「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第一章 館林(その3)
1
普段どおり、制服を着て8時すぎに家をでた。東から射す新鮮な光が熱っぽく僕を包みこむ。
今朝も母は素っ気なかったが、黙ってトーストにベーコンエッグをつけてくれた。だが、カバンには着替えとお泊りセット、そしてぬいぐるみが入っていた。僕はすこし胸が痛んだ。
いつものように、小次郎に朝食を持っていった。牛しゃぶごはんだったので、皿までペロペロなめていた。
なにかを察知されたのか、玄関を出るとき、うしろからワンワンと怒声を浴びせられた。
家を出てから2つめの交差点で足をとめた。ちらとふり返り、いつもと逆の右に曲がる。
学校に背をむけ、あの日と同じように練馬駅にむかって歩いた。
僕を引っ張ってくれた狛音の背中はなく、自分ひとりだ。自分以外に頼れるひとはいない。同じ制服とすれ違うとき、緊張で頬がこわばった。
スーツのサラリーマンにまぎれ、駅西口の階段をのぼる。改札機にスイカをタッチすると、残高が37円しかなかったので、なけなしの3000円をチャージした。
ホームには電車を待つ列ができていた。列の最後尾につくと、ホームの屋根の下に見えるせまい空をあおいだ。
窓ガラスに映った空のように透明感があり、すぐにひび割れてしまいそうな空だった。
このまま本当に電車に乗っていいのだろうか? 一瞬、ゆるぎそうになった気持ちを、轟音を立ててやってきたシルバーの車体が蹴散らした。
車内はぎゅうぎゅうづめで、つり革につかまっていなくても立っていられた。ぬいぐるみが入ったカバンをじっと抱いていた。あふれそうになる不安を抑えこむように。
池袋駅のホームにはき出される。柱のかげで乗り換えアプリをチェックすると、気を引きしめ、関ヶ原の合戦のような構内へ出陣した。
飛んでいる蚊を追うように、案内板を追ってあちこち目が泳ぎ、スマホをもつ手が汗ばんだ。
JRの乗り場につくと、湘南新宿ラインに飛び乗った。下りの電車は余裕があってボックス席に座れた。
池袋から乗り換えの久喜まで48分、そこから目的地の館林まで34分だ。僕はぐったりとシートに身をあずけた。
窓のそとには代わり映えのしないビルが流れている。これから向かう館林のイメージを頭に浮かべた。
とにかく暑いまちというイメージ。毎年のように、熊谷とデッドヒートを繰り広げているのをニュースで見かけた。
今年は東京もやたらに暑いが、たしか館林は連日のように35度を超えていたはずだ。
ポケットからスマホを取り出し、きのうのLINEを読み返した。館林で狛音は〈待ってる〉という。
待ってくれている人がいるというのは心強いものだ。自分の居場所がちゃんとあって、予約席の札がおいてあるみたいだった。
はやく彼女に会いたかった。家に居場所がなくて飛び出したという彼女も、いま同じ気持ちでいてくれているのだろうか。
大宮をすぎると、窓の景色はのどかな畑や民家に変わっていった。駅で停車するたび、くしの歯が欠けるように乗客がおりていく。
昨夜は神経が高ぶり一睡もできなかった。電車に揺られながら、いつのまにか眠りに落ちた。
まどろみのなか目を開けたときには、久喜駅のホームで、僕はあわてて飛びおりた。
寝ぼけまなこで東武伊勢崎線に乗り換える。ロングシートでうつらうつらして、今度は館林のひとつ手前の茂林寺で目が覚めた。
館林駅の東口を出ると、分厚い熱風が襲いかかってきた。肌が焼けるように熱い。砂漠の国に降り立ったみたいだ。
駅前のロータリー広場が陽炎でゆれていた。そのなかに異形の影がぼんやりと見えた。
近づいてみると、ギョロリとした大きな目。閻魔大王のような狸の像が巨大な金玉で行く手をふさいでいた。
かたわらでは日本髪の狸の女将が3つ子の狸とともに、地獄の釜がゆで上がるのをいまかいまかと待っていた。
狸のとなりには温度計が立っており、午前11時なのに「只今の気温34℃」と書いてあった。その下に札があり、つぎのように警告していた。
34度は「厳重警戒」、あと1度で「危険」である。午後のことを思うと、熱中症でもないのに頭がくらくらした。
