「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第五章 東京(その1)
1
狛音は食堂にすがたを見せなかった。彼女はいつも朝が遅いが、昼も顔を見せないのは初めてだった。
部屋にも姿はなく、僕に黙ってどこかに出かけてしまったようだ。彼女の行きそうな場所は母親の病院くらいだが。
狛音はまだ怒っているのだろうか。きのう綱プーの夕食づくりを手伝わず、納豆ばかり食べていた彼女を、食糞する小次郎と一緒だと言ったのは、さすがに言いすぎだったかもしれない。
ああ見えて、彼女も女の子。傷つけてしまったのかもしれない。
1人ですることもなかったので庭にでた。ツナキチの散歩に行ったとき、四郎さんが本犬守の庭に大きな柿の木があると言っていたのを思い出し、たしかめてみようと思ったのだ。
池を取りまく緑は太陽を浴びてギラギラと光り、地鳴りのような蝉の声が耳を圧迫した。
石橋の上まできて目を落とすと、池では紅白や金色の錦鯉が涼しそうに泳いでいる。橋を渡ると石灯籠があり、その近くに切り株を見つけた。
これが四郎さんの言っていた柿の木のいまの姿なのか。庭に植えてあるのは松ばかりで、ほかにそれらしい木も見当たらないが。
座るのにちょうどいい大きさだったので切り株に腰をおろした。
松の木々のむこうに離れの〝綱吉の湯〟が見える。池のほうに顔をむけると、水面に写真のネガのような母屋の影が映っていた。
目線をあげると、縁側の籐椅子に甚平姿の久作さんが座っており、厚手の本をめくっていた。切り株のことを訊いてみようと思った。
橋をあともどりして池に沿った小径をたどり、
「ちょっといいですか?」
母屋の縁側にいる久作さんに話しかけた。
「なんだ、光村くん」
「あのう、灯籠のそばの切り株のことなんですけど」
僕は橋のほうに目をむけながら言った。「あれって柿の木だったんですか? 小さいころ狛音さんが登っていたっていう」
「そう、柿の木。いろいろあって切ってもらった」
「なにが、あったんですか?」
「……いろいろだよ」
久作さんの目がすわった。もしかして、狛音が柿の実を分犬守にあげていたのがバレて、腹いせに切り倒してしまったのだろうか。
テーブルの上の本に目をやると、紋付袴の綱プーの写真がちらりと見えた。
「なに見てるんですか?」
「公方様の七五三参りのアルバムだよ。見ていくかい?」
僕は縁側の踏み石の上で靴を脱ぎ、久作さんのむかいの籐椅子に腰かけた。テーブルには使いこんだ手帳が置いてあった。
「去年、太田の冠稲荷神社でご祈祷してもらったんだが、あそこは境内にペット社殿もあって申し分ないな。ほら、金襴の袴姿がお似合いだろう」
綱プーはお祓い棒をもった神主さんと鳥居の前で写っていた。
ほかに手水舎で口を清めたり、虫江さんに抱かれて茅の輪をくぐったり、巨大な鈴を鳴らしたり、神様に玉串を捧げたりする写真もあった。
久作さんを見ると、顔がにやけていた。目が合うと、久作さんは咳払いをして、
「そもそも七五三の祝いは綱吉公に由来するものなんだ」
急にいかめしい顔で語り出した。
「ご長男の徳松様の健康を願ってはじめられたとされる。綱吉公が兄の4代将軍家綱公の養嗣子になられたとき、徳松様は綱吉公から館林藩を引き継ぎ、2歳で藩主になられた。
だが、お父上の願いもむなしく、わずか5歳で夭折されてしまった。これ以後、綱吉公は男子を授かることもなく、お世継を亡くされた悲しみは察するにあまりある」
そう言って久作さんは涙ぐんだ。鼻をすすりながら、手帳から折り畳んだ紙を出し、テーブルにひろげた。犬守家の家系図のようだった。
工房さんが話していた久之介や犬弥の名前もあり、久之介の父の久右衛門から家系図ははじまっている。
「綱吉公は江戸の神田屋敷に住んでおられたが、わが祖先・犬守久右衛門はそこに小納戸としてお仕えし、綱吉公が館林藩主になられると城番を命じられた。
その後、綱吉公が5代将軍に就任すると城代家老になり、藩主の徳松様にお仕えしている。
江戸時代の絵図によれば、久右衛門は館林城二の丸の城代屋敷のほか、城下町に広大な下屋敷を構えていたそうだ。この父祖にはじまる犬守家の家伝をいま伊怒工房につくらせている」
「なんで工房さんだったんですか? この前、たまたま工房さんの書斎の奥の部屋を見ちゃったんですけど、どうして剥製師じゃなきゃならなかったんですか?」
不意をついて疑問を口にすると、久作さんはぎょっとした様子だった。白髪まじりのひげを汗で光らせ、急に口ごもった。
手持ちぶさたに手帳をなでている。なにか言おうか言うまいか迷っているようだった。蝉の合唱に混じって、かすかに滝の音が聞こえた。
「じつはだね」
