「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第三章 分犬守(その1)
住宅街の空には山のような入道雲がそそり立っており、白っぽく干からびた町をにらみつけていた。
小学校のそばを通りすぎたばかりで、せまい道路の白線のそとは緑色に塗られている。熱の照り返しがやわらぐような気がして、狛音を先頭に縦1列になって緑の部分を歩いた。
工房さんが法事のときに見失ったという〝夢丸の首輪〟を取りもどすため、犯人とおぼしき分犬守の屋敷に向かっていた。
「なんであたしが行かなきゃなんないの?」
「首輪が見つかんなきゃ、工房さんクビになるんだって」
今朝も食堂でひとりフレンチトーストを食べていると、となりの席に工房さんがやってきて、分犬守に探りを入れてくるよう頼まれていた。
「あんなヤツ、どうなってもいい」
うだるような暑さも手伝ってか、狛音は不機嫌で愚痴がとまらなかった。
「ママが離婚する前、家族みんなで暮らしてたころはあんなヤツいなかったもん。それが4年経って帰ってきたら、いつのまにか住み着いちゃってて。あの女もそうだよ、図々しく転がりこんでさ」
彼女は背中を向けたまま、深いため息をついた。「あのころはよかったなあ。首輪とか家伝とかどうでもいいよ」
本犬守の屋敷から南に20分ほど歩き、うなぎ屋の角を右に曲がると、通りの先に分犬守の白い塀が見えてきた。
下半分に煤けた板が張ってあり、塀の上には古い瓦が連なっている。陽射しを避けようとして塀に沿って歩いた。本家の屋敷に比べると、あっという間に塀は終わった。
「かなり古そうなお屋敷だね」
門にたどり着くと、大きな瓦屋根がせり出していた。門の扉や柱は黒ずんでおり、歴史を感じさせた。狸の妖怪がなかに潜んでいそうで胸騒ぎをおぼえた。
「うちの家は戦後にできたけど、ここは江戸時代に建てられたものだからね。結局、本家だとか威張っても大したことないんだって」
門の白い壁には、そこだけ不釣り合いなインターホンがついている。狛音はボタンを押し、自分の名前を告げた。
「いらっしゃい。よく来てくれたわね」
迎えに出てきたゆみ子夫人は藤色の着物を着ていた。これが普段着なのだろうか。「あら、こちらの方は?」
「東京で幼なじみだった暢くんです。祖父の三回忌にも出席してたんですけど」
狛音が紹介してくれた。僕が頭をさげると、にこやかな会釈が返ってきた。「さあ、入ってちょうだい」とお尻をむけたゆみ子夫人に、狸の尻尾は生えていなかった。
「ちょうど綱吉様の誕生日パーティーをしようとしていたところなの」
「そうなんですか。おめでとうございます」
石畳の小径を歩きながら言葉をかわすゆみ子夫人と狛音は、なぜか親しげに見えた。
狛音はゆみ子夫人に対しては、円香さんに見せるような敵対心をあらわにしなかった。敵の敵は味方というわけか。
「おじゃましまーす」
声をそろえて玄関をあがると、僕らは奥へ案内された。ほの暗い小さな間を通るとき、黴とほこりの混じったような臭いがした。
「ユウちゃん、狛音お姉ちゃんとお友達が来てくれたわよ」
三回忌での振る舞いはなんだったのだろう? 以前とは打って変わって、ゆみ子さんはいい人そうな感じがした。
奥の8畳ほどの座敷には椅子とテーブルが置かれ、小学生くらいの男の子が漢字ドリルを解いていた。
「こんにちは~」
三回忌のとき一緒だった分犬守の一人息子だ。電灯の光が当たってマッシュルームカットの頭に天使の輪ができていた。「ねえねえ、お姉ちゃん。これなんて読むの?」
「んとね、これは〝しゃっきん〟って読むんだよ」
気心の知れた仲らしく、狛音が漢字を教えに行ったので、僕はなんとなく椅子に腰かけた。
テーブルの陰にいた白い犬が目に入った。ソフトバンクのCMで見かけるような和犬で、お座りしたまましきりに鼻をなめている。
よだれで濡れた畳には骨董品みたいな大皿が置かれ、干いわしと白ごはんがよそわれていた。
「綱吉様の4歳のお誕生日なの。古伊万里のごちそうは中野犬小屋で出された伝統食なのよ」
ゆみ子さんが僕のとなりに座って説明した。「綱吉様」というのはこの犬のことのようだった。
本家の「公方様」とは犬種がちがうが、まさかこっちも徳川綱吉の生まれ変わりの子孫とでもいうのだろうか。
「中野犬小屋ですか?」
「あら、暢さん。ご存知なかった? 中野は東京の中野。江戸時代、あそこに綱吉公が野犬を収容するためにつくらせた犬小屋があったのよ」
「はじめて知りました」
「それはそれは広くて、29万坪の土地に10万匹が集められたの。野犬は犬駕籠に乗せられ、盛大に送られたそうだわ。犬駕籠といっても、本犬守の〝南蛮犬〟のものよりずっと慎ましやかなものだけど」
その言い方には心なしか棘があった。
「あ~、わかんない。もうやめた」
