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「犬公方」第一章 館林(その4)
1
カーテンからまぶしい光が漏れている。気づいたときには朝になっていた。
ここはどこで僕はなぜこのベッドで眠っているのだろう? 格式のある木製家具が置かれていたが、ホテルの一室にしては広かった。
じゅうたんの上に転がる笛が光っていた。きのう話した犬笛の少年のことを思い出し、壁を叩いてみた。
「犬彦くん。ねえ、犬彦くん」
返事はなかった。また壁を叩いてみたが結果は同じで、夢だったのかと思いつつ、壁に耳をあてた。
ノックの音が聞こえ、ひとが入ってくる気配がした。
「目が覚めた?」
一瞬、思い違いをしたが、ひとが入ってきたのはこちら側の部屋だった。あんなに固く閉ざされていたのに、鍵を使ったそぶりはなかった。
入口にすらりとした女性がお盆をもって立っていた。30代後半くらいだろうか、米倉涼子似の美人だった。
僕はベッドで壁に耳をつけた格好で、恥ずかしさで顔が熱くなった。あわててシーツにからだを潜らせる。
「暢くん、うちの前で倒れてたんだよ。覚えてない?」
女性は机にお盆をおいた。お盆には、エッグベネディクト、レーズン入りのバゲット、クロワッサン、サラダ、パイナップル、ヨーグルト、コーヒー、オレンジジュース……純白の陶器に盛りつけられたごちそうが並んでいる。小次郎の朝食より豪華だった。
「お医者さんに診てもらったら、熱中症だって。今夜はうちで預かりますって、おうちに連絡しといたから」
「すみません、もう元気になりました」
どうやらここは狛音の実家らしい。「あの~、狛音さんは?」
「まだ寝てるの。学校は午後から行くみたい」
女性の表情がわずかにくもった。
「狛音さんにぬいぐるみを返しにきたんです」
長椅子に置かれたカバンを見つけ、僕はシーツをまとったまま、彼女にカワウソのぬいぐるみを渡した。
「こんな遠くまでありがとね」
受けとった彼女の指にシルバーのリングが光っていた。犬笛のことを思い出し、
「きのう、となりの部屋から声がしたんですけど、狛音さんの弟ですか?」
「……変ねえ。となりは空き部屋で誰もいないのよ」
しばしの沈黙のあと、彼女は答えた。色白の顔からさらに血の気が引いて、白い陶器に映った顔のようだった。
あの犬彦くんは幻覚だったというのか。彼女の顔色を見ていると、どうもそうは思えなかった。
「朝ごはん、おいしかったです」
食事をすますと、女性につれられ犬守家の主のもとに案内される。ラッキーロープの社長だという狛音の父親のことだろうか。ちょっと緊張した。
朝なのにうす暗い廊下が長々とつづいている。ずいぶん大きなお屋敷のようだった。
部屋を出るとき、となりのドアをちらりと見たが、天井から吊りさがった照明のかげに沈んでいた。部屋はかたく口を閉ざしていた。なにか隠しごとでもしているように。
廊下の壁にならんでいた木製のドアがふすまに変わる。角を曲がると明るい光が射しこんできた。
「こんな立派な庭、はじめて見ました」
右手に本格的な日本庭園がひろがっていた。大きな池が庭を占め、鯉が泳いでおり、小さな滝も流れていた。
石橋を渡った池のまわりには、松などの緑が生い茂り、石や灯籠がならんでいる。水の音に混じり、どこかで犬の鳴き声がした。昨夜の犬のことを思い出した。
「わたしも嫁いできて日が浅いけど、はじめて見たときはびっくりした。犬守家は江戸幕府、5代将軍徳川綱吉公に仕えた館林藩の家老の一族なの」
どうやらこの人が狛音の言っていた〝新しいママ〟のようだ。狛音から父親をうばった怖い人をイメージしていたが、気さくでいい人そうだった。
「徳川綱吉って、あの〝生類憐みの令〟のですか――」
