「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第二章 本犬守(その3)
1
翌朝、9時ごろだった。
円香さんに呼ばれて玄関前に来てみると、石畳の上に駕籠のようなものが置かれている。長い柄のそばには、前後2人ずつ屈強なお兄さんが膝を突いていた。
「これ、なんですか? 時代劇で見たことあるような気がするんですけど」
「大名駕籠よ」
円香さんが手でひさしをつくって言った。「といっても、乗るのは大名でなく、公方様だけど」
黒い漆塗りの屋根が朝の陽射しをギラギラと照り返している。まさに豪華絢爛、駕籠にはいたるところに金細工がほどこされていた。小次郎を乗せていたカートとは大違いだ。
「どこへ出かけるんですか?」
「公方様の朝の〝御散歩〟よ」
引き戸の格子から中をうかがうと、座布団にちょこんとすわったプードルが見えた。
「暢くんも一緒にどう?」
「え? 僕もなかに?」
「そうじゃなくて、公方様と一緒に〝御散歩〟してきたらどうって意味」
こんなおかしな一行と表を歩くのは恥ずかしかった。そもそも自分の足で歩かないのに、どこが「散歩」なのだろう? 僕が口ごもっていると、
「いってらっしゃい」
円香さんから笑顔で袋を渡された。ラッキーロープ社のうんち取り袋〝ポイ助〟だ。
雲ひとつない青空の下、門を出発した。僕は袋をもって、男4人が担ぐ駕籠の横を歩いた。
住宅街の路地には打ち水がしてあり、開けっぱなしの窓からはチューチューを取りあう子供たちの声が聞こえてきた。
近所では見慣れた光景なのか、道行くひとは駕籠のわきを平然と通りすぎていく。
「暢くんも試しに担いでみるか?」
声をかけてきたのは、東急ハンズの前で狛音を連れ去ったスーツの2人組の片割れだった。きょうはボーダーのポロシャツ姿で、宅配便のお兄さんのように見える。
「え? あっ、はい」
駕籠のうしろにつき、熱くなった柄を肩にのせたとたん後悔した。むかし担いだことがある子供神輿とは、比べものにならないほど重く、太い柄が肩にめりこんできた。
よろよろと歩を進めるが、人類の進化の図を逆もどりしているかのように、猿人のように腰が曲がってくる。あっという間に汗が吹き出し、僕はヘロヘロになった。
なんで犬より乗り物のほうが重いんだ? 歩かせたくないなら抱っこすればいいのに……。
理不尽だと思いながら、2つめの角を曲がったところで、駕籠のなかからワンと聞こえた。ただちに駕籠はおろされた。
「御用所掛!」
と声が飛ぶ。僕と交替したお兄さんが駆けつけ、戸をあけると、靴をはいた綱プーがトコトコ出てきた。
僕はこのプードルを〝綱プー〟とひそかに呼んでいた。綱吉の生まれ変わりだというプードルの末裔だから〝綱プー〟だ。
お兄さんが袋片手に見守るなか、綱プーは路肩で用を足すと、マーキングをはじめた。
小次郎と違って足をあげない、上品な立ち振る舞いだ。段差プレートがお決まりの場所らしく、そこだけ錆びていた。
僕はブロック塀の陰でへたり込んでいた。足もとに視線を落とすと、蟻が行列をつくっている。
自分のからだと変わらない大きさの荷物を抱え、アスファルトの上をあくせく行進していた。目をそむけるように顔をあげ、肩に触れると、思わず「イタッ」と声がもれた。
そのとき、綱プーが振り向きざま、僕を見つけた。逃げ出そうにも、からだが言うことを聞かない。
やばい、やばいと思っているうちに、ちぎれんばかりに尻尾をふって向かってきた。僕に乗りかかり、顔じゅうなめまわしてくる。お兄さんが離そうとしても、テコでも動かなかった。
「どうやら公方様に好かれたな。駕籠に相席させてもらえよ」
脇の下に太い腕が差しこまれたかと思うと、2人がかりで抱えられ、綱プーごと駕籠に押しこまれた。
戸の格子から風が入り、濡れた頬がひんやりとする。なかは暗くてせまかったが、トイレのように息苦しくならなかった。
「足手まといで、すみません」
お兄さんたちに謝った。しばらく歩けそうにない。1人ぶん体重が増えても、駕籠は軽々と持ちあがった。
「気にすんな。それより、公方様の遊び相手をたのむ」
駕籠のなかは獣の臭いがした。獲物を狙うライオンのように、綱プーの目が不気味に光った。
