「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第八章 大団円(その4)
「長い間、お世話になりました」
「光村くん、本当に車で送っていかなくていいのか?」
病みあがりの久作さんの手は、みくるの肩におかれていた。みくるはギュッとぬいぐるみを抱いている。
犬守家総出で玄関先まで見送りにきてくれた。庭のほうから蝉の声が聞こえてくるが、夕方の風は心なしかやわらかく感じられた。
もうじき夏休みは終わりだった。8月の間をすごした犬守家を、僕はついにあとにするのだ。
「駅まで歩いていきます。お世話になった館林の街をゆっくり見て帰りたいんで」
「パパ、大丈夫。あたしが送っていくから」
館林駅まで狛音と一緒に歩くことになっていた。
狛音は〝夢丸の首輪〟をつけていた。2学期になれば犬彦くんのように、首輪のことでいじめられる可能性もあったが、犬守家の長女として受けとめるつもりのようだ。
彼女ならいじめっ子とも渡りあえる気がした。小学校からの僕のヒーローなのだから。
「虫江さんは忙しいんですか? お礼が言いたかったんですけど」
見送りのなかに虫江さんの姿はなかった。
「虫江さんは御台様に付きっきりなの」
円香さんが答えた。御台様とは生まれてくる新しい公方様の母犬だ。ラッキーロープの紙袋を僕に手渡しながら、「よろしく伝えとくね」
「厄介になったのに、またお土産まですみません」
受けとった紙袋から視線をあげると、みくるが抱いているぬいぐるみに目がいった。それは、狛音がサンシャイン水族館で買ったカワウソのぬいぐるみだった。
「そのぬいぐるみ、狛音にもらったの?」
「お姉ちゃん、もういらないんだって」
ナンジャタウンの撮影セットのようなお茶の間に、家族に見立てて置かれていたぬいぐるみ。熱中症で倒れた翌朝、屋敷を去ろうとする僕をぬいぐるみを抱いて見つめる死んだ魚のような目――そんな記憶の断片がフラッシュバックした。
とうとう狛音は新しい家族を見つけたのだ。探しものは彼女のすぐ足もとにあった。
〝本当のママ〟のもとを離れ、〝本当のパパ〟と〝新しいママ〟のいる新しい家族と生きていくことを選んだ狛音。
〝本当のパパ〟と〝新しいママ〟のいる新しい家を飛び出し、〝本当のママ〟と〝新しいパパ〟のいる家族のもとへ戻ってきたみくる。
家族にはいろんなかたちがあって、それでいいのだ。他人に認められて安心しようとして、決められた型におさまる必要なんてない。
「暢くん、届けにきてくれたのに悪いけど、あたしぬいぐるみは卒業したの。全部みくるにあげちゃった。あたしはパパも含めて、家族みんなを守るんだから」
狛音が胸をはると、久作さんはバツが悪そうに笑った。娘の成長に感動しているのか、目は少しうるんでいるように見えた。
〝夢丸の首輪〟は日焼けした狛音の肌によく似合っていた。忠犬ではなくヒーローの証だった。たくましく頼りがいのある跡取り娘の誕生だ。
「それじゃあ、ありがとうございました」
犬守家の人々に深々と頭をさげ、歩き出すと、
「もってあげる」
狛音は僕から紙袋をうばって先を歩いた。
彼女を追って軒下の影から出たとき、玄関先の銅像が浮かびあがって見えた。青銅色の波打つ毛並みは嵐が去ったあとの海のうねりのようだ。
犬公方の銅像は、北海道犬に取って代わられることなくプードルのままだった。
戦前まで建っていた初代の像は柴犬であり、それが徳川綱吉の生まれ変わりと伝えられる犬の本来の姿だったという。犬守家は一族の危機を救ったとされるその犬の血筋を代々守り通してきた。
江戸時代からの言い伝えにより、犬守一族のあいだで綱吉の生まれ変わりの犬の子孫として崇められてきただけで、本当に綱吉が犬に生まれ変わったかどうかは定かではない。常識的に考えればありえない話だろう。
