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「犬公方」第七章 犬彦の秘密(その4)
1
狛音とみくるは本当の姉妹のように仲良くなった。狛音をとられてひとりっ子にもどった僕は、さみしい思いをしていた。
あれから狛音はみくると2人で部屋にこもりがちになったが、久作さんは触らぬ神に祟りなしといった感じだった。
〝大葬の儀礼〟のときも視線を合わせず、父娘のあいだには終始すきま風が吹いていた。黒白幕で覆われた屋敷にさらに暗い影を落とした。
広間いっぱいに並べられた座布団に黒ずくめの男女が座っていた。
お焼香のとき、工房さんの見よう見まねで、座布団の最前列にいる犬守一家にお辞儀をしたが、父娘のあいだに座った円香さんは、先代の三回忌のときより貫禄が増して見えた。
ゆみ子さんのような着物の喪服を着ており、名実ともに〝奥さま〟といった風格だった。
葬儀が終わると、座敷に精進落としの料理が用意された。
養子縁組の約束をすっぽかされ、おかんむりの分犬守は席を辞退し、ほかの親戚筋も〝新しい盟主〟にしたがった。
お坊さんは分厚い封筒を受けとると、立派な戒名だけを残し、逃げるように去っていった。
座卓には喪主の久作さんと狛音、みくるの父娘、綱プーのお世話役だった人間椅子と虫江さん、そして僕と工房さんが同席している。いつのまにか席をはずした円香さんを入れても8人だ。
本犬守の凋落を物語るように、屋敷はすっかりさびしくなっていた。
テーブルの奥には祭壇があり、綱プーの遺影と位牌、ローストビーフのお膳が置いてあった。
遺影の綱プーは黒紋付姿だった。元気なころの姿を見ていると、狛音の配膳を手伝ったときのことを思い出した。
毒味したローストビーフを持っていくと、綱プーはうれションして迎えてくれた。
納豆うどんをつくったときには、完食してよろこびの舞いを踊ってくれたが、これまで彼の好意にどれだけ応えてあげられただろう。
息を引きとったあとのおむつの染みのように、そんな思いがこびりついていた。
献杯のあと、みんな黙々と料理をつまんだ。狛音はみくるのお椀に引っついたふたを取ってあげている。
僕と狛音は三回忌のときと同じ制服姿、みくるは犬彦くんの学ランにそでを通したくないのか、狛音のおさがりの小学校の制服を着ていた。
みくるの格好にあのころの狛音の面影が重なる。かいがいしく妹の世話を焼く彼女は、昔の自分をいたわっているように見えた。
甘エビの刺身を醤油につけたとき、円香さんがもどってきてふすまを開けた。
「人間椅子さん、昨年、京都でなにをされていたんです?」
彼女は敷居をまたぐなり、こわばった顔で人間椅子につめ寄った。
「失礼ですが、奥さま」
天ぷらの箸をゆっくりと置き、人間椅子は丁重な物腰で問い返す。「いったいなんのお話でしょう? わたしくは京都に用はございませぬ」
「じゃあ、これはどういうことです?」
円香さんは胸もとから黒革の手帳を取り出した。「公方様の書類を整理していて、銀行の貸金庫で見つけました。あなたの手帳ですよね?」
手帳の表紙には「H・C」と「2017」の文字が刻まれている。「H・C」は人間椅子のハンカチの刺繍と同じだった。
なにかまずいことでもあるのだろうか。老執事の顔からはみるみる余裕の色が消えていくが、
「さて、なんのことでしょう? 身に覚えがありませぬ」
「あなたの名前は近村英男、イニシャルはH・Cですね」
苦渋の表情を浮かべ、視線をそらした人間椅子に、円香さんは手帳のあるページを開いて突きつけた。
「昨年の11月15日、七五三の日です。あなたは用事があるとかで、太田の冠稲荷神社に同行しませんでした。手帳にはこの日、『京都、土御門家』と書いてあります。〝土御門家〟って、あの――」
「陰陽師と会っておりました」
人間椅子は観念したように、グラスに残ったビールを飲みほして言った。
「公方様の呪いもその陰陽師の仕業では?」
「まさか、お前の指図で公方様は殺されたのか!」
円香さんの声をかき消す勢いで、久作さんが怒声をあげた。が、破裂した風船のように急にしぼみ、鼻声で「なぜそんなことを……」と言ってうつむいた。
「先代の遺言でございます」
人間椅子の一言が、浜辺の波のように久作さんの感情の起伏をさらっていった。まっさらな砂地のような顔をした主人に、老執事はとつとつと語り出した。
「先代は亡くなる間ぎわ、わたくしめを枕もとに呼びよせました」
人間椅子によれば、先代の久兵衛さんは死の床で彼にある依頼をしたという。
それは光圀公の秘術で公方様を亡きものにすることだった。中野犬小屋の犬を大量死させたとされる陰陽師のあの呪術である。
卓越した実業家であり、人格者でもあった久兵衛さんを彼は敬愛していたが、こればかりは猛反対すると、
「近村、いままでよく仕えてくれた。これはわしの遺言じゃ。最期のわがままだと思って聞いてはくれんか?」