そのとき、温度計のてっぺんが目に入った。釜から手足を出した頭でっかちの狸の妖怪がいて、左右に異様に離れた目で下界を監視していた。
思わず背をむけると、レトロな洋館風の白い駅舎が見えた。
壁にかかった大時計の針は歪んでおり、その下のアーチ窓には燃える空が映っていた。恐ろしいところに来てしまったと心細くなったが、駅のそばにコンビニを見つけて少しほっとした。
こじんまりとしたビルが建ちならぶ並木通りが、駅からまっすぐのびていた。一見すると、どこにでもある地方都市のようだ。
スマホの地図アプリを見ながら、狛音から聞いた住所をさがす。彼女みたいに連れもどされないようGPSは切っておいた。
交差点を左に折れ、歩道のない通りに入っていく。くたびれた商店が軒をつらねており、車が風をきって横を走りすぎた。なんどか角を曲がり、むっとする住宅街に入る。
長い時間、住宅街をうろついていた。現在地がわからず、方角もチンプンカンプンだった。
いたるところに寺や神社を見かけ、曲がり角から狸の妖怪がふと顔を出しているような気がした。
陽射しはますます強くなり、額からとめどなく汗が流れた。アプリで気温を見ると、37度と表示されていた。とっくに危険水域を越えていた。
狛音の実家とおぼしき場所にたどり着いたが、刑務所みたいな塀が延々とつづいていた。
平屋建てらしく、ときおり塀の上から鬼瓦がのぞき、庭木の緑が入道雲のように立ちのぼっているのが見えた。想像のななめ上をいく豪邸だった。
頭上から太陽が照りつけ、からだじゅうから汗が吹き出した。強い日光で白くなったアスファルトに焼きついた、自分の影とにらめっこしながら歩いた。
しだいに足がもつれ、ふくらはぎがピクピクし始める。視野がせまくなり、ロープのような細い道を綱渡りしているように思えてくる。からだは異常に熱く、頭がぐらんぐらんと揺れた。
一瞬、目の前に空がひろがったかと思うと、鉄板のような地面で背中を強く叩かれた。まっ白な視界がすうっと暗くなる。
2
まぶたを開けても暗闇がつづいていた。夏の空の残像がのこっていたが、もう夜になったのだろうか。
地面に弾力があり、自分が部屋にいて、ベッドに横たわっているのがわかる。
鈍い頭をあげ、ベッドのふちに腰かけた。背中に刺すような痛みが走り、路上で倒れたのだと思い出す。たしか館林のお屋敷のまわりを歩いていたはずだ。
手をついて立ちあがり、よろよろと歩き出した。足の裏に柔らかいじゅうたんの感触がある。
カタツムリの触角のように腕をのばし、壁を探ってみたが、電灯のスイッチはどこにも見つからなかった。
疲れて腕をおろしたとき、ドアノブらしきものに手が触れた。まわしてみるがビクともしなかった。
とたん恐怖に駆られ、声をあげた。
「すみません、誰かいませんか~!」
反応はなかった。ノブを押したり引いたりしながら、くり返し叫んだ。手汗でノブが空まわりした。
ガチャガチャと数回、悪あがきしたあと、おめおめとベッドに引き返す。二度寝して、悪い夢なら覚ましてしまおうと思った。
足の小指になにか当たった。背中を気づかいながら手をのばすとひんやりする。金属の小笛のようだった。これを鳴らせば、助けを呼べるかもしれない。
しかし、吹けども吹けどもかすかに息が漏れるだけで、音は鳴らなかった。かわりに心臓の音が部屋じゅうにこだました。
このまま誰も来なかったらどうしよう。手から笛がすべり落ち、足の親指にコツンと当たる。僕はその場にへたりこんだ。
「犬笛……吹くのはじめて?」
とつぜんどこからか子供の声がした。声は少しこもっていた。壁のむこう側から聞こえてきたようだ。返事をしようとしたが、息が切れてできなかった。
「犬笛はね、こうやって吹くんだよ」
一瞬の沈黙のあと、どこからか犬がいっせいに吠えはじめた。吹きすさぶ突風のような犬の声。夜、急な嵐に巻きこまれたみたいだった。
近くに何頭もいるようだが、僕には笛の音は聞こえなかった。
「君はだれ?」
やっと声を取りもどし、壁にむかって問いかけると、
「僕はイヌヒコ」
吠えくるう犬の声のなか、子供の声が答えた。
「イヌヒコ」という名前は漢字で「犬彦」と書くのだろうか。ゲームに出てきた、三つ首の猛犬・ケルベロスを従える死神のすがたが思い浮かんだ。