「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第一章 館林(その2)
1
「あっ、そうだ。〝空飛ぶペンギン〟って知ってる?」
終点の池袋でおりると、狛音がいま思いついたみたいに言い出した。僕らはホームの人の流れに乗って改札口にむかっていた。
「サンシャイン水族館のでしょ。テレビでやってた」
構内のアナウンスに負けないよう声を張ると、
「あたし、見てみたかったんだよね。行ってみよう」
池袋駅を一歩出ると、照明弾のような太陽が僕らの目を射た。
青く澄んだ夏の空の下には、雑多なビルがひしめいており、白い墓標のようなサンシャイン60が遠くに見えた。人波に押し出されるように大通りの横断歩道をわたる。
歩道にはアサガオのように日傘がぽつぽつと咲いており、家電量販店のスピーカーと街路樹の蝉がラップバトルを繰りひろげていた。
平日の午前中に制服で街を歩くのは不思議な感覚だった。レールを踏みはずしてしまった不安な気持ちを、背中から自由の風が押して、足どりは月面のようにフワフワしていた。
「……俺、あんまお金もってないよ」
「チケット代なら大丈夫、奢ってあげる」
大あくびをして狛音は言った。「家出資金たんまりあるから」
彼女の父親は大手ペット用品メーカー「ラッキーロープ」の社長で、館林の実家はたいへんな豪邸だとは聞いたことがある。お小遣いをたっぷりもらっていたのだろうか。
サンシャイン60通りに入ると、ラップバトルに店頭の呼びこみの声が加わった。
人混みのなかをウーバーイーツの自転車が泳ぐように走りぬけ、歩きスマホのお兄さんがびっくりしたように足をとめる。
僕らは東急ハンズのわきのエスカレーターをおり、地下道を歩いて水族館をめざした。
サンシャインシティに来るのは、小学生のころ、母とプラネタリウムに行って以来だった。
狛音と遠出するのは初めてで、僕らはまわりからカップルに見られているかもしれない。大人になったみたいで、誇らしいような恥ずかしいようなこそばゆい気持ちになった。
屋上までエレベーターでいき、狛音から券売機で買ったチケットを受けとる。平日の朝のせいか、ロビーはすいていた。
館内に入ると、薄闇でも彼女の目がパッと見ひらくのがわかった。眠気は完全に吹き飛んだようだ。
「わあ、すごい。海のなかみたい」
あたりを見まわしながら、狛音が声をあげた。水槽の明かりを頼りに、僕らは暗い海の底を歩く。
「うわっ、かわいい。『カメラを止めるな!』のおばちゃんみたい」
コバルトブルーの海と白い砂地の大水槽の前。マントを広げたエイがやってきて、お腹を見せると、彼女は言った。
たしかにエイの裏側は人間の顔のようだ。からだは大きいが、お腹の顔はどこか愛嬌があった。奥ではもっと大きなトラザメが無数の魚のあいだを回遊していた。
「このラグーンって水槽はね。じっさいはすごく狭くて、だけど奥を暗く、前側を明るくして、グラデーションで広く見せてるんだ」
「暢くん、マジうざい……」
テレビで仕入れた情報をひけらかすと、狛音に冷たい目でにらまれた。
屋上に出ると、いよいよ空飛ぶペンギンだった。鳥のさえずりのようなカワウソの鳴き声のなか、ヤシの木が茂る明るいガーデンを歩いた。
お目当てのペンギンは頭上まで張り出した水槽で泳いでいた。
エイが『ナウシカ』に出てくる戦列艦だとしたら、こちらはナウシカが乗るメーヴェのように軽やかだ。
池袋の高層ビルのあいだを本当にペンギンが飛んでいるみたいだった。
「これもね、水族館プロデューサーのナカムラ……」
狛音は目を輝かしたまま、僕を足で小突いた。弁慶の泣き所に当たり、うずくまる僕に、