〝新しいママ〟は障子の前で足をとめた。横に立つと僕より背が高かった。
「ここが〝将軍の間〟よ」
彼女は正座すると、手をつき頭を垂れた。
「公方様、円香です。お客様をお連れしました」
障子をあけると、なかには大広間がひろがっていた。奥のふすまは金ピカで松が描かれている。
畳が二段になっており、上の段には、膝にトイプードルを乗せた老人があぐらをかいて座っていた。いかめしい顔つきをしているが、狛音のおじいさんかもしれない。
「おはようございます」
円香さんにうながされ、ペコペコ頭を下げながら、僕は下の段でおじいさんと対座した。
床の間の壁も金色で一面に松の老木が描かれており、由緒ありげな水墨画の掛け軸や置物が飾ってある。天井を見あげると格子状になっており、おごそかな雰囲気に僕は圧倒された。
「娘の忘れ物をわざわざ届けに来てくれたそうで、このたびはどうもありがとう」
僕と同じ段の端に正座していた中年の男がそう言った。狛音を悩ませている父親のようだ。恰幅がよく口ひげを蓄え、大企業の社長らしく風格があった。
「一晩ゆっくり休めたかな?」
「はい、もう大丈夫です。ご迷惑をかけました」
それにしても、部屋に鍵をかけることはないだろう。そう思ったが、疑問を口にできるような空気ではなかった。
正面のおじいさんと目が合ったので会釈すると、犬をなでながらむこうも目礼する。狛音の父がやりとりに気づき、
「こちらは5代将軍徳川綱吉58世公であらせられる」
あれ? この人は犬守家の当主なんじゃ……。「徳川綱吉58世」といったら徳川家の末裔とかじゃないのか。聞き違えた気がしたが、僕はつられて頭をさげた。
「あの……きのうは助けていただいて、ありがとうございました。僕は狛音さんの幼なじみで……」
「いやいや、光村くん。その者は〝人間椅子〟といって、うちの執事だ。公方様ではない。徳川綱吉58世公は、膝の上のお犬様であらせられる」
狛音の父が、ハハ~ッと畳に額をこすりつけると、犬が一声ワンと鳴いて、父親は顔をあげた。「苦しゅうない」ということか。
小次郎と同じ赤茶のトイプードルが尻尾をふっている。
僕は顎がはずれそうになった。これは〝ドッキリ〟で、みんなして僕をからかっているのだろうか。それにしては高校生相手に大人げなさすぎないか。
「驚かれるのも無理はない」
狛音の父が言った。
「公方様は御年5歳になられるが、綱吉公の生まれ変わりと伝えられるお犬様の子孫。われわれ家老の家系の犬守家が、58代目となる今日まで代々丁重にお守りしている」
徳川綱吉の生まれ変わり? トイプードルが? その子孫を代々守ってる? こんな出来の悪いギャグみたいな話、現実とは思えない。
熱中症の後遺症かなにかで、僕は脳に異常をきたしてしまったのだろうか。言葉を失い、文字どおり頭を抱えた。
そのとき、トイプードルがクーンと鼻を鳴らした。老人の膝を離れると、耳を羽ばたかせながら、猛スピードでこちらに突進してくる。
身がまえる間もなく、僕にのしかかり、顔じゅうペロペロとなめまわしてきた。頼むから、あっちに行ってくれ。
「上様、なりませぬ」
〝人間椅子〟という老人が腰をあげたようだが、
「まあ、よい。お気に召されたのだろう」
狛音の父が制止した。鼻の穴までなめてくるが、この場の空気からして突き飛ばすわけにもいかない。しばらくされるがまま、お犬様に顔を献上していた。
2
部屋にもどると、ベッドにカバンを置いて帰り支度をはじめた。
汗がたっぷりしみこんだ下着を入れたが、まだカバンにはぬいぐるみのあったスペースがぽっかり空いていた。
またプールの水でふくれた教科書を入れ、学校に通う日常にもどるのだった。
狛音に会わせてほしいと頼んだが、まだ寝ているらしく、結局会わせてくれなかった。
