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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第二章 本犬守(その2)

円香さんに「メス犬」と言ったきり、狛音はお屋敷からいなくなった。
〝犬奥〟の側室と後妻の円香さんを重ね合わせ、つい感情的になって、また家を飛び出してしまったのかもしれない。一家総出で探しても見つからなかった。

熱中症で倒れたときとは別の、狛音のとなりの部屋が僕に用意された。ベッドに腰かけて狛音に電話すると、壁の向こうからかすかにバイブの音がした。

となりの部屋をのぞくと、机の上に置きっぱなしの狛音のスマホがふるえていた。
天然木を活かしたポールハンガーの枝はカバンで埋まっている。猫脚のベッドにはカワウソのぬいぐるみが置いてあった。

狛音はそう遠くへ行っていないのかもしれない。僕を置いてまた家出するとも思えなかった。

引き返そうとすると、ほの暗い廊下の奥に少年が立っていた。ぼんやりとした照明の下にたたずむ姿は、美しくはかなげで、幼いころ美術館で見た球体関節人形のようだった。

「犬彦くん……?」

僕は近づきながら、自然と声をかけていた。前に立つと、背が低くて女の子みたいな少年だった。
半袖シャツのボタンを一番上までとめており、人形のような白い肌には濃いまつ毛の影が落ちている。彼はうつろな表情のまま、

「僕は犬彦」

まだ声変わりしていない子供の声で答えた。あの夜と同じ犬彦くんの声だった。壁はなくなったが、ガラスケースで隔てられているような距離を感じた。

「お姉ちゃん見なかった?」

ぽっかりと空いた間を焦って埋めるようにたずねたが、犬彦くんはゆっくりと首をふった。その仕草があどけなく、中学生より幼く見えた。

犬彦くんは学校に通っていないという。いじめが原因かどうかわからないが、仲良くなれそうな気がした。

「この前、犬笛ふいてくれたの覚えてる? 俺、暢って言うんだけど、また犬笛の吹きかた教えてくれない?」

「暢くん、なにやってんだ!」

廊下の奥に目をやると、暗がりから険しい顔の工房さんがやってくる。犬彦くんは背をむけ、するりと去っていった。

「この屋敷にいる間は、彼とは関わらないようにしてくれないか」

犬彦くんの背中を見届けると、工房さんは厳しい口調で言った。「なんでですか?」とのどもとまで出かかるが、怖くなって、

「……はい、わかりました」

と頭をさげた。

「まあ、頼んだよ」

萎縮する僕を見て、工房さんはすこし言いすぎたと思ったのか、「暢くん、俺の部屋でちょっとコーヒーでもどうだい?」

工房さんの部屋は壁一面が本棚で、いたるところに本や資料の山があった。
机の上のパソコンには津波のように紙の束が押しよせており、ディスプレイの背面に描かれたリンゴが流されかけていた。

僕にあてがわれた部屋より広く、奥にもう1つ扉が見えた。さらに部屋があるのかもしれない。

工房さんはベンチの上の書物をのけた。ここに座れということらしい。
テーブルには古文書が積み重なっており、それもそそくさと片づけた。背を向けると、エスプレッソマシンのスイッチを入れた。

「犬彦くんはもともと明るい子だったんだ。いまのようになったのは中学に入ってからでね」

「そうですか」

僕はベンチに腰をおろした。天井を見あげると、プロペラがゆったりと回転していた。

「暢くんもわかると思うけど、いろいろ多感なころだから」

「あの……やっぱり作家となると、本の数がすごいですね」

犬彦くんの不登校の話から僕のことに飛び火しそうな気がして、話題を変えた。いじめられていることを知られるのは恥ずかしかった。

「まあ、調べものが大変でね。古文書も依頼されてる犬守家の家伝の史料だよ」

工房さんはテーブルの空いたスペースにコーヒーカップをふたつ置いた。デスクチェアを引っ張ってきて、自分のエスプレッソに口をつける。
「綱吉公があの犬の先祖に生まれ変わったという話は聞いたかい?」

「いえ、詳しくは……」

僕はひと口飲んでカップに砂糖とミルクをぜんぶ入れた。

「長崎の出島は知ってる?」

「はい。鎖国していた江戸時代、ゆいいつ貿易が許されていた場所ですよね」

「その出島のオランダ商館長が牡のプードルを飼っていた。もとは将軍綱吉公への贈物だったんだが、綱吉公が亡くなってまもなく商館に帰ってきてたんだね。

でもある日、商館の料理人が厨房にいる犬を追い払おうと、脅すつもりで包丁を投げつけた。運悪く直撃して犬は死んでしまったが、その犬は帰ってきたプードルだったんだ。

館長はあわてて長崎奉行所ぶぎょうしょに伝えて謝った。綱吉公の没後、生類憐みの令が廃止されたこともあって、罪には問われなかった。

ところが1週間後、館長がお気に入りの遊女にあたえていた牝のプードルが、カピタン部屋で出産しているのが見つかった。生まれたのは、死んだプードルの忘れ形見というわけだ。