「そうだ、暢くん。インスタ撮ろうよ」
空飛ぶペンギンを背景にスマホのカメラに収まった。写真を見せてもらうと、彼女は満面の笑み。僕の笑顔は引きつっていた。
帰りにお土産ショップで、彼女はカワウソのぬいぐるみを買った。「ペンギンじゃないの?」と思ったが、黙っておくことにした。こんどは電気あんまされるかもしれない……。
「つぎはナンジャタウン」
水族館を出たとたん狛音が言った。
エレベーターで二階までおり、また彼女にチケットを奢ってもらう。水族館と合わせて1万1000円(2人分)。家出資金は本当にたんまりあるようだ。
僕らは無料の猫耳をつけ、いくつかアトラクションで遊んだあと、「福袋七丁目商店街」に行った。
銭湯、丸ポスト、たばこ屋、木の電柱、写真館、オート三輪――昭和の街並みが広がっていてタイムスリップしたみたいだった。
豚の蚊とり線香の乗り物にのり、蚊の人形を銃で撃ったりした。
「お腹へった~。暢くん、餃子スタジアムでお昼にしよう」
狛音が大きく伸びをしながら言った。
土管のそばで待っていると、彼女はまん丸い饅頭みたいな餃子を買ってきた。
昭和の民家のお茶の間で食べることになった。三畳間にはちゃぶ台があり、イートスペースになっている。壁にそって白黒テレビや飾り棚、鏡台がならんでいた。
狛音は畳に腰をおろし、ちゃぶ台の上に2人前の餃子をおいた。僕が猫耳をおくと、
「そういや、飼い猫の数が犬を上まわったんだって」
思いついたように彼女は言った。僕もネットニュースで知っていた。高齢化が原因だと書いてあった。
「まあ、犬は散歩しなきゃなんないし、しつけも大変だしね」
「暢くんち、犬飼ってるの?」
揚げ焼きにした餃子に箸を入れながら彼女が訊いた。「いちおう」と答えると、
「じゃあ、犬好きなんだ」
香ばしいにおいが漂うなか、僕は言葉につまった。
「……そりゃあ、嫌いじゃないけど、うちの小次郎はすごい生意気なやつで」
小次郎が僕の序列を自分より下だと思っていること。母が小次郎を人間の僕より甘やかしていることを話した。
彼女はまともに話を聞いているのか、いないのか。とくに反応もなく、パクパクと口を動かしていた。
「狛音んちはどう? 館林の家では犬飼ってないの?」
彼女は急に箸をとめた。顔から表情が消えていた。
いつのまにか、ちゃぶ台にはカワウソのぬいぐるみが置かれていて、3人家族で食卓を囲んでいるみたいになっていた。
彼女はまた昔のように、父と母と一緒にごはんを食べたいのだろうか。〝新しいママ〟のいる館林の家の話をしてはまずかったのだ。
「そうだ。犬は十二支なのに、なんで猫は干支に入ってないか知ってる?」
今年は戌年だった。僕が話題を変えると、彼女は小さく首をふった。
「あのね、神様が元旦に挨拶にきた動物を、早いもの順で12匹、干支にするって約束したんだ。
だけど、猫は鼠から挨拶は2日だと教えられていて、そのせいで間に合わなかったんだって」
「……だから、猫は鼠を目の敵にしてるのかな。猫をだましておいて、自分は一番乗りしたわけでしょ?」
狛音も家の話題を変えたかったのだろう。はじめて僕のうんちくに乗ってくれた。思わずにんまりすると、
「食べないならちょうだい」
彼女は恥ずかしそうに、僕の皿から餃子をひとつ奪った。照れ笑いを浮かべながら口をもぐもぐさせている。
餃子は皮がカリッとして、ニンニクもひかえめでおいしかった。
もっとも、僕らはにおいなんて気にするような間柄ではないのだけれど。家族同然の幼なじみだ。一緒に食卓を囲むカワウソも心なしか笑っているように見えた。
2
サンシャインシティを離れ、エスカレーターで地上に出ても、外は明るいままだった。もう1日じゅう大冒険したような気分になっていた。