しかたなく僕は、〈ごめん、館林の家に来てるんだけど熱中症で倒れちゃって……。また出直すよ〉とLINEを送っていた。
自分から会いにいくと言っておきながら、顔も見ないまますごすごと帰るのだった。かっこ悪いし、情けないし、おまけに犬守家の世話にもなってしまった。
その犬守家では、プードルを徳川綱吉の生まれ変わりの子孫だと信じて、将軍として崇めているのだからわけがわからない……。
頭を押さえながら、スマホの電源アダプタをコンセントから抜いたとき、
「暢くん、元気になったんだ」
狛音が目をこすりながら部屋にあらわれた。
「あっ、狛音……」
一瞬、Tシャツにショートパンツ姿の彼女を認めたが、すぐに目をそらしてしまう。あんなに会うのを望んでいたのに、いざ彼女を前にすると、どんな顔をすればいいかわからなかった。
「きのう学校から帰ってきたら、暢くんがうちで寝てるからびっくりしたよ」
「ごめん、こんなかたちになって……」
カバンにアダプタを仕舞いながら、「さっき、お父さんに挨拶したよ」
「……そう」
「犬飼ってたんだね」
ナンジャタウンで訊いたときには、はっきりと答えてくれなかった。
「変な家でびっくりした?」
狛音の声がくもった。
「なんか、まだ頭が混乱してる」
風を吹き出すエアコンの音が聞こえた。
「もう、帰っちゃうんだ?」
「……うん、まだ学校とかあるし。でも、またきっと来るよ」
歯みがきセットを仕舞う手をとめ、はじめてまともに狛音の顔を見た。入口に立つ彼女の横顔はさみしそうで、まっ白なキャンバスに戸惑う筆のように、視線は壁をさまよっていた。
家のことで愛想を尽かされたのだと思って、傷ついているのかもしれない。
僕らの間に沈黙がおりる。言葉を探してじゅうたんに目を走らせると、犬笛がなくなっているのに気づいた。
「狛音って弟いる?」
「いるけど、どうかした?」
やはりあの犬彦くんが弟なのだ。狛音はノブをつかんでドアをゆらゆらさせていた。
「きのう、ちょっと喋ったんだ。壁越しだけど」
「ふーん。そういや、犬彦の顔はしばらく見てないな」
「いっしょに住んでるのに、顔も見てないの?」
「まあ、いろいろあってね……」
狛音が練馬のマンションで母親と暮らしていたころ、弟のすがたは見なかった。両親が離婚したとき、犬彦くんは父親に引き取られたのだろう。
彼女が口を濁しているのは、そのことが関係しているのかもしれない。僕はのっぺらぼうの壁をちらりと見て、
「犬彦くん、となりにいるんだよね。お母さん……円香さんは空き部屋だって言ってたけど」
「ごめん、トイレ行ってくるね」
狛音はくるりと背をむけた。半開きのドアには窓から射した光が当たっており、レースカーテンの影がまだら模様を描いていた。円香さんをお母さんと言ったことを、彼女が怒っていないか気になった。
支度を終えてから、あらためて壁に呼びかけてみたが、犬彦くんの声は返ってこなかった。スマホを見ると、8時半。学校に行っている時間だった。
狛音が部屋にもどってくる前に、円香さんが迎えにきた。
玄関の天井は高く、見上げると白壁のあいだに太い梁が通っており、下から照明を浴びて黒光りしていた。
円香さんたちが玄関まで見送ってくれた。駅まで送ってくれるそうで、表には黒塗りのセダンが停まっている。
「ご両親によろしく。あと小次郎くんにも」
円香さんはお土産として、お手伝いさんから受けとった紙袋をくれた。
紙袋にはラッキーロープ社のロゴが書いてあり、なかをのぞくと犬用のシャンプーやリンスが入っていた。見覚えのあるパッケージを見つけ、
「〝ポイ助〟うちで使ってます」
人気商品のうんち取り袋の名前だ。円香さんは「ありがとう」と微笑んだ。
「公方様もお喜びになるでしょうから、ぜひまたいらしてください」
