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「犬公方」第八章 大団円(その3)
食堂で冷やしうどんを食べていた。半熟卵がのっており、麺はつるつるでおいしかった。どことなく花山うどんに似ていた。
店内に直売コーナーがあったので、「これ、こないだ駅前で食べたうどんと同じやつ?」と狛音に訊こうと思ったが、食堂に彼女のすがたは見当たらなかった。昼に顔を見せないのは2回目だ。
朝食の帰り、狛音と廊下を歩いていると、円香さんに声をかけられた。
「これからお医者さんが来ることになったから」
「パパの具合、まだ悪いんですか?」
「……うん。一晩寝たらよくなると思ったんだけど、熱を計ったら40度あったの」
「40度も……」
狛音の目がきょろきょろと動く。円香さんは深刻な顔をして、
「このところ体調がよくなかったのに、無理して納骨式をやったのが悪かったのかな」
納骨式のときの土気色をした久作さんの顔が浮かんだ。母の退院が決まった矢先に、父が床に臥せったとあって、狛音は動揺を隠しきれずにいた。
昼になっても食堂に現れないのは動揺を引きずっているからだろうか。
ごちそうさまをして食堂を出ると、廊下に探していた顔があった。
「狛音、昼ごはんは?」
「暢くん」
僕の問いには答えず、彼女はあらたまった様子で言った。
「な、なに?」
「一緒にきて。これからパパの部屋に行くの」
僕の腕をとった彼女の手は汗ばんでいた。
「べつに、いいけど……」
障子をあけると、久作さんは畳に敷かれた布団に横になっていた。屏風に吊るされた点滴のチューブが布団のなかにのびている。そばでは円香さんが看病していた。
「あの、お医者さんは?」
「あ、こまちゃん。お医者さんならお昼前に帰ったよ」
部屋にあがると、枕もとの小さな机に写真立てが置いてあるのが見えた。
写真は先代の久兵衛さんのもので、三回忌のときに見かけた威厳のある白ひげの遺影でなく、縁側の籐椅子から庭をながめている若いころの写真だった。屋敷はまだ新築のようで、黒髪の主は満足そうに笑っていた。
病床の久作さんはじっと目を閉じていた。狛音は円香さんの横に腰をおろし、
「どうでした?」
こわばった顔で訊いた。僕も緊張気味に腰をおろした。
「いろいろあったから、疲れがたまってたみたい」
「パパ、重い病気とかじゃないんですよね?」
「薬を飲んで安静にしてたらよくなるって。いま眠ったところなの」
狛音はほっとしたようだった。円香さんの声には、狛音とはちがう明るさがにじんでいた。
「なにかあったんですか?」
狛音が単刀直入に訊くと、
「さっきまで話し合ってたんだけどね」
円香さんの声のトーンがにわかに高くなる。「久作さん、2学期からみくるを学校に通わせてもいいって言ってくれたの」
狛音は満面の笑みになり、
「ほんとですか! よかった~」
勢いあまって円香さんに抱きついた。
「ありがとう」
円香さんは涙ぐんで抱き返したが、狛音は急にわれに返り、顔を赤らめた。
みくるが学校に通えるようになったと聞いて、僕もうれしくなった。
屋敷に閉じこめられ、不登校の犬彦くんを演じてきたみくるが、ふつうの女の子の生活にもどることができるのだ。2学期がくるのを恐れている僕がよろこんでいるのは不思議だけど。
「わたし、熱さまシート買ってくるね」
円香さんは腰をあげた。奥さまが足を運ばなくても、熱さまシートくらいお手伝いさんで間に合うはずだ。父娘の時間をつくろうとして席をはずしたのかもしれない。
「俺も行くよ」
「暢くんはいて」
立ちあがろうとした僕の服を狛音がつかんだ。「証人として、暢くんはいて。大事なことを伝えにきたんだから」
狛音は姿勢をただすと、目を閉じたままの久作さんに話しかけた。
「あたし、〝夢丸の首輪〟を引き継ぐって決めた。犬彦のことを守ってあげられなかったし、遺書に書いてたみたいな『自慢のお姉ちゃん』なんかじゃないけど、この家を継ぐって決めたんだ。
ママから退院が決まったって電話があった。ママが退院したら、こんな変な家とび出して、前みたいに東京でママと暮らそうってずっと思ってた。
でも、やっぱりやめた。ママには悪いけど、死人と病人だらけのこの家に残って、犬守家を立てなおさないといけないから。あたししかいないから」
病床の父に犬守家の再建を誓う狛音のすがたが写真立てのガラスに映っている。
久兵衛さんは病気で亡くなった父の事業を若くして引き継ぎ、一代で大企業へと育てあげ、先祖伝来の館林の地に大きなお屋敷を建てた。
自信にあふれた若かりし日の久兵衛さんに未来の狛音が重なって見えた。
「パパ、あたし犬彦もみくるもパパの犠牲者だって思ってた。でもこの前、円香さんが教えてくれたの。パパも偉大なおじいちゃんの跡を継いで、すごいプレッシャーを背負いながら、必死に家を守ってきたんだって。
あたしまだひよっこだけど、パパの荷物重かったらときどき預けてもいいよ。
今度からあたしがパパを、家族を守るんだから。血のつながりなんてなくても、みくるも円香さんも大切な家族。これからは新しい家族と一緒に生きていくの。
パパ、いままで迷惑かけてごめんね。ゆみ子さんと仲良くしてたのも、パパへの当てつけだったかもしれない。でも、円香さんとも仲良くなったんだよ」
狛音は少しはにかみながら言った。〝新しいママ〟がいやで家出をくり返した彼女とは別人のようだった。
それを〝ママ〟と呼んでいいものかわからないけど、狛音のなかで円香さんの存在は、妹のように思っているみくるの母親以上の存在になっているのだろう。家族のなかでの役割や名前なんてどうでもいいことなのかもしれない。
「それだけじゃないの」
狛音は顔をあげ、まっすぐな瞳で父を見てつづけた。
「パパと犬彦の意志を継いで、公方様の赤ちゃんを新しい公方様として守っていくよ。いまの公方様は偽物だって伊怒工房から聞いた。言いたいやつには言わせとけばいいじゃん。
あたしはプードルの公方様が好き。犬守家の『300年の伝統』じゃなくて、新しい70年の伝統を守っていくの。たとえ偽物の血筋でも、新しい公方様と新しい家族はあたしが守る」
そのとき、薬で眠っていたはずの久作さんの目から涙がこぼれた。涙は目尻に刻まれた深いしわの波間を流れ、その軌跡が朝日を浴びた海のように輝いていた。
狛音のまっすぐな思いは父の胸にたしかに届いたようだ。
伝統なんて古くさいし、押しつけがましいだけだと思っていたが、未来へつなぐたすきのようであんがい悪くない。父娘の不器用なすがたを見ながらそう思った。