その日が綱吉公の百箇日ひゃっかにちだったことから、綱吉公がお犬様に生まれ変わったのではないかと、たちまち風説が立った。綱吉公は〝犬公方いぬくぼう〟と呼ばれるくらい犬を大事にされていたからね。

やがて噂を聞きつけた柳沢吉保が出島を訪れた。吉保は綱吉公にたいへん寵愛ちょうあいされた元側用人だが、綱吉公の死後は冷遇されて隠居していた。

吉保が面会すると、プードルの子供は不思議なことに、綱吉公が吉保に贈った『観用教戒』の漢文をそらんじた。それを聞いた吉保は涙を流し、この犬は上様にちがいないと言った。

その後、綱吉公の信任があつかった僧侶の隆光が、上様は四十九日に極楽浄土への旅立ちが決まっていたが、お犬様を愛するがゆえ、百箇日にみずから望んで愛犬の子供に生まれ変わられたのだ、と説いた」

「犬が漢文をんだんですか?」

「あくまで伝説だからね。綱吉公を思慕するあまり、吉保には犬の声でもそう聞こえたのかもしれないし」

僕の表情を見るや、工房さんはすぐさま弁解した。
「結局、綱吉公の生まれ変わりとされたプードル犬は、館林藩の城代として綱吉公に仕えた犬守家が預かることになった。それ以来、300年以上にわたり犬守一族が〝犬公方〟の血筋を守りつづけているというわけだ」

この一族は300年にもわたって、代々、プードルを徳川綱吉の生まれ変わりの子孫と信じて守り通してきたのか。

もしこの話が本当だとしたら、滑稽さを通り越して、僕は人間のもつある種のパワーに身震いしそうな思いだった。こんな一族に生まれついた狛音の気持ちを察した。

「犬守一族が綱吉公の生まれ変わりと信じるよりどころとなった逸話があるんだ」

工房さんは席を立つと、棚から和じの本を取り出し、テーブルにひろげた。ぐにゃぐにゃとした崩し字が連なっており、なにが書いてあるのかわからない。

「江戸時代の本ですか?」

「そう。先祖の久之介があらわしたものだが、彼は長らく跡継ぎの男子に恵まれなかった。46歳にして授かった待望の男子が犬弥いぬやだった。

犬弥は14歳のとき、若党をともなって遠乗りに出かけた。夕暮れどき、彼らは山道に行きなやみ、大樹のかげで休んでいた。

綱吉公の生まれ変わりとして預かった犬を連れていたが、この犬が犬弥にむかって猛然と吠えかかってきた。
木陰から飛びのくと、犬は犬弥のいた頭上に飛びかかった。大立ちまわりのすえ、樹上から落ちてきたのは噛み殺された大蛇だった。

久之介は『このお犬はまさしく上様だ。われら一族を上様が助けてくださったのだ』と記している。
以来、一族存亡の危機を救った綱吉公の生まれ変わりとして、代々その犬の子孫を崇めているんだ。

狛音ちゃんも、行き先がなければ、そのうち帰ってくる。犬守家の役目を受け入れるには時間が必要だ」

作家というだけあって工房さんの本棚には小説もたくさん並んでいた。
棚の一角には『安部公房全集』というのもあったが、工房さんの名前はここからとったのだろうか。生まれ変わりの話は、もしかすると作家らしい創作かも、という気がしないでもない。

「話は変わるけど」

工房さんが顎ひげをなでながら言った。「三回忌のときにつけて行った首輪がなくなっちゃったんだ。

〝夢丸の首輪〟といって、綱吉公がかわいがっていた夢丸というちんがつけていたもので、犬守家の跡取りに代々受け継がれてきた家宝なんだよ。犬彦くんになりすますために首にしてたんだけどね」