老人は涙を流して弱々しく言った。「本犬守と分犬守の300年にわたる諍いをわしの代で終わらせようと思う。すべてはアメリカのプードルが原因なのじゃ。わしが愚かだった。
この忌まわしい因習に終止符を打ち、両家はたがいに手を携えていかねばならぬ。なあ、最期の頼みだ。聞いてくれるな、近村よ」
久兵衛さんは力なく人間椅子の手を握った。かつての剛腕の面影はなく、老人はひどく惨めに見えた。人間椅子は首を縦にふらざるをえなかった。
久兵衛さんが息を引きとったのは、それからまもなくのことだった。難病を患い、晩年は苦悶の表情ばかり浮かべていたが、願いが聞き届けられ、安らかな死に顔だったという。
人間椅子は久兵衛さんの意に反し、公方様に手をくだすつもりはなかった。
老いや薬の影響により、先代の判断力は鈍っていたし、犬守家の番頭として300年の伝統にあっさり幕をおろすわけにはいかない。なにより公方様の世話をしてきて、彼に愛情を抱いていた。
僕は話を聴きながら、膝の上で綱プーをいつくしむ人間椅子を思い出した。その姿が偽りのものだったとは思えない。
「じゃあ、なんで命をうばったんですか?」
人間椅子の意思が覆ったのは犬彦くんの自殺がきっかけだった。
「坊っちゃんは庭の柿の木で首を吊っておられました」
人間椅子の声はひび割れふるえていた。「ただちに若い衆におろさせましたが、すでに手遅れでした。
坊っちゃんの部屋の引出しに遺書が残されていました。犬守家のしきたりのことで級友からいじめを受け、それを苦にこの世を去るというものでした。
先代の決断は正しかったのだと思いました。わたくしが二の足を踏んだために、坊っちゃんの前途ある若い命が絶たれてしまったのです。
自分の不明を深く悔いました。京都への手配はそれから始めました」
人間椅子はハンカチで目頭を押さえた。手の甲には青い血管が浮き出ており、皮は辞書の紙をくしゃくしゃにして骨に貼りつけたようだった。痩せこけた手に人生の重みが感じられた。
話のあいだ、狛音はじっと下をむいていた。黒髪がさえぎり、彼女の表情はうかがえなかったが、右手では折れそうなほど強く箸を握っていた。
みくるは狛音の横でおどおど目を泳がせている。
「奥さま、貸金庫の遺書もごらんになったのでしょう。せっかくですから、お嬢さまたちに読んでさしあげてください」
「……やめなさい」
久作さんが言葉を発したが、あまりに小さな声だったので気づかれなかった。円香さんが帯からわずかに出た三角形を引っぱると、表に鉛筆で「遺書」と書かれた封筒があらわれた。
「僕は生きていくことに疲れました。これ以上、耐えられません」
円香さんは凛とした姿勢で遺書を読みはじめたが、冒頭を口にしたとたん声をつまらせた。紙をもつ手はふるえていたが、咳払いをしてかまわずつづけた。
「公方様を綱吉様の生まれ変わりの子孫として大切にする家風のことで、同級生からいじめを受けてきました。
僕にもプライドがあるのでくわしくは書きませんが、〝夢丸の首輪〟のことを散々からかわれ、屈辱的なひどいことをされました。
先生は助けてくれませんでした。毎日、家に帰るとベッドで泣いていました。
僕には弱いところがあります。犬守家の長男として、胸を張っていじめっ子と戦うことができませんでした。びくびく顔色をうかがってばかりでした。
〝夢丸の首輪〟はお姉ちゃんに譲りたいと思います。僕の代わりに犬守家を継いでください。
スポーツも勉強もできない僕とちがって、お姉ちゃんはダンスで賞をとって、葵中にも合格しました。
自分の意見をはっきりと言える人で、弱虫の僕なんかより跡取りにふさわしいと思います。僕の自慢のお姉ちゃんです。
お姉ちゃんならパパが亡くなったあとも、犬守家と公方様を守ってくれることでしょう。
お姉ちゃんのほうが先に生まれたわけだし、男子が跡を継がなければならない時代でもありません。
僕はこのたび死ぬことを選びました。この遺書が読まれるころには、もうこの世にはいないでしょう。
パパ、ママ、13年間、できそこないの僕を育ててくれてありがとうございました。親不孝な息子を許してください。公方様には僕のぶんまで長生きしてほしいと思います。
みなさん、さようなら。天国から見守っています。犬守犬彦」
円香さんは途中で涙を流していたが、頬をぬぐうことなく最後まで読みきった。
生々しい遺書の文章に、底の見えない穴ぼこが胸にぽっかり開いたようだった。穴のなかを冷たい風が吹き抜けていく。
鉛筆の肉声はいつかの僕だったかもしれず、そしてこれからの僕でありえた。犬彦くんはどんな思いで、この遺書をつづっていたのだろう。
とつぜん狛音が立ちあがり、黙って部屋を出ていった。投げ出された箸が座卓を転がり、畳の上に落ちた。木の箸が重いバールのように感じられ、誰も拾おうとする者はいない。
遺書に〝夢丸の首輪〟を譲ると書いてあったが、狛音はなにを思ったのだろう?