人間椅子から靴べらを渡された。犬を飼っていることを話すと、すっかり愛犬家として一目置かれたようだった。小次郎には完全に手下扱いされているというのに……。
靴べらを返したとき、狛音が遅れて廊下に現れた。顔を合わすのは、彼女がトイレに行ってくると部屋を離れて以来だった。
カワウソのぬいぐるみを抱いて、うしろからもの言いたげに僕を見つめている。
「こまちゃん……狛音さんも、お礼言おうか。せっかく東京からぬいぐるみを届けに来てくれたんだし」
狛音に気づくと、円香さんが腫れ物に触るように声をかけた。狛音は見送りの輪からすこし距離をとったまま、
「暢くん、バイバイ」
円香さんとはいっさい目を合わさず早口で言った。死んだ魚のような目で小さく手をふる彼女は、〝新しいママ〟と同じ空気を吸うのもいやだというふうに見えた。
僕は思わず紙袋をうしろ手に隠した。目いっぱいお辞儀して、そそくさと車に乗りこんだ。彼女の目に僕の背中はどんなふうに映っていたのだろう。
玄関先に建てられた犬の像が窓から見えた。背後に植えてある松のように刈り整えられた、ブロンズの被毛からするとプードルのようだった。
うしろから運転手さんにたずねると、徳川綱吉2世像、つまり5代将軍綱吉の生まれ変わりとされる初代の犬の銅像とのことだった。
白手袋の手でハンドルをさすりながら丁寧に教えてくれたが、狛音が犬を飼っていることを黙っていたのは、家のことを知られたくなかったのだろうと思った。
僕だったら恥ずかしくて誰にも言えそうにない。
表まで出てきた円香さんたちに一礼すると、車は出発した。
そのときには、もう狛音の姿はなかった。
3
夏休みに入ると、朝10時すぎに起きるようになった。
午前中の明るいまどろみのなか、僕はとろけてベッドと同化しそうだった。天井を見つめ、大きく息を吐きだすと、魂まで抜けていくような心地だった。
「Siri、これが自由だよ」
1学期を無事生き抜いたことに充実感を覚えていた。彼女は相変わらず〈意味がわかりません〉と気の利いたセリフひとつ言わないが、僕は自分で自分をほめてやりたかった。
数日前までの陰惨な記憶は遠い昔のことのように感じられた。
高校の無断欠席も、熱中症で倒れたとあって、前ほどとがめられなかった。
懐かしい〝犬守〟からの電話がきいたのか、大手メーカー直々のお土産がきいたのか、両親は妙にやさしかった。
そんなまったりとした日々が続いたある日。コンビニで買ったガリガリ君を食べながら、机に座ってスマホでユーチューブを観ていると、めずらしくLINEの通知がきた。
〈夏休み、また館林においでよ。もうすぐ、おじいちゃんの法事があるんだ〉
狛音からだった。
ふいに、コンビニに置き忘れたビニール傘で、胸を刺されたような痛みを覚えた。館林のあの日以来、僕らは連絡を取り合っていなかった。
彼女のことを避けていたわけではない。なんとなく気が重くてLINEを送れなかったのだ。
自分の心の底をのぞかないようにしていたが、彼女を置き去りにしたようなうしろめたさがあった。
〈俺が行ってもいいの?〉
〈うん。ややこしい親戚もきて、1人じゃきついんだ〉
狛音の心細そうな顔がよみがえる。館林に彼女の居場所はないのだった。
夏休みに入り、束の間の自由を味わっていた僕とはちがって、彼女の息苦しさは家のなかでずっとつづいているのだった。
学校という逃げ場がなくなって、前よりもっとつらい思いをしているのかもしれない。
〈わかった。必ずいく〉
送信したあと、スマホを持っていないほうの手がひやりとした。指にアイスのしずくが垂れている。
残りのアイスをあわてて頬張ると、頭が割れるようにしびれた。目をあけると「1本当たり」の文字。幸先がいい。僕はアイスの棒をもってコンビニに走った。