「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第七章 犬彦の秘密(その3)
ベッドに寝転んで天井をながめていた。視界に入る3面の壁はベージュ色だったが、天井にはきれいなモスグリーンの壁紙が貼ってあった。
分犬守の屋敷とちがって染みひとつなかったが、天井とエアコンのすき間に、分犬守と同じように蜘蛛の巣が張ってあるのを見つけた。
屋敷じゅうが〝大葬の儀礼〟の準備に忙しそうだったので、僕の部屋まで掃除の手がまわらないのだろう。
ベージュの壁に目をむけると、甘いミルクティーが飲みたくなった。お手伝いさんに頼むのは気がひけたので、近所の自販機に買いに行くことにしよう。財布をもって部屋をでた。
玄関先のプードルの銅像の前で足をとめた。綱プーの死により養子縁組の話はなくなったが、分犬守のツナキチが跡を継いで、59世の公方様になるのは既定路線のようだった。
久作さんが自嘲していたように、2代目のこの像もいつか北海道犬に取って代わられるのかもしれない。
そう思うと、綱プーが亡くなったことをあらためて実感した。〝将軍の間〟に綱プーはもういないのだ。
あんなにうっとうしく感じていたのに、人間椅子の膝からすっ飛んでくる綱プーをなつかしく思った。
門のほうに顔をむけると、屋敷の外をうろつく白いニット帽が目に入った。門に近づいてみると、ニット帽はスカートをはいた少女のようだ。
あわてたように路上駐車のバンのかげに隠れたが、僕だと気づくとおっかなびっくり顔を出した。
「みくるちゃん?」
門のそばの通用口から出て声をかけた。首から下が隠れたすがたは「犬彦くん」とダブって見えた。
車のかげから出てきた少女はみくるだった。真夏にニット帽をかぶり、デニムのスカートをはいている。少年の格好しか知らなかったが、すっかり女の子になっていた。
せっかく実の父親のところへ避難したのに、どうしてここにいるのだろう? なにか深い事情がありそうだ。
話を訊こうと、自販機のある駐車場まで一緒に歩いた。うつむいたニット帽のボンボンがゆれている。たんぽぽの綿毛のようにいまにも飛んでいきそうだった。
じっさい父親の家を飛び出してきたという。
僕が買ってあげたお茶をぐびぐびと飲んだあと、言葉少なにみくるが語ったところでは、父親は再婚しており、新しい家には女の子がいたらしい。
僕はミルクティーのペットボトルのふたを閉めると、
「その子にいじわるされたの?」
「……しゃべらなかった」
「その子が?」
「ぼ……」
と言いかけて口をつぐみ、みくるはニット帽にのばしかけの髪をおさめてから、自分を指さした。「僕」と言いかけたのだろうか。
「みくるちゃんが? その子とか〝新しいママ〟はどうだった?」
「やさしかった……けど、目は出ていけって……」
みくるはごみ箱の穴にペットボトルを入れようとしたが、中身がいっぱいで押しもどされた。ペットボトルがアスファルトの上を跳ねる音がむなしく鳴った。
「いたたまれなくて、また家を飛び出してきたんだね」
みくるはこくりとうなずいた。結局、〝本当のママ〟を頼って、犬守家のうす暗い檻のなかに自ら舞いもどってきたのだった。
とりあえず、久作さんに見つからずに、みくるを円香さんのもとへ送り届けなければならない。
玄関の格子戸をゆっくりとあけ、みくるをつれて屋敷に入った。近くの客間の押入れにみくるを隠し、円香さんを探して廊下を歩いていると、急ぎ足の虫江さんと鉢合わせした。
「円香さんはどこにいるんですか?」
「奥さまは銀行に出かけておられます」
虫江さんはそう言うと、いそがしそうに通りすぎた。
ひとまず円香さんの部屋にみくるを匿うことにした。銀行ならそう長くはかからないだろう。客間からみくるを連れ出し、忍び足で廊下を歩いていると、
「なんだ、帰ってきてたのか」