久作さんに目をむけると、心ここにあらずといった様子だった。
座卓では血のように赤いマグロの刺身が骨董の皿の上で干からびている。小皿の醤油はいびつな屋敷の天井をセピア色に映し出していた。
2
その夜、屋敷を出てひとり庭園を歩いていた。熱帯夜の生ぬるい風が焼けた肌にまといつく。
池のほとりにある綱プーのお墓に向かっていた。昼間の埋葬の式のさい、その下に綱プーの遺体が埋められた。
土葬なのは歴代の将軍に倣ってらしい。宝物の靴下も棺のなかに納められていた。
月明かりの下、真新しい墓石が鈍い光を浮かべている。お墓は橋のむこうの石灯籠を大きく立派にしたようなかたちだった。
陰陽師の呪いから解放され、ここで綱プーは安らかに眠っていた。
綱プーが虹の橋で待ってくれているような気分だった。いつの日か再会して、力を入れると折れそうなほど華奢なからだを抱いてあげたかった。
肌をなでる風は彼のぬくもりの余韻のようだ。池が黒く冷たく光っていた。
闇のなか、灯籠の明かりにほのかに照らされた切り株が橋のむこうに見えた。犬彦くんが首を吊った柿の木の残りだった。切り倒されたのは犬彦くんの自殺が原因だったのだろう。
目をそむけると、足もとに焚火のあとがあった。そこだけ芝が焦げており、灰が散らばっている。
風に吹かれて灰が舞った。夏休み明け、木の枝にぶら下がる自分の影を見たような気がした。犬彦くんの二の舞にはなりたくなかった。
(綱プーには悪いけど、俺はとうぶん虹の橋を渡るつもりはないよ)
僕は手を合わせ、綱プーのお墓に語りかけた。(いままで屋敷から出られなかったぶん、仲間たちと草の上で元気に走りまわっててね。そっちに送った靴下を俺だと思って――)
「あたし、〝夢丸の首輪〟を継ぐ資格なんてない」
声がして目をあけると、いつのまにか狛音が横に立っていた。「首輪を盗んだのはあたしなの」
僕はゆっくりと手をおろし、
「どういうこと?」
月に背をむけていたので、狛音の表情はよくわからなかったが、手の動きから顔をぬぐったように見えた。
「パパが犬彦ばっかかわいがってあたしに興味ないのも、ママと離婚して円香さんと再婚したのも、みんな首輪のせいだと思った」
狛音は鼻をすすりながら打ち明けた。
「〝夢丸の首輪〟が家のいざこざの元凶……。首輪さえなければ、うちの変なしきたりも家族の問題もぜんぶなくなると思ったの。だから、こっそり盗んで隠した」
「いまどこにあるの?」
「分犬守のところ」
「一緒に屋敷に行ったとき、『探したけど、見つかんなかった』って言ったのは嘘だったんだ」
「ごめん」
うつむいた狛音の影が墓石に映る。「あのときインベーダーの料金箱に首輪を隠して、カギかけたの」
鮪吉くんの部屋のインベーダーゲームで遊んでいた狛音が、カギを使って料金箱から100円玉を取り出していたのを思い出した。
「そのままカギをもって帰ったら、ユウちゃんから〈カギ知らない?〉ってLINEがきて、しばらく借りるかわりに東武動物公園に連れていった。
でもまた、〈ゲームしたいからはやく返して〉って言われて、しかたなく誕生日にスイッチを買ってあげたの」
鮪吉くんはプレゼントされたスイッチに夢中になり、インベーダーには見向きもしなくなった。
「話してくれてありがとう。明日、一緒に取りにいこう」
影はこくりとうなずいた。
〝夢丸の首輪〟を盗んだのは、分犬守でなく狛音だとわかったが、彼女は首輪を取りにいったあと、どうするつもりだろう?
犬彦くんから首輪を託されていたが、忌み嫌っていた家を継ぐのだろうか。
狛音は綱プーのお墓に手を合わせた。お供えの白いカーネーションが夜目にも浮かびあがって見える。
母屋のほうから声が聞こえた気がして、ふり返ると、彼女の頬には涙のあとが光っていた。
母屋の玄関の灯りがともっており、格子戸のむこうを人影が走りすぎた。バタバタしているようだった。
手をおろした狛音と顔を見合わせる。目で合図しあうと、浮き足立って屋敷にもどった。玄関の戸をあけると、廊下にいた虫江さんと鉢合わせした。
「なにかあったんですか?」
スニーカーについた芝を払いながら訊くと、
「犬奥の女犬が公方様の御子を身ごもっていたようです。いま御匙を呼びました」
虫江さんはそう言って、あわただしく廊下を駆けていった。