「USA!」のかけ声とともに、ダンスミュージックが聞こえてくる。東急ハンズの大型ビジョンの前で狛音にぬいぐるみを渡された。
「このあとどうする?」
彼女は立ちどまり、カバンのなかを探りはじめた。大型ビジョンには「いいね」のポーズで飛び跳ねるダンスグループが映っていた。
「どうしよっか」
生返事をしながら、狛音のわきを通りすぎた。すべて彼女におまかせだった。
「暢くん、カラオケとかどう? フリータイムで泊まりもかねてさ」
〝泊まり〟と聞いてドキッとする。幼なじみとはいえ、女子と密室で2人きり。狛音はなんとも思わないのだろうか。
アワアワとふり返ると、彼女は背中をむけており、サンシャイン60通りを見つめていた。視線の先には巨大なボウリングのピン、ラウンドワンの看板があった。
「でも、高校生同士で泊まれるのかな……。俺たち制服だよ」
どぎまぎしながら答えたとき、うしろから肩を叩かれた。
「ちょっといいかな?」
大人の声だった。心臓がからだから飛び出しそうになった。昼間に制服で遊んでいたから、補導の警官に声をかけられたのだ。
ゲームオーバー。あっという間の逃避行だった。現実が力ずくで僕らを引きもどし、待ち構えるのはもっと恐ろしい地獄だった。
おずおずふり返ると、2人組の黒いスーツの男が立っていた。
「お嬢さま、お迎えにあがりました」
もう1人、初老の男がいて、狛音に話しかけていた。
「やだ、ぜったい帰んない!」
彼女は色をなして反抗するが、すでに腕をつかまれていた。「わかった、スパイアプリでしょ。ちょっと離して」
初老の男の合図で、狛音はいとも簡単にスーツの男たちに抱えられた。
「キャー、助けて! 誘拐される!! 足触られた! ヘンタイ、痴漢!!」と大騒ぎして、たちまち通行人の視線を集めるが、彼女はなんなく近くに停めてあった黒いバンに押しこめられた。
僕はぬいぐるみを持ったまま呆然としていた。
路上におりてきたカラスが落ちていたフライドポテトをくわえた。何事もなかったかのように車が去ると、通りはすぐに日常の風景にもどった。
取り残された僕だけが、壊れた時計の針のように雑踏に立ちつくしていた。見ているだけでなにもできなかった……。
シルバーカーを押したおばあさんが横を通りすぎた。からっぽの胸にじわじわと孤独の虫が湧いてくる。
狛音は実家に連れもどされ、僕はまたひとりぼっちになったのだった。寒風吹きすさぶ元の生活に耐えられるかどうか不安になった。
「ただいま~」
学校が終わる夕方を見計らって、なに食わぬ顔で帰宅した。小次郎はすべて見透かしたように、きびしい剣幕でがなり立てた。
じっさい、学校から連絡があったようで、その夜、両親にこっぴどく叱られた。はじめての無断欠席だった。
「高校サボってどこほっつき歩いてたんだ!」
「ポケットに池袋のゲームセンターのチケット見つけたわ」
「なんだ悪い友達でもできたのか!?」
「ワンワンワンワンワン!!」
つぎの日、図書室で本を開いていても、食卓での家族会議の声が、頭のなかに浮かんでは消え、文章が入ってこなかった。
昼休みが終わり、『おひとりさまの老後』に栞をはさんで、図書室をあとにした。
廊下を歩いていると、うしろから本を奪われた。僕を抜いて走り去る影がある。同じクラスの岡田の背中だった。
「ちょっと返してよ~」
あとを追って走った。リノリウムを叩く上履きの音が廊下にこだまする。
ふいに岡田が頭をさげて教室に入った。その瞬間、顔面に殴られたような衝撃を受け、僕はその場に崩れ落ちた。爆笑の渦が教室にわき起こる。
「顔面テープドッキリ大成功!」
じんじんする顔をあげると、スマホのレンズを向けてニタニタと笑う唯野がいた。