中学時代のクラスメイトのことを思い出した。三島くんといって、彼の祖父の家は由緒正しい神社だった。境内の池にたくさんの鰻が棲んでおり、神様の使者として崇められていた。
鰻を食べると祟りが起きるという家の言い伝えがあり、じっさい鰻を食べた先祖が突然死したとされ、彼は人生で一度も鰻を食べたことがなかった。
修学旅行のとき、夕食の会席料理のなかに鰻の白焼きがあった。言い伝えのことを聞いていたヤンキーが面白がって三島くんに鰻を食べさせようとした。
肩をパンチされても、羽交い絞めにされ、無理やり口に入れられそうになっても、彼は歯を食いしばって拒絶した。
生前の犬彦くんも〝夢丸の首輪〟を守るため、2階にある教室の窓から飛びおりた。幼いころから家のしきたりを教えこまれ、公方様を狛音に託して自ら命を絶った。
鰻を食べたら亡くなるという言い伝えも、犬を将軍として崇めたてるしきたりも、はたから見れば絵空事のようだが、そうした言い伝えやしきたりを頑なに守っている人々がいるのは現実で、彼らにとっては真剣なのだ。
綱プーは徳川綱吉の58世、生まれてくる新しい公方様は59世だとされているが、本物の生まれ変わりと伝えられている犬の血統は戦争中に絶たれてしまった。
戦後の公方様はアメリカからもらったプードルの子孫だという。僕はオーシャンブルーに輝くプードルの銅像に目をほそめた。
「暢くん、なにやってんの?」
狛音が門の手前で立ちどまり、こちらを見ていた。
「ごめん、すぐ行く」
あたしは新しい70年の伝統を守る――父の枕もとで誓った彼女の言葉がよみがえる。
狛音が肩にかけた伝統のたすきは、久作さんが久兵衛さんから受けとったものとは違う色かもしれないし、彼女がつぎの世代に渡すときには、また違う色に変わっているかもしれない。
狛音は犬守家の跡取りとして、これからどんな歴史を紡いでいくのだろう。
門を出てふり返ると、久作さんたちが手をふってくれていた。会釈して手をふり返したが、そういえば、工房さんの顔を見ていない。
「工房さんも忙しいのかな?」
高く澄んだ空に黄金色のうろこ雲がたなびいていた。どこからか竿竹屋の歌が聞こえてくる。僕らは屋敷を離れ、懐かしさを漂わせる住宅街の路地を歩いていた。
「見送りにも来てくれなかったし、ここ2、3日会ってないような気がする」
「あんなキモイやつ、クビにしたよ」
「〝夢丸の首輪〟が見つかったのにクビなの?」
「もう家伝は必要ないから。あいつの部屋は書庫に模様替えだね」
人間椅子につづき、工房さんも犬守家を去ったようだった。大きな屋敷はそのままに、なかの住人は入れ替わっていく。からだの細胞が古いものから新しいものに入れ替わっていくように。
路地を抜けたところにある小さな公園から、ドロケイをして遊んでいる子供たちの声が聞こえてきた。
「公方様の駕籠も廃止。新しい公方様はドッグランに行って、よその犬とも仲良くなるの」
「そのほうが絶対いいよ」
古い殻を脱ぎすて、犬守家も狛音も変わろうとしていた。変わることでしか守れないものもあるんだよ――とは円香さんの言葉だ。
僕だけいつまでも変わらないままでいいのだろうか。変わることへの不安と、変わらないことへの不安が僕のなかでせめぎ合う。
「公方様、初対面から暢くんにすごい懐いてたでしょ。なんでだろうって思ってた」
路線バスがディーゼルのうなりをあげて通りすぎていく。僕らは住宅街を出て、駅前の大通りを歩いていた。
「公方様にとって、暢くんはヒーローだったんだよ」
「俺が、ヒーロー?」
「ずっと家のなかにいて、自分の足でそとを歩くことすらできないから、知らない土地のにおいがする暢くんが、そとの世界に連れ出してくれるヒーローに見えたんだよ。新しい公方様には犬らしく生きてほしい」
〝将軍の間〟ではじめて会ったとき、いきなり僕に飛びついてきた綱プー。その感触を思い出そうとしたが、肌の記憶は砂のように指のあいだからこぼれ落ちていった。
「暢くん、あたしからのお土産」