久作さんが重い口をひらいた。「この屋敷には、歴代の公方様の剥製を祭る『綱吉廟』があるんだ。その剥製をつくらせるために伊怒工房を雇っている。
公方様が身罷られたとき、ご遺体を剥製にするのは、明治時代からの犬守家の習わしでね」
その話は、防腐処理されたレーニンの遺体を安置するロシアのレーニン廟を思い起こさせた。
小さいころ、まるで生きているような遺体をテレビのドキュメンタリー番組で観て、夜眠れなくなったのを覚えている。
「だが、光村くん。綱吉廟の存在を秘密にしているわけじゃないんだ。綱吉廟は公方様の御霊を祭る神聖な空間なのでね。くれぐれも気軽に立ち入らぬよう頼むよ」
するどい眼光でギロリとにらまれ、僕は「はい」としか答えられなかった。
工房さんの奥の部屋のように、ずらりと並んだプードルの剥製を想像すると身の毛がよだった。動かなくなった小次郎や綱プーの姿もそこにあった。
2
夕方になって狛音が帰ってきた。仲直りのきっかけをつくろうと、僕はまっ先に玄関にむかった。
「おかえり。どこ行ってたの?」と声をかけようとしたが、上がりかまちに腰かけた彼女のわきには、ヤマダ電機の紙袋が置いてあった。
「なに買ったの?」
汗ばんだ背中に声をかけると、
「スイッチ。もうすぐユウちゃんの誕生日だから」
彼女は靴ひもをほどきながら答えた。誕生日プレゼントにニンテンドースイッチとは、さすが社長令嬢である。
「昼ごはんは?」
「スタバで食べた」
「急にいなくなったからびっくりしたよ。出かけるなら一言いってくれてもよかったのに」
彼女は靴ひもの手をとめ、心のシャッターをおろしたように黙りこんだ。そのうしろ姿は鋼のようにかたくなに見えた。
「……怒ってたんだよね。きのうは言いすぎちゃって、ごめん」
僕のほうから歩み寄ると、
「いいよ」
彼女はニコッと笑顔を見せてふり返り、「手伝わなかったあたしも悪いんだし」
その言葉に僕の頬もゆるんだ。僕らは陽だまりにいるような空気に包まれた。
スタスタと足音が近づいてきたかと思うと、ななめうしろでミシッと音が鳴り、ぽかぽかとした廊下に影がさした。
「お嬢さま、おかえりなさい」
無表情の虫江さんが立っていた。「旦那さまがお呼びです」
「はあ?」
白い歯を見せていた狛音の口がひん曲がる。
「お話があるそうです」
狛音は不機嫌そうに立ちあがり、紙袋を手にとると、ぶつぶつ言いながら廊下の奥に消えていった。僕はなんとなく胸騒ぎをおぼえた。
夕食どきになっても狛音はすがたを現さなかった。気になって、食堂でとなりの席に座っていた円香さんに訊いてみると、
「暢くんと東武動物公園に行ったことで怒られてるみたいだよ」
ギクッとした。やばい、今日かぎりで屋敷を追い出されるかもしれない。それどころか、大事な娘に悪い虫がついたと殴られるかもしれなかった。
昼に縁側で話したときには、なにも言われなかったが、あのあと久作さんの耳に入ったのだろうか。
「2人だってデートくらい行きたいよね」
そう言って、円香さんはワイングラスを傾けた。僕はむせ返って、ハヤシライスを吐き出しそうになる。
「わたしも前の夫とのあいだに、君たちよりすこし下の娘がいるから同情するよ」
円香さんが僕の背中をさすりながら言った。「いろいろあって、いまは一緒に暮らせてないんだけど」
すこし酔っぱらっているのか、円香さんの手つきは妙にエロティックで、僕はあわてて椅子をテーブルに引きよせた。円香さんが再婚で子供もいたというのは初耳だ。
「円香さんが中学の先生だったって本当ですか?」
教え子に手を出してクビになったんですか? とは訊けなかった。離婚したのも、「いろいろあって」というのも、その事件が関係しているかもしれなかった。
「そうだよ。こう見えても音楽の先生だったの」
「こう見えても」と円香さんは言ったが、白いブラウスに花柄のロングスカートという格好はそれらしく見えた。
キャミソール姿より色っぽく見えたのは、教え子に手を出したという先入観のせいかもしれない。
「うちは教員一家だったし、別れた夫とも職場結婚だからね。こまちゃんと暢くんはこんなことで別れちゃダメだよ」
「ちがいます! 狛音とは付き合ってませんし、それにデートじゃなくて、鮪吉くんも一緒でした!」
「うん、知ってる」
円香さんはお手伝いさんに目くばせをして、僕が落としたナプキンを拾わせると、「こまちゃんの鏡に貼ってあるプリクラ見つけたから、久作さんに見せちゃった」
悪びれもせず赤ワインに口をつけた。
うまくはぐらかされたような、からかわれているような、とらえどころのない人だった。
円香さんの全身からは、ぬらぬらとした磁気のようなものが出ていて、近くにいるとどうも調子が狂ってしまう。
それにしても、3人で写ったプリクラを目にしたなら、なんで久作さんは怒っているのだろう?