教室の入口には、顔の高さに包装用の極太セロハンテープが貼ってあり、蛍光灯の光を受けてチラチラと光っていた。
こんなことをして、なにがおもしろいのだろう? 顔を押さえながら立ちあがり、無言で席につこうとしたが、机がなかった。
「机なら、きのう片づけたわ」
うしろで唯野の声がして、肩になにかぶつけられた。足もとには黒板消しが転がっている。
「女子御三家に転校したんだろ?」
クスクスと笑う声が聞こえてきて、足がふるえた。ひっくり返った黒板消しからは硝煙があがっている。
ここに僕の居場所はない……。肩のチョークの粉も払わず、黙って教室をでた。背中で失笑が起こり、まもなくチャイムが鳴った。
視聴覚室、女子トイレ、渡り廊下、非常階段、自転車置き場、テニスコート――手当たりしだいに探しまわったが、机はどこにも見当たらなかった。
校舎から授業の声が漏れてくるなか、無人のコンクリートに黒い影を引きずっていた。肩には黴のようにカラフルなチョークの花が咲いていた。
唯野はモテようとしてウケを狙っていた。笑いの腕もセンスもないので、誰かをさらし者にすることで笑いをとっており、僕はその絶好のカモだった。
彼は目立ちたがり屋のわりに自信がなく、その裏返しで、腕力で他人を支配していた。
岡田は唯野の金魚の糞で、中学からの親友ということになっているが、内心ではバカにしていた。最近はうすうす感づかれ、損な役まわりをさせられている。
ようやく机を発見したのは、部室棟の2階にあがったときで、外廊下の柵のむこうのプールに浮かんでいるのが見えた。
25メートルプールは陽の光を浴びてキラキラと輝き、手書きの線のようにコースラインが揺らめていた。
部室棟の階段をおり、プールのフェンスをよじ登った。プールサイドに立つと、消毒の臭いがする。裸足になると、コンクリートが足の裏を焼いた。
制服のままプールに身を沈めた。意外なほどためらいはなかった。すべてが鬱陶しく、そしてどうでもよかった。
衣服がからだに張りつき、僕の動きにささやかな抵抗をする。水は冷たく気持ちよかった。気だるい午後の太陽がじりじりと髪を焦がした。
机にたどり着くと、おもてには彫刻刀で大きく「ドッキリ大成功!」と刻んであった。プールの底には教科書が散らばっていた。冬の間にたまった枯葉のようだった。
頭まで浸かり、教科書を拾い集めていく。耳が圧迫され、水中の視界がねじれた。どこか時空が歪んだようで、いまの気分にぴったりだった。
厚い水の天井のむこうで間延びしたチャイムの音がした。
教科書をのせた机をプールの端まで運んでいく。水面に映る自分のすがたが、区民プールでゲロを運んでいた父のすがたと重なった。
幼いころの自分に背中をじっと見つめられているような気がした。
机にいびつな影が落ちた。と思うと、髪をつかまれた。
「きのうの朝、一緒にいた女だれだよ」
筋張った腕を水滴がつたった。プールサイドにはうんこ座りした唯野がいた。
いつになく感情をあらわにした顔を、僕はディスプレイの映像のように見ていた。頭の痛みだけがリアルだった。
「お前、調子んのってんじゃねえぞ」
重機のような力で頭を押しつけられ、視界が水面に沈んでいく。
3
ジャージ姿で家に帰ると、玄関マットが濡れていた。足はアンモニアの臭いがした。小次郎のしわざだ。
廊下の犬用ゲートをあけ、ティッシュを取りにリビングに行くと、小次郎がソファでくつろいでいた。
僕を見るや、骨のおもちゃをじゅうたんに落とす。骨を拾って彼の前に置いてやったが、背を向けたとたん、また骨がじゅうたんに落ちる音がした。
僕にわざと拾わせて、どっちが主人か示そうというのだ。