狛音が足をとめ、ポケットに手を入れた。
見あげると、洋館風の白い駅舎が見えた。いつのまにか館林駅に着いていたようだ。駅の大時計の針はまっすぐ4時47分を指しており、アーチ窓には澄みきった東の空が映っていた。
「これ、亡くなった公方様がつけてた首輪」
狛音の手には使い古された犬の首輪が握られていた。
「いいの? そんな大切なもの」
「きっと公方様もよろこぶよ。暢くんと、知らない街に行けるんだから」
「……うん」
綱プーの首輪を受けとった。首輪のなかはからっぽで自分の手のひらが見えた。
「おそろいだね!」
しんみりとした空気をふり払うように、狛音が笑った。笑顔の下には〝夢丸の首輪〟があった。
「鮪吉くんにもらった首輪はどうするの?」
改札口のほうからピーンポーンという間延びした音が聞こえてくる。狛音はすこし考えてから、
「生まれてくる新しい公方様につけてもらおうか? ゆみ子さんたちにも迷惑かけたから、お詫びじゃないけど」
「おじいさんもきっと喜ぶよ」
両家はたがいに手を携えていかねばならぬ――久兵衛さんの遺言だった。
綱プーが犠牲になったにしては、その歩み寄りは小さく頼りないものかもしれない。
300年かけてひろがった溝はあまりにも深くて大きい。ゆっくりと時間をかけながら、少しずつ埋めていくしかないのかもしれない。
「あたし将来、動物のお医者さんになることにした」
狛音は僕の目をまっすぐ見て言った。
「パパがトリマーとかトレーナーの学校も経営してて、動物の仕事には興味あったんだけど、病気で苦しんでる公方様を見てたら、なにもできない自分が歯がゆかった」
「うん、すごくいいと思う」
「あたし、また勉強がんばるから、暢くんも……」
言いにくそうにしていたが、いじめのことだとすぐにわかった。
「大丈夫。狛音がいなくても、今度は俺ひとりでなんとかする」
狛音に誓った。僕はヒーローなんだと自分に言い聞かせるように。
狛音は生まれたときから強かったのだろうか。たぶんそうじゃない。家のしきたりや家族のことに悩みながら、少しずつ強くなっていったのだ。
僕は狛音みたいに強くないから、なんて言い訳していては、いつまでたっても強くなれない。
改札口のむこうから射した夕陽が〝夢丸の首輪〟の金具に当たって鈍く光った。狛音は固唾をのんで僕のつぎの言葉を待っていた。
「いままで逃げっぱなしで、こんな遠くまで逃げてきたけど、もう大丈夫。夏休みのあいだ、狛音んちのお屋敷でゆっくり休ませてもらったから、すっかり回復した。東京にもどったら、犬彦くんのぶんもいじめと戦うよ」
いじめなんて逃げればいいじゃん――狛音はそう言って校門の前で僕の手をひいた。
彼女のおかげでいじめから逃げ出すことができたが、いつまでも逃げまわっているわけにはいかない。いやなことから逃げているうちに、逃げ癖がついてしまうような気がした。
いじめから逃げるために転校し、転校先でもいじめられたら中退してフリーターへ。バイト先もいじめで辞めて、一生いじめを引きずったまま家に引きこもっているのだろうか。
未来をリアルに想像したら急に怖くなった。これでは逃げつづけの人生だ。
自分を守るために逃げることは大事だけど、ときには戦うことも大事。戦って傷ついたら、また逃げればいい。そしてまた戦うための充電をするのだ。
狛音はタイル貼りの地面に紙袋をおくと、
「館林まで来てくれてありがとう」
赤いオールスターの踵が浮く。
「がんばってね」
彼女は僕のほっぺたにキスをした。
「またLINEで連絡するから。バイバイ」
照れ笑いを浮かべると、固まった僕をおいて逃げるように走っていった。
人波にまぎれていく背中を目で追いながら、僕はやわらかな感触が残るほっぺたに手をあてた。
熱っぽかったのは館林の残暑のせいではなかった。
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