汗で湿った靴下を脱ぐと、脱いだそばから綱プーに奪いとられた。口にくわえて放そうとせず、無理に引っぱると、僕をにらみつけてウーと唸った。
「……わかった、やるよ」
僕は観念して、靴下を綱プーに献上した。あと2足しかないのに……。
2
駕籠の格子から見覚えのある門が見えた。30分ほどかけて近所を1周し、犬守のお屋敷にもどってきたようだ。
駕籠は玄関前におろされた。綱プーを抱えて外に出ると、軒下に涼しい顔をした虫江さんが立っていた。汗びっしょりの僕を見て、
「ごくろうさま。では、お風呂にどうぞ」
屋敷の離れに〝綱吉の湯〟というのがあるらしい。虫江さんに連れられ、プードルの銅像のわきを通り、蝉しぐれの降りそそぐ庭園に入った。
綱プーを抱いて池の石橋を渡ると、瓦屋根の離れが見える。暖簾をくぐると、檜造りのいい香りがした。
犬の浴場には、棚にお土産でもらったシャンプーやリンスが並んでいた。
からだを洗おうと思ったが、綱プーは靴下をくわえたままだった。シャワーをかけても放す気配はなく、すっかりお気に入りのようだ。
全身がぬれると、将軍犬はやせっぽちの貧相な見た目になった。
足先は念入りに、顔には水が当たらぬよう、気を配りながらシャンプーとリンス、それからトリートメントなるものをした。犬を洗うのは小次郎の世話でやっているので慣れたものだ。
洗い場の横には小さな檜の湯舟があり、温泉みたいにお湯が流れつづけている。
綱プーを入れてやると、やっと靴下を放したので、手ぬぐいみたいに頭の上にのせてみた。綱プーはつぶらな瞳でうっとりしていた。小次郎とちがって素直なやつだ。
湯舟からあがると、綱プーはからだをブルブルさせた。水滴が飛び散り、僕はびしょびしょになった。目をあけると、また靴下をくわえていた。
「あとは私がやりますから、ゆっくりお湯に浸かってください」
浴場のそとで、虫江さんがバスタオルをもって構えていた。
「……すみません、お願いします」
人間の風呂も〝綱吉の湯〟のなかにあり、すでに脱衣場のかごには浴衣と下着が用意されていた。少しふらつきながら、汗と水滴でびしょ濡れの洋服を脱ぐ。
ちょろちょろと流れつづけるお湯の音。ほてったからだは水面で揺らめき、光と溶け合っている。大きな檜風呂に浸かると、肩の痛みもやわらいできた。
顔をあげると窓は一面くもっており、緑の絵具をそそいだ筆洗いの水の色のような、ぼんやりした外の景色が見えた。
「光源氏は末摘花のお屋敷に通うようになりますが、彼女は古風で内気な世間知らずの姫君でした」
ふと、1学期の古文の授業を思い出した。先生は黒板の前で『源氏物語』を解説していた。
「ある雪の日、光源氏は彼女の姿を目の当たりにしてしまいます。末摘花はやせ細っていて、鼻が赤く垂れ下がった醜い容姿をしていました」
「赤く垂れ下がった鼻のブスって、光村の彼女そっくりじゃん」
唯野が茶々を入れ、教室はどっと笑いに包まれた。
狛音のことを言っているのだろうが、彼女は小ぶりでツンとしたかわいい鼻だ。僕を貶めたいばかりにデタラメを言っているのだった。
狛音のことをバカにされて頭にきたが、僕は勇気がなく、なにも言い返せなかった。
うつむくと、机に彫られた「ドッキリ大成功!」の文字が目に入る。意気地なしの自分にも腹が立った。
不登校や高校中退になって、社会のレールから外れてしまうことが怖くて、僕は休まず学校に通った。学校でいじめに耐えていたのは、逃げる勇気がなかったからだ。
いじめっ子と戦うのは勇気がいるが、逃げることも勇気がいる。
僕はどちらも選ばず、変わることを恐れて、ただされるがままに耐えていた。狛音に手を引かれてはじめて、いじめから逃げ出すことができた。
お湯に浸かりながら、檜板の天井を見あげた。巨大な目玉のような年輪が僕を見返してくる。未来の自分にじっと見られているような気がした。
自分を助けてくれた狛音がバカにされても、僕はうつむいて黙っていた。僕は卑怯者だ。
このまま頼ってばかりでいいのだろうか。頼りない僕だけど、狛音や犬彦くんの力になりたいと思った。
3
その夜、2回目の風呂からあがると、ベッドに腰かけた。綱プーのシャンプーをしたとき、はじめてトリートメントを使ったが、人間の風呂にも置いてあった。