3年前、いまの一戸建てに引っ越したとき、両親が小次郎を連れてきたのだった。前から犬を飼いたがっていたが、マンションがペット禁止だったので、新築を機に買ってきたようだ。
小学生のころ、よく近所のお寺の犬に給食のパンをあげていた。僕はもともと犬が好きだったが、小次郎は僕になつかず、むしろバカにする。
僕を下に見て噛みついてきたりすることが、学校のいじめを思い出させた。犬にまで見下されてうんざりだった。
ティッシュと消臭スプレーを手にすると、僕は骨を拾わず玄関にもどった。背中からワンワンと非難の声がとんできた。
びしょ濡れの制服をカバンから出して洗濯かごに放る。
階段を上がるとき、母の部屋に「ただいま」と言ってみたが、もちろん返事はなく、韓国ドラマのセリフが聞こえてくるばかりだった。
きのう、学校を無断欠席して以来、口を利いてくれなくなった。朝食のトーストも自分で焼くはめになった。焦げた耳の苦さを思い出し、うつむき加減で自分の部屋にむかう。
ドアを閉めたとたん、張りつめていたものが一気に溶けていった。学校にも家にも居場所がなかった。唯一、この部屋だけが安心できる場所だった。
心底疲れきってベッドに倒れこんだ。まくらに顔が沈むと、たちまち息が苦しくなる。
水中で溺れているような錯覚に囚われた。必死にもがくが頭を押さえつけられ、吐き出した空気の泡がクラゲのようになって視界をおおう。
大量の水を飲みこんだ。目の前がすうっと暗くなり、唯野の乾いた笑いがくぐもって耳にひびいた。
恐怖で顔をあげ、夢中で息を吸いこんだ。ベッドが小さな軋みをあげる。
やっと息が収まったころ、机の上のカワウソのぬいぐるみが目にとまった。そのとたん、プールのなかのように視界は歪んでいった。
〈Siri、どこにも居場所がないよ……〉
ほっぺたを温かいものがつたった。
Siriは無言だった。スマホを見ると、液晶に落ちた涙が黴のように虹色に輝いており、〈それはおもしろい質問ですね〉と文字があった。彼女になにを言っても無駄なのだ。
「大丈夫、私がついています」
Siriになりすました狛音の声が聞こえた気がした。
顔をあげると、彼女に渡されたカワウソのぬいぐるみ。東急ハンズの前で言われた「このあとどうする?」という言葉がよみがえった。
〈あのあと、どうなった? 館林に連れもどされたの?〉
藁にもすがる思いで狛音にLINEを送った。もうひとりぼっちはいやだった。LINEはナンジャタウンで餃子を食べたあと交換していた。
すぐに既読がつき、
〈うん。心配かけちゃったね〉
彼女から返信があった。僕からの連絡をずっと待っていたのだろうか。凍えた胸にじんじんと血が通っていくようだった。
〈館林はどう?〉
恐る恐るうかがうような気持ちで文字を打ったが、送信したあと、画面にあらわれた絵文字のない文は、そっけない無機質なものに映った。
なにかフォローしようと入力欄をタップすると、
〈相変わらずだよ……〉
彼女から先にメッセージが返ってきた。僕は打とうとした言葉をのみこんで、
〈そっちに行ってみるよ〉
気づくと、そんな大それた返事を送っていた。
この部屋のはるか彼方に、世界との接点があり、僕を必要としてくれる人がいた。
いまはまだ電波でつながっているだけだが、僕の居場所もそこにあるような気がした。すこし間があってから、
〈そっちって、館林?〉
〈そう、館林〉
〈わかった。待ってる〉
涙を腕でぬぐうと、僕は居ても立ってもいられず、水で膨らんだ教科書をかなぐり捨て、からっぽのカバンに狛音のぬいぐるみをつめた。
明日の朝、家を出よう。
僕は社会のレールをはずれ、彼女のもとへ会いにいくのだ。
カバンの底からカワウソがのぞきこんでいた。心なしか笑っているように見えた。