評価は氷点下になっていて、私なんかと話す時間は無味乾燥で命の無駄遣いなんでしょう、私にはわかんないけど。