リンスとなにが違うのだろう? Siriに訊こうとして、手もとにスマホがないことに気づいた。脱衣場のかごに置きっぱなしにしていたようだ。
浴衣のまま〝綱吉の湯〟に忘れ物を取りにいった。外は暗く、綱プーの舌のようにしっとりした生温かい空気が顔をなでた。
ぽつりぽつりと庭園灯が照らす小径を歩く。遠くでパトカーのサイレンが聞こえ、それを追いかけて犬が遠吠えをした。
庭池の橋を渡ったとき、円香さんと犬彦くんらしい影が、離れの〝綱吉の湯〟に入っていくのが見えた。
〝綱吉の湯〟には犬用と人間用の1つずつしか風呂はなく、人間用は男湯と女湯に分かれていなかった。
いくら親子といっても犬彦くんは中学生だし、血もつながっていない。まさか一緒に入るなんてことはしないだろう。不思議に思い、2人のあとを追った。
離れ家の格子戸からなかをのぞくと、2人の背中は脱衣場へ消えていった。
玄関の三和土には女物のサンダルと白いバスケットシューズが並んでいる。スマホを回収しようにも、行くにいけなくなった。
しかたなく母屋にとんぼ返りして、見てきたことを狛音に打ち明けた。彼女はベッドでスマホをいじっていたが、話を聞くや身を起こした。
「いっしょにお風呂? あの女、ついに義理の息子までたぶらかすとはね」
狛音は苦々しい顔でカワウソのぬいぐるみを抱きよせた。
「円香さん、そんなことしないよ。20も年上の人と結婚してるわけだし、中学生なんか興味ないって」
「……暢くん、相変わらずちょろいね」
狛音があきれ顔で言った。「金目当てで結婚したに決まってるじゃん」
「えっ、そうなの?」
「あたし、だから反対したんだってば。それにあの人、中学の先生だったらしいけど、生徒に手を出して、先生になって1年でクビになったって噂だよ」
「え~、嘘だよ」
「暢くんも、あの人が中学生の息子とお風呂に入っていくところ見たんでしょ? じゃあ、背中流してただけって言うの?」
狛音はムキになり、ぬいぐるみを握る手にも力がこもる。
「だって、円香さん、そんな人には思えないからさあ」
僕は首をかしげながら、狛音の部屋を引きあげた。うす暗い廊下をふわふわした気持ちで歩いていると、ふと思いついた。
2人で脱衣場に入ったからといって、なにも一緒に入浴したとはかぎらない。
円香さんはべつに用事があった――たとえば、シャンプーのつめ替えだとか、忘れ物をしただけかもしれない。僕だってスマホを取りに行ったわけだし……。
ここはひとつ、真実を突きとめる必要がある。そのために僕は、離れの裏窓から風呂場をのぞいてみようと思った。
窓がくもっていても、風呂に入っているのが1人か2人かくらいはわかるはずだ。
蝉も寝静まった闇のなか。僕は足を忍ばせ、庭の橋をわたり、離れの裏側にまわった。
鬱蒼とした樹木が外壁に迫っており、とがった葉が浴衣の上から背中をちくちくと突いた。蚊の羽音が耳もとに近づいては遠ざかる。
顔のまわりを手で払いながら進むと、明るい窓があり、その下にちょうどいい庭石を見つけた。
壁まで少し距離はあったが、そこに右足をかけ、背のびして窓枠をつかむ。なかの様子をうかがおうとすると、足がつりそうになった。
そのとき、遊んでいた左足がなにかに当たり、陶器の割れるような音がした。思わず声をもらしてしまい、手をすべらせて地面に落下した。
とたん、風呂場のほうから甲高い女性の悲鳴が聞こえた。
やばい! 気づかれてしまった。焦って立ちあがろうとするが、足を痛めて、すぐには動けなかった。
窓の灯で足もとを確かめると、ぼんやり墓石が浮かんで見えた。割れたのはお供え用の花瓶のようで、あたりには花が散らばっている。奥にもう1つ石の影があった。
そうこうするうちに、警報が鳴りはじめた。僕は死に物狂いで立ちあがり、足を引きずりながら逃走した。
顔や腕に枝が当たるのもかまわず、木々が生い茂る闇のなかを片足で抜けた。視界の先に裏木戸を発見し、もたつきながら閂をはずした。道路に飛び出したところで、
「君、なにしてる!」
巡回中の警官に呼びとめられた。心臓が凍りつく。