段ボール箱の下から見えた古めかしい革の首輪を思い出した。

「首輪は綱吉公の忠犬をあらわすということですか?」

「そう、家老の子孫である犬守家の正統性の象徴なんだ。分家の分犬守わけいぬもりが前から狙っていてね。俺は彼らの仕業しわざじゃないかと疑ってる」

ゆみ子さんという高慢ちきなおばさんを思い出し、あのおばさんならやりかねないと思った。

「暢くん、ひとつ頼まれてくれないか?」

「えっ、なにをですか?」

いやな予感がした。

「首輪をなくしたのは俺のミスだが、盗まれたのなら、犯人を見つけ出して取り返さないと。
暢くんなら、本家にも分家にもなんのしがらみもない。狛音ちゃんが戻ったらでいいからさ、2人で分犬守の様子を探ってきてよ」

僕を部屋に招きよせた理由はこれだったのか。

ゆみ子さんの怖い顔を思い浮かべると、緊張が増して、急にトイレに行きたくなった。

「すみません。その話は狛音と相談してからに……これで失礼します」

そそくさと席を立ったが、入口のドアと勘違いして、奥にあったドアのノブをつかんでしまった。真鍮しんちゅう製のノブは鍵がかかっておりビクともしなかった。

「あ、そこは違う。ドアは反対側だ」

ふり返ると、窓から射しこんだ光を透かして、ちらちらと舞うほこりのなか、工房さんがあわてたような顔で立っているのが見えた。
とっさに立ちあがった拍子にチェアが当たったのか、うしろでは床に積んであった書類の山が崩れていた。

僕は一礼して書斎をあとにした。

「暢くん、さっきの件、頼んだよ」

さっさと逃げた僕の背後で、工房さんの念を押す声がした。

夜になると、狛音はしれっとした顔で帰ってきた。工房さんの言ったとおりになった。

僕はまっ先に玄関に行って声をかけた。行き場のない彼女をあたたかく迎えてあげたかった。

「おかえり。みんな心配してたよ。こんな時間までどこ出かけてたの?」

狛音はミニスカート姿で、ブラウスの肩に小さなバッグをかけていた。着のみ着のまま家を出たわけではないようだ。

「……うん、ちょっとね。ママのお見舞い」

彼女は伏し目がちに答えた。急に〝本当のママ〟に会いたくなったのだろうか。

「東京まで?」

狛音は黙ってヒールのあるサンダルを脱いだ。サンダルが倒れ、カランと乾いた音がひびく。
玄関のガラス戸は軒先の灯りでオレンジ色に染まっていたが、底のほうはひたひたと夜の墨に浸っていた。