聞き覚えのある低い声がした。ふり返ると、冷めた目をした久作さんが立っている。心臓がのどまでせり上がった。
「女の服なんか着て、色気づいて」
みくるが屋敷を逃げ出したことに気づいていたようだ。駕籠のお兄さんが告げ口したのだろうか。
「連れ子のお前を食わしてきたのに、犬彦のふりもできないのか!」
久作さんの目の色が変わり、僕がいるのもかまわず声を荒らげた。
ただ、目にはかつての力強さはなく、あきらめに似た悲しみが宿っていた。不甲斐ない自分やままならない現実に憤っているかのように。怒鳴られたみくるはガタガタとふるえていた。
「すぐ部屋にもどって、犬彦の服に着替えなさい!」
久作さんがみくるの細い腕をつかむと、
「パパ、いつまでそんなインチキつづける気?」
背中から鋭い声がした。顔をむけると、廊下の奥から狛音が歩いてきていた。
「うるさい! お前に関係ないだろ!!」
「関係あるよ。この家の長子なんだから」
狛音が切り返して言った。彼女の口から「長子」なんてセリフ、はじめて聞いた。強いまなざしをむけて近くまでくると、父とは反対側のみくるの腕をつかんだ。
「あたし知ってるんだから、犬彦の引きこもりなんて嘘だってこと。犬守家の伝統なんか守んなきゃ、犬彦はいじめられてないし、自殺しないですんだんだ。パパが殺したんだからね」
狛音の言葉に久作さんは凍りついた。顔面蒼白でみくるの腕をつかんだ姿は、彼女に支えられているようにも見えた。
「みくる、ほんとのパパのところに戻ったんじゃないの?」
狛音は久作さんに聞えよがしに言った。
「いや、それが……お父さんは再婚してて、家には娘もいたんだって」
口ごもるみくるに代わって僕が答えた。「つらくなって帰ってきたみたい」
たちまち狛音の瞳にあきらかな同情の色が浮かんだ。自分の境遇と重ね合わせたのだろう。父には新しい家族がいて、そこに自分の居場所はなかった。
「人殺し」
狛音はみくるの腕から父の手をふり払い、みくるを廊下の奥へと引っぱっていった。
久作さんは娘の一言にもろくも崩れ落ちた。溺れるように嗚咽しながら、暗く冷たい廊下に沈んでいくようだった。
痛々しくて見ていられなかったが、手を差し出すのもちがう気がする。僕はなすすべなく立ちつくしていた。
夕方、狛音の部屋をたずねると、「男子禁制」と言われて追い返された。
ドアのすき間からは、ウィッグをつけたみくるに自分の洋服を着せて、狛音プロデュースのファッションショーが行われているのが見えた。すっかり2人は打ち解けたようだった。
「暢くん、またのぞき?」
声がして廊下に目をむけると、円香さんがこちらに近づいてきていた。
「ち、ちがいます!」
あわてて否定したが、円香さんは笑って、
「冗談だって」
僕と入れ替わりに部屋をノックした。
「しつこい男はモテないよ」
狛音はぶっきらぼうにドアをあけたが、円香さんの顔を見るや、すんなりと受け入れた。目の前でまたドアが閉ざされた。
「こまちゃん、みくるを守ってくれてありがとう」
ドアのむこうから円香さんの声が漏れてきた。「事件」のあと、円香さんに事情を話したのは僕だった。
ことの経緯でも説明しているのか、それから声は聴きとれなくなる。ドアに耳を当てると、
「……いままでひどい態度とってきて、ごめんなさい」
気恥ずかしそうな狛音の声だった。あの意地っぱりの狛音が謝るなんて、信じられない。
「あたし、勘違いしてた。みくるも円香さんもパパの被害者だったんだね」
「こまちゃん、それはちがう」
円香さんはきっぱりと言った。
「久作さんも犠牲者なんだよ。由緒ある犬守家の長男として生まれて、ものすごいプレッシャーのなかで、必死に家を守ってきたの。そのことは忘れないであげて」
ドアから耳を離した。廊下に目を落とすと、泣き崩れた久作さんの姿がよみがえる。
これまで久作さんのことを冷血なターミネーターのように思ってきたが、子供時代があり、血が通っている生身の人間なのだと思いなおした。