懐中電灯の光をむけられた。目をふせると、浴衣の前がはだけ、胸がねっとりとした汗で光っている。いつのまにか帯は消え、水色のボクサーパンツが丸出しだった。
「一緒に交番まで来てもらおうか」
息を荒らげる僕の背後では、けたたましく警報が鳴り響いていた。
4
無機質な壁には指名手配のポスターが何枚も貼ってあり、その上の時計の針は11時34分を指していた。
僕はパイプ椅子に縮こまって座っていた。目の前の事務机に置かれた電話機からのびるコードは、眼鏡をかけた警官が耳に当てた受話器につながっている。
交番に連行されて取り調べを受けたが、事情を説明してなんとか逮捕を免れた。
社会のレールをはずれて突っ走り、あやうく崖から転落するところだった……。受話器から円香さんの謝る声が漏れてきて、胸がつぶれた。
「風呂場ののぞきは軽犯罪法違反、立派な犯罪だよ。高校生にもなったら、自覚を持ってもらわないと」
警官はレンズの奥の鋭い眼光を僕にむけた。
いえ、むしろ犯罪を抑止するための行動で、いやらしい目的はなかったんです。――と弁解しようとしたが、説得力がないので平謝りにあやまった。
蛍光灯の光が腕にできた引っかき傷をまざまざと照らしていた。
こんな目に遭ってまで、なにをやっているのだろう? 自分がなさけなくなった。両手で自分のからだを抱くようにして待っていると、窓のそとに迎えの車が見えた。
「このたびは大変ご迷惑をおかけしました」
犬守家の運転手さんにまで謝らせてしまった。帽子を脱いだ頭をあげると、運転手さんは狛音を車で連れ去った初老の男だった。
運転手さんは机でサインをさせられた。黒塗りのセンチュリーと〝地元の名士〟犬守家の名刺がきいたのか、終始、警官の対応は丁寧だった。
深々とお辞儀して、交番をあとにした。
フロントガラスには、レースカバーのついたシートで小さくなった自分が映っている。勝手な行動をして、いろんな人に迷惑をかけてしまった。
車が出発すると、運転手さんにお詫びをしたが、お詫びついでに花瓶を壊してしまったことも報告した。
「ああ、〝犬塚〟のお花ですか。私があとで新しいのに取り替えておきます」
「……すみません」
街灯が点々と照らす暗い道を走っていた。ほとんど対向車を見かけず、寝息のようなエンジン音が夜の車内を満たしている。一瞬、サイドミラーに狸の妖怪が映ったような気がした。
「あのお墓は〝犬塚〟っていうんですか?」
急に心細くなって話しかけた。
「犬奥の側室の供養塔みたいなもんですね。犬守家ではつねに30匹ほどの犬のお世話をしていますから、亡くなった数はこれまでで相当になりますよ」
「それでお墓が2つもあるんですね」
「お墓のことより、帰ったらみなさんにちゃんと謝ることです。よろしいですね」
それきり運転手さんはかたく口を結んだ。怒らせてしまったのではないかと不安になった。
屋敷の門の前に停車すると、玄関に橙色の灯がともっており、表で円香さんと虫江さんが待っているのが見えた。
「……ごめんなさい」
車から降りると、円香さんと虫江さんに頭をさげた。まともに顔を見ることができなかった。
「もういいよ」
円香さんはキャミソール姿で、頭に黒いタオルを巻いていた。胸もとをなおしながら、「言ってくれれば、べつに見せてあげてもよかったのに」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。怒ってはいないようだ。
「そ、そういうんじゃなかったんですけど……」
声が裏返ってしまった。軒下の照明が彼女のざっくりと開いた胸もとにくぼみの影をつくっていた。
「ごくろうさま、これ脱衣場に忘れていましたよ」
虫江さんがスマホを差し出した。僕はうろたえて危うく落としそうになる。虫江さんは背をむけ、「さあ、入りましょう」
前を歩く円香さんの白いうなじに目をうばわれる。彼女が教え子に手を出したという狛音の話を思い出した。
どうして円香さんと犬彦くんが一緒にお風呂に入っていたのか、結局、真相はわからずじまいだった。ぐったりと疲れて、もうどうでもよくなっていた。
部屋にもどろうと廊下を歩いていると、
「ヘンタイ」
ドアのむこうから声がした。僕は言い訳する気力もなく、狛音の部屋の前を足早に通りすぎた。