「スマホ、机の上に置き忘れてたよ」

狛音のことを思って伝えたつもりが、

「あたしのスマホ、のぞき見したの?」

彼女の顔色がさっと変わり、軽蔑しきった目でにらまれた。

「し、してないよ」

スマホを置いていったのは、スパイアプリ対策らしかった。僕があたふた説明していると、虫江さんが遅れて廊下に現れた。

「お嬢さま、おかえりなさい。夕食の支度できていますよ」

重ねた手の下でエプロンが白々と光っている。

昼間、血眼で探していたというのに、犬守家の人々は、何事もなかったかのように狛音を迎え入れた。蜃気楼しんきろうのようにつかみどころのない人たちだった。

歯みがきをすませ、部屋にもどるとベッドに寝転がった。口笛を吹きながらスマホをいじっていると、狛音からLINEがきた。

〈夜に口笛を吹くと蛇が出るよ〉

となりの部屋まで聞こえていたようだ。照れかくしに、〈蛇なんか出ないよ。そんな迷信信じてるの?〉と送った。すぐに返信があり、

〈下手くそな口笛が聞こえてきたから送っただけ。高校生にもなって、アンパンマンのマーチとかキモイよ〉

顔が熱くなった。曲まで筒抜けだったようだ。スマホの画面の「SoftBank」の文字が目に入り、

〈公方様ってしゃべるの? ソフトバンクのCMのお父さん犬みたいに〉

とお返ししてやった。

〈急になに?〉

〈わしが綱吉じゃ、とか言わないの?〉

スマホをのぞき見したと疑われたことを思い出し、少しいじわるな気持ちになっていた。

〈犬がしゃべるわけないじゃん〉

〈じゃあ、ふつうの犬だね。なんで徳川綱吉の生まれ変わりだとわかるの?〉

「ねえ、さっきからケンカ売ってる!?」

するどい声がして顔をあげると、狛音が部屋に入ってきていた。ドアをバタンと閉め、怒りをあらわにしている。僕はしどろもどろになった。

「いや、工房さんが、犬に生まれ変わった綱吉が漢文を詠んだって言ってたから……」

「公方様は綱吉公の生まれ変わりじゃないよ」

狛音は口をとがらせて言った。「生まれ変わりの犬は大昔に死んでる。そうじゃなくて、その犬の子孫」

そういえば、久作さんが徳川綱吉の58世だとか言っていた。綱吉が犬に生まれ変わって現代に生きているわけではないのだ。

「でも、なんで犬の先祖が綱吉の生まれ変わりだってわかるの?」

ケンカを売るつもりはなく、単純に興味があって訊いた。

「そういう言い伝えだから……」

夜に口笛を吹くと蛇が出ると言っていたが、狛音は迷信深いタイプなのだろうか。

「綱吉が犬に生まれ変わったとか信じてる?」

恐る恐るたずねると、

「わかんない」

彼女は目をそらして答えた。僕に視線をもどし、「わかんないけど、犬彦は信じてた――」

狛音の語るところでは、彼女にとって、綱吉の生まれ変わりの子孫として犬を崇めることは、物心ついたころからの当たり前の風景だった。
しかし学校生活がはじまると、その風景は一変したという。

公方様のことを友達に話すと白い目で見られ、男子からはバカにされた。そのときはじめて自分の家が変わっていることに気づいた。
バカにされるとやり返したが、しだいに生まれ変わりの言い伝えに疑問を抱くようになった。

「まだ、あのころは親の期待を裏切りたくなかったから、パパには相談できなかった。だから犬彦に思ってることを打ち明けたの。

そしたら、『公方様を守っていくことが俺たちの使命だよ。パパもおじいちゃんもひいおじいちゃんもそうしてきたって。300年も守ってきた大事なことを俺たちの代で終わらせていいの?』って言われた。

犬に生まれ変わった綱吉公がうちの先祖の命を救ったって昔話があるのね。長男の犬彦は跡取りとして、小さいころからその話をパパに教えこまれて育ったの。

いつもお調子者の犬彦がまっすぐな目で『俺たちの使命』とか言うから、なにも言い返せなかった。それから親が離婚して、あたしはすぐママと東京に行ったんだけど」

「初代の公方様が大蛇から先祖を助けたって話だよね、工房さんから聞いた。犬彦くんは素直ないい子なんだね」

「それだけじゃない」

狛音はダムの水を放流するように話をつづけた。
「母方のおじいちゃんのお葬式のとき、おじいちゃんちの庭でシベリアンハスキーを飼ってたんだけど、その犬がお経に合わせてずっと遠吠えしてたの。

お経のあとのお説法のとき、お坊さんが不機嫌そうに庭を見ながら、
『ワンちゃんは仏様のありがたい教えを理解できません。南無阿弥陀仏なむあみだぶつを唱えることができないので、残念ながら極楽浄土に行くことはできません』って言ったの。

パパを見たら、苦々しい顔をしてたけど、ママの親戚がいるから黙ってた。
お坊さんの話は、『われわれは人間に生まれたことに感謝し、南無阿弥陀仏を唱えましょう』と言って終わったんだけど、犬彦は鼻をすすりながらしくしく泣いてた。

亡くなったおじいちゃんを思って泣いてるのかと思ったら、帰りの車のなかで、犬彦が泣きながらパパに言ったの。
『綱吉様は犬に生まれ変わったから極楽に行けなかったの? 犬に生まれ変わってご先祖様を助けてくれたのに、綱吉様かわいそう……』って。

パパ、あいつの頭をなでながら、『大丈夫。綱吉様が極楽に行けるように、ご先祖様が犬になった綱吉様のかわりに南無阿弥陀仏を唱えたから』って慰めてた。

それから犬彦は、毎日仏壇の前で、綱吉公の子孫の公方様が極楽に行けるように、南無阿弥陀仏を唱えるようになったの」

綱吉の生まれ変わりの伝承は、犬守家の人々のなかに深く根づいているようだ。
狛音のなかにも根づいていて、頭ではおかしいと思っていても、すっぱりと切り捨てることができないのかもしれない。なにかフォローしようと、

「うちのお父さんも毎日、朝と夜に仏壇に手を合わせてるよ。お父さんはA型だから、まじめで几帳面なんだ」

「血液型と性格は関係ないよ」

狛音があきれたように言った。「暢くん、そんな迷信信じてるの?」

僕はギクッとして、

「し、信じてないよ」

さっきまでいじっていたスマホの血液型占いアプリをあわてて閉じた。

程度の差はあれ、不合理なものに心を寄せることは誰だってあるのだ。
神社にお参りしたり、おみくじを引いたり。お守りだってそうだ。占い以外にも、思い当たるふしがいっぱいあった。

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