分犬守の息子が漢字ドリルをパタンと閉じた。となりに座った狛音は困り顔だ。犬の先生が描かれたドリルの表紙には、「4年1組 犬守鮪吉」と書いてあった。
「まぐろ……? あの、名前なんて読むんですか?」
「〝鮪〟の音読みは〝ゆう〟でしょ。だから〝ゆうきち〟って言うの。ほんとは〝綱吉〟って名づけたかったんだけど、畏れ多いからやめにしたのよ」
僕の質問にゆみ子さんが答えてくれた。もしや〝綱吉〟→〝ツナ吉〟→〝鮪吉〟という流れだろうか。古風な家柄に見えて、ダジャレで命名するとは……。鮪吉くんは犬の先生の顔に口ひげを書き足しながら、
「お兄ちゃん、何年生?」
「高校2年生だよ」
「高校生なのに〝鮪吉〟って読めないんだ。ぼくわかったよ」
「ユウちゃんは自分の名前だからわかったんでしょ」
狛音が鮪吉くんの両頬をつまんだ。鮪吉くんは「バレたか~」とケラケラ笑っている。2人は本当の姉弟のようだった。
手持ちぶさたに綱吉の頭をなでると、ひっくり返ってお腹を見せてきた。まだパーティーは始まっていないのに、古伊万里のお皿はからっぽで、主役は目を細めている。
分犬守の綱吉は、鮪吉くんにちなんで〝ツナキチ〟と呼ぶことにしよう。
「ごちそうができたよ」
エプロンをした分犬守のご主人がお盆をもって現れた。八の字眉で、目は開いているのかどうかわからないほど細い。僕らが挨拶すると、
「いらっしゃい。えーと、狛音ちゃんの友達の光村くんだったかな? 法事以来だね」
「わーい、おそばだ~!」
鮪吉くんがバンザイをする。ご主人は申し訳なさそうに、
「ごめんね。来てくれるってわかってたら、君たちのぶんまで用意したんだけど」
3杯のかけそばをテーブルの上に置いていった。ずいぶん質素なパーティーである。それにしても、この蒸し暑いなか、かけそばとは……。
「あたしたち、お昼は食べてきたんでおかまいなく」
本当はまだだったけど、狛音が気をつかって言った。
クーラーはあるにはあるが木目調の古い型で、壊れているのか、座敷はサウナみたいだった。その代わりか、縁側に置かれた木のたらいに氷柱が立てられていた。
入ってきたときには気づかなかったが、明るい座敷から見ると、となりの間の畳にも金だらいが並んでいた。
天井をのぞきこむと雨漏りの染みを見つけた。天井の隅には蜘蛛の巣が張ってあり、庭に目をむけると草木はのび放題だ。
地元の名家に見えて、じつは家計が苦しいのだろうか。
「綱吉公が愛用された犬のかたちの湯たんぽがうちにあったのよ」
僕の視線を察したのか、とつぜんゆみ子さんが自慢話をはじめた。とうとう尻尾を出したようだ。
「ゆ、湯たんぽですか?」
「そう、湯たんぽよ。あんな本犬守の狆の首輪なんて足もとにも及ばない、それはそれは由緒正しいものだったんですから」
そう言ったあと、ゆみ子さんは肩を落とした。「でも残念ながら、先の戦争でね、供出されてしまったんです」
「湯たんぽって、兵隊さんが使ったんですか?」
狛音がよせばいいのに話をひろげた。鮪吉くんは「いただきます」を待って、ずっとそばをフーフーしている。
「金属類回収令で家のお鍋やお釜、お寺の鐘から銅像まで軍に徴収されたの。それらは鋳なおされて戦車や鉄砲の弾になったみたい。
時局とはいえ、本当にもったいないことよね。綱吉公の同じ湯たんぽが、いまでは東京の博物館に展示されているの。それくらい貴重なお宝だったのだから」
「まあ、過ぎた時代を懐かしんでもしょうがないさ。きょうは綱吉様のお誕生日なんだから、みんなでお祝いしよう」
ゆみ子さんが口を閉じたのを見計らって、ご主人がそばに手をつけようとするが、
「あなたは外様だからそんなことが言えるの。あの戦争さえなければ、由緒ある湯たんぽがうちの正統性を保証してくれたものを……」
鮪吉くんは「いただきま~」と言いかけて口をふさいだ。
「〝夢丸の首輪〟とかなんとか言ってますけど、あんなもので本犬守の〝南蛮犬〟が、綱吉公の生まれ変わりの子孫だなんて保証できるものですか」
ますますゆみ子さんの本性があらわになる。本家と分家のいがみ合いは相当根が深そうだ。
「狛音ちゃんの前で、〝南蛮犬〟だなんて失礼な呼び方するもんじゃないよ」
分犬守夫妻のやり取りを見かねて、
「いえ、あたし気にしてませんから、心配しないでください」
狛音が気を利かせたが、ゆみ子さんはどこ吹く風だった。
「ほら、見てごらんなさい。綱吉様の美しい尻尾のフォルム、天然記念物たるゆえんだわ。この巻き尾が日本の伝統であって、北海道犬の綱吉様こそが綱吉公の生まれ変わりの犬の子孫に決まっているわ。
西洋人が短くした〝南蛮犬〟とちがって、和犬の巻き尾は人の手が加わっていない太古からの犬の姿なのよ」
鮪吉くんは黙って手を合わせると、勝手にそばを食べはじめた。ツナキチは伝統美の尻尾ばかりか、からだも丸めて眠っている。
狛音はうつむいてしまうし、僕は僕で〝夢丸の首輪〟を取り返しにきたものの、ゆみ子さんの毒気に当てられ、すっかりその